Neetel Inside ニートノベル
表紙

アイドルジョッキーと女騎手
トライアル(名古屋競馬場) (H30.4.26)

見開き   最大化      



 ネクストジョッキーズチャンピオンシリーズ。私にとっての開幕戦は、地元名古屋競馬場でのトライアル。
 冷静に考えれば、今日の二戦で多くのポイントを確保しておかねば、予選突破は難しいものとなるだろう。次戦は金沢競馬場の予定だが、初めて乗る競馬場ということもある。金沢で多少着順を落としたとしても響かない程度の点数を稼がなければ……
 …それは分かっている。そんなことは当然に。しかし、どうしてこんなに集中できない?
 朝の馬房掃除を終えて外に出ると、初夏の日差しがいっぱいに降り注いできて、私は細い目をさらに細める。
 鬱陶しい。
 太陽が、ではなく、自分の心が、か。どうしてこんなにままならないのか。
 昨日の、風岡先輩からの告白が、一晩を越しても胸に残っている。こんな気持ちで、今日のトライアル、他地区の強豪達と勝負になるのだろうか……


「一つ、決めたことがあってな」
「はい」
 昨夜六時ごろ、珍しく風岡先輩から夕食のお誘いを受け、私は近所の回転寿司屋にいた。風岡先輩は週に一度だけここに来るのだという。減量が比較的厳しい部類に入る先輩は、本当に食べたいネタを四、五皿食べて無理矢理満足するのだという。今のところそこまで苦労はしていない私は、気にせず十皿程度は食べてしまう。申し訳ない。
 それはそれとして、決めたこととは?
「…デビューから今年で十二年目になるんだが、どうも、競馬がつまらんように感じてたまらなくなった」
 その一言は、私にとって衝撃的だった。あんなに、競馬で楽しそうに乗っている先輩が、『競馬がつまらない』とは。
「たぶん、このままではオレ自体がつまらん男になるような気がしてならないんだな。今年で三十になるし、これから騎手としてピークを迎えるという時に、つまらんことになりたくはない」
 一般に、騎手の能力的なピークは三十代にくるとされる。経験を伴う判断力と、身体能力が合わさり、もっとも質の高い騎乗が実現できる頃。まさにこれから全盛期に突入するのだろう風岡先輩の気持ちが、大きく落ち込んでいるとは……私の心の動揺に気付いているのかいないのか、先輩は注文していた中トロを特急レーンから取って一口に頬張っている。
「…寿司は中トロだな。まあなんか、とにかく、つまらんことになってる。オレが。だから、名古屋を離れようと思った」
「…………なんて?」
「中央競馬の騎手試験を受けてみる。まあ、あれは大抵落ちるから、もしダメでも南関移籍とか、とにかく名古屋からは離れるわ。つまらんからな」
 椅子がなければ膝から崩れ落ちるところだった。
 風岡先輩が。
 私の目標が。
 私の壁が。
 私の。
 --消えてしまう。
 手に力が入らなくなって箸を落とした。からん、というプラスチックの乾いた音が耳を通り抜けていった。


 どうしたらいい?
 寝ずに考えたが、答えは出なかった。いや、そもそも、私が何らかの答えを出したとして、それがどうだというのか。
 風岡先輩の決心は固そうに思えた。丘野厩舎から、名古屋競馬場から、愛知県競馬組合から、いなくなってしまう。
『オレがいなくなれば丘野厩舎の主戦はお前や、たぶんね。先生もお前に厳しいこと言ってるけど、評価してるからこそだからね、そう言われんのは』
 会計を終えた後、先輩の言った言葉が再生された。
「はっ」
 思わず、乾いた声を発してしまう。
 空虚だ。
 先輩は大きな思い違いをしている。私は丘野厩舎の主戦になりたいわけではない。『風岡先輩を倒して』なりたいのだ。
 先輩のいない名古屋で、もしリーディングを獲ったとしても、私は本当に心から喜べるだろうか。
 天才風岡慎吾を超えることが、デビューしてからの密かな目標だった。外はこんなに明るいのに、私の眼前は真っ白だ。どうしたらいい。私が考えたところで意味はないのに、考えずにはいられない。
 心の離れた人を引き留めることなど、そう容易に出来ることではない。分かってはいる。それでも、考えてしまう。
『今、"ここで"オレを楽しませてくれるのは、もしかしたらお前だけかもしれん』
 いつか、そう言ってくれたじゃありませんか。もう私では飽き足らないのですか? あの時、私がどれほど嬉しかったか。涙が出そうになるほど嬉しかった、そのことが……先輩には伝わっていなかったのですか。
 どうすれば、残ってくれるのか。不意に自分の胸に手を当てる。
 自覚はあるのだ。私の胸は、成人女性のなかでは比較的大きな部類に入るのだということは。騎乗時はきつめに押さえつけているのだが、それでもレース前のパドック周回中などに男性客からの視線を感じることも時にはある。
 私は、これまでの人生において、自分の『女』を何かに利用してきた覚えがない。
 …考えても仕方ないことを考えずにはいられなくなった。頭がいっぱいになってきたので、外に吐き出す。努めて小さな声で、小さく、小さく、放つ。
「…先輩にもし、『私を幾らでも抱いて欲しい。その代わりに、もう移籍することなどと言い出さないで欲しい』と伝えたら……」
 --どうにもなるか。
 お前、今、世界で一番醜悪な面をしているぞ?
 心が歪んだ。すっかり壊れてしまったようだった。
 ここまで大きかったのだ。私にとって。風岡先輩という人が……
「…ずっと、私のそばにいて下さい」
 叶わないであろう願いが、脳を通って口から漏れた。

       

表紙

藤沢 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha