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アイドルジョッキーと女騎手
トライアル(名古屋競馬場)その二(H30.4.29)

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 もうすぐトライアルの騎手集合がかかる。それなのに、検量室まで来ても、私の中には混沌が渦を巻いていた。
 結局のところ、どうなのか。私は『騎手』風岡が好きなのか、それとも、『人間』風岡が好きなのか。
 分からない。騎手として先輩のことを目標としているのは確かだ。男性として意識したことはない。そのつもりだった。
 本当にそうだったのか?
 私は、騎手としてだけでなく、人間として、男性としての風岡慎吾を愛していた?
 --愛?
 私の中には、発生したことのない感情だ。
 なんて、余計な感情。今日、ここまでの八レース中五レースに騎乗したが、まるで競馬に集中出来なかった。酷い結果だった。こんなことは騎手になって一年以上経つが、初めてのことだった。
 胸が苦しい。私は、切り替えが下手糞だ。それは分かっていた。だからこそ、競馬の邪魔になることは、一生知りたくなかった。
 人を愛するというのは、そして、それが実らないというのは……これほどまでに、苦しいものか。
 こんなことになるならば、高校は共学を選んでおけばよかった。学生のうちに、男性との経験くらい済ませておけばよかった。そんなことを考えていても仕方ないのは、分かっているのだが……
「昨日のこと気にしとんか」
 耳に届いた。他の誰でもない、風岡先輩の声だった。どうしよう、いつものように振る舞えない。目を、合わせられない。
「…トライアルには騎乗がないのに、どうしてここに居るのですか」
「弟子が大一番にフワッフワの状態で乗るんが忍びなくてな。山乃木、お前そんなに弱い人間だったか?」
「…自分でも驚いています。昨日お聞きしたことが、これほどまでに私のメンタルへ縛りをかけてしまうことが……」
 風岡先輩は、さぞや呆れているだろう。こんな軟弱な騎手に、自分の跡目を継がせようとしていたのだと。私も、自分自身に落胆している。
 自分は『女騎手』ではない。『騎手』なのだと、自分に言い聞かせてきた。
 日本では中央・地方合わせても数人しかいない女性騎手。特別扱いはされたくないと思っていても、明らかに扱いが男性騎手とは違っているのは肌で感じていた。ファンから送られる視線もどこか甘ったるいものだし、取材もプライベートがどうとか、結婚はしたいか、子供は欲しいか、と。必ず訊かれる。下手すると、騎手としての質問より長い時間をかけて。
 この世界、出産後に騎手として復帰した先輩も存在する。人生設計は人それぞれ自由だと思う。結婚、出産を経て戻ってくるというのは、途方もなく大変なことだ。掛け値無しに価値があると思うし、尊敬もしている。何故なら、私にはそんな器用な立ち回りは不可能だと思うからだ。自分に出来ないことの出来る人には敵わない。
 ただ、それならば、私は生涯一『騎手』として、『女』を捨てて生きていきたい--そう思っていたのに。
 …ああ。
 どうしようもなく、私も女だった。
 自分の手の届かない場所へ羽ばたいて行こう、と決めた人のことを、こんなに愛おしく感じてしまう。私は、女だった。
「別にショックを与えるつもりじゃなかったんだけどな……なんか悪かったな」
「…謝らないでください。悪いのは、私の弱さです」
 抱いてください、風岡先輩。
 こう、口に出せたら、楽になるのだろうか。それとも、そこから終わりが始まるのだろうか?
 幸いにして、この場は収まる。もうすぐ、集合がかかるからだ。
「…ひとつだけ言うわ。お前は、なんとかシリーズの名古屋代表。で、ここは名古屋。土古競馬場よ。だから、他の奴らに負けんな。どんな馬に乗ってようが、負けんな。お前が負けるってことは、オレが負けるってことだから」
 …無理を言う人だ。『競馬に絶対はない』それが貴方の口癖ではありませんか。それを、負けんな、などと。
「…負けませんよ。私は、風岡慎吾の弟子ですから」
 これから始まるのは、競馬だ。
 十人の騎手が、十頭の馬に跨り、名古屋競馬場を千四百メートル駆け抜ける競争だ。


 パドックを出て、馬場入場を終え、ゲート近くの待機場で周回しているうちに、私の腹は決まった。
 他の騎手も馬も、今この瞬間はどうでもいい。私は私のレースをする。諸先輩方と比べたらまだまだ少ない経験ではあるが、それでも、私はこのコースで既に数百回の実戦経験を積んでいる。
 すべきことは、身体が覚えている。
 ファンファーレが再生され、続々とゲートに人馬収まっていく。全頭収まり、スタートが切られる。抽選で決まった今回の騎乗馬には出足がない。それは分かっていた。自然と中団から後方に構える形。ゴール板を通過し、第一コーナーにかかる。ここはまず小さく曲がればいい。コーナーを抜け、バックストレッチへ。
 バックストレッチ中程から仕掛ける。他のことなど知らない。逃げ絶対有利の名古屋で勝負をしようと思うなら、この戦法以外にない。
 捲り。
 極端な話、脚は直線まで持てばいい。重要なことは、直線を向いた瞬間に先頭に立っていることだ。名古屋の直線の短さならば、脚を無くしても押し切れる可能性がある。それで穴を開けたこともあるのだ。実体験が、私に勇気を与えてくれる。
 馬の腹を足で叩きながら、日頃の鍛錬で身に付けた筋肉で一生懸命に手綱を扱く。加速していく風景は、私のつまらない感情なと置いて行く。
 先頭に立って、視界の先には誰もいなくなった。
 --気持が良い。この風景を追い求めて、私はレースに乗っているようなものだ。
 最終コーナーを先頭で抜け出して、残すは二百メートルに満たない現存する日本の競馬場で最短距離の直線だ。
 馬は苦しがっている。無理させてすまないと思う暇もなく、鞭を一発、二発、三発と叩き込む。それだけでなく、馬の背中のリズムと合わせて扶助する。
『追うときはリズムを意識しろ』--風岡先輩の言葉が、脳裏に浮かぶ。
『馬の背中の動きと、自分の動きをシンクロさせろ。上手くハマれば、馬に人間の重さを感じさせずに走らせる事が出来るかもしれん。それが常に出来るようになった時、お前は--』
 --真の騎手になる。
 私は、騎手になりたい。上手い騎手に。勝てる騎手に。強い騎手に。
 そうだ、これでいい。
 レースでは、自分の感情など、こうして置き去りにしてしまえばいい。スタートゲートに感情を置いて、レースでは、機械のように……
 背後から十二本分ほどの足音が急速に迫るが、もうゴール板は目の前だ。
 一杯、一杯、一杯……持った。持たせた。良し。
 少ない観客ながら、ざわめきと歓声を感じた。どうやら、私の馬は相当の人気薄だったようだ。
 仕事が出来た。こんな弱い『女』でも。


【トライアル名古屋第一戦 結果】

一着 山乃木 志乃(名古屋) 三十点

       

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