プロローグ

『――ただ一度のコイントス、たった一枚のイギリス硬貨の裏と表がその夢に名前を与えたのは今から二世紀も前の話になります。時は下って現代日本東京府中は素晴らしい晴天の下に集いし十八頭の選び抜かれた三歳馬達がその神聖なレースのゲートに収まりました。東京第十レースは日本ダービー正式名称を東京優駿芝一マイル四ハロンのクラシック・ディスタンスです。全てのホースマンの、そしてファンの、競走馬の夢舞台のゲートが……今開きました。
 各馬揃ったスタート、内からスルスルッと十番サードライトニングがハナを奪いに行くのはいつもの指定席と言ったところか、差が無く四番グランブルーとその外側三番ロードスマイルの二枠二頭が並んで先頭を伺おうというところ一人旅とはいきそうもありません。注目の一番人気・皐月賞馬のカムイエトゥピリカは後方三番手から、鞍上は名コンビの大越凛太朗、そのすぐ後に王者の首を窺う白いヒットマン葦毛の馬体を揺らしてホワイトヴォルフと園田博文がピッタリとついている。二番人気レイカウントは二頭からやや前の七番手辺りといったところで先頭は第二コーナーへ入りました。
 もう一度先頭から見ていきましょう。先頭はここでグランブルーに入れ替わりましておよそ一馬身程のリード、サードライトニングとロードスマイルは先ほどからやや下げて二番手に付けております。そこから二馬身程開いて三番手集団はキタノサバンナ・オオタニシキ・セイホウリング・そしてここにいました打倒エトゥピリカの代表格でしょう、皐月には間に合いませんでしたが青葉を勝ったレイカウントはここにいるぞ、鞍上天才鎬総司ともども鮮やかな花の戴冠が欲しい。集団は向こう正面入りましてレイカウントの後ろにリーンフォース・ハグロフォーエバー・ソードフィッシュ・メイトウヨシミツと続きます。ここで先頭が千メートルを通過タイムは五十九秒六。やや早いでしょうか追う後続が有利になるかといったところで第四集団はメイトウヨシミツより三馬身程後ろにサウザンドリーファとアウトロー、その後方にアマネドットサンドがおりましてそして押しも押されぬ一番人気のカムイエトゥピリカ栗毛の美しい馬体が府中を染める陽に栄えています、ここまで六戦六勝なるか無敗のダービー制覇、そしてぴったりと美しい栗毛の首を狙う白い狼ホワイトヴォルフも付けている。最後に最後方オーエスファインとスズカパークが続きましてこれで十八頭となっております。
 先頭は第三コーナーへ入ったそろそろ後続も詰めていきたい所です。先頭は変わらずグランブルーしかし二番手のサードライトニングとロードスマイルとの差はやや詰まって半馬身と行った所か、その後更に三番手集団も詰めてきている後続はどうだ。各馬大欅を通過してこれから第四コーナー、曲がり切っては府中名物長い長い五百メートルの直線と避けては通れぬ最後の関門心臓破りの上り坂は日本競馬の真骨頂、最強を決める最後の直線。二番手集団が先頭を飲み込んで先頭はオオタニシキに入れ替わったか、外からはリーンフォースにそしてレイカウントと鎬総司がやって来た、先頭はレイカウントに入れ替わりました二番手争いはリーンフォースとオオタニシキか、そして後方からは栗毛と葦毛の二頭が追って来ているさあ・さあ・さあ・最高潮だ栄光の府中の直線先頭はレイカウント残りは四百メートルを切った。
 各馬懸命の鞭が入り先頭はレイカウント、二番手争いはオオタニシキが抜けたかリーンフォースは伸びないっ……ここで来た・来た・来た・来た! 金色の彗星が府中の直線を鮮やかに切り裂いた! 大外回してカムイエトゥピリカ・カムイエトゥピリカだ、ホワイトヴォルフは着いてこない、いやこられない、エトゥピリカ強い、レイカウントも一瞬で抜き去って先頭、強い強いまだ伸びるこれはもう間違いない残り二百メートルだがもう間違いない、まだ伸びるまだ突き放す。
 見よ神が与えたこの美しい末脚を、ターフを切り裂く金色の彗星を、全ての競馬ファンよ、これがカムイエトゥピリカだ。カムイエトゥピリカ圧勝!
 二着争いは僅差、しかしレイカウントが粘ったか。ホワイトヴォルフは三着、以下スズカパーク・アマネドットサンドが突っ込んできての掲示板となります。
 凄まじい直線でした。時計は二分二十二秒八というダービーレコード、何と言っても上がり三ハロン……衝撃の三十一秒七、クラシックディスタンスの三十一秒台です……正直に申し上げて、私手の震えが止まりません。とてつもない物を見てしまったというのが正直な感想です。これはもしかすれば三冠制覇、そして海外という夢も鞍上の大越には見えているのではないでしょうか。
 正に優駿と呼ぶに相応しい馬でしょう、金色の彗星・カムイエトゥピリカ。』

 最後に記憶に残っているのはアナウンサーの震えた声だ。
 金色の彗星というエトの二つ名が、俺は本当に大好きだった。
 エトの末脚は本当に空間を切り裂いているようで、最後の上がり三ハロンはここでない別の世界への扉が開いたようで、あの時、俺は金色の彗星と間違いなく一つになっていた。
 俺はエトを愛していたのだと思う。女なんかよりもずっと、あの馬に惚れていたのだと思う。

 次に意識が戻ったのは病院のベッドの上で、痛々しい表情で俺を見るナースに死に損なった事を察すると、何のことは無かった。もう全てがどうでも良かった。
 退院に時間はかからなかった。睡眠薬の飲み過ぎで胃洗浄をされただけなのだから本当なら即日出ることも出来たのだろう。案の定厩舎にはマスコミが押し寄せていて、テキ(調教師)は俺を見るなりまとめてあった荷物を押し付けると北海道の牧場に叩き出した。
 抵抗する気も無く、流されるように辿り着いた牧場は恐ろしくチンケな場所で、家族経営の小さな所らしかった。
「どうでも良いけどな」
 あの日以来口癖になってしまった言葉を吐き捨てながら牧柵に寄りかかって空を見上げていると、どこからか声がした。
『アイツ見た事あるぜ、ジョッキーだ』
 声の主が気になってちらと辺りを見てみるが、人っ子一人いやしない。昼過ぎのこの時間なら牧場の人間は馬房の掃除でもしているのだろう、見えるのは柵の中にいる数頭の――恐らくセールで売れ残ったんじゃないかと思う――うだつの上がらなそうな馬だけだ。
『ああ、アレだよ。エトに乗ってた』
『大越だ、あのヘボ騎手どのツラさげてここに来たんだ』
 しかし今度もまたはっきりと聞こえる。もう一度、念の為にぐるりと周囲を見渡してみるが本当に誰もいない。いるのは牧柵の中の――以下略。
 どうやら幻聴まで聞こえるようになってしまったらしい、我ながらクソ過ぎる人生に反吐が出る。むしゃくしゃして牧柵にけりを入れると、
『なんだアイツ、キチガイなんじゃないか』
『よせよ、ほっとけ。ああいう人間は関わるとロクなことにならねえよ』
今度は俺の方を見ながらだった。策の中にいる馬がじっと俺を見つめながら、声はその方からはっきりと聞こえていた。
「俺、マジでヤバいんじゃないかね」
呆れ笑いを堪え切れずにケケケと笑うと馬たちは不気味がって散ってしまった。馬にすら避けられる俺って人間として終わってるな、と改めて思う。
 いつまでもそうしている訳にもいかず、テキから預かった手紙を渡そうと牧場の人間を探して敷地内をふらつく。
「誰かいませんかー」
 そんな間抜けな呼びかけをやる気なく叫びながら歩いてみるが、人っ子一人出て来やしない。
「いねえのかよ、バカ野郎!」
ついむしゃくしゃして怒鳴ってしまった、その時だ。
『ウルセエぞクソ野郎!』
 ドスの効いた声が馬房から返ってくる。
『ビービーわめいてんじゃねえよクズ!』
 牧場主だろうか、すっかり怒り心頭と言った様子だ。丁度いいむしゃくしゃしていた所だ、喧嘩を買ってくれるなら相手は誰でも構う事は無い。ストレス発散に殴って行こう、そのついでで死んでしまっても構やしないとそんなノリで声の方へ向かう。
 声は間違いなく馬房から聞こえた。
「どこだこの野郎、こっちはこんなクソ田舎の牧場に叩き出されてむしゃくしゃしてんだ、てめえのことぶっ殺してやる!」
『コッチだよボケナス、さっさとかかって来いや!』
 相手もかなりカッカし易い性格なのだろう、互いに汚い言葉を投げ合いながら、声は間違いなく近付いている。
 やがて馬房の一番奥、声が聞こえてきたはずの所に立つと、しかしそこには人などいなかった。ただ、一頭の馬がいた。
 美しい金色の馬体。エトに瓜二つの栗毛だった。
『さっきから喚いてたのはお前かこの野郎!』
 しかしどぎつい言葉がすぐに飛んできたから、生憎と感傷に浸る間は無い。
 そもそもエトは俺の目の前で死んだのだ。あまりにも生々しい、エトの骨の砕ける感覚を俺は身を以て知っていた。まさかエトが生きていたのではなどという夢を見るには、あまりにも知り過ぎていた。
「お前こそいい加減姿見せろよ、ビビッてんのか?」
 見てくれこそ小さいがこれでもジョッキーとして筋力は鍛えている、素人相手なら病院送り位お茶の子だ。
 そんなつもりで肩を回しつつ周囲を見渡すも、やはり人の姿は見えない。
 この馬房にいるのは栗毛の、エトにそっくりな美しい馬だけだ。
『目の前にいるじゃねえか、イカれてんのかお前』
 やはり声は聞こえている。間違いなくこの馬房から聞こえている。
『おい、お前ホント大丈夫かよ。ガイジか?』
 なおも続く、確かに聞こえる。
 何故だ、この馬房には俺と馬しかいないのに、声が聞こえる。
『っていうか、よくよく考えたらお前人間じゃねえか。何で俺と話せてんだよ』
 その一言に酷く冷静になって、俺は目の前の馬を見た。エトにそっくりの、けれどももしかすると口が悪いかも知れない、そんな馬を俺は見た。
「喋ってるの、お前か?」
『当たり前だろ、バカかお前』
 何てこった。今度こそ頭を抱えてしまう。あの薬実は睡眠薬じゃなくて他のもっとヤバい薬だったんじゃないかと思うが、あれは間違いなく睡眠薬だったはずだ。そもそもクスリを決めた所でこんなことあるはずないだろ、普通。
 だが、どうやら死に損なった俺は馬と会話が出来るようになったらしい。