時は瞬く間に過ぎ、神様方が出雲へ帰省する頃合いになるとレラはすっかり注目の的だった。調教内容がマトモじゃないと騒がれることは元より叩き出している時計が既にオープン古馬クラスのそれだから来年クラシックの有力候補と目されるようになり、更には悲運の二冠馬カムイエトゥピリカの全弟で厩舎メンバーもそっくりそのままとくっつけば数えで役満にも届こうかという手役なのだから注目されない方が妙とも言えた。
 普段であれば閑古鳥が鳴いている臼田厩舎にも連日記者が詰めかけるようになっており、最初のうちはおだてられて上機嫌だった御大だが、近頃では挨拶より先に【手に持っているナニカ】を手あたり次第投げつけている。行動だけ見れば四六時中衆目に晒され続けた結果ストレスで精神を病んでしまった動物園の猿そのものだ。
 今日も今日とて天狗山から引き上げてきた御大が身に付けていたパチモンのロレックスか何かを全力投球して記者達を追い返す様を横目にレラに水を浴びせていると、多少こなれたジーンズ姿のヨモギダ青年が現れた。
 彼は恐らく今週末の新馬戦に出走予定の各馬の情報を収めたUSBか何かを持参しているはずであり、本来なら客人としてお茶の一杯でも出して然るべき相手だが錯乱状態にある猿が人間社会の常識を理解出来ようはずもない、哀れヨモギダ青年は御大渾身のラリアットに刈り取られその場に倒れ伏す。
 暫くの沈黙の後で冷静になった御大は、サバンナで周囲を警戒する獣の機敏さで辺りを見渡してから俺の方へ向き直り【さっさと運ぶぞ】と顎で事務室の方をしゃくって指示を出す。ダーティーな清掃作業に慣れたヤの字の如き淀みのない反応に【生コンに詰めて東京湾にでも沈めるつもりかも知れない】などと考えたのは俺だけでは無かったらしい、怯えたレラが身震いすると弾かれた水は豪雨の如く降り注いで見事な濡れ鼠が一匹出来上がる――と言った具合に、躓くはずもない初戦のはずがレース前から前途多難である。

 三途の手前から無事帰還したヨモギダ青年に米つきバッタと化した俺とちせがひたすら頭を下げる傍らで、御大はいかにも重要な仕事に取り組む風に神妙な雰囲気でモニターを眺めている。
「敵になりそうな馬は、いないな」
 咥えタバコで渋くキメて、あわよくば話題を逸らす心積もりだったのだろうがやらかした内容が傷害未遂事件では雰囲気に騙されるお人好しなどいるはずもない。顰蹙の視線に晒されてポーズを保てなくなると、不貞腐れてそっぽを向いたままではあったが、小さくスマンと呟いた。
「もう少し真面目に謝ったらどうですか」
 一歩間違えば警察沙汰であっただけに今回ばかりは言っておこうと多少の意を決した俺の言葉だったが、当のヨモギダ青年が割って入る。
「大した事無いですから、大丈夫ですよ。先生も大変でしょうし」
 被害者自らハハハと笑ってみせてやるその優しさは人間相手には美徳となるのだろうが相手は猿であって人情よりもバナナである。甘やかすと後悔するぞと目で伝えてやったが、ヨモギダ青年は却って俺を宥めるように話を続けた。
「それより、当日の作戦は決まっているんですか?」
「そんなもの、教えてやる訳が無いだろう」
 バツが悪いことは隠しようもなかったがレースに直結する内容は話せないという事か、御大が回答を拒否すると、ヨモギダ青年は一呼吸の間を置いてから不意に首をさすり始めた。
「……あ、何か、首、痛いなあ。やっぱりこれ労災申請――」
「――凛太朗、話してやれ」
 サーカスの猛獣使いのような鮮やかさであった。ライオンを相手に鞭を振るって支配する辣腕に動物園の猿が敵うはずもなく、御大のプライドはオークに捕らえられた姫騎士もかくやという具合にあっさりと陥落した。してやったりの表情を隠さないヨモギダ青年を見てやはり大卒資格は伊達では無いなと自身の中卒という学歴に僅かな負い目を感じるも、俺としては隠す必要性を感じていなかったので御大のかましたラリアット分程度は話してやることにする。
「新馬戦だから競馬に慣れさせるのが第一かな。スタート良くても多少抑えて、中段待機でギリギリまで馬群に入れておくつもりだよ」
「そうすると直線勝負ですか」
「理想は坂の手前で先頭、スピードが違うから末で勝負にはならないと思う」
「大越騎手から見て不安要素は?」
「無い。調教も他の馬より数段キツイのこなしてるし、地力を発揮させてやれればそれだけで勝てるはずだ」
「では勝つ前提の質問になりますが、本レースの目標を一言でお願いします」
「うーん……後続と三馬身程度を保ったまま勝てれば理想かな」
「三馬身程度、ですか? 大差とかではなく?」
 クエスチョンマークを浮かべているヨモギダ青年に、ちょっと得意になりながら、俺はただ頷いて返した。

 土曜の夕暮時、調整ルームに入る身支度を整えてから馬房を訪れると、レラは落ち着かない風に左前足で地面を掻いている。
「緊張してんのか?」
 声をかけても一瞥したきり何も返してこない、無言の肯定というヤツだろう。図太い神経だと思っていただけに意外な繊細さだった。
「安心しろって、手綱を取るのはダービージョッキー様だぞ」
『それが一番不安なんだよ、レースに乗るのは一年ぶりじゃねえか』
 憎まれ口だけは忘れていないようでこちらのジョークにはしっかり反応するのだから苦笑も漏れる。
「そうだな、確かにそうだ」
 緊張を解いてやるつもりが却って説き伏せられているのだから話にならない。案外レラよりも俺の方が緊張しているのかも知れないと自嘲しながら、しかし考えるより先に言葉は続いた。
「そんでもまあ、勝たせてやっからよ……最初で最後の経験だ、精々思う存分緊張しておけ」
 言葉にしてから腑に落ちた、というのが正しいだろう。腐っても騎手として五千回近くの数だけはこなしてきたのだから、チェリーボーイの緊張くらいは引き受けてやれなければそれこそただの重りである。
 今までにも数えきれないほどの新馬戦に乗ってきて、デビューを控えた彼らが皆緊張している事は言葉を交わせなくてもどこか伝わってきたから、きっと俺は、彼等にもこの言葉を伝えてやりたかったのだと思う。
「明日の朝、俺はいねえけど寂しがるなよ」
『気色悪い事言ってんじゃねえよ、さっさと行け』
 考えてみると、レラと半日以上離れるのは出会って以来初めてかも知れない。ただ一頭のお手馬にここまで関わるなど考えた事もなかったが、出掛けの挨拶が出来る関係というのは、なかなかどうして、悪くないものだ。
 茜色の外へと足を向け、二歩、三歩と進んでから、ふと振り返る。
 夕焼けた栗毛で金色に燃える馬房からは、黒い瞳が二つほど、水面に浮かぶ月のようにぽっかりと浮かび上がって、じっとこちらに向いている。