前検量を無事に終え、鞍とゼッケンを受け取る。
 府中と中山で使用する自前の鞍は、ほぼ一年ぶりに触れるだけに埃まみれになっていないかと少し不安だったのだが、丁寧に預かっていてくれたのだろう、最後に府中で騎乗した一千万下の時と感触はまるで変わっていない。
 騎手の手伝いをしてくれるバレットの女性に言外の感謝を込めて頭を下げると、察してくれたのか、俺の復帰を歓迎するような笑顔だけ返してくれた。
 一年ぶりの鞍と感慨を抱えて装鞍所へ向かおうとすると、検量室に関西弁の絶叫が轟いた。周囲のジョッキーが驚くような事は無い、普段からやかましい事で有名になってしまっている。
「何でや! 待って! ちょお待って! パンツ、パンツ脱ぐから!」
 声の主であるサブは大分錯乱しているようで計量秤の上で勝負服を脱ぎ始めており、先ほどのバレットの女の子などはいたたまれなさそうに視線を外している。騎手仲間は呆れたように眺めるヤツが半数、栗東組でサブと比較的仲が良い人間からは「パンツで足らなきゃ毛ぇ剃れや」などというヤジも聞こえる。
「パンツ脱ぐから! パンツ脱ぐから!」
 なおも叫び続ける騒音から逃れるようにして、検量室を出た。
 騒音から一転、耳鳴りがしそうなほど静かな地下馬道を踏みしめると、広いトンネルに反響したブーツの靴音は頭の奥深くまで沁み込むように届き、久方ぶりの心地よい緊張が脳髄に呼び覚まされる。
 地下馬道を抜けた先の、装鞍所の門の前では、見慣れた芋が一人立ち尽くすようにして中の様子を覗き込んでいた。
 それなりに気を遣ったのだろう、いつものジーンズではなく、まだ初々しさは残るものの一応スーツを着こなして、人に見られても恥ずかしくない平凡な格好。だがしかし、人気の少ない装鞍所の前で中の様子を覗き込もうとする姿は誰が見ても不審者のそれに違いない。
「何してんだ」
 声をかけると、振り返ったちせは心中の不安を隠しきれない風に目が泳いでおり、中の様子が気になって仕方ないようだった。傍から眺めていると、本人が必死なだけになおさら呆れ笑いが浮かんでしまうような光景だ。
 小学校の授業参観を思い出すような、遥か昔に見た、クラスメイトの母親達に似た雰囲気。廊下に並んだ母親達が、張り切って発表する彼らをこんな風に覗き込んでいたことを、よく覚えている。
「馬主がこんな所にいたら余計な詮索される。大人しく馬主席で待ってろ」
 ステッキの先端でフジビューの最上階を指して言うと、ちせは戸惑ったような表情でこちらを向いた。
「何だよ」
「いや、大越さん騎手だったんだなあって」
 俺の格好への感想らしい、こちらの力が抜けてしまう。
「そこかよ」
「だって、そういう格好初めて見たから」
「まあ、そんだけ力抜けてりゃいいさ……お前が緊張するとレラにうつるから、パドックに顔出すなら平常心で来い」
 気が抜けすぎないよう一言釘を刺し、促すようにじっと見る。
「馬主には馬主の付き合いがある、お前の役割だ」
 そうまで言ってようやく、ちせは渋々と言った具合に門の前から一歩を踏み出した。俺の横を通り過ぎる間際に、名残惜しそうにもう一度装鞍所の方へと振り返ってから、「レラのこと、お願いします」そんな風に言い残した。
 装鞍所の馬房を覗くと、どうやら今の段階から多少イレ込んでいるのだろうか、落ち着かない風に身体を揺するレラを御大がなだめている。
「ようやく来たか」
 俺を見るなり、疲れ切った声で御大は言った。
「装鞍所に入ってからずっとこれだ、敵わん」
「よしよし、緊張してんだよな。それとも、俺に会えなくて寂しかったかな」
『うるせえな、ウザいからその喋り方やめろ』
 相変わらず可愛げのない口調だが、身体を揺するのは止めたらしい。
「しばらく俺見てますから、鞍検量お願いしても良いですか?」
 御大はその言葉を待っていたかのように返事もなく頷いた。
 抱えていた鞍を預け、装鞍所検量室に向かう背中を見送りながらレラの首を撫でると、やはり多少汗を掻き過ぎているし細かく震えている。緊張しているのだろうが、これではレース前に干上がってしまいそうだ。
「新馬戦のこと、メイクデビューって言うんだ」
『は?』
 緊張を解いてやろうと頭の中で話題を探して、何となく口を出たのはそんな世間話だった。
「まあ馬には解らんだろうがな。見る側にとっては愛称がある方が特別に感じられるもんなのさ」
『特別?』
「どんな馬でも絶対に一度は走れる、自分が主役になれる特別戦だ」
 競馬はとても残酷だ。勝ち上がりより敗者の方が多いのだから一勝できれば御の字で、重賞どころか条件戦にも出られないまま消えて行く馬の方が多い。
 だが、新馬戦だけはどんな馬でも主役になってスポットライトを浴びることができる。未勝利のままターフを去る競走馬であっても後のG1ホースと対等な条件で競うことができる晴れ舞台。新馬戦とはそういうレースだ。
『別にどうでもよくねえか、そんなん』
 レラは言う、馬だから当然だ。主役だの脇役だのは舞台に立たずに外野から眺めている人間たちが勝手に決める事であって、ターフの上にいる俺達は全てのレースで必死になって走る事しかできない。G1でも、条件戦でも、未勝利でも、新馬戦でも、それは同じなのだ。
「それでも、周りにとっては特別なレースなんだ。だから、そんな舞台で緊張するのも当たり前ってことさ」
『またそれかよ』
「そうだよ。最初で最後の特別なレースだ、緊張することは悪くない。お前がどんだけヘマしても一着は取らせてやる」
『信用出来るかよ、お前だって一年ぶりじゃねえか』
「一年ぶりでも五千回はレースに乗ってる、下手な鉄砲もナンチャラってな」
 話しているうちにいつもの調子が戻って来たようだ。じっとり汗ばんだ首筋はもう震えていない。
「ともかく、今日は俺を信じろ。経験だけはお前よりある」
 ほんの少し力を込めて、人の肩を抱くように、両腕を回してレラの首を抱く。
『気色悪い、離せよ!』
「言う事聞くか?」
『聞く、聞くよ! だから離せ!』
「解った、離してやる」
 手を放してやると、レラは虫でも払うように身体を揺すった。熱すぎる程に高い体温も、こういう仕草も、本当に人間の子供にそっくりだ。

 パドック脇の控室では雑談をする数名の騎手から距離を取るようにベンチに座り、徐々に姿を見せ始めた馬達の姿を眺めていると、鎬総司が現れた。
 デビュー五年目の若手だが、日本人ジョッキーという限定付きなら三年連続、昨年は外国人を含めた全体リーディングの座をも射止めたこの青年は、往年の名騎手にして名調教師の息子として競馬村に生まれ、馬の背を揺りかご代わりにして育ったとも噂される、所謂ジョッキー界のサラブレッドだ。
 視線が交わったのは一瞬だったが、会釈もなく逸らされる。特段仲が良い訳ではなく、むしろ相性は悪いのかも知れない。競馬村における外様である俺とサークルの中心に立つことを宿命づけられた総司では一から十まで違っている。
「レラカムイ、一番人気やな」
 背中越しにサブの声がしたと思うと、断りもなく、勢いよく隣に腰を下ろしてきた。勢い余って俺に体当たりするような形になったのは意図的なのだろう。
「毛、剃ったのか?」
「剃っとらんわアホが、見せたろか。ブーツ変えたんがアカンかったみたいや、クリスのヤツに唆されてエライ目おうたわホンマ」
「前もって確認しないヤツが悪い」
「いけず言いよって。それより、エトゥピリカの応援幕出とるで」
 サブはパドックの一か所を指しながら言ったが、応援幕の前に陣取っているハゲ親父の存在を含めて、そんなことにはとっくに気付いている。
「あんま気にせんとけや」
「ご心配どうも、そこまで弱くはないさ」
 応援幕を掲げているハゲ親父は筋金入りのエトのファンで、エトの出走するレースであれば日本全国どこであっても必ずその応援幕と共に表れる男だった。エトがレースに勝つ度に段ボール一杯のリンゴとファンレターを厩舎に届けてくれる熱心なゲーハーであり、見た目が綺麗な女性であれば俺も有り難がっていたのだろうが、残念ながらゲーハーなのである。
 そんなゲーハー親父も去年の京都で見かけて以来だ。妙な懐かしさを覚えてしまう。
「挨拶くらいはしてやりたいけどな」
 出走前の騎手という立場でなければ気軽に挨拶出来る距離だが、そういう訳にはいかない。
「挨拶するより勝ったれや」
「確かに、孝行してくれるゲーハーには稼がせてやんないとな」
「勝たせたらんけどな」
「お手柔らかに」
 そうして世間話をしている間に整列の号令が掛かった。
 控室のだらけた空気は消え失せ全てのジョッキーが敵同士となり、俺とサブの間にもその一瞬で冷たい線が引かれた。
 パドックへ出て一列に並び、客へ一礼をしてから、それぞれの馬へと向かう。
 ヤネの動きに特に注意すべきなのは三頭。サブの騎乗馬は三番人気、総司は二番人気、クリスは五番人気。新馬戦など情報が無いから大抵は血統と騎手で人気が決まるものであり、サブと総司の馬は現在猛威を振るう種牡馬の産駒であるから人気になるのは当然、母親の差はさして無いから人気の差はそのまま騎手への信頼の差だろう。血統的にやや落ちるはずのクリスの馬が五番人気に押されているのは完全に騎手人気と見ていい。
 そうした中、俺という重りを背に乗せてなお単勝一倍台というダントツ一番人気に押されているのが我が相棒だ。
 新馬戦を買うようなコアなファン達は、血統のことも、生産者と馬主の事も、所属厩舎のことも、そして主戦騎手のことも、それらが意味する全てを知っている。
 レラはパドックの中心で御大とちせに囲まれて俺を待っている。御大は先程のように疲れ切った雰囲気ではなく、ちせも無駄な緊張は溶けたようだ。心配そうにレラを撫でる様は相も変わらず授業参観の母親だが、馬を不安にさせるような表情はしていない。
「作戦、任せて貰います」
 横に並び立ちながら、返事は聞かない。
 御大は面白くなさそうに一つ鼻を鳴らしたが、負ければ降ろすと短く呟いただけだった。そうして、スーツが汚れることなど気にせずに俺の脚を抱えると馬上へと押し上げる。
「勝って来い、凛太朗」
 背を張る一撃よりも重く熱い御大の激励と共に手綱を握る。
「激励は済んだか?」
 馬上から尋ねたちせは静かな微笑みで頷く。
「行こうか相棒、勝負の時間だ」
『クセえ台詞決めてんじゃねえよ、ヘボの癖に』
 すっかりいつもの調子が出たレラの首を軽く叩いてから、地下馬道の暗闇へ吸い込まれるように降りて行く。