鞍が穏やかに揺れ、床を叩く蹄鉄はどんな楽器より柔らかく鳴る。その音に惹かれるように、馬道で作業をしている関係者達は作業の手を止めて舞台へと上がる馬達を見送る。馬主の関係者らしい、おめかしをした小さな女の子が母親と一緒に手を振っている。ホースプレビューから覗き込む観客は、厳めしい顔をしたゲーハーから動物園気分の家族連れまで多種多様な品揃えだが、それぞれの思いで馬達の背中を押している。
 頑張れと、彼らは皆祈っている。
 コースへ続く緩やかなスロープに出ると天が開け、降り注ぐ光の眩さに目が細まる。軽快な入場曲に被せるようにスタンドの声援が鳴り響く。温かな中秋の陽を浴びたターフは風にそよぎその輝きを散らす。彼方まで続く一面の緑が雄大な海のように揺れている。
 帰って来た事への感慨にふけるより先に、ちょっとした違和感を覚えた。
 メインの三時間前だというのに客の入りが多すぎるような、そして、レラへの歓声が一際大きいような、そんな気がしたのだった。
 そして、きっとそれらは気のせいではない。
「どうも、レースの前からお前が主役みたいだな」
『お前の名前も聞こえるぞ、すげえガラ悪いけど』
 レラが言う通り、大層ガラの悪い怒鳴り声で俺の名を叫ぶ声もあちこちから響いている。
『でも、歓迎されてるな』
 これもその通り。金返せとか、死ねとか、そんな野次くらいは覚悟していたのだが、聞こえてくるのは御帰りとか、待ってたぞとか、そういう温かい声援だった。
「有難いもんだな」
『ガラ悪いけどな』
「人気騎手でもなし、贅沢は言えないさ」
 いつも通りレラと話しているつもりだったが、引綱を持つ厩務員の斎藤さんからの怪訝な視線に気が付くとバツが悪い。
 馬に話しかける事自体は珍しく無い業界だが、俺の場合は完全に会話をしているから、周りからしてみれば妄想が行き過ぎたヤバいヤツにしか見えないのだろう。
 結局、馬場に入るなり引きを断って逃げるように返し馬に入った。
『絶対ビョーキだと思われてるぞ、あれ』
「誰のせいだと思ってんだよ」
 性悪な笑みを浮かべるレラにぼやきながら返す。
 開始直後に第二コーナーを回る府中二〇〇〇メートルは、外枠スタートから先手を取りに行こうとすると大外を回らされる為内枠が絶対有利とされているが、生憎と今日の枠は最外枠の十六番だ。枠順が発表された時には日頃の行いがよほどに悪い関係者(主に調教師)の姿が思い浮かび、悪態をつくより先に笑ってしまった。
『そういや、お前他の連中とは話せねえの?』
 思い立ったようにレラが言う。
「簡単な意思疎通は出来るけど、こういう会話は無理だな。お前は俺みたいに他の馬とも話せんの?」
『無理、そもそも馬って話さねえし』
「そりゃそうだ」
 そもそも馬が話さないというのならお前の存在は何なのだと言いたくなるが、さておき会話が成立しないのは本当だ。
 聞き慣れない言葉を使う外国人とのコミュニケーションとするのが最も近い表現だろうか。簡単な挨拶程度ならば交わせるが複雑な情報共有はまず無理、嫌いなこと・楽しいこと・嬉しいこと・悲しいこと、そういった解り易い感情表現は疎通ができても、レラやあの牧場にいた馬達のように、会話のキャッチボールを行うまでには至れない。
 そう考えるとやはりあの牧場の馬達は芋娘に何かしらの魔術でもかけられているのでないかと疑ってしまうが、考え出したらキリが無いので深く追求するつもりは無い。
「急にどうした?」
『話が出来れば作戦とか解ると思って』
「ああ、そりゃ無理だわ。そもそも作戦考えてる馬なんていねえだろ」
 かつて無敗の三冠を達成したかの皇帝様はジョッキーにダービーの勝ち方を教えたこともあるそうだが、そんな馬がそうホイホイいる訳がない。
 仮にそんな思考を出来る馬がいるとすれば、それこそレラ位なものだろう。
「お前は何かあるのか、試したい作戦」
『いや、お前が考えてあるんだろ?』
 背に乗った俺を見るように首をわざわざ反らしながら、いかにも当たり前のことのように言う。絶対に口に出してやるまいが、宝石のようにクリクリした目玉と相まってその仕草は妙にかわいらしい。
「そういうこった、任せとけ」
 預かった信頼の大きさに浮かれてしまいそうな自身を嗜めるようにレラの肩を軽く叩き、コーナーポケット内での輪乗りに加わる。
 ファンファーレを待ちながら輪乗りする時間は騎手にとって馬を品定めする時間であり、特にこの時期の新馬戦は来年のクラシックを見据えた合コン会場といった雰囲気そのものだ。
 合コンならイイ女が注目されるし、輪乗りではイイ馬が注目されるのも必然。だから今日の輪乗りで一番注目されているのは間違いなくレラであり、それに跨る俺には嫉妬と羨望が入り混じった心地良い視線が向くのである。
 イイ馬を見てあわよくば自分がと考えるのは騎手の本能だが、エトやレラの場合はそもそも馬主がエージェントと縁遠い人種なのでその機会もない。絶世の美女が目の前にいるにも関わらず薬指の魔除けを前にして手を出せない状態とでも言おうか、無論指輪の相手は俺だ。
 美人な嫁をひけらかす男の心地良さとはこういうものだろうかと下卑たことを考えているうちにスターターが台に上り、ファンファーレが鳴り響いた。
 ゲート入りが最後なのは最外枠の数少ない特権だろう、余裕を持って他馬の様子を観察しながら、レラにだけ聞こえるように声を絞って言う。
「スタートは多少遅らせるつもりでいろ、タイミングは俺が出す」
『解った』
 隣の十五番は今年デビューの初谷君がヤネ、スタートセンスは良いと聞いているし、馬もしっかり落ち着いている。何より栗東所属の彼は府中のポケットスタートが初めてのようだから、さぞ気持ちよく出て行ってくれることだろう。ほんのワンテンポ遅らせて隣を捌けば、一枠分インへ寄せる間に更に内の混雑も多少は捌けているはずだ。
 中盤は常に前に壁を作る。馬群に入れた時の反応を試しながら、理想は先頭から十馬身程度をキープだが何なら最後方でも構わない。末脚のキレが違うのだから府中の長い直線なら最後にヨーイドンの競馬をしても勝てる。
 四コーナーからは可能な限り内を突く。先の事を考えれば、外を回す大味な競馬で楽に勝つより馬の間をこじ開ける経験をさせておきたい。
 レースプランを脳内でなぞっていると、他馬のゲートインは完了していた。
 係員がレラを引き始めてから肺一杯に空気を吸う。
 枠に前脚が入った段階で肺の中身を全て吐き出しながら、同時に、先程までなぞっていたプランも全て消す。
 レース前のルーチンワーク。やり直しのきかない一発勝負で机上のプランに引っ張られる訳にはいかない。
 ゲートが閉ざされるコンマ数秒の間に作業は完了し、最後に残っていた係員がゲートをくぐって外に出る――刹那、視界の左隅に映っていた隣枠初谷騎手の姿が沈むように消えた。
 舌打ちする間も無く、レラに合図を送った瞬間ゲートが開く。
 絶好の、しかし外枠としては最悪のスタートだ。
『何でだよ!』
 レラは訳が解らないという風に叫ぶが、その足はしっかり大地を蹴っている。どうやら本当に絶好のスタートだったらしい、視界を左に振るとハナを切っており、そしてやはり、そこにいるはずだった十五番の姿も無い。
「隣がヘマした、付き合ったら競馬にならない」
 判断が正しかったことは客席の尋常ではないどよめきからして確実だ。出足が滑った程度であればまだ良いが、下手をすれば落馬まで有り得るだろう。
「外回らされるけど行けるよな」
『ヘボ!』
「うるせえ!」
 ゲートから第二コーナーに入るまでの百メートル少々で可能な限り内へ寄せたが、万一にも斜行失格など取られる訳にいかない状況でスタート直後の混雑を縫うように進路を取るのでは、当然間に合うはずも無かった。
 結局コーナーでは埒から遠く離れた外目を大回りする羽目になり、それだけで内を行く馬に対して十メートル近くのロスを背負わされた。府中の改修工事を担当したクソ馬鹿野郎に文句の一つくらい垂れてもバチは当たるまい。
 しかし、後の展開を考えると結果オーライかも知れなかった。
 絶好のスタートを切ってしまったにも関わらず、向こう正面の緩やかな下りに入る頃にはすっかり中段、七頭程を前に見据える位置まで落ちており、これ幸いと一気に仮柵沿いまで寄せきれば、前三頭のケツで自然と壁が出来上がる。
 ようやく辿り着いた位置取りに一息吐く間も無く、前を行く馬達が蹴り上げた土埃や芝、蹄底でプレスされた土の塊が降り注ぐと、レラは苦しそうに身をよじった。励ましの声でもかけてやりたいが飛礫を浴びているのは俺も同じであり、息をするにもしんどい状況では口を開くことすらままならない。
 手綱を介したハミの反応からも外に出たがっている事は明白。しかし、同時にそれが本質的な恐怖からではなくただの戸惑いであることも承知している。
 外を回しても勝てるレースだが、将来の事を考えればこそ、こんな所で楽を覚えさせる訳にはいかなかった。
 指先に力を込めて、手綱は頑として譲らない。
 降り注ぐ飛礫の衝撃は確かに強いが、人間の俺でも耐えられる事を考えれば、体重にして十倍近くの身体を有するサラブレッドが心底から音を上げてしまうものではない。ましてやレラは生まれ故郷のクソ田舎で野生のまま育てられた剛の者だ、場内の出来事程度で精神が折れることなど絶対に有り得ない。
 ほんの数秒耐えさせれば落ち着きを取り戻すという確信があった。
「大丈夫か?」
 苦い土を噛みながら声をかけると、ハミをカチリと鳴らして応える。
「上出来だ」
 唇に張り付いた芝を吐き捨てながら前の状況を確認する。
 先頭までは十馬身、そこから三馬身程離れて二番手、更に二馬身離れて二頭が並走、その後に並んだ三頭のケツを眺める形の俺達は八番手。
 第三コーナー手前の坂を上がり切る寸前で右後方から被せるようにサブの馬が上がってきた。更にその外からはクリスも位置を上げており、示し合わせた訳でもあるまいが二頭で外への進路に蓋をされる形になっている。
 コーナー入口の角度を利用して埒沿いの後方を確認すると、四馬身程後ろで俺達を監視するように総司の馬が待機している。
 一〇〇〇メートル通過は六五秒三程度。府中の新馬にしても遅すぎるペースなのだが、にも関わらず有力馬が後方に固まり過ぎている。上位馬がこぞってレラをマークしているのか、或いは来年のクラシック戦線を見据えた乗り役が観察を目的にしているのかも知れない。
 いずれにせよ大欅も間近に迫って残りは八〇〇、そろそろ動き出す頃合いだ。
 外は相変わらずサブとクリスが二重に固めておりこのまま直線まで蓋をして進むつもりだろう。元よりそのつもりも無いが外からかわす道は消されている。
 後方から迫る総司は速度を上げながらも外に持ち出す様子はなく、こちらが仕掛けどころを誤ればコースに先着して進路を塞ぐ魂胆だろう。
 馬の差を騎手の差で埋める――総司の選択はこのレースにおける最適解だ。
 レラの地力の抜け具合からして、他馬がこのレースで勝利を目指すのならば、騎手の差を最大限に活かす選択肢しかなかった。彼等が選び得る唯一の勝ち筋は内に潜り込んで俺達のコースを奪い仕掛けを遅らせる事だった。
 外のサブとクリスに勝ちは無い、注意すべきはリスクを取った総司のみだ。
「前の隙間を抜く」
『隙間なんて無いぞ!』
「すぐに出来る」
 分厚くひしめき合う前三頭のケツは容易に捌ける壁とも見えないが、馬体をピッタリ併せたまま府中Bコースのコーナーを回り切るなどまずもって不可能な芸当だ。近いうちに必ず綻ぶ。
 一瞬の綻びに躊躇わずに飛び込める度胸こそが重要なのであり、レラの将来に与えるべきはその経験だ。
「合図したら躊躇うな、反応遅れると怪我するぞ」
 レラは自らハミを深く取り走る気を見せている。
 大欅を過ぎて第四コーナーに入る。
 コンマ数秒の間隔で徐々に膨れていく前三頭の様がスローモーションで視界に流れ込んでくる。僅かな隙間だがこのままコーナーを回り切る頃には余裕を持って抜けるスペースが出来ているだろう。
 最内から蹄の音が迫ってくる――恐らくは総司、仮柵沿いの最内。先に捻じ込まれれば内の馬が外に振られて隙間が潰れる。
「ここッ!」
 声を出しながら一追いすると、レラは一瞬で風を巻いて速度を上げた。
 内と真ん中の馬の間に空いたギリギリ一頭分の隙間へ、締まりかけた電車の扉に手を入れてこじ開けるようにクビを捻じ込み、外側の馬を弾き飛ばして前へと突き進む。
「大越てめえ!」
 弾かれた馬の騎手の怒声が聞こえたが知った事ではない。隙間を空けたお前が悪い。
 彼の馬、正確には壁となっていた三頭の馬達は、怯んでしまってもう競馬にならないだろう。
 G1クラスの追い込み馬の末脚は周囲に風の音を響かせる。風を裂くような、破裂音に似た何かが確かに聞こえるのだ。
 上がり三十三秒台の音。
 その音を聞いてしまうと並の馬は心が折れる。聞かされると「はいどうぞ」と思わず進路を譲ってしまう。
 レラが馬群に突っ込んだ時も、彼らは抵抗せずむしろ自分達から外に寄って進路を開けた。一瞬にして敵わない事を悟ったのだ。
「気持ち良いだろ」
 レラに語りかけながら四コーナー明けの直線へ向くと、壁となっていた三頭は既に後方へ消えていた。
 右手に持っていたステッキを視界に入る様にチラつかせると、叩いた訳では無くとも火が入る。
 追う必要はなかった。
 一般道を走る他馬に混じってレラだけ鈴鹿でF1をしているようなものだ。
 視線だけスタンドに向ければ、絶叫と歓声が入り混じった興奮が俺達を祝福している。場内実況が「エトゥピリカの夢の続きを」と一際大きな声で叫んでから、レラカムイの名を三度呼んだのが聞こえた。
 坂の中腹で先頭を捉えてもなお、レラの勢いは落ちなかった。消耗を避ける意味でも無理に走って欲しくはないのだが、俺は一切追っていないから馬なりに走ってこれなのだろう。
 上り切る頃にはブッチギリだ。ここまで後続を引き離してしまうと、遊んでしまわないかと不安になる面もあるが、手綱からの手応えは依然として力強さを増している。
 真面目なヤツだなあなんて呑気に考えているうちに、ゴール板は過ぎていた。


 検量室前まで降りて行くとちせと御大が出迎えてくれて、他の馬主達からも雨のような拍手が降って来た。どうにも普段より騒がしい気がしたので、ふとホースプレビューの方を振り返ると、G1レースでも無いのに、満員の観客がガラスに額をくっ付けて手を振っている。
「愛されてるな」
 自分の事のように嬉しくなってレラの首を馬上から撫でてやると、からかわれたとでも思ったのだろうか、面白くなさそうに鼻を鳴らす。
 気難しい小僧の反応に苦笑して、鐙から足を外した時だった。
『半分はお前だぞ』
 人混みの雑音に紛れ込ませるように、レラはぼそりと言った。
 聞き直すよりも先にちせが駆け寄って来て、レラの首を抱き締めた。
 芋とは言え女だから、駆け寄ってくる姿を見た時にほんのちょっと期待した自分が情けなくなる。所詮は芋娘であるからと心中言い聞かせながら鞍を外し、今度こそ俺の方に寄って来てくれたバレットの子に道具を預ける。
「騎乗増やしてくださいね、私のお小遣いの為にも」
 コッチはコッチで見た目は綺麗なのに言う事が現実的である。引きつり笑いで考えておくよと返しながら検量室へ、入る間際に差し出された御大の右手をハイタッチする事も忘れない。
 俺以外の六人は全て検量を終えており雑談しながら待機している。いつものようにやかましいサブと静かな総司が対照的だ。
「お前が割って入ったせいで総司の前塞がったみたいやぞ」
 秤に乗っていると、サブがからかうように小声で言う。
「仕掛け丸解りだったからな、助かったよ」
「言うねえ」
 ぼそぼそと言い合っている間に検量は無事終了、順位で整列して採決委員の確定を待つ。
 一着が俺とレラ、二着はどうやらサブの馬が来たらしい、四着にはコーナーで吹っ飛ばした強面の園田さんがいたので怒鳴られるかとも思ったが、おめでとうと優しく肩を叩かれた。総司は五着、前を塞がれても掲示板に持ってきたのだからやはり人馬とも流石という事だろう。
 採決委員から着順の確定が宣言されるや否や、サブが声を張り上げる。
「凛太朗の復帰祝いや、胴上げする奴この指とまれ!」
 冗談だろうと思ったが、栗東では騎手会の宴会部長を自認するこの男は案外人望がある。あっという間に騎手やら手の空いた関係者が押し寄せて、あれよあれよと言う間も無く神輿の如く表へ引っ張り出された。
「私もやります!」
 レースの興奮が冷めていないのだろうか、騒ぎに反応したちせが勢いよく手を挙げると他の馬主達も面白がって輪に加わる。
 レース直後だというのに勝ち負けなんて忘れた風に、地下馬道に馬鹿笑いが木霊した。