5(ちせ・更新分)

 ふかふかで温かい、気持ちの良い所から、無理やり追い出されるように、目をこじ開けられて、口元のかぴかぴしたよだれを、ジャージの袖で拭う、朝。
 騒音を撒き散らす携帯電話が、とても恨めしい。
 自分で設定した目覚ましなのだから、恨むのは筋違いなのだけれど、疲れを知らない機械にはこの気持ちが解らないのだと、気が付けばつい画面を睨んでしまう。
 睨み付けた画面には、AМ232と表示されている。
 私にとってはちょっと早い朝だけど、世間ではきっと真夜中。
 半分眠ったまま、のそのそと布団から這い出し、ケトルのコンセントを刺し込んでから、台所で顔を洗う。
 パジャマのズボンを床に落として、昨日脱いだジーンズに左足を入れてから、ケンケンパ。机の上に出しっぱなしの食パンを咥えながら、今度は右足を入れて、ケンケンパ。もそもそと口を動かしながら、昨日の夜使ったままのカップに、インスタントのカフェラテをあけて、ケトルがコトコト鳴り始めたらお湯を注ぎ、フーフーと息を吹きかけながら、飲み終わるまで五分くらいかかる。
 それからカップを洗い、歯を磨いて、大体二時五十分に家を出る。
 厩舎までは自転車で十分もかからないから、三時までには作業を始められる。この時期なら他の厩務員さんが出て来る前に雑用を終えられて、みんなが出てくるまでに少しの余裕を作れる。
 そうして時間を作り、レラの馬房でゆっくりする。レラはまだ寝ている時間で、時々立っているけれども、私が行くと膝を畳んでくれるから、彼のお腹を枕にして目をつむる。
 今日も私が行った時にはレラは立っていたけれど、私の顔を見ると、心得たと言わんばかりに膝を畳んで、ぐてんと寝藁に身体を投げ出した。声をかけてくれるわけではないけれども、使っていいよと言ってくれている。
 レラのお腹は温かくて、つやつやしていて、とてもうまくさい。くさいけれども、懐かしい。とても落ち着く、草の匂い。
 だからこうして目をつむる時間は、私にとって何よりも落ち着く。わざわざ他の人より早起きして厩舎に行く理由は何だと考えたら、このくささが第一に浮かぶ程度には心地よい。
 馬は立ったり座ったりしながら眠るから、レラも本当は立ち上がりたいかも知れないけれど、私が頭を乗せている時は、静かに座ったままでいてくれる。
 とても優しい、良い子だ。人の気持ちが解る、賢い子だ。
 競走馬になれなくても、足が遅い子でも、私は馬が好きだ。そんな話を家族にした事があったけれども、その時、おじいちゃんは頭を撫でてくれて、お母さんは微笑んで、お父さんは「向いてないな」と困った風に呟いた。お父さんの特製カレーを食べている時だった。
 レラのお腹でくさいのを嗅いでいると、とりとめもなくそんな記憶が浮かんでくるから、きっと、レラのくささには私の家が残っているのだ。
 とてもあたたかくて、とてもくさい、レラのお腹が、私は好きだ。
 そうして暫くまどろんでいると、お隣の馬房から朝を告げるニワトリみたいな大きな鳴き声が届くから、私はそれを合図に起き上がって馬房の外に出る。
 お隣のスープちゃんを担当している斎藤さんは、おんぼろスクーターで出勤してくる。スクーターは私よりも年上で、本当におんぼろだから、エンジンを旧式の湯沸かし器みたいにぽんぽんと鳴らしながら走る。その音は私が聞いてもそれだと解るくらいに個性的で、スープちゃんはその音で一日が始まる事を知っているから、とても大きな声で鳴く。もしかしたら私に教えてくれているのかも知れない。
 いかにも今まで作業をしていた風に取り繕って、現れた斎藤さんに朝の挨拶をする。おはようございますと頭を下げるけれど、斎藤さんは小さく頷くだけで今日も言葉は無い。
 斎藤さんは、私の事を好きでは無いと思う。本当ならレラの担当は斎藤さんになるはずだったのだから当然だと思う。馬主だから、酷く言うようなことはされないけれども、最低限の言葉以外は交わしてくれない。
 厩務員さんは担当している馬が稼いでくれた賞金の五パーセントを進上金として貰える。厩舎によっては担当が直接貰うのではなく厩舎全員で均等割りにするところもあるらしいけれど、臼田厩舎では担当さんが貰う事になっている。けれども私が押しかけて、実質レラの担当に収まっているから、レラの進上金はそっくりそのまま私のお給料に充てられることとなった。
 斎藤さんの立場を考えれば、いじめられていないだけ有難いのかも知れない。
 そんなだから、無言の圧力を感じることもあるけれど、高校の時に比べればへっちゃらだ。
 黙って作業をしていれば、私は馬主だからひどい事はされないし、怖いことなんて何もない。教科書に落書きをされたり、ジャージを切られたり、机に虫を入れられたり、そういうことをされないのだから、全く気楽だ。
 そう考えると、思い出したくもない高校生活も少しは役に立っているように思えるから、あんな高校でも少しは学校らしい意義があったのだと思えるから、不思議だ。
 考えながら作業をしているうちに、レラが前足を掻き始めて、間を置かずに大越さんが来る。騎手の癖にすっかり厩務員さんみたいになっていて、本職の厩務員さんよりも早い時間に出勤してくる。
「おはよ」
 お互い慣れているから、私も丁寧な挨拶はしない。向こうも適当に私を通り過ぎると、牧場の頃と同じように、まっすぐレラの馬房に行って遊び始める。
 大越さんとレラは、仲が良い。人と馬なのに、ましてや騎手と競走馬なのに仲が良いというのも妙な表現な気がするけれども本当に仲が良い。ウマが合うというヤツなのだろうか、スープちゃん達と違って、レラは大越さんの気配に気付いても出迎えるような素振りはしないけれども、それでもしっかり待っているのが解る。
 たとえば中学の教室、休み時間、一人でぼーっとしている時に友達がやってきたような感じ。大きな声で歓迎はしないけれども、よう、みたいな、そんな感じの迎え方。
 今日も二人で何かお喋りをしている。大越さんは笑っている、レラも何だか楽しそうにしている。あの二人はもしかしたら本当に会話が出来ているのかも知れないと思う。眺めていると、なんとなく、ちくちく、いらいら、するから、視線を外して作業を続ける。
 大越さんは、あれで結構巧いらしい。エージェント契約していないのに、他の厩舎からの依頼がそれなりに来ている。臼田先生が外に出ている時に留守番をしていると、大越さんへの依頼が来ることもままある。
 特にこの前のレラのデビュー戦で勝ってからは数が増えているけれど、全部臼田先生が断っているから、本人はきっと知らない。
 センセイ曰く、大越さんが他の馬に乗るのはまだ早いのだそうだ。
 センセイ曰く、大越さんは騎手に向いていないのだそうだ。
 センセイ曰く、大越凛太朗は唯一代わりがいない騎手なのだそうだ――これは絶対に言うなと口止めされている。
 私には良く解らない。
 エトの時、朝日杯に勝ってクラシック有力候補と言われ始めた頃に、鎬さんのエージェントから乗り替わりを考えないかという話があった。
 おじいちゃんからそれを聞かされた時に、私は大越凛太朗なんていう名前も知らないパッとしない騎手よりも競馬界の王子様みたいな鎬総司さんに乗って欲しいと思って、迷わずそうした方が良いと言ったけれども、おじいちゃんは静かに首を振るだけだった。その時は理由が解らなかったし、実際の所今でも解らないのが本当で、心の底ではやっぱり鎬さんに乗って欲しい気持ちがあるのかも知れない。
 あの日、エトが死んだ菊花賞の夜、エトが夢に出て、レラには大越凛太朗を乗せて欲しいと言った。この上なく流暢な日本語で、はっきりと言った。翌日おじいちゃんに夢の話をしたら、おじいちゃんはまるで同じ夢を見たみたいに、そうだなと頷いた。笑い飛ばしてくれる事を期待して話したのに、ひどく真剣な表情で頷かれてしまったから、私も信じるしかなくなった。
 だから、レラには大越さんが乗っている。
 そして今、大越さんと遊んでいる時のレラを眺めていると、あの夢は、夢だけれども本当で、私に大越さんの事を伝えたかったエトが頑張って出てきたのかも知れないと思う。そうだとすれば、慣れない日本語を話して、エトは本当に頑張ったのだと思う。
 どうしてそんなに頑張ったのかは、やっぱり解らない。
「おい、ちせ。検温」
 ぼーっとしてしまっていたのだろうか、声の方を向くと彼らはすっかり私のことを待っている。体温計を持って駆けて行き、馬栓棒をくぐって馬房の中へ入ると、まだ寝てるんじゃないのか、なんてからかわれる。
「起きてます!」
 大越さんは何かにつけて私を子ども扱いする、デリカシーの無いおじさんだ。
 こういう風にからかわれた時は、レラが大越さんをじっと睨んで威嚇してくれる。大越さんは負けじとレラに何か言い返すけれど、結局はレラが勝つからいい気味だ。
 やり合う彼らを他所にレラのお尻に回り込んで、尾に触れると自分から上げてくれるから、とてもかわいいお尻の穴に体温計をぷすりと射し込む。
 そうして一度あくびするくらいの時間でピピピ。今日の体温は三十七度七分。
「絶好調だね、レラ」
 体温計を抜きとって首にキスすると、レラは大越さんの事なんて放り出して私に頬ずりしてくれる。ちらっと横目で見るとむくれた風なおじさんが一人でぽつんと立っていて、やっぱりちょっといい気味だ。