後ろ手に家の鍵を閉めた途端、腕にかけていたネイビージャケットの重みが急に存在を主張しだした。ずっと意識していたものが我慢できなくなったみたいに溢れ出て、心臓がばっくんばっくんうるさい位に鳴っている。
 鎬さんのジャケット。そう考えるだけで、ぶっちゃけ、とても興奮する。
 ぐへへ、変な笑いが出そうになる。
 突然、自分のことが下着ドロをした変質者に思えて、後ろめたくなる。
 申し訳なくなり、視線が下を向くと、自然腕にかけたジャケットが目に入るから、鎬さんの横顔が思い浮かぶ。
 思い浮かぶと、レラのお腹にするように、顔を押し付けて思いきりにおいを嗅いでみたい欲望が、むらむら、沸き起こる。
 ぐへへ――以下略。
 そんなバカなことを繰り返してしまう。
 周りに誰もいないから、仕方ない。鎬さんのジャケットは本当にいい匂いがするのだ。嗅ぎたくて、嗅ぎたくて、仕方がなかったのを、皆がいるから我慢していたのだ。皆がいなくなったら、仕方ない。そう思う事は、仕方ない。
 実際にやらなければいいのだ。思うだけなら素直なだけだ。行動しなければ変態じゃない。
 言い聞かせるようにしながらきちんとハンガーにかけて、明日クリーニングへ出すことに決めた。そう決めてしまえば何のことは無い。ジャケットのことなんて気にしないでいつも通りに過ごすだけだ。
 そう、いつも通りで良いのだ。
 ……
 お風呂で髪を洗っていたら、毎週日曜日と決めているはずのトリートメントを、レラの尻尾にする時くらい丁寧に、擦り込んでいた。
 身体を洗っていたら脇の下が気になったので、前に大越さんが物真似してたTМナンチャラという人のようなポーズで、十分くらい鏡を眺めていた。
 脇が大丈夫な事に安堵していたら、物足りないおっぱいが目について、前に雑誌で読んだ豊胸体操を何となく始めた。
 途中で少し寒くなったので、湯船に浸かりながら取り組んだ。
 結局、一時間くらいお風呂に入っていた。当然ダントツで自己最長記録。
 ……
 バスタオルで水滴を拭きとりながら、下着を入れた衣装ケースの前で考える。
 洗濯物をしまう時は何も考えずに突っ込んでいるから、手前にあるものから適当に取ると色も柄もバラバラになってしまうのだ。
 考え始めると、良い物を選びたくなるのも、素直な気持ちだ。衣装ケースの箱をひっくり返して、床一面に散らばった下着を組み合わせながら、生まれて初めて下着について考えた。
 すっぽんぽんで、湯気を立てながら。
 ……
 パンツとブラの神経衰弱に没頭している最中、ふと寒気が背中からうなじに沿って這い上がり、特大のくしゃみが飛び出た。
 我に返ると、肌からは湯気ももう立っていなくて、どれだけ時間が経ったのかも解らない。すっかり湯冷めしてしまった現実を突き付けられると、少しもいつも通りに過ごせていないことを認めない訳にいかなくなった。
 どうやら、フケが来てしまったらしい。
 いかにすべきか。
 いかに、と言っても選択肢は単純だ。馬のフケと違って人間は一度スッキリしてしまえば万事解決するのだから【いたして】しまえば良い。
 しかし、今日は【いたす】上でのオプションがあるのだ。
 ハンガーに吊るされたジャケットが、視界から消えてくれない。
 いかに、すべきか。
 ――どうせクリーニングに出すし、大丈夫でしょ。
 ――そんなの下着ドロと同じじゃん。
 ――知っているのは私だけだし、バレないよ。
 ――いくらクリーニングに出しても、そんな物を返されたら、私が下着ドロに同じことされたら、気持ち悪くて死にたくなるよね。
 ――何言ってんだか、鎬さんは捨てても良いと言っていたし、何なら余す事なくいたしてから捨ててしまえば良い。
 ――善意で貸して貰った物を、いくら捨てて良いと言われていても、本当に捨てるのはいかがなものか。
 ――それなら、代わりのジャケットを買ってプレゼントすれば良い。むしろクリーニングに出して返すよりもその方が良識的だ。
 ――そうしたら、このジャケットはどうしようか。
 ――男物のジャケットなんて持っていても仕方ないし、捨てるしかない。
 ――捨ててしまうのは、勿体ない。
 ――確かに、有効活用した方が良い。
 悶々とした脳内会議を繰り広げた結果、満場一致でオプションは加えられることとなった。誰に見咎められる事も無いとは知りつつも、ジャケットを取る手付きは本物の下着ドロのように慎重になっていた。
 ジャケットを抱きかかえながら、ねぐらに籠もるネズミのようにそそくさと布団に潜り込んで、何故か正座。最早下らない倫理や一般常識の一切は頭の中に残っておらず、ここに私は人道を踏破し一つの超人となり得たのだ。
 いざイかん!
 気合を入れてネイビージャケットに顔を突っ込み芳醇な香りを味わうように深呼吸をしようとした、その時――ジャケットが小さく震えて生地の内側から小さな振動音が聞こえた。
 なんと至れり尽くせりなのだろう。まさかバイブレーションまで搭載されたジャケットだったなんて、そこまで機能的なオプションだったなんて、道具を使うのは初めてだから少し緊張してしまう……
 って、そんな訳あるかいと突っ込みながら被っていた布団を跳ね飛ばしたら勢いひっくり返ってしまい、ベッドの角で後頭部を強打した。
 素っ裸の状態で芋虫みたいにベッドの上を転げ回る、下着ドロ未遂者と同類の私。天罰に違いなかった。


 翌朝、いつものように厩舎に行って、いつものようにレラのにおいを嗅いで、いつものように取り繕って作業をしていると、いつものように大越さんが来た。
「おはよ」
 いつものように通り過ぎて行こうとする手をむんずと掴んで引き留める。
 大越さんは眠気が一気に吹き飛んだみたいに、目をぱちくりさせて驚いた。
 私は、懐からブツ取り出して、押し付けるみたいに突き出す。
「何だ急に……携帯がどうかしたのかよ」
 大越さんはぼやきながら受け取って、何の遠慮も無しに操作を始める。
「ジャケットに入ってたんです」
 幸いにしてたんこぶになりはしなかったけれども、あの壮絶な痛みのお陰で来ていたフケも吹き飛んだので、私の行為は未遂に終わった。そのこと自体は喜ぶべきだろう。
「ああ、総司のか」
「やっぱりそうですよね」
「そりゃアイツのジャケットに入ってたならアイツの携帯だろ」
 何当たり前の事聞いてんだよみたいな感じで、大越さんは呆れた顔を隠さずに言う。
「それにしてもアイツ案外アホなんだな、携帯入れたまま貸したのかよ」
「誰にだってうっかり位ありますよ」
「まあ……お前見て動揺してたのかもな」
 朝っぱらからセクハラ発言、しかも私の顔をちらりと見て、ぷぷぷッ、って感じの馬鹿にした笑いを漏らす。このオッサン最低だ。流石に頭に来て携帯をふんだくる様に取り返す。
 大越さんは反省する素振りも見せずにレラの馬房へ入っていったので、私は仕方なく後を追いかける。
「鳴らなかったのか?」
「へ?」
「いや、普通は携帯なくした事に気付いたら鳴らすだろ」
 馬房の中でレラを撫でながら、さも当然という風に大越さんから聞かれると、昨晩の出来事を思い起こして後ろめたさが溢れ出る。
「昨日の夜、何回か鳴りました」
「出なかったのか?」
「急だったし……色々あったから」
 自分でも解るくらいにごにょごにょ口籠ると、大越さんの怪訝な表情がより一層深まった。それを見ていたレラは、大越さんが私をいじめていると勘違いしたのかも知れない、大越さんに身体を押し付けるようにして、じゃれているのだろうか、威嚇しているのだろうか、どちらともつかない。
「やめろって、俺は何もしてねえだろうが」
 楽しそうな大越さんとレラのじゃれ合いを眺めていたら、手にしていた携帯がぶぶぶぶぶぶぶぶ。震えた。
「お、お、お、大越さん! 電話! 電話! 鳴りました!」
「いや、そりゃ電話なんだから鳴るだろ……どうせ総司だろうし、出てやれよ」
「でも、でも!」
「あー、もういいよ、貸せ」
 大越さんは面倒臭そうに馬栓棒をくぐると私から携帯を取り、何でもない風に通話を取った。
「おー、どうも、おはよーさん、そう、大越……いや、ちせが気付いた。レラの馬主だよ、昨日いただろ、そうそれ。うん、うん、あー、そうか、へー……」
 大越さんはちらと私を見て、指で携帯電話を指しながら、代わろうか? とジェスチャーする。私は殆ど反射的に首を振る。代わっても満足に話せる気がしないし、昨日の後ろめたさが爆発してとんでもないことを言い出しかねない。
「……へえ、ならアマツヒの最終追い切り明日にズレたんだな? そりゃ丁度いいや……いや、こっちの話だよ。ちょっと待ってろ」
 大越さんは通話口を指で押さえると、私の方に向いた。
「お前今週暇だよな?」
「いや、レラの世話が」
「レラの世話以外は事務とかもないよな?」
「それは無いです、今週は出走予定も無いですし」
 大越さんは小さく頷くと指を外して通話を再開した。
「……ああ、待たせたな。携帯無いと不便だろ、そっち届ける。調教終わってからだから昼過ぎに出るけど、まあ夕方には手元に届くだろ……いや、流石に俺は行かねえよ面倒臭え、ちせが行くから」
「え?」
「良いから……あ、スマン、コッチの話。大丈夫だよ、コイツにとっても社会勉強になるしな。その代わり栗東の案内してやってくれよ……そうだな、多分北海道から出た事ねえし、京都駅まで迎えに来てくれ。ああ、ホテルとかその辺もお前やっといて……いや、普通は泊まるだろ。京都まで呼びつけておいて一日で帰すワケ? そりゃあいくら何でもひどいんじゃないの?」
 勝手に話を進める大越さんに、私はあわあわするより無かった。あわあわ手を宙に彷徨わせているうちに大越さんは全部終えてしまって、ぶつりと通話を切った。
「じゃ、そういう事だから」
 あとはよろしく、なんて鼻歌みたいに軽い口調で言いながら私の手に携帯をポンと戻し、また馬房の中に入ってレラと遊び始める。
 見かねたらしい斎藤さんが声をかけてくれるまで、私の時間は止まったままだった。