トレセン入口のゲート脇には見上げるような馬の銅像が立っていて、美浦ではあまり感じない重厚そうな雰囲気に気圧されかけていると、鎬さんがとある馬名を口にした。ファンであれば誰でも知っている三冠馬だ。
「実物大なんやって」
「そう聞くと乗ってみたくなりますね」
「小さい頃なんかはゲート通る度によじ登ってたらしい。覚えてへんのやけど、親によー言われる」
「鎬さんはずっとここ?」
「先祖代々栗東市民。町と言うたら栗東か白井か、生粋の田舎モンですわ」
「総一郎先生の事は勿論知ってますけど、先祖代々って?」
「ひひ爺さんからこの稼業、厩舎としてはオヤジで四代目になるんかな」
「へえ、そうなんですか」
 感心して唸ったら、鎬さんは悪戯っぽく笑いながら、
「ウチの家この業界じゃ結構有名なはずやけど、モグリやな」
「自分で言うんですね」
「ま、言われるより楽やし」
 淡々と返す口ぶりも、恥ずかしそうな笑顔にも、爽やかさすら覚える諦観が滲んでいる。褒められるのに飽きて面倒になった人の表情だ。
「外様の零細牧場ですから、世間知らずなんですよ」
 面倒臭くなって社交辞令を一切省いて返してみたら、一瞬目を点にしてから浮かべた笑顔が本当に無邪気で幼くて、こちらの毒気が抜けてしまうくらいに、私よりも年下に見える。
 ゲートをくぐり美浦よりも数倍は綺麗な厩舎が立ち並ぶ栗東トレセンに圧倒されること数分ほど、車は目的地の藤井厩舎へと辿り着いた。鎬さんの後に着いて、まずは馬房で作業をしている厩務員さん達に挨拶をしてから、事務所の応接室へ通される。
「お茶用意してくるから、取りあえず座ってて」
「はーい」
 ソファに腰を下ろしてからそれとなく辺りを見渡すと、そこかしこに当たり前のように優勝トロフィーが飾られている。まず目に入ったのは鎬さんのレイカウントが勝ったついこの間の宝塚記念。その隣にあるのはリーサルオサルが勝った今年のフェブラリーステークス、その隣は……と言った具合に、眺めているだけで圧倒される程の、ここにないG1トロフィーを探す方が難しいのではないかというラインナップだ。臼田先生もエトがそれなりに立派な物を持ち帰ったはずなのだけれども、センセイは丁寧に応接室に飾ってみせたりしないから、幸か不幸か、こういう威圧感は出ていない。
「――なかなか凄いやろ」
 声に視線を向けると、お盆を抱えた鎬さんが立っている。
「藤井先生、この時間はシガラキ行っとるんよ」
「シガラキ?」
 私が問い返すと、今度こそ鎬さんは呆れた表情を隠さなかった。
「宮代さんの所の育成牧場だよ、知らないの?」
「外様の零細なんですってば」
「驚いた、今の時代に知らない人がいるんだ……ほら、俗に言う外厩ってヤツ。普段はトレセンじゃなくファームで調教して、レース前だけ入厩するの」
「はあ?」
「トレセンって、どうしても馬にはストレスあるやろ? 極端な話だけど牧場にトレセン並の調教設備があればその方が馬にとっては良い環境やん」
「まあ、そうでしょうけど」
 調教設備と簡単に言うけれども、鎬さんは牧場の現実を解っていないのではなかろうか。私の家の牧場にも一応レースコースのようなものはあったけれども、当然トレセンの設備とは比べ物にならない、一周1000メートルぽっちのただの柵だ。それにしたって、お爺ちゃんとかお父さんとかが山から材木を採って来て必死になって補修してきたものであって、とどのつまり、トレセンにあるような坂とか、プールとか、ダートとか、綺麗な芝とか、ポリトラとか、そんなものを牧場に用意できるはずが無いのだ。
「信じられんって顔しとるけど、ほんまやで。現状栗東で出来る事は全部シガラキでやれてしまうもの、坂路とかはむしろあっちの方が立派なもんあるわ」
「ってことは、藤井先生はそこで追い切りしに行かれたんですか?」
「当たらずとも遠からずやけど、競馬会の規則で直前の追い切りはトレセンでしかやれないから……ってか君、馬主やのにほんとに何も知らんのな」
「はあ……まあ、外様の零細ですから」
 しかし世の中には凄い設備があるものだ。臼田厩舎で暮らしているとそんな場所があるなどとは夢にも思わなかったけれども、こうして話を聞いてみるとそんな施設があるのならば使わない手は無いと思う。
「でも、それならなんでわざわざ藤井先生が行くんです? 追い切れないなら別の日に行けばいいじゃないですか」
「いや、藤井先生の場合はホンマに日課なのよ。毎日シガラキ通っとるの」
「家が信楽にあるんですか?」
 大真面目に聞いたつもりだったのに、よほどに間抜けな質問だったのだろう、鎬さんは力が抜けた風に笑った。
「自分の預かってる馬の様子を見に行ってるの。宮代さんの馬はレース前以外はシガラキにおるから」
 鎬さんは当たり前のように言ったけれども私の首はますます傾く。初めから栗東じゃなくてシガラキに厩舎を構えれば良いんじゃないかしら、なんて感想が浮かんだ。