それからしばらくとりとめもない世間話を続けるうちに、うちの牧場の話になり、栗東にいるはずのクーの話題が出ると、鎬さんから意外な言葉が漏れた。
「スギノホウショウやったら次走僕が乗るわ」
 そう聞いた私は、嬉しいのは半分くらいで、どうして鎬さんが乗ってくれるのかという疑問が半分。クーはこれまで六戦して一度も勝てておらず、未勝利戦が終わってしまったこれからは格上挑戦するしかない。当然、勝てる見込みは他の馬よりも低いだろう。鎬さんクラスの騎手ならばもう少し有力な他馬を選ぶのが自然なはずだ。
「ありがたいですけど、何で?」
「馬主の、杉山さんからどうしてもって頼まれて、鞍も空いてたし」
「杉山さんに御礼しないとですね」
 牧場は閉めてしまったけれども、付き合いのあった馬主さんには年賀状位は出さなければなあなどと考えていると、鎬さんは溜息を隠さずに呟いた。
「僕が乗ったからってどうなる訳じゃないし、なんか餞別みたいで、こういう依頼のされ方って嫌なんだけどね」
「餞別……ですか?」
「次勝てなかったら少なくとも中央は引退だって。地方の馬主さんに声かけるとは言ってたけど……そういうのって、餞別みたいじゃん。やれるだけの事はやったって、言い訳作りみたいじゃん。あんまり露骨だと、やっぱり困るよ」
 鎬さんはボヤくような口調で語り終えると、一際大きな動作でソファの背もたれに身を投げ出した。経緯はどうあれ、鎬さんがクーに乗ってくれるなら私としては有難いので複雑な気持ちで苦笑していると、ちょうどそのタイミングで藤井先生が帰ってきた。
「おお、お客さんか。こんちわ」
 気さくな挨拶と一緒に、無造作に手を差し出されたので慌ててしまい、大仰に両手で握り返してしまう。その様がおかしかったのだろう、藤井先生は破顔して鎬さんへと向き直り、
「なんやソウ、お前やっと彼女出来たんか」
言われた側が顔から火を噴きそうになった。からかっているとは解っていても生理的な反応だから仕方がないのだ。
「何言うとるんですか、カムイの馬主さんですわ。アマツヒ見に来るてちゃんと言うたでしょ」
 呆れた風に、平然と返している鎬さんが、却って少し寂しかったりする。
「洒落や、洒落」
 藤井先生は私の手を両手で握り返すと、まるで子供と遊ぶ時のように、ぶんぶんと上下に揺すりながらじっと私の顔を覗き込み、へえ、へえ、二回呟いた。馬の様子を見るような観察の仕方だったけれども、決して嫌な感じではない。
 やがて、揺すっていた手を止めるとそっと頭を下げた。
「この後野暮用でまた出なあかんのやけど、ゆっくりしてってください。明日の調教も好きなだけ見て行って貰って構いませんから」
「ありがとうございます」
 ここまで歓迎されると思っていなかったので、戸惑いながら頭を下げ返すと、藤井先生は遠慮がちにこう続けた。
「それから、もしお時間があるなら総一郎さんの所も顔出して頂けませんか?」
「鎬総一郎先生ですか?」
「ええ。こいつの親父で、私にとっても兄弟子で……私ら二人とも茂尻さんのところの、カンナカムイ号とご縁があったんです」
 初めて聞く話だったので鎬さんに視線を向けてみると、目を合った彼も首を振っているから、どうやら知らなかったらしい。狭い世界だけれどもこうして聞くと奇妙な縁に感じられ、私の方も自然と興味が沸いていた。
「後でお願いしても良いですか?」
 流石に厚かましい気がして内心では恐る恐るのお願いだったけれども、彼は意外なほどにあっさりと頷いてくれた。どうやら親子の仲は悪く無いらしい。

 そうして連れて行って貰った彼の家は、トレセン居住区の一角にある、何の変哲もない普通の家だった。古い立派な門がある訳でも無く、かと言って吹けば飛ぶようなトタン小屋でももちろん無い、普通の一軒家。
「ただいまー」
 鎬さんはごく当たり前な風に、チャイムすら押さずに家の戸を開けたので、私は恐る恐るその後に着いて入った。今でも実家暮らしをしているらしいから、彼にとっては普通の帰宅なのである。
 居間に通され、促されるままソファに座っても、落ち着かない。家の中には誰もいないのだろうか、静けさに却って不安があおられる。
「緊張しとるん?」
 よほど妙な動きをしていたのだろうか、からかうように鎬さんは言った。
「それはそうでしょ、いきなりお邪魔するんですし」
「取って食う訳やなし、大丈夫やろ」
「そもそも、私友達の家とか行った記憶が無いんですよ」
「嘘やろ、マジか」
「だって隣の家まで五キロとかあるんだから、気軽に遊びになんて行けないよ」
「さすが馬産地出身」
「北海道舐めてたら死にますよ」
「ちなみに、ウチの隣は国彦さんの実家やで」
「国彦さんって、騎手会会長の笹山騎手ですか?」
「うん、あの人の家もずっと栗東。尤もご本人はもう住んどらんし、最近じゃ京都とかに家持ってる人間も増えたからね……と、せや!」
 鎬さんは不意に思い出したように立ち上がるとドタドタと音を立ててどこかへ走って行き、また数分と経たずに、またドタドタと音を立てて戻ってきた。
 手には数冊のアルバムを抱えている。
「写真ですか?」
「じーちゃんがカメラに凝ってたから、今時こんなんが段ボール一杯あんねや」
 鎬さんは悪戯っぽい笑顔を見せながらページをめくると、病院でお母さんに抱えられている赤ちゃんだった。
「これは僕が生まれた時」
「はあ」
「これ、脇に立っとるのが親父」
「あー、本当だ、競馬中継で見た事ある」
「んで、こっちのページが僕の世話をしとる国彦さん、当時は若手騎手」
「ホントだ、凄い」
「コッチはトレセンの夏祭りかな……ほら、サブさんおる、大越さんの同期の」
「あー、あのうるさい人、本当だ」
「ホンマ当時からクッソうるさかったわ、あの人も栗東出身……あ、コースケやんコイツ。吉岡康介って解る? 栗東の騎手で僕の一つ下やねんけど、小中一緒に通っとったの」
「皆知り合いなんだ」
「……で、こっちのページ、これ、僕と親父。乗っとるのその年のオークス馬、親父のお手馬やったんよ」
「え、ほんとに?」
「ほんま。調教師の先生が縁起が良いから言うて乗せてくれたんやと」
「コッチ僕二歳、これその年の有馬の勝ち馬……コッチ僕五歳、これその年の菊花賞馬……コッチ僕七歳でその年のスプリンターズステークス勝ち馬――」
「七歳にして既に風格ありますね、騎乗姿勢が素人じゃない」
「本格的に乗馬始めたのは小学生入ってからやけど、馬は毎日乗せて貰ってたからね。写真があるのはじいちゃんの気が向いた時だけ」
「凄いですね、このアルバム。ちょっとしたお宝画像ですよ」
「せやろ? 競馬関係者にこれ見せると、大抵皆喜んでくれんねや」
 ニコニコしながら写真を解説してくれる鎬さんは、自慢気だけれどもイヤミには感じなかった。たとえば小さな子供が自分の宝物を見せてあげている時のような、裏表のない自然さ、そういう可愛らしさがあった。
 この人は、騎手や、厩舎の人間や、馬主や、競馬記者なんかがひっきりなしに訪れる家で育ったから、そうした大人たちと関わる中で彼らに喜ばれる立ち振る舞いを学んだのだろう。それはきっと小さい頃からの、積み重ねたつもりも無いくらいの、彼にとっては生活そのものだったのだろう。そうして、彼は競馬に必要とされる技術の中でもおよそ最上のものを、周囲の人間から自然と教え込まれたのだろう。
 鎬総司という人間がある種の宿命を背負って生まれてきた事に気付かされると、目の前の青年の無邪気さは、同時に途方も無く恐ろしいものに感じられるようになった。それは彼が、私やレラにとって打ち勝たなければならない敵として存在しているからなのだろう。
 私たちが倒そうとしている相手は競馬界に望まれた英雄なのだ。