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 奇妙奇天烈にして摩訶不思議、奇想天外四捨五入と続きそうな体験をしてから一時間と少しだろうか、何故か俺は栗毛の馬の上にいた。
『チセが言うから乗せてやったんだからな、忘れるなよ』
 口の悪い栗毛は鞍上の俺に言う。頭が痛いを通り越してやっぱり俺は無事に死ねていて――この表現もどうかと思うが――ここはあの世の地獄とやらじゃないかとふと思う。動物を虐待したヤツは何とか地獄に落ちるらしいから、俺は馬に鞭を入れすぎてやっぱりその何とか地獄に落ちたのかも知れない。
「一周千メートルのミニコースですから、本物の騎手さんには物足りないかも知れませんが」
 遠慮がちに追い調教用の鞭を差し出す芋臭い少女から受け取りながら、
「俺、疲れてんのかな?」
尋ねてみると、
「顔色は良いですよ?」
コイツはコイツですっとぼけた女だ。茂尻ちせ(もしりちせ)、年は十七歳らしいが学校には行っていないらしい。そのせいかひどく芋臭い。三食ジャガイモ食ってんじゃないかとかそんな次元でとにかく芋い。
「一応タイムは取ってみますが初めてなので……失敗したらすみません」
 俺と目線を合わせないのは案外都会からやって来た割かしイケメンな俺に照れているのかもしれないとか思っていると、
『オイクソガイジ、チセに色目使うなやボケ殺すぞ』
栗毛からの暴言が飛んでくる。
「どうでも良いさ、どうせ大したモンは出ない」
 糞馬への当てつけをちせへの言葉に紛らせてスタート地点へ手綱をやった。

 返しがてらキャンターでスタート地点に辿り着いても未だに実感は沸かない。何故俺は取り立てて馬産地でも無い北の果ての北海道のそのまた果ての辺鄙な牧場で馬に乗っているのだろう。
 ゴール地点は現在地の反対側、要するに千メートルのコースを一周半、だから距離は一五〇〇。
「レース形式で走ったことあんのか?」
『あるに決まってんだろ、舐めてんのかお前』
「人乗せてって意味だボケ、あの芋娘が馬に乗れるかよ」
 冬の入り口になるこの時期の一歳馬だ、ちせ本人も騎乗馴致は順調に終えていると語ったからこそ俺も乗った。実際馬具の類にはしっかり慣れているようで、鞍を付けても嫌がらないのだから口の悪さとは裏腹に案外頭も良いのだろう。――だが。
「あの芋娘以外に人いるのか?」
 ざっと見ただけだが牧場の規模は本当に小さかった。見かけた馬は牧柵の中にいたうだつの上がらそうな二頭とこの糞栗毛だけ、それどころかここに来てから数時間で出会った人間はあの少女だけとくれば自然と零細具合もしれようというもの。仮にちせに乗馬技術があったとしても、本格的な騎乗訓練までは手が回るはずが無い。
『人はちゃんといる! ……でも、ねえよ』
 面白くなさそうな雰囲気は隠していないが、この時だけは素直に本当の事を答えたようだ。
「まあいいさ」
 だから俺も敢えて突っ込まずに流してやった。
 何も実家の貧乏ぶりを恥じる糞馬に気を遣ってやった訳ではない。
 初めてでこれだけ堂々と人を乗せることに素直な驚きがあった。ムカつくから表には出さないが、頭が良いなんてレベルじゃない。そもそもからして人間と会話が成立する時点で知能レベルヤバい気がするけど。
「走りゃ全部解る」
 向こう正面のちせが手を挙げたのを見てから、それを合図に軽く追うと糞栗毛は勢いよく飛び出した。生意気な態度とは裏腹に走る気持ちはあるらしい。
 のどかな牧場の樹木が線を引いて流れていく速度の視界で懐かしさを感じた。柔らかな羽が頬を撫でるような、そんな風が吹いていた。

 一つコーナーを曲がり終えるまでもなく、ハミ受けが良い事には気が付いた。よほど丁寧な馴致をされたのだろう。ズブな古馬などよりよほど敏感にこちらの意図を把握しているように感じる。が、それは裏を返せば丁寧に乗れという事でもある。性格についてはクソ・オブ・クソ、紛れもないそびえたつ糞である本馬だが、意外にも繊細な扱いを要求してきた。そもそも馬に性格があるのかはさておき。
 テンの三ハロンは馬なりに走らせて15.8、14.5、14.3と言った所か。一歳馬など乗った事が無いから基準も良く解らないが気持ち良く走らせているだけでそれなりの風格は感じる。
「やるじゃん」
 漏らしてしまった呟きだったが、馬の耳は念仏以外よく聞こえるのだろうか、
『この程度でかよ』
ドヤ顔してそうなのがまたムカつく口調だ。
 だが、良いと思ったのは本当だった。スピード云々は比較対象を知らないから言いようが無いが、それ以上に乗り心地が良かった。感傷に浸るつもりなど無くとも目頭が熱くなってしまう程に、コイツの歩行は似過ぎていた。
 スピードに優れた馬の鋭いそれとも、パワーに溢れる馬の大地を揺らすような迫力のそれとも違う。強いて言うなら柔らかいのに力強い、穏やかなのに研ぎ澄まされている、そういう風が吹いていた。
 一〇〇〇mの通過は一分七秒少し、レースに出られるレベルではあるまい。
 それでも聞いてしまう。
「ラスト、少し追ってみても良いか?」
『唯の重りかお前は、その為に乗せてんだ』
 騎手としてまだまだキャリアは短いが、馬にこんな質問をしたのは初めてだった。きっとキャリアが長くてもこんな質問をした騎手はいないだろう。返事を得た瞬間に妙な興奮を覚えてしまう。
「軽めに打つけど、それなりに覚悟しろよ」
 最後のコーナーに入る直前、返事は待たず、力を抑えて尻鞭を打った。
 それは撃鉄だ、一発で火が入る。
 歩行が変わり全身の筋肉が凝縮して大地に深く沈み込む。この瞬間のサラブレッドは肉体のエネルギー全てを火薬にした弾丸だ。肌を叩いていた激しい風を弾き返しながら、空気の壁をぶち破って彗星のようにどこまでも加速する。
 この糞栗毛の走りは、金色の彗星と一つになっていたあの瞬間を、どうしようもなく俺に思い起こさせた。
 手綱を軽くしごきながら目から一筋涙が零れて、きっと首筋に落ちたのだろう。
『泣いてんじゃねえよ、キショッ』
 感傷も無くクソ馬が言う。
「うるせえ馬鹿野郎」
 我ながらダサい事は俺だって知っている。
 ラストを計る事などすっかり忘れてしまった。