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 タブレットにはエクセルのシートが表示されており、有力と目される二歳馬の馬名、馬主名義、所属厩舎と主戦騎手等の情報が一覧になっていた。その中でも特に目を引いたのは表のいちばん右端の項目、全馬の次走予定が調べ上げられているのだ。
「――大越さんから言われた馬が黄色のセル、自分の方で気になった馬が薄い青のヤツですね」
 心なしドヤ顔で胸を張る蓬田さんだったけれども、臼田先生は一言も発する事なくタブレットを毟り取った。
「すまんな、助かったよ」
 大越さんが拝み手で詫びるようにしながら言う。引きつった表情を隠しきれていなかったけれど、蓬田さんは臼田先生の対応なんて一つも気にした風ではない。
「色んな人と繋がり作れましたから、お礼を言うのはこちらですよ。僕からもレラカムイの情報を出させて貰えて、そのおかげです」
「構わん、話して良い事しか教えてない」
 ようやく口を開いた臼田先生はその一言だったけれど、蓬田さんはようやく得られた反応に安堵したのか、笑顔で返している。
 その様子を見た大越さんは、落ち着いた風に息を一つ置き、音を立ててお茶をすすってから、口を開いた。
「で……一応聞いておくが、信頼して良いんだな?」
「全て想定班の担当者から直接聞いています」
「この数じゃ大変だったろ、無理させたな」
「それが、そうでも無かったんですよ。レラカムイの情報を知りたいっていう理由であちらから接触してきたケースも多くて」
「レラの?」
「来年のクラシック有力候補、少なくともアマツヒとの二強ムードは全員一致するところで所属は謎多き臼田厩舎ですからね。情報価値が高騰してます」
 謎多き臼田厩舎と蓬田さんが評した所で私はプッと吹き出して、大越さんは頭を抱えた。好んで謎を提供している訳ではないのだけれど、主に臼田先生の性格上の問題から、担当記者さんが深入りしてこないから情報が出て行かないという訳だ。要するに、競馬サークルから浮いてしまっているのである。
「蓬田さん的には良かったですね、隙間産業」
 茶化すように言ってみると大越さんはそれしかできない風な呆れ笑い、蓬田さんは照れた風に頭を掻いて、当の臼田先生は気付かないフリだろうか、タブレットと延々にらめっこを続けており、こちらの話に入ってくる素振りはない。
「でも、他馬の次走調べてどうするんですか? 確かに参考にはなりますけど、レラのローテを変えるつもりも無いんでしょう?」
「相手の状況が見えればこっちも多少準備が出来る。例えば、さっきも言ったが宮代グループの馬は基本的に連携して動く、とすれば同じレースにどれだけ宮代の馬が出て来るかというのは当然把握しておくべき情報だろ」
「へえ、大越さん騎手っぽい事も言えるんですね」
「喧嘩売ってんのかお前……ともかく、宮代以外の連中も含めて、周りがどう動くかを見て当日までの動きやレースの組み立てを考える。競馬ってのは一日でやるもんじゃねえんだよ」
 さっきまでの冴えないおじさんは影を潜めて、競馬場で見た、ジョッキーの大越さんがそこにはいて、レラに乗って貰える事を有難く思えるような説得力を持った言葉だった。
 そうして話をしているうちに、タブレットを睨んでいた臼田先生がようやく顔を上げた。その視線はまっすぐに蓬田さんへ向いている。
「さっきの件、タナトラは何と言ったんだ」
「系列馬への指示は全て宮代明が大本だと明言しました。更に言えば、裏では勝った騎手にアマツヒの主戦権利を与えるというお触れまで出ていたようです」
「つまり、何だ……宮代明本人が手前の馬をマークしろって指示を直系クラブに出したってのか?」
 臼田先生からの問いかけに蓬田さんはハッキリと頷いた。つまり宮代明さんは共闘するどころか却って自分の持ち馬に不利な指示を出したという事になる。大越さんも、滅多に狼狽えない臼田先生ですら、この時ばかりは戸惑っている様子がありありと解った。もしかするとこの場で一番冷静なのは一番素人な私かも知れない。それ位に競馬の常識から外れた行為なのだ。
「ここからは推測ですが、クラブ会員からの雑音を黙らせたかったんじゃないでしょうか」
「手前の顧客を?」
「あれだけの素質馬をクラブへ回さずに個人で所有したんですから、会員からはそれなりに不満の声が出ているはずです。これから先も勝ち続ければ声は更に大きくなる」
「集金箱の弊害だな。馬にとっても得が無い」
「レラカムイのような例外はともかく、宮代ファームのように巨大な事業体では金の回りが一度滞るだけで甚大な被害が出ます。【クラブに出てくる馬は所詮宮代明のお眼鏡に適わなかった馬だ】なんて評判が囁かれる事になれば、それこそ死活問題のはずです」
「だからこそ新馬戦の時点で格の違いを見せつけたかった、と?」
「批判に晒される事は既に前提だとして、抱かせた期待を大舞台で裏切るより早いうちに意思を萎えさせた方が少ない被害で済む。そういう考えでしょう」
 推測とはしているけれどそれなりの確証があって話しているのかも知れない、答える蓬田さんの声からは固い芯を感じる。
 蓬田さんの分析が終わると、それまでじっと考え込んでいた大越さんが口を開いた。
「宮代明はそうしたリスクを取ってでもアマツヒを個人の所有にした。そこには確固とした意志がある……そういうことだな?」
 蓬田さんは大越さんの言葉に深く頷いて、言った。
「凱旋門です」
 声の後で、ほんの少し静寂が生まれた。
 誰だろう、小さく息を吐く音がして、それを掻き消すように臼田先生が一際大きく煙草の煙を吐き出す。
「賞金の事を考えれば国内で走った方が稼げるんだから、名誉の為だけに海外へ持って行くというのは投資家にとって納得できる話じゃない」
「……だが、ホースマンにとってはそうではない」
 臼田先生が呟くように言った。心なし普段より柔らかい声色に聞こえた。
「取ったリスクの大きさを考えれば宮代明の本気度も自明、このマークはその覚悟の証明ということでしょう」
 蓬田さんは、画面に映る停止したレース映像を指しながら言い、全員の視線がそちらに向くと、
「とはいえ、個人的にはそれほど強いとも思えないんですけどね、正直な話」
敢えてそうしている風な、軽い口調でそう続けた。場を盛り上げようとしたのかも知れない。
 ふと、画面の中でレースが動き出した。リモコンを手にしていた大越さんを見ると険しい表情をしている。淀の坂を眺めていたら、不意にエトの事を思い出したから、きっと大越さんもそうなのかも知れない。
「何故そう思う?」
 大越さんは蓬田さんに尋ねた。画面の中のアマツヒ君は囲まれたまま下りに入ると、徐々に解れ始めた馬混みからするりと抜け出し、四角を出る頃には前を逃げていた馬を余裕綽々で捉えていた。
 鞍上の鎬さんは何かする素振りも見せない。
「時計も、着差も、大したことありませんから。レラカムイは今日の東スポ杯も大差で千切っているのにアマツヒは不利があったとは言え新馬戦でどうにか二馬身差、比較して考えれば強いのはレラカムイですよ」
 東スポ杯は二歳の重賞としては高い位置付けにあるレースだ。結果が今後の成績に直結すると言われていて、歴代の勝ち馬は必ずG1ホースになっている。そのレースを、レラは今日圧勝した。
「時計や着差に意味を求めるのは人間だけだ、馬は陸上選手じゃないからな」
 大越さんは冷めた風に言った。
 アマツヒ君は後ろを二馬身ほど引き離して淡々と走っている。二番手は入れ替わったけれどもアマツヒ君との差は一向に縮まる風ではない。鎬さんは何もしていないのに、まるで相手の速度に合わせて走っているみたいに距離が変わらない。これから先何千メートル走っても変わらないような気がする、そんな二馬身差だ。
 そうして、何の盛り上がりも無いまま最後の直線は過ぎて行き、二馬身差を保ったままアマツヒ君はゴール板を駆け抜けた。
「狩られない為に走るんであって、新記録を出したいとか、大差でゴール板を走り抜けたいとか、馬にはそんな感覚無いんだよ」
 ゴールを過ぎて、必死になって追いすがった後続馬は一様に疲れ切った様子であるのに、アマツヒ君は平然としている。鞍上の鎬さんも、結局最後まで何もしていなかったから、アマツヒ君にとって今のレースはレースでも何でもなかったのかも知れないと、私はふと思った。
「すみません、どういう意味でしょうか?」
 大越さんのナゾナゾみたいな発言に、蓬田さんははてなマークを浮かべた風な表情で問い返している。
 私は、蓬田さんが解らない事なのに、珍しく解ってしまった。
「この程度でも勝てるから、この程度で走った」
 意図せず漏れた言葉に、大越さんがこちらを見た。
「そういう所は解ってんだよな」
 バカにした口調はともかく、珍しく、褒めてくれたらしい。
「レラは速いがコイツは強い。どっちが勝つかは、実際にレースしてみないと解らないってのが本音かな」
 大越さんはそんな風に言った。今までの大越さんなら勝つと即座に言い切りそうなものだけれども、実際にレース映像を見て考えが変わったのか、大きなレースを勝ったばかりだというのに湿気てしまっている。
「次走、コイツもホープフルなんだろ」
 蓬田さんのタブレットを操りながら言う。
「一応聞いておきますけど、ローテ変える気は無いんですよね?」
 当然、質問の先は私ではなく臼田先生だ。
「変えん、どうせいずれは当たる」
 臼田先生も強敵だとは認識しているのだろう。普段ならば鉄拳が飛び出しても不思議ではなかった。
「自信、無いですか?」
 私は何となく尋ねた。誰よりもレラの事を信頼している大越さんがここまで弱気になる理由が純粋に気になったのだ。
 大越さんは、私の問いにちょっと言葉に詰まった風になったけれども、お茶を一口含んでから、ゆっくりと答えた。
「俺じゃなくて、レラの話だよ」
「レラの自信が足りない?」
 大越さんは笑いながら首を振る。
「アイツは加減が出来ない、絶対に勝とうとするから、相手が強ければ強い程アイツも速くなっちまう。今日勝って賞金は十分だし、二歳のG1なんて無理してまで狙うもんじゃないと思ってさ」
 いじくっていたタブレットを蓬田さんに返しながら、
「あんま厳しいレースさせたくねえんだよ」
そんな風に呟いた。

 臨時ミーティングを終えて家に帰り、シャワーを浴びてから一息吐いていたところで携帯が震えた。ディスプレイには鎬総司と表示されている。
 慌てて声が裏返る事が無いように、深呼吸してから応じるのも少しは慣れた。
『こんばんはー』
「こんばんは」
『鎬ですー』
「知ってますよ」
『さよかー』
「なんですかそれ」
『いや、おもろいかと思って』
 ケタケタと無邪気な笑い声が届くと、ほっとする。声を聴いていると、緊張もするけれどそれ以上に落ち着くのだ。
『今日はおめでとうございました』
「ご丁寧にありがとうございます。そちらも昨日はおめでとうございました」
『これはこれはご丁寧に』
 いかにも馬鹿丁寧な返答をするから、きっと電話の向こうでは大袈裟に頭でも下げてみせているのだろうか。そういうコミカルな所も自然と浮かぶようになってきた。
「さっきまでアマツヒ君の話してたんですよ」
『ん……あ、そうか。次、会うもんね』
「コッチは優先出走権取ってますけど、そっちはまだ解らないでしょう」
『あのレースは毎年フルゲートにならんし、登録料払えば出られるやろ』
「随分余裕ですね」
『そら新馬戦でそれだけのモン見せたもん。コッチが出るって言えば朝日杯かシンザン記念に回ると思うよ。どうせなら勝ち目あるレースに出したいやん』
 悪意なんて欠片も見せずに総司さんは平然と言い、通話の相手が【勝ち目のないレース】に馬を出す馬主である事なんかすっかり忘れている風だ。
『僕、最近楽しくて、幸せでたまらんのや。あの馬に乗れると思うと、毎日が楽しくてしゃーない。明日もシガラキに行って様子見て来んねん』
 それから総司さんはアマツヒ君の話を延々と語り始めた。自分の宝物を自慢する子供みたいで微笑ましく思う部分もあったけれど、延々話を聞いていると、お腹の底がムズムズして、凄く意地悪な気持ちが湧いた。こういう人をレラが打ち負かしたら、きっと、凄く気持ちが良いだろうと思った。レラと大越さんに負けて、ボロボロになって、鼻水と涙にまみれにてしまった総司さんを想像すると、捨てられた子犬に抱くような愛おしさが溢れて、それだけで、率直に表現するならば、濡れそうになる。
 想像するだけで、ゾクゾクして、たまらない。
「一つ、賭けません?」
 競馬法とか、本当はよろしく無いのかもしれないけど、知った事ではない。
『何を?』
「もしレラが勝ったら、ご飯を奢らせて頂けませんか?」
 精一杯総司さんが悲しくなるような提案をしてみたくて、そんな事を言った。レラが勝ったら、負けて悔し涙を堪える、この素敵で純粋な天才を眺めながら、一緒にご飯を食べられる。それはきっと、とても気持ちが良いことだ。
『はあ、それは構わんけど。折角会うんやし、僕もご飯は一緒に食べたいし』
「八百長なんかしちゃ駄目ですよ、絶対に」
 総司さんのとぼけた反応に、内心でケタケタと笑いながら言ってやる。
 ところが、返ってきた言葉は想定を超えていた。
『そんなん絶対せんよ。せやから、アマツヒが勝ったら僕に奢らせてや。そうすれば一緒にご飯食べられるやろ?』
 のほほんとしたいつもの調子で、総司さんは言った。まるで【そうしないとご飯が食べられないから一生懸命考えました】みたいな、そんな空気で、彼は言った。
『年越し前に楽しみが一つ出来たわ、ありがとう』
 通話を終える直前にそう言った総司さんの声は、この期に及んで少しの邪念も感じられない、純粋無垢なそれだったのだ。