馬を馬房に戻してから事務室でチセを待つ間にテキへ電話する。
『――その様子だともう乗ったか』
 もしもし、とただ一言出しただけの声だったが鼻声になっていたのかも知れない。からかいを隠さない声が心底腹立たしい臼田昭俊氏御年五十三歳は俺の所属する厩舎の調教師であり競馬サークルきってのイカれジジイだ。
「こんなの聞いてないですよ」
『メンヘラに構う余裕なかったんだよ。下手な説明して自殺されたら面倒臭いだろ?』
 こういうとんでもない内容をクソ真面目な口調で淡々と語る人間なのである。何より厄介なのは本人は至って真剣であり、むしろ相手を慮っているつもりですらあるかも知れない。無駄が嫌いで何事もストレートに物事を進めたい性格に起因しているのだろうが、仮にも自殺未遂者に対してここまで無神経な口が利ける人格破綻者は世界中でも指折りで数えられる程度ではなかろうか。
『エトの全弟だ』
 聞きたい事も尋ねる前に核心を答えてくれる。こういう所は有難い。
「そうですか……よく似てましたよ、本当に」
『ソイツを俺の所に預ける条件がお前を乗せる事なんだ。だから、お前は暫くそこの牧場の手伝いだ』
「脈絡が無さすぎてサッパリ解らんのですが」
 もう少し感傷に浸りながら話を進めたい所なのだが、如何せん臼田という男にはそれが通じない。何事も結論から先に伝え詳細は勝手に理解しろという男だった。
『前のオーナーが死んじまって、もう閉めるんだとよ。元々家族経営だったらしいが先頭で働いてたオーナーが死んじまったから人手が足りないらしくてな、最後の産駒を送り出すまでそれじゃあ流石に持たないからお前を送ったんだ』
「俺、ジョッキーなんですけど」
 俺はいつ牧場のアンちゃんになったというのか、仮にもダービージョッキーである。
『良いよ良いよ、お前の代わりなんざ幾らでもいるから』
 コメカミがピクリと引きつるような発言だが臼田厩舎で生きていく以上この程度の発言には慣れていなければならない。繰り返しになるがこのファッキンクソジジイに悪意は無いのである。まるで無いからこそぶっ殺したくなるんだけど、それは言い出したらキリが無いから忘れるしかない。
『大体“まともに追えない”ジョッキーなんて調教すら乗せられねえし、いても邪魔なだけだ。精々リハビリしとけ』
 テキのストレートな性格はどこまでも俺の心を打ちのめす。言われた途端に捻くれたガキみたいな自分がひょっこり顔を出して、どうでも良いさ、と例の決まり文句を心の中で呟いていた。
「そうですか、解りました」
 もうさっさと電話を切る事だけ考えて適当に返事をすると、テキは相変わらず言葉の裏側を探ろうともせずに、それでいい、と言った。
「それじゃあ、失礼します」
 通話を切ろうとしたタイミングで、その言葉には珍しく重さを感じた。
『――俺はよ、ダービーを獲りたくてこの世界に入った』
「知ってますよ、有名です」
 言っちゃあなんだが、臼田昭俊は真正の変わり者だ。調教はスパルタで馬主がドン引きするレベルだし、競馬どころか馬にすら縁も所縁も無い埼玉の一般的なサラリーマン家庭に生まれその上大学生になるまで競馬に全く興味が無かったにも関わらずある日突然厩務員の採用試験を受けたのだという。挙句採用試験で俺は将来調教師になってダービーを獲る為にここに来たと面接官に宣言したとかいうトンデモエピソードも残っているのだから変態の極みだろう。
『だが、エトがダービーを獲った時から俺は三冠馬の調教師になりたくなった。だからわざわざお前を送った……解るな?』
 珍しく言葉の合間に溜めを作って言うが、芝居がかったものではない。真剣な事は伝わるから、案外自分の心情を吐露することに慣れていないのかもしれないと、十年近くの付き合いになるクレイジーな調教師の、意外な一面を俺は知った。
『ソイツでエトの続きが見られなかったら、俺たちは真正の無能だぜ』
 馬も、調教師も、能力に関しては折り紙付きだ。間違いない、エトの続きを見られなければ無能だと言う臼田の言葉は真実だ。俺自身そう思った。
「鞍上は、俺で良いんですか?」
 気が付けば、そんな言葉が口を出ていた。馬に載せて貰う事から逃げようとするなんてジョッキー失格だという事は言ってから気が付いた。けれどそれ位に、それは心底からの言葉だった。
『俺もそう思った。だが馬は調教師とジョッキーだけじゃねえ、ブリーダーとオーナーが揃って初めてチームになれるんだ。オーナーブリーダーが、お前を乗せればきっとエトの続きを見られると、そう言った』
「どういう事です」
『時間はまだ半年近くある、詳細は本人から聞く事だ』
 殊馬に関して、テキは自分が納得しない事は受け入れない主義だ。オーナーだろうがなんだろうがぶん殴ってでも自分の主張を通そうとする人間だ。そんなテキが俺を乗せるというのだから、きっとテキもどこかでオーナー側の主張に納得しているのだろう。そう考える事にした。
 そもそも今の状況で帰っても乗る馬が無い。ぶっちゃけて言えば直近の成績は他所からの依頼なぞ来るはずが無いものだし、テキがこれでは自厩舎の馬にも乗せて貰えないだろう。俺に選択肢は無いのだ。
「……ところで、その間の俺の扱いってどうなるんですかね?」
 話が一段落した所でこれからの牧場生活に思いを馳せる間もなく我に返って尋ねると、
『丁度自殺未遂したところだからな、療養って形で処理しておく』
平然と、当たり前田のクラッカーって感じに答えたのである。ガチの自殺未遂を、喩えるなら“夕飯のおかず作るの面倒くさいけど冷蔵庫開けたら丁度納豆入ってた”みたいな“丁度”だ。
 俺は心底臼田昭俊の神経を疑った。