一人で呆けている時間は数分と無かったように思う、応接室ですらない事務室は、一般家庭の居間のような、リアルな生活臭を漂わせた温かみがある部屋だった。
 事務作業の途中だったのだろうか、一般的な事務机の上に文書類が錯乱している。壁一面には丁寧に額に収められたサラブレッドの写真が並べられており、きっと過去の生産馬だろう。飲みかけらしいコーヒー牛乳のパックやチョコレートの包み紙が無造作に放り出されていて、そのまま目を滑らせると机の端に置かれたブックエンドにはエクセルや簿記の入門書と並んで高校の教科書が並べられている。あの芋娘はここを自室のように使っているのかも知れない。
 部屋の隅には巨大なガラスケースが鎮座しており、中にはトロフィーが幾つか並べられている。近付いて眺めてみるとその多くは他のオーナの冠号の馬名が記されていたが、一番古びた物にカムイの冠号が付いていた。エトの血統表で見た、エトの母の母父、人間でいう所の曽祖父の名だ。
 ――カンナカムイ号
 エトに乗っていた頃に気になって調べた範囲では、大きな重賞を勝ったとか歴史的な名馬とかではない。重賞勝ちは二つ程あったがどちらも夏のローカル競馬で最終的には三十八戦して七勝という種牡馬としては物足りない成績だ。
 何より致命的だったのは血統がサラ系だった事だろう。父系を遡ればダイオライトなのだからダーレーアラビアンに繋がるが、母系を辿って行くと十代程前に一頭出自不明の馬がいる。サラ系の表記自体はエトの祖母の代から消えているが、そうした背景があるだけに、カンナカムイを種牡馬として付けていたのもきっとこの牧場だけだろう。必然主な産駒もトライアル重賞を一つ勝ったエトの祖母くらいのものだし、その牝系を継いだのもエトの母親だけだから、この牧場が消えれば競馬の歴史から完全に消失する名だ。
 エトが生きていれば、違っていたはずだった。あれだけのパフォーマンスで勝っていればエトを色眼鏡で見るホースマンなどいないだろうし、有力な繁殖牝馬にも恵まれる。カンナカムイの名はエトによって紡がれていくはずだったのだ。
 自然とため息が漏れ、席に戻ろうとすると、机の上に置かれていたパソコンのマウスに袖が引っかかりスクリーンセーバーが解かれた。
 画面にはエクセルのシートが映っている。牧場の帳簿だろうか、きっとあの芋娘が付けていたのだろう。
 エトの賞金はかなりのものが入ってきたはずだが、綺麗に清算する事を考えるとここが潮時なのかも知れない。目に入ってしまった数字がその事実を告げている。
 この牧場に、もう次は無い。
「――お待たせしました」
 焦って来たのだろうか、チセの息は少し乱れている。俺を見る間も無くパソコンの画面が点灯していることに気が付くとエロ本を隠す高校生みたいな勢いですっ飛んで来てエクセルを落とした。
「エロサイトでも見てたの?」
 こういう反応をしてあげる辺り俺って優しいなあ、なんて思う。
「違います!」
 芋娘は耳まで真っ赤にして否定した。そういえば芋とはいえ女だ、多少は気を遣ってやらんとセクハラで訴訟沙汰になるかも知れない、気を付けよう。
「悪かったよ、冗談だ……改めてになるけど、大越凛太朗、騎手だ」
 仕切り直すようにわざとらしく姿勢を正して自己紹介すると、
「茂尻ちせです……この牧場の代表をやっています」
「親御さんじゃないの?」
「父と母は小さい頃に事故で死んじゃって、祖父と二人暮らしだったんです」
 大抵の地雷というものは踏み抜いてからヤバいと気が付く物であって、やっぱりこの時も俺はフォローの仕様が無いほど見事に超ド級の地雷を踏みぬいてからその事に気が付いた。
 冷静に考えればこんな子が一人で牧場なんてやってるはずが無いのだ。
 ちせはもう慣れてしまったような風に、
「気にしないでくださいって言っても気にしますよね、すみません」
そう言って、困った風に笑った。
「座ってください。コーヒー入れますから、インスタントですけど」
 芋娘のたくましさに感謝しながら、情けない俺は大人しくコーヒーを待つ事にした。
 やがてコーヒーを手にしたちせが戻ってくる。自分の分という事だろうか、もう一個の使い慣れた風なコップにはコーヒー牛乳らしい、いかにも甘そうな茶色い液体が入っている。
「何からお話しましょうかね」
 どうぞとコーヒーを出しながら。その手慣れた所作が大人だった。机に置く時にもカップの音が立たないのである。俺やテキが厩舎で客に出す時とは大違いな、いかにも社会人って感じの接遇だった。ちなみに俺達が出すお茶は大抵少し零れる。
「大体は先生から聞いたけど、お前はそれで良いの?」
「あの子に乗れる人が来てくれるならそれで良いんです。本職の騎手さんってお話を聞いた時は驚きましたけど、でも、大越さんにとっても悪くないと臼田先生が仰っていたのでお願いしました」
 あのクソジジイはそんな殊勝な考えしてないと言ってやりたかったがここはグッと堪える。
「そうじゃなくてさ、鞍上のこと」
「というと?」
「アイツなら、エトの続きを見られると思うんだ」
「ええ、私もそう思います」
「本当に俺で良いのか?」
 ――カムイエトゥピリカが潰れたのは臼田厩舎のハードトレーニングと大越の強引な騎乗スタイルが原因だ。
 少なくとも、世間の競馬ファンはそう語る。そんな事オーナーブリーダーであれば当然承知しているだろうし、エトの全弟ならば騎手を探すような真似をせずとも、それこそ一流のジョッキーであっても、乗せてくれと自分から頭を下げに来るだろう。
「もしテキが怖くて俺を乗せようとしてるなら、俺からテキに言っても良いよ」
 あのイカレおポンチ野郎がそんな風に俺を可愛がるはずもないのだが、一応言っておく。
「乗りたくないんですか?」
「アレに乗りたくないなんて騎手はいないさ……でも、俺はもうエトみたいな思いをしたく無いんだ。本当に良い馬だから、俺が乗ってパンクさせるような真似、したくないんだ」
 勝てば剛腕と持ち上げられ、負ければ強引と叩かれる。そんな世界である事は当然知っていたし覚悟もあったが、エトの件は俺自身本当に堪えた。本気で馬を追う事が、今は怖い。
「手伝いが必要なら、テキが言うように暫くは療養だしな、ここを閉めるまでは手伝っても良い。アイツの調教も必要なら乗る。ただ、レースは――」
「――エトが言ったんです」
 俺の言葉に割り込むように、ちせはそう言った。
 ――は?
 言葉の意味を理解出来ずに固まっていると、ちせはもう一度言った。
「貴方は最高の騎手だと、エトがそう言っていたんです」
 ――何言ってんだコイツ、馬が喋る訳ないだろ。
「あの子にも大越凛太朗を乗せて欲しいって。決めたのは私じゃない、エトの遺言なんです」
 ――コイツぁヤベえや、ただの芋かと思ったらイカれた芋だ。
 真顔で、純朴な瞳をキラキラさせながら、俺に語り掛けてくる。馬の遺言を語っているのでなければちょっと馬っ気出ちゃうような感じなんだけど、如何せんシチュエーションがヤバ過ぎる。
 洒落にならない恐怖に頭の中が真っ白になると俺はもう何も言えなかった。黙ってこの恐怖の芋娘の依頼を受けるしかなかったのである。


「――って感じなんだけどよ、あの芋子どっかヤバいんじゃねえの?」
 ちせとの事務的な話が終わると、俺は一目散に馬房へ向かった。この恐怖を和らげる為には誰かにこの話を聞いて貰うしかないと思ったのである。
『チセをバカにしてんじゃねえよ殺すぞクソガイジ』
「そうは言っても普通じゃねえぜ、真顔でエトの遺言語るんだぞ?」
『何がおかしい、チセは本当に聞いたんだ』
 俺が真剣に訴える程に、栗毛は怒気を隠さなくなった。尾っぽを鞭のように振って風切り音を出してくる。
「大体、お前俺が乗っても良いのかよ」
『兄貴の遺言だし、チセもそう望んでる。お前みたいなメンヘラ糞ジョッキー乗せるなんて死ぬほど嫌だが、仕方ねえよ』
「そうかいお生憎様だね」
 やっぱコイツ可愛くねえ、エトの弟なのに何故こんなに性格が悪いのだろう。
 そんな事をふと思うと、エトはどんな性格だったのだろうと気になった。競走馬としてのエトは頭が良くて人懐こい、けどレースになると闘争心が強すぎて熱くなり過ぎる気があった。けど、こんな風に言葉を交わした事は無かったから、俺は本当は、エトの事を何も知らなかったのかも知れない。
 感傷に浸っていると栗毛は何かを察したのか、その声色は比較するまでもなく穏やかで、そして真剣だった。
『俺は、チセにダービー・レイをかけてやりたい』
「一度エトで獲ってるだろ」
『でも、やっぱり一番はダービーだろ』
「解ってねえな、女に同じモン送っても昔の男思い出させるだけだぜ?」
『なんだよそれ』
 芋娘の事になると案外素直でバカなヤツだ。
「だからよ、夢の続きを見せてやれ」
『……夢の続きって、何だ?』
「三冠獲ってジャパンカップ勝って有馬勝って春天勝って安田勝って宝塚勝って凱旋門勝って……なんてな」
 一息にすらすらと、それは俺の夢の続きだ。
『なんだそれ、ダービーがねえぞ』
 あ、やっぱりコイツ馬なんだなって、俺はようやく思い出した。レース名が解らないらしい、でもダービーは知ってるらしい、流石ダービー、馬でも解る。
「そのうち解るさ。それよりも、ダービージョッキーが専属で調教から乗ってやるんだ、並の成績じゃ許されねえぞお前」
『偉そうに言うんじゃねえよ、糞が』
 何となくだが解った気がする、コイツはガキなのだ。だから高校生くらいのガキンチョをからかう位の気持ちで接してやると、案外腹も立たないかも知れない。
「まあいい……そいや、お前名前は?」
『レラだ。チセはレラって呼ぶ』
 良い名だ。短い語感で実況もさぞ叫びやすいことだろう。ファンも覚え易い。
「そうか、よろしくレラ。俺は大越凛太朗、これからお前のジョッキーだ」
 レラの首筋を撫でようとするとレラは嫌がらなかった。悔しいことにほんの少し嬉しくなっている俺がいた。
『で、お前何でここに来たの?』
「だから言っただろ、あの芋子がおかしいんじゃねえかって思ったんだよ。で、あの芋子の事一番解ってるのお前だから何か知らねえかと思って」
『チセをバカにしてんじゃねえよ殺すぞクソガイジ』
「またそれかよ、ワンパだなお前」
『大体何でチセがおかしいんだ、返答によっちゃお前ホント殺すぞ』
「馬鹿お前、普通に考えておかしいだろ――」
 馬の言葉が解る人間なんているはずねえだろバカ、と続けたら、レラは一瞬固まってから人間みたいな溜息を吐いた。
『俺、やっぱりお前乗せるの不安だ』
 しみじみ呟く辺りコイツも大概人間臭いが、しかしやはり馬なのである。