速度は気にせず、とにかくリズムを意識して走らせる。俺が少しでも“心地よく”感じてしまった場合には左前を鞭で撫でるように触れる。それが合図であることをレラには徹底して教え込んだから、それだけで足運びは普通の馬と変わらないものに変わる。
『窮屈だ』
 レラはこの日もぼやいたが、むしろ俺の中では、月日を経るごとに普通の馬と変わらない走り方でも十分に上を獲れるという実感が増していた。
「我慢しろ」
『でもよ、これじゃあ――』
 ぶつくさと続けそうなレラを黙らせるには一言で良い。
「――もうお前しかいないんだよ」
 こいつは賢い。馬の癖に本当に人並みの思考が出来る。だからこれだけ言えば言葉の裏に込められた意味も全て察して、自分の主張を引っ込める。
「お前の仕事はレースに勝つことだけじゃない。お前の四本脚にはチセやチセのご先祖さん達が積み重ねたモンが全部詰まってんだ。その重さを自覚しろ」
 正直な話、俺はもうG1を獲ったつもりでいる。エトに乗っていた俺だからこそそう思うのだろう、あの末脚を封印したとしてもエトが負けることはそう簡単には想像出来ない。
 何よりレラの賢さがあれば後方一気という脚色に拘らず自由にレースを作ることも可能だ。となれば、G1クラスのレースでも、限界を封印したまま勝ち切る事は可能だろう。
『悠長なんだな』
「それだけの才能があるよ、お前には」
『お前に褒められると気色悪いぜ』
「天才はいる、悔しいが……ってな」
 誉め殺しのつもりも無かったがどうやら効いたらしい、レラは大人しく練習を再開した。
 練習が一段落してからはレタルとクーの二頭を混ぜて、大体正午になる頃合まで適当にコースを回る。練習と言うよりも馬たちの走りたいように走らせているだけだが、レラの歩様訓練にはその程度の方が丁度良かったし、何より俺も楽しかった。案外騎手よりも牧童の方が向いていたのかも知れない。
「ご飯だよー」
 拡声器を通したチセの声が届くと遊びの時間はおしまい。馬房へ戻って馬にカイバを付けてから、俺達もその場で一緒に握り飯を食う。
 もっしゃもっしゃと、、せわしなく草を食む馬達を眺めながらの食事が、ちせにとっては日常だったらしい。ご飯は一緒に食べた方がおいしいからと笑顔で言われたが、やはりこの女の感性は良く解らない。ちせに倣ってそうするうちにどうにか胃に押し込める程度に慣れはしたが、そもそも獣臭い馬房で食欲がわくはずも無い――のだが、しかし、と後の言葉が続くのも本当で、馬たちもワイワイ楽しそうに食べているしちせも楽しそうだから、悪くなかった。
『チセ、今日のカイバも美味しい』
 レタルが言うと。
「美味しいでしょ、今日のはよく干したから」
ちせも嬉しそうに返す。
『チセも食べなよ、美味しいよ』
 クーが続くと、
「クーも沢山食べないと駄目だよ。まだ大きくなる年なんだから」
その首を撫でながら。
『チセ、チセ! 俺やっぱコイツ乗せるの嫌だ! ヘボだ! ねえチセ!』
 構われている二人を見ていたレラは思い付いたように言った。ちせの関心を引きたい一心からの言葉だろうが、その内容は俺からすると青筋ものだ。睨み付けてやるとあからさまに視線を逸らして知らん顔をしている。
「レラは疲れてるのかな、頑張ってるもんね。でもご飯も沢山食べないと駄目だよ」
 会話は噛み合っていないようだが、構って欲しいという意図は伝わっているのだからこれも立派な意思の疎通というヤツだろう。ちせに声をかけられるとそれだけでレラは上機嫌になったようで、フンフンと嬉しそうに尻尾を振ってカイバ桶に顔を突っ込んだ。
「大越さんもお疲れじゃないですか? 何なら事務室で食べても」
 レラへの仏頂面が残っていたのだろうか、気遣うようにちせは言った。
「ここで良いよ。お前ら見てるの楽しいし、飽きないからな」
 咄嗟に俺はそう返していたが、きっと本音だったのだろう。
 午後は馬達の身体を洗ってやり、天気が良い日はそのまま牧場で日向ぼっこをする。そういう時、ちせは馬たちに付き合って一緒に日向ぼっこをしているが、ある時何かの本を音読しているのが目に留まった。本は大抵が児童書で、思春期の女が読むには対象年齢のギャップを感じる光景だったが、そんな彼女の回りに馬たちは寄り添っていたから、俺は自然と、それが読み聞かせをしているのだと知った。
「――シンデレラは王子様と幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」
 俺もいつの間にやら付き合って聞くのが習慣になってしまったが、どうやら馬たちは話の内容をきちんと理解しているらしい。良かった良かったと互いに語り合っている。
「今日のお話はこれでおしまい、また明日ね。行ってらっしゃい」
 ちせが言うと馬達は山の方へ駆け出した。野犬でも狩りに行くのだろう。
「これ、いつからやってんの?」
「ずっと、らしいです。私もハッキリ覚えていませんけど、お爺ちゃんが言うには幼稚園くらい、文字が読めるようになった頃からずっとやっていたと」
「なるほど」
 案外ここの馬たちが人とコミュニケーションを取れるようになったのはこの読み聞かせが効いているのかも知れないと、ふと考えていた。
 当たり前のように馬とコミュニケーションを取れているちせの存在についてとか、そもそも馬が物語を理解出来るのかという疑問は尤もだが、この牧場でそれを考えることはタブーなのである。
 言い出したら馬と会話が出来てしまう俺の状況の方がよっぽどファンタジーだろう。
「大越さんは魂って信じますか?」
「オカルトか?」
「そうだけど、そうじゃなくて、考え方の話かな。人間も、馬も、生きている存在全てが生まれた時に神様から預かって、死んだらまた神様に返すもの。私とあの子たちは形が違うけど、元は同じ、神様からの預かりものなんです」
「……難しい話は解らんけど、実家の墓は真言宗だぞ」
 俺の反応にちせは苦笑したが、言葉は静かに続けられた。
「私はね、お爺ちゃんからそう教わったんです。お爺ちゃんはお爺ちゃんのお爺ちゃんからそう教わって、この牧場はそうしてずっと続いて来たんです。馬は神様からの預かりもので、同時に私達の家族だって、人と同じに、人よりも大切に思いなさいって。
 だから私がみんなに本を読んであげる事をおじいちゃんは喜んでた。言葉は交わせなくてもきっと気持ちは通じる、そういう風に向き合う事が大切だって」
 語るちせの横顔を見た時に、俺は心地よさを覚えた。恋愛感情とは全く違う、例えば春の温かな空気や夏虫が舞う夜、秋の色付いた森や冬の澄み切った早朝、そんな四季折々の彩りに溢れた風景を見た時に覚えるような、心が安らぐ感覚だった。
「でも、もうお爺ちゃんは行ってしまった。私は、きっとお爺ちゃんの言っていたことをきちんと理解できないまま一人になってしまったから、きっとこのお話は私でおしまい」
 ちせは語り終えた。駆けて行った馬たちを追って山の方を見ると、空はもう茜が射していた。

 牧場には俺とちせしか人間がいなかったから、必然的にちせからは色々な話を聞いた。好きなアーティストの話、好きな漫画の話、好きな俳優の話、嫌いな芸能人の話、片思いをしていた男の話、俺が過去に付き合っていた女の話をした事もある、肉と魚の調理法の話、綺麗だった空の色の話、そして当然牧場の話、自分の先祖の話や過去にここで生まれた馬の話――エトセトラ。
 その時に聞いた話だが、カンナカムイ号の祖先に混ざったサラ系は元を辿るとウンマカムイと呼ばれていた馬に行きつくらしい。ウンマカムイはまだこの国に競馬が存在しなかった時代に本州から連れてこられた、詳細は解らないがとにかく日本の在来種だったようだ。ちせの先祖は当時開拓地だったこの場所で軍馬の飼育を生業にしており、その時に預かった馬の血を脈々と繋げてきたという訳だ。
「大した情熱だな」
 その話を聞かされた時、俺は素直にそう言った。
 競馬産業とは徹頭徹尾血統主義なのだ。現存する競走馬の全てがたった三頭の種牡馬に遡れるとまで言われるこの世界で、遥か昔に排された日本の在来種の血統が伝えられているなどという事態は、その血を繋いでいくという明確な意思が無ければ有り得ない。言ってしまえば、この牧場そのものがその血統を残す為に仕事をしてきたと表現しても良いだろう。
「ご先祖の、ご先祖の、そのまたご先祖が、ウンマカムイを預けてくれた神様と約束したんですって。全部ただの言い伝えですけどね」
「結局オカルトか」
「そうですね……でも、おかげでエトや、レラや、あの子達と出会えました」
 今まで出会った馬達のことを思い返しているのだろうか、その言葉はどこか述懐のようですらある。
「ここ、やっぱり閉めるのか?」
「ええ、お祖父ちゃんの遺言なんです。最後の産駒が、レラが入厩したらこの牧場は閉めるって」
 今の時代に銀行からの借り入れ無しで運営している事業所など牧場に限らずとも有り得ない話だから、それはきっと彼女の祖父が用意した口実なのだろう。
 ウンマカムイの血脈を伝えるという祖先の意志を継ぐことがこの牧場の意義なのだとすれば、それはあまりにも前近代的な観念、宿命めいたものを帯びてしまっている。十代で天涯孤独となってしまう孫娘にそんなものまで背負わせたくなかったのだとすれば、その考え方はむしろ常識的に思えた。
「レラのお母さん、レラを産んで直ぐに死んでしまったんです。牝馬であれば繁殖として手元に残せるように考えたんでしょうけど、エトも、レラも、牡馬でしたから、もうその時からやめるつもりだったみたいです」
「……エトでぬか喜びさせちまったな」
「ぬか喜びじゃありませんよ。うちの牧場が大事にしてきたものでダービーを獲ってくれたんです。きっと世界中のホースマンを探したって、あんなに嬉しい思いをした牧場はありません」
 それまで淡々と語っていたちせが、その時ふと声を詰まらせた。
「お祖父ちゃんね、皐月賞を勝った時に本当に喜んでいて、ダービーは絶対に来いって、臼田先生もわざわざ呼んでくれて、だから、本当は、府中に行きたかったはずなんです。でも、私が一人になっちゃうから、行けなかったの……それだけ、残念だったのは、申し訳なかったのは、それだけ」
 僅かに零れたその涙は、俺の人生で一番響く涙だった。
 エトの口取り写真でオーナーも生産者も一度も入ったことが無い事に疑問を抱かなかった訳ではない。
 だが、その背景について俺は真剣に考えていただろうか。少しでも、それを知ろうとしていただろうか。
 こうして競走馬を育んでくれた存在を、忘れてはいなかっただろうか。
 俺のダービーは彼等が与えてくれたものだと、少しでもそう感謝することが出来ていただろうか。
「レラが府中に連れて行く」
「ええ……ええ、信じています」
 罪悪感から目を逸らす為の方便であったかも知れない、俺の戯言めいた言葉にも、ちせは笑顔を作って素直に頷いてくれた。
 その時俺は、ダービー・レイをちせに送ってやりたいと語ったレラの気持ちを本当の意味で理解出来たのかも知れない。