月日が流れるのは早いもので年明け早々にクーが栗東へ帰ると二月の末にはレタルも美浦へ帰って行った。去り際厩舎を尋ねると、クーは栗東の笠松厩舎で気軽に会いには行けないが、レタルは美浦でも同じ北区画で何度か乗り馬を回して貰った事もある関口厩舎だというので驚いた。戻ったら挨拶周りがてら覗いてみるのも良いかも知れない。
 二頭がいなくなるとレラはどこか寂しそうだったが、それも僅かな期間だ。
 テキから連絡が入り正式な入厩日が決まれば、それはこの牧場が無くなる日でもある。馬産地からも遠く外れた辺境の牧場では買い手もなかなかつかないようで今後の処分についてはまだ決まらないままだが、閉める事は変わらない。
 牧場が無くなればちせもここに留まる理由は無いからと、生活し易い札幌の方へ転居する予定らしい。不動産屋任せで現地を見ないままなのは不安だったが、春から入居するマンションも既に契約していた。
 俺とちせは空いた時間で少しずつ片付けを進めた。机や事務用品の類は近所の農場や役所に相談して引き取って貰う段取りを付け、古くなった文書の類は少しずつドラム缶で燃していく。
 レラの入厩日を四日後に控える頃には生活用品を段ボールに詰め込む作業も一段落して後は業者を呼ぶだけ、事務室の中はすっかり空になっていた。僅か半年ではあったが、こうなってみるとどこか寂しさを感じるものだ。
「業者、手配したか?」
「うん。馬運車が来る一時間前に来て貰います」
「そうか、これでホントに一段落だな」
 俺はレラを運ぶ馬運車で一緒に美浦へ帰る予定だったが、道中ちせを札幌に届けて行く事にしたのだ。行きがけの駄賃と言うより、誰もいなくなったこの牧場にちせを一人残して行く事が憚られたというのが本音で、俺から提案した。
「でも良かった、ここに一人でいたら本当に寂しくて、きっと怖いですし」
「だろうな」
 今までは馬達がいた。だが、レラがいなくなれば本当にちせは一人だ。隣の民家まで数キロあるような世界でたとえ数日でも一人暮らしをするというのは、十代女子でなくとも精神的に参ってしまうだろう。
「どうすんだ、これから」
「取りあえず大検取って、大学に行くかも知れないし、行かないかも」
「バイトは?」
「する、かな。でもコンビニのバイトとか、私に出来るかな。ねえ、アレってどうなの、難しいんですか?」
「知らん、俺もやった事ねえよ」
「大越さんって騎手になる前は何してたの?」
「騎手って大抵中卒で競馬学校入るからな、前歴なんて無いよ」
「へえ……私も騎手目指そうかなあ」
「残念、騎手は馬主をやれないの、ついでに言うと厩務員も調教師もダメだ。それともレラを誰かに売るか?」
「絶対やです」
 ケタケタと笑いながら、片付けも全部済んで、すっかり解放感に支配されていたから、気の置けないバカ話の延長のつもりだった。
「あるとすれば厩舎の専属事務員とかか、あれは競馬会通す必要無いはずだし」
「そんなの、あるの?」
「さあ、でもテキが雇うって言えば雇えるんじゃねえの。あの人一応社長的なもんだろうし、そういうの雇ってる厩舎もあるし」
「私それやりたい!」
 ここまで食い付くと思ってなかったというのが正直な話だ。何よりここまで自分の意志を示したちせを見たのは、短い付き合いながらも初めてだった。
「まあ、テキが雇うって言えばの話だからな」
「臼田先生なら大丈夫、レラの事言えば大抵の条件は呑んでくれますから」
 交渉事には慣れているという事だろうか、サラッと脅し文句のような言葉も聞こえるが、どうも本人は大真面目に言っているらしい。
「大学に行きたい訳でも、バイトをしたい訳でも無いの。でも、レラの事近くで見ていられる場所があるなら、それをやりたい」
 俺は、心のどこかにちせを一人で残して行く事への罪悪感があったのだろう。ちせにとって馬達が本当の家族であることを見て来たからこそ、レラを連れて行く事が彼女から家族を奪う事であるように感じているのも事実だった。
「なら、取り敢えず電話してやるよ」
 内心雇うはずが無いと思ってはいたが、取りなすことくらいはしてやりたいと思って言うと、
「あ、大丈夫です。先生には私が連絡しますから」
ちせはあっさり過ぎる程にあっさりと、俺の申し出を断って自分の携帯を取り出した。
「ちょっと外しますね」
 友達に電話をするような軽いノリで事務室を出ていくと、時間はものの数分とかからなかった。
 戻ってきたちせは満面の笑顔で、
「マンションの敷金って返ってきますかね?」
俺にそう尋ねた。




 出発の日、荷を受け取りに来た運送業者は突如として目的地が札幌から茨城県のクソ田舎に変更になった事に戸惑いを隠さなかったが、ちせが勢いで押し切ると渋々荷物を預かって、到着が多少遅れるかも知れないと吐き捨てながら去って行った。
 すっからかんになった牧場のブレーカーを落として馬運車の到着を待つ間、ちせとレラはぼんやり山の風景を眺めながらちょっとした郷愁にふけっているようで、僅かながらこの地にいた身ではあったが気軽に立ち入れる雰囲気ではない。
 生の全てを過ごしてきた風景が終わる瞬間。野犬を狩った山も、読み聞かせをした牧場も、皆で食事をした馬房も、他馬と競って遊んでいた玩具のようなコースも、これで見納めだ。
「いつだって、最後はやるだけだ」
 何気なく漏れた呟きだったが、ちせも、レラも、確かに頷いた。
 最早失う物など何も無く、取り戻せる物も一つとしてありはしない。自らの一族が繋いできた集大成を、意地と誇りを見せつける為だけに彼等はターフへ向かう。得るのは勝利の栄光か敗北の虚無か、不確かな未来へ向けて賽は既に投げられたのだ。
 ふと、風が吹き牧場の若葉を揺らした。頬を撫でる心地よい風に“レラ”とちせが呟いた。
「方言なんです。風を、こんな風を、お祖父ちゃんはレラって言っていました」
「コイツが生まれた時も?」
「ええ。今日みたいに、とても気持ちの良い風が吹いている日だったから」
 俺へ向くのではなくレラに語り掛けるように。その姿は、この風を、故郷の色彩を、どこかに覚えておいて欲しいと、そう言っているようにも見える。

 やがて馬運車が到着すると俺達は手ぶらで乗り込んだ。旅立ちは身軽な方が良いと昔の人は語ったそうだが、そう考えればこれ以上ない旅立ちだろう。
 ちせは振り返らずにさようならと別れを告げた。