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 厩舎に行くとちせはもう作業を始めていて、おはようございます、なんて初々しい挨拶をよこす。事務屋待遇なのに労組に染まったそこらの厩務員より手際よく作業をこなすのだから、厩舎的にも超が付く優良物件だろう。
「テキは?」
「天狗山、もう出ました」
「今日何本だって?」
「最低五本、悪ければ六本だって」
 トチ狂ったスパルタメニューを当たり前のように告げるちせに、僅か三か月でも時の流れは無常にして無情にも人を変えてしまうものだと、独身の身空でありながら【大人になった娘】に気付いた男親のような一抹の寂しさを覚える。
 牧場にいた温和な芋娘は美浦一番の極悪サド調教師として有名なアキトシ・ウスタの手によって丸の内のSM嬢も顔負けな鞭の似合う女に染め上げられてしまった。椎名林檎も真っ青だなんて冗談はジェネレーションギャップに叩きのめされるだけなのでもう言わない。
 過激派動物愛護団体がこの惨状を聞けば即座にこの悪徳調教師を抹殺せんが為の暗殺部隊でも送り込んでくれるのではなかろうかとも思うが、意に沿わない相手は馬主であろうと鉄拳で支配し競馬会からの制裁も余裕綽々どこ吹く風で十数年間この業界を渡り歩いてきたテキのこと、ベトナム帰りのスタローンよろしく返り討ちにするまであるだろう。
 朝っぱらから主食がピザで副菜ステーキみたいなヘビー級のメニューを課せられて胃もたれしそうな心境だったが遅刻すれば六本が七本に増えるのだから遊んでいる時間も無い。
「レラの引き運動俺がやるから、そのまま馬場に連れて行く」
 その名を口に出すと、馬房からひょっこり顔を出した相棒の、鮮魚コーナーに並べられた魚のような濁った瞳と目が合った。

 まだ陽も登らない五時前のトレセンの中を散歩の如くフラフラと歩きながら、すれ違う他厩舎の厩務員には軽く会釈をしてやり過ごす。殆ど半年ぶりにトレセンに戻ってきた俺に向けられている視線は決して温かいものではなく、お前競馬辞めたんじゃなかったのか、という何とも素朴に人を傷つける反応が大半だった。
 それでも最初の一週間は美浦の村民と会う度に説明をしていたのだが、いつからか疲れを感じたので流すようになってしまい、その結果大多数の人間から【大越は騎手を辞めて調教助手に転身したようだ】と受け止められてしまっている。
『ダービージョッキーも落ちぶれたもんだ、だってよ』
 今しがたすれ違った厩務員の独り言だろうか、馬の耳は性能が良く俺が聞き取れない言葉までレラはしっかり聞き取って逐一報告してくれる。有難いようだがすれ違いざまにボヤかれる言葉なんて大抵が人という種の真に迫るが如き罵詈雑言の類であり、要するに聞いて気分の良くなるものでは無いから、メンタルが余計に擦り減るだけだ。
「一々報告すんじゃねえよ、へこむから」
『だから言ったんだよ』
「性格悪いな、お前」
『お互い様だろ』
 レラもハードな調教に疲労困憊と言った所だろう、身体は温まってきたはずだがドブ川よりも濁った瞳が虚ろに宙を彷徨っている。
「馬って筋肉痛とかあんのか?」
『キンニクツーが何だか解らねえけど、脚がガクガクしてしょうがねえ。故障じゃねえのか、これ』
「自分で言えるなら大丈夫だな、まあ頑張れ」
『ふざけんな、偶にはお前が走りやがれ』
「他人に嫌な事をしたら返ってくるんだよ、覚えておけ」
 やり合いながら調教馬場へ向かう道中『目が死んでるぞ』とレラに言われたが、相棒とは言えそんなところまでシンクロしたくはない。



 調教を終えると俺達は出汁を取り切った昆布みたいにヘロヘロのくたくたになっており、調教馬場から引き上げるその足取りはさながら無限に広がる砂漠で水を求めてさまよい歩く死にかけのキャラバン隊だろう。美浦村で昨今話題になっている坂路難民とは何を隠そう俺達の事であり、悪魔の手先に違いないかのイカレ調教師USUTAのスパルタ指導は遠からずこの命まで奪い去るのではないかと真剣に危惧するこの頃、キャラバン隊はどうにかオアシスならぬ我らが厩舎へ辿り着き、今日も命を繋ぎ止めた事に感謝しながら洗い場でレラに水を浴びせていると、朝カイバの準備を終えたらしいちせが客だと言う。
「俺にか?」
「記者さんだそうです、後は私がやっておきますから」
 俺としては作業を途中で放り出すのは後味が悪かったのだが、地獄を共にし強固な絆で結ばれていたはずの相棒はちせがそう言った途端にマルゼンスキーみたいなスピードで俺への信頼をゴミ箱送りで抹消したらしい。
『さっさと行って来いよ』
 吐き捨てるが如き元相棒の物言いに感じた不満は隠さずに、ブラシを地面に投げ捨てるようにしてその場を離れた。
 事務室には見た事が無い新顔記者がいた。牡、二十歳前半だろうか、いかにも大学出てきましたみたいなクソ真面目さを感じさせるスーツ姿が美浦村では逆に新鮮に映る。七三にして眼鏡でもかければ一昔前のステレオタイプな日本人像そのものだろう、百八十近くありそうな長身だがスラッとしたと表現するよりヒョロッとした牛蒡みたいな体形で、会釈するとハートマン軍曹に怯える新人りのように直立し、アル中ばりに手を震わせながら名刺を差し出してきた。
「ああ……PRセンターの」
 PRセンターは競馬会の広報部所であり、競馬ファン向けイベントをはじめコマーシャルや公式情報誌の発行等を一手に担うセクションだ。馬のグラビアがメインコンテンツというこの情報誌、一般社会からすると中々にぶっ飛んだ存在に思えるが、名前も知らない水着アイドルの尻なんぞよりも牡牝を問わず競走馬のケツが見たいというマニアックな性癖の持ち主が世間には案外多いのだろうか、いち団体の機関誌という立ち位置であるにも関わらず本誌売上だけで黒字ベースだと言うのだから競馬ファンの変態ぶりには恐れ入る。
「蓬田と申します、よろしくお願いします!」
 カチコチに固まったヨモギダ青年のせいで落ち着いて世間話を出来る雰囲気など欠片も無く、たとえば今厩舎のドアを開ける人がいたらどこからどう見てもイジメの現場としか受け止められないだろう。
「今日は取材?」
「はい!」
「俺で良いの?」
「はい!」
「何聞きたいの?」
「はい!」
「ふざけてんの?」
「はい!」
 これである。
 緊張しすぎて何を言っているのか解っていないのだろう、人参みたいに紅潮した顔は呼吸をするのも苦しそうでありその様は微笑みデブが軍曹にのど輪をかけられたかの名場面を想起させる。
「取り敢えず座んなよ、お茶出してやっから」
「はい!」
 ともかく嫌なヤツではない事は確かだろうと思ったから、俺は苦笑しながら椅子を引いて促した。
「コーヒーで良いか?」
「はい!」
「ブラック?」
「はい!」
「砂糖は?」
「はい! あ、無くて大丈夫です」
 ようやく多少は落ち着いたのだろうか、受け答えが出来るようになったのを見てからカップを持って俺も席に着く。
 対面に座ったヨモギダ青年をもう一度まじまじ観察すると、恐らくトレセンに来たこと自体初めてなのだろう、まだ新しいはずのスーツの裾や革靴が泥にまみれて悲惨な事になっている。
「駿馬の編集部なの?」
「あ、そうです」
 とにもかくにもこの状況では一向に話が進まないためまずは当たり障りない世間話から持ち掛ける。
 世間話は村社会における必須スキルだ。コミュニケーションが無くとも仕事が出来る業界もあるらしいが、競馬社会は一にコミュ力二にコミュ力三・四が飲み力五にコミュ力とは大尊師臼田調教師の言であり、臼田厩舎の一員として叩き込まれた無駄知識の中で唯一と言ってもよい有益な情報だった。下らない世間話は人間関係の潤滑油であり朝飯の話題からシモの話題まで手広くカバーする話術を磨く事で強い馬を取ってくるのだ、と。
 尤も、有力ホースクラブの代表に『お前らの態度は気に食わないんじゃボケ』と面と向かって言ってのけその系列からは完全に干されている尊師に社会人としてのコミュ力が備わっているとは到底思えないのだが、コミュ力云々の件は騎手として考えてみれば当然だろう。技術より気合より何よりも営業力、強い馬に乗る為に走り回るのが騎手の仕事の内情だ。
「競馬は?」
「小学生の頃から見てました」
「好きな逃げ馬は?」
「ツインターボでしょうか」
「ハラハラする方が好き?」
「その方が見てて楽しいので」
「二着と言えば?」
「ステゴかドトウ」
「三着と言えば?」
「断然ネイチャ」
「親御さんは?」
「普通のサラリーマンでした」
「外から来ると大変だろ、この世界」
「いや……でも、そうですね」
 会話の流れで笑顔が見え始めると競馬オタクである事が良く解った。好きが高じて外の世界から業界に飛び込んだ人種であり、もしかすると情熱と現実のギャップに悩み始めている頃なのかも知れない。それまで淀みなく答えていた彼に生じた僅かな間こそが内面の煩悶を表しているように聞こえた。
 俺自身、外からこの世界に入った人間だから何となく解る部分もある。この世界の人間関係は一般の競馬オタクが溶け込むにはあまりにも濃密だ。
「で、今日はどうした?」
 緊張も解けた所で本題を切り出す。俺も調教上がりでヘロヘロだし、午後もレラの運動に付き合ってやらなければならないからさっさと飯を食べて休んでおきたいのだ。
 水を向けるとヨモギダ青年は慌ててⅠCレコーダーを取り出した。録音ボタンを押してからよろしいでしょうかと尋ねるのは順番が違う気もするが、いい加減話を進めたいので細かい事はまあ良しとしよう。
「注目の二歳馬としてレラカムイ号の特集を企画しておりまして、今日はその取材に伺いました」
「そっか、よろしく頼むよ」
「主戦は大越騎手という事で間違い無いでしょうか」
「それテキとかオーナーに聞いた方が良いんじゃねえの?」
「臼田先生は大越で行くと明言されていまして、オーナーサイドからの要請だと言う話もその時に出ました」
「そっか……まあ、それで間違いないよ」
「大越騎手が牧場まで出向いて、一歳の騎乗訓練から携わっていたという情報もあるのですが、本当ですか?」
「本当だよ。あの騒動の後で送られて、一緒に戻ってきたってこと」
「牧場ではどのような訓練を?」
「普通だよ。簡単な追い運動とか、後は山行ったりとか――」
 その後は暫く当たり障りのない話が続き、ヨモギダ青年は熱心にペンを走らせながら聞いてくれたのだが、血統の話に行き着くと途端に口調が重くなった。
 その重さは過失致死をやらかした重罪人に事故の過程を尋ねる事への躊躇いに違いない。言葉の裏で全兄であるエトの存在を、その血統表に記された血筋の重みを、強く意識していることが却って解り易かった。
「絶滅寸前のパーソロン系。しかも曽祖父はかの皇帝、祖父があの帝王と来て、無名の父親から出た起死回生の化物だ。その意味くらいは解ってるさ」
 エトの死に与えられた意味は一頭の優駿の死というだけには留まらなかった。
 彗星の如く現れた絶滅危惧種の内国産父系を救い得る素材が目の前で潰えたのだ。ホースマンは当然としてファンも怒る。必然、エトを潰した俺やテキはいわば競馬界全体の敵になった。
 俺の言葉に深く頷くヨモギダ青年に、いかにも真剣な声色を作って言う。
「レラの才能はエトに少しも劣らない、ひょっとすればそれ以上だ。今度こそ必ず繋げるよ」
 心中ではハナクソをほじりながら言っているような台詞だが、ヨモギダ青年が感動に目を潤ませているのを見るとこれで正しいのだろう。
 エトの血統の話になると当時から周りは盛り上がったが、俺からすればそもそも自分が皇帝や帝王に乗っていた訳でも無いのに何故そこまで感情移入して考えなければならないのかと、呆れに近い感覚で眺めていたというのが本音だ。そういう意味では馬の血統というものに必要以上の拘りが無いのだろう、極論だが速ければロバの子でも良いとすら思う。
 ただ――と付け加えたくなるのは、短いながらもあの牧場で過ごした日々があったからだろうか。
「母方の血も面白いんだよ、アイツらは」
 そんな言葉が口を出た。
「母方……ああ、母父にバクシンオーも入ってるんですよね」
「そうじゃなくて、母の母の父親がだな――」
 それから俺はカンナカムイの話を、エトやレラがちせと一緒に過ごしたあの小さな牧場の話をヨモギダ青年に聞かせてやった。
 チンケな牧場の精一杯の意地の物語が、今時流行らない浪花節が、この新米記者にどう響いたのかは解らない。
 ただ一つだけ言えることは、ヨモギダ青年はペンを走らせる事も忘れてこの話を真剣に聞いてくれたという事だ。

 ひとしきりの話を語り終えるとヨモギダ青年は満足げに頷き、有難うございましたと丁寧に頭を下げた。こういう記者になら時間を割いて話してやる価値もあるというもの、出来るならこの姿勢を保ち続けて欲しいものだ。
 最後に一枚レラの写真を撮らせてくれという願いを聞き入れ馬房へ案内すると、ちせがいつものように読み聞かせをしているところだった。
 今日は何を読んでいるのかと聞き耳を立てるより先に、俺とヨモギダ青年の気配に気が付いたのか、朗読は止まってしまう。
「何でやめちまうんだよ、途中だろ」
 言ってもまごまごとするばかりで何も返そうとせず、どうやら初対面のヨモギダ青年に緊張しているらしいが、対照的に馬房の中のレラが堂々としているのが却ってこの芋娘の情けなさを助長している。
「臼田厩舎って女性の方いませんでしたよね?」
「レラの生産者兼馬主だよ、牧場閉めたから今はここの手伝いやってんだ」
 前もって職員録でも調べてあったのだろう、取材熱心なヨモギダ青年に敬意を払って答えると、ふと一つの妙案が思い浮かんだ。
「これからレラの写真撮るから、お前が綱持て」
 レラの方に確認の視線を向けると激しく首を振って肯定している。少しでもちせを表舞台に出してやりたいというレラの気持ちからすればこの上ない提案だったろう。本人は戸惑いを隠さなかったが、ヨモギダ青年がここに便乗して賛同すると表面上の結果は二対一、実質三対一という大差である。流れで押し切り引綱をちせの手に握らせた。
「オーナーブリーダーと一緒に写ってる新馬紹介なんて斬新だぞ」
 カメラを構えるヨモギダ青年に言うと、既に十分意識していたらしい、頼りなさは残っているがそれでもはっきりと頷いた。
「絶対に三冠獲ってください。牧場の話とこの写真でもっと大きい記事を書きたいです」
 一心にファインダーを覗き込みながら、ヨモギダ青年は言う。
「獲るさ、獲れないはずが無い」
「油断はマズいです、今年の二歳はもう一頭ヤバいのがいます」
「初耳だな、宮代の馬か?」
「ええ。あの宮代明総帥直々に歴代最高傑作と評して、クラブではなく個人で所有した馬です。グループ内じゃ今の時期から凱旋門なんて話もあるとか」
「名前は?」
「アマツヒ。どうせ基本は外厩でしょうけど、名義上は栗東の藤井厩舎に所属するそうです。主戦はあの天才鎬総司ですよ」
「アマツヒって何語だよ」
「日本語ですよ。天つ日、太陽という意味だそうです」
「へえ……ま、見なきゃ何とも言えねえわ」
「前に撮らせて貰った映像ならありますけど、送りましょうか?」
「んー、まあ頼むわ」
 他愛の無いやり取りをしているうちに十数枚は撮り終えたようだ。長過ぎる撮影に困惑したちせが泣きだしそうだったので、何よりその様子にブチ切れたレラが暴れだしそうになったので、撮影会は早々にお開きとなった。