ぱっと見て【大したこと無いじゃん】って思うような物なのに何故だか妙に気になるからもう一度見直して気付いた時には三度見していた――なんて経験は誰しも一度はあるだろうし、そしてそういう感覚を受けるものは大抵が本物だったりする。
 俺の人生で今までに一番強烈に尾を引いた【ぱっと見大したこと無いじゃん体験】は天空の城ラピュタを初めて見た時のそれだったのだが、ヨモギダ青年から送られてきた映像はかのロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ氏が俺に与えたバルスの衝撃よりも遥かに深くそして強烈なものだったと言える。
 厩舎事務室で件の映像を見た第一印象は【何の変哲も無い販路調教】だった。
 映し出された鹿毛と青鹿毛の二頭はどちらも並ではないと一目で解る逸材であり、なるほど鹿毛のアマツヒ君は今の段階から翌年クラシックの有力候補と目される事にも頷ける。
 だがしかし、正直に言うとどうも迫力を欠いて見えた。その違和感がマウスを操作する指先を自然と二度目の視聴に向かわせ、ぼんやり眺めているうちに併せているもう一頭の青鹿毛が良すぎる程に素晴らしいから並べるとどうにもアマツヒに物足りなさを感じてしまうのだと解ると、今度はその青鹿毛が気になって当たり前のように三度目を視聴していた。
 その段になってようやく相手の青鹿毛が完全に完成された古馬の馬体であると気が付き、更にまじまじと眺めると、なんと青鹿毛の正体はG1三勝の現役最強候補筆頭レイカウントではないか。
 追切の日付はレイカウントが勝利した宝塚記念の二週間前であり、アマツヒはデビュー前の二歳馬であるにも関わらず、ファームから厩舎へ戻る直前の、万全な状態にあるG1馬に比肩する走りを見せているということになる。
 映像の持つ意味に気が付いて暫くは頭の中から言葉が消えていた。
 グランプリレースで勝ち負けを出来る二歳馬なんて、例えば四段になり立ての新人将棋指しがハブに勝つとか大リーグでピッチャーをやりながら打席にも立って前年のサイヤング賞投手からホームランを打ってのけるとか、そういう類の、つまりは荒唐無稽という言葉が四本脚で走っているようなものであって、仮にかの花京院典明氏にコメントを求めればまず間違いなく『ファンタジーやメルヘンじゃないんですから』と一笑に伏す存在なのだ。
 では、実際にグランプリホースと併せて坂を駆け上っている二歳馬の映像を見た俺はこの事実をどう説明すれば良いと言うのか、教えてくれ花京院。
 しばし呆けたようになりながらアマツヒの情報を探ると、父は十年前の日本競馬界を文字通り震撼させた三冠馬、母は牝馬でありながらダービーを制したという怪物、どちらも宮代が仕入れた血統が日本で花開いたという血族でありなるほど歴代最高傑作という表現も頷ける。
 生後間もない当歳の頃から既に期待の星であったらしく、世間がエト一色に染まっていた頃に宮代明総帥が受けたインタビューには【カムイエトゥピリカよりも強くなるだろう】と当時は負け惜しみにしか聞かれなかったはずの応答が残っていたりもする。実際当事者の俺がそんな発言があった事すら知らない程度には世間からも相手にされなかったようだが、今にしてみればそれは虚勢でなく本心だったのだろう。
 だからこそ、その記事を読んだ時にふつふつと熱いものが込み上げて来るのを感じた。エトよりも強いと言われて【はいそうですね】と頷ける程度の思い入れではない。何せ俺にとってのエトはうだつの上がらない三流どころか五流ジョッキーにダービーを勝たせてくれた神にも等しい存在なのである。御神体に唾を吐かれて怒らない信者がいないのと同じように、心中に生まれた熱が渦を巻いて急激に温度を高めていく。
 勝たなければならない。たとえ相手が日本競馬界の独裁者こと宮代グループの最高傑作であろうとも、その思い上がりを叩き潰してやらねばならない。
「その天狗鼻へし折ってやるよ、宮代明」
 厨二病をこじらせたキメ台詞が口から漏れるや否やのタイミングで、厩舎の引き戸が豪快に開け放たれると戸の向こうから現れた臼田御大は両の腕を胸の前でバッチリ組んだ所謂ガイナ立ちだった。
「よく言った凛太朗、それでこそ俺の弟子だ」
 自慰行為の最中に部屋を覗かれた中高生レベルで狼狽える俺の事などまるで視界に入っていない風に、御大は事務室に入り込むと派手な音を立ててパイプ椅子に腰を下ろし一言【チャ!】と叫んだ。
 気が触れている訳ではなくましてやアラレちゃんの物真似でもない。御大の日常表現の一つでありさっさとお茶を用意しろという意味だ。なお反応が遅れると灰皿がフリスビーのように飛んでくる。
「お茶は私が用意しますので、大越さんは座っていてください」
 腕組みの状態でどうやって引き戸を開けたのか考えてみれば謎だったがどうやらちせが開けたらしい、御大の後からひょっこり現れそそくさとチャの支度を始めた。目の前を通り過ぎる一瞬、チラッとこちらを見ていたからやっぱりがっつり聞かれていたのだろう。死にたい。
「レラカムイだがな、一〇月の府中二〇〇〇でデビューだ。そこから東スポ杯使ってホープフルステークスを目指す」
 負けることなど欠片も想定していない風に御大は淡々とローテを読み上げた。
 俺とて初戦で躓くとは思っていないがここまでストレートな物言いをされては苦笑の一つも漏れるというもの、気合が足りんと怒られないようちせが出してくれた湯飲みを口に運んで表情を隠す。
「朝日杯じゃないんですか?」
 朝日杯とホープフルステークスはどちらも二歳限定のG1だがコースと距離が異なり朝日杯は阪神一六〇〇のマイル戦、ホープフルステークスは中山二〇〇〇の中距離戦となっている。昔から二歳最強馬の決定戦として位置付けられている朝日杯に対しホープフルステークスは元来G3の格付けであったものが近年G1に格上げされた若いレースだ。
「リハのつもりで走れ、年明けは皐月に直行する」
 御大の発言の後、僅かではあったが事務室の中に奇妙な沈黙が生まれた。俺はその無茶苦茶な発言に言葉を継げなかったし、ちせはすっかり納得したように何も言わない。
 俺が止めなければマズイのだと察すると同時にこうなった御大を止められるはずが無い事も理解していた。御大が俺の発言でローテを変えるなどお天道様が槍を降らしても有り得ない。
「直行は流石に無理があると思いますけど」
「NHKマイルも狙うからな、春先に使うレースは出来るだけ減らしたい」
「ダービー前にマイル挟むのはともかく、十二月のホープフルから皐月賞直行なんてローテ聞いた事もありませんよ」
「不思議な事だ。何故誰も試さないんだろうな、コースも距離も同じなのに」
「そんなもん間隔が空き過ぎるからに決まってるでしょ、直行で勝てる程皐月は甘くない」
「レラカムイなら七分仕上げで勝てる、ダービーでの完調をめざせば丁度良い」
「んな無茶苦茶な」
「多少の無茶も通せない馬が三冠なんぞ獲れる訳が無い。負ければ乗り替わりだからな、覚悟しておけ」
 つまり【無茶苦茶なローテーションではあるけれど馬の力は間違いないから負けたら全部騎手のお前が悪いんだよ、責任は取ってね】と御大は仰っているのだ。
 ガッハッハという擬態語が似合う豪快な笑いを見せながら御大は言い、俺は眼前のド腐れ調教師への怒りに頭の血管の二、三本でもぶち切れたんじゃないかって頭痛にコメカミを抑え、そうしているとそれまで無言でお茶をすすっていたちせが静かに口を開いた。
「乗り替わりはしないって条件ですよね?」
 いつもと変わらない芋娘の癖に、声だけ聞いてしまうと金玉ヒュンってなりそうな迫力があった。御大を相手に一歩も引かないどころか完全に上から押え付けるような物言いだ。
 流石の御大も女であり子供でもある相手に鉄拳までは繰り出すまいが相手が他の馬主ならまず間違いなく俺が身体を張って止めなければマズイ場面である。御大への怒りに膨張していた血管から今度は一転、週刊誌を彩る臼田厩舎傷害事件の小見出しが脳内ビジョンを通り過ぎると便所の大を流す時みたいな勢いで頭から血の気が引いていき強烈な眩暈に襲われる。とどのつまりは脳細胞がストレスでマッハな感じにヤバいのが自覚できる状況だ。
 ところが、意外だったのは御大の反応だ。普段なら相手が誰であれ少なくとも机を蹴り上げるくらいの傍若無人っぷりを見せつけるはずが、何も言わずにむっつりと黙り込んだままなのである。
「もしそんなことになるなら転厩させますから」
 追い打ちの一言がちせから放たれると今度こそ大噴火するかと思われたが、御大は無言のまま煙草を咥えて事務室を出て行った。
 ふんぞり返っていたボス猿が一夜にして猿山の頂点から追い出された衝撃とでも言おうか、いやそれ以上に目の前の現実に理解が追い付かないという方が正確だ。
 今までどんな一流騎手も有力馬主すら逆えなかった日本競馬界のジョーカーこと臼田昭俊という男をたった二言で厩舎から追い出したのは御存じ芋娘ことクソド田舎のチンケな牧場の元主・茂尻ちせなのである。
 この二人何かあんのか、なんて勘繰りが浮かんだ一瞬の間にちせは言った。
「私は臼田先生と同じくらい騎手としての大越さんを信頼します。他でもない、エトの遺言ですから」
「はあ……そうですか」
 返す語尾が思わず丁寧語になってしまう程、目の前のちせは普段通りの芋娘なのに馬主としての威厳に満ちている気がする。
「お前ら、何かあんの?」
 勘繰るのも面倒になって本人に直球を放り投げると【昔からお世話になっているので】と答えるちせは身内を紹介するような気恥ずかしさを漂わせていた。

 その後暫くはちせとぼんやり茶を啜っていたのだが、ちせが作業に戻ると暇になり何となしにレラの様子でも見てみようかと馬房を覗くと、御大がレラに話しかけていた。
 こうして馬の相手をする事自体は珍しい光景でも無いがその表情の柔らかさは記憶に無い。調教師として馬の状態を見るのではなくコミュニケーションを楽しんでいる、ただの馬好きのそれだ。
「先生が引き下がるなんて珍しいですね」
 声をかけると僅かに視線を向けて、相手が俺だと解った途端に舌打ちを隠さない。やっぱこのオッサン糞だわ。
「契約は契約だ、俺はお前なんぞ乗せたくないのが本音だよ」
「いつもなら言い返してたでしょうに」
 適当に笑って流しながら隣に立つと馬房の中のレラも上機嫌なようだ。御大の手には角砂糖の詰まった小袋が握られている。
「厩務員試験受ける前にあの牧場で世話になってたんだよ、もう二十年以上も昔の話だ」
「へえ、あそこに」
「爺さんにも散々世話になったし、ちせの母親が一人娘で丁度今のちせくらいだった。よく似てるよ」
 芋から芋が生まれた図を想像して一人吹き出しそうになっていると、御大は静かに言った。
「エトゥピリカは俺が殺した」
 その言葉は馬房で動き回る馬達の物音に紛れる事も無く、ただ静かに、透明に響いた。
 御大は俺の責任を軽くする為に言ったのだろうかという思いが僅かに巡ったが、直ぐにその傲慢に気が付いて笑う。御大はそれほど出来た人間ではない。
 俺達はカムイエトゥピリカを殺した共犯者だ。
 世間に言われたからではない、その重みを忘れてはならないものだと他でもない自分自身が思うからこそ、そう信じるのだ。
「そんな人間にこうして与えられたラストチャンスだ。義理を欠いたままあの牧場の名を消すことは、男として絶対に許されん」
 血統表という紙っぺらに残す為などではなく、そこに関わった人々の願いを成就する為にこそ臼田昭俊という男は決意を固めたのだろう。
「俺はこいつに、レラカムイに調教師生命を懸ける」
 その言葉は俺にも問うている。
 ――お前にその覚悟はあるか?
「無論です」
 間は空かなかった。置くことが出来なかったというのが正しいかも知れない。【この言葉に詰まるようでは男じゃない】などと内心で感じていたのかは自身でも定かでないが、俺の精神も臼田イズムに汚染されているようだ。
「俺の全てを懸けます」
 元よりカムイエトゥピリカと共に終わったはずの騎手生命だ、惜しいはずが無い。

「でも先生、ローテは考え直してくださいね」
 それとこれとは話が別だから無茶苦茶なローテに念を押す事も忘れなかったのだが、御大も御大でやっぱりムカついてはいたのだろう、俺相手には遠慮が無くなるらしく油断していた顔面にしっかり右ストレートが飛んでくると視界に綺麗な星が飛んで寝藁とボロにまみれた床にキスをする羽目になった。
「ウルセエ馬鹿野郎、乗せてやるだけ感謝しろ!」
 怒鳴り散らしながら馬房を出ていく極悪イカレ調教師にして諸悪の根源こと大魔王USUTA。やっぱこのオッサン糞だわ。
『大丈夫か……凄い音したぞ』
 心配そうな声をかけてくれるレラが良いヤツに思えてしまうくらいに、あのクソ調教師が俺は憎い。