4(凛太朗)

 調整ルームでは食堂に向かう数名のジョッキーと顔を合わせたが、こちらが声をかけなければ所謂未遂者を相手に積極的に声をかけてくるような物好きもおらず、すれ違った騎手会長のクニヒコさんから、いつも通りの朗らかな笑顔で「ようやっと復帰やな」と簡単な励ましを受けただけだった。
 そうして人を避けるようにして引っ込んだ個室のベッドに寝転がり、レースシミュレーションを始めてから小一時間が経とうとした頃のことだった。いかにも育ちの悪いノックで扉が殴られると返事をする間も無く聞き慣れた関西弁が部屋の中へとなだれ込んできた。
「生きとったんかワレこの死に損ないが!」
 挨拶も無しに、マシンガントークを浴びせながらベッドにダイブしてきたのは同期にして現在東西リーディングで六位という人気ジョッキーの沢辺武人【サワベタケト】、苗字と名前の頭一文字を取って通称はサブ。
 俺の生存を喜んでくれているのは有難いが、お互い三十を超えたオッサンであるにも関わらずいまだに競馬学校時代のノリで抱き付いてくるのは勘弁して欲しい。
「離せ、ホモかお前この野郎」
「いけず言うなやボケ、どんだけ心配したと思っとんねん」
「どの口が抜かすか、俺のお手馬喜んで漁ってた癖に」
「言うなって、お前が帰ってきた時の為にお馬さんの背中温めといたんや」
「じゃあ返せよ、ゴールドロード」
 ゴールドロードは俺の元お手馬であり、札幌での新馬戦から二歳ステークスまでコンビを組んで勝ち上がったが、俺がやらかした後はサブが主戦となって東スポ杯とスプリングステークスを勝ち今年のクラシック戦線を賑わせている。
 その名を口にした途端、サブは胡散臭い口笛を吹きながらそっと手を離した。
「馬主さんの都合もあるしなあ」
 悪びれる風でも無く呟かれると力が抜ける。
 本気で返せと言っている訳では無いし、当然サブに恨みがある訳でも無い。言うなればこの応答自体が気心の知れた相手に対するじゃれ合いに違いなく、実際サブと話していると肩の力が抜けて自然な笑いが出てくるのだ。
「菊はどうすんだ」
「長いやろ。先生もオーナーにそれとなくマイル路線勧めとる」
「正解だな、長くて二〇〇〇だ。ダービーはよく掲示板まで持ってきたよ」
「そこは乗り手の腕やがな」
 自身の腕を誇らしげに叩きながら言うサブの顔を半ば呆れて眺めた時、彼の視線が宙を彷徨っていることに気が付いた。そうして改めて伺うと、普段通りの馬鹿話をしていると思い込んでいた彼の表情はひどく強張っていて、その肩が落ち着きなく左右に揺れていたから、俺はその時、サブが地雷原を手探りで進むようにして会話を探してくれているのだと知った。
「悪かった」
 美浦に帰って来てからこの方、こんな苦労を背負ってまで声を掛けてきたのはサブだけだ。
 詫びを入れるとサブはようやく俺を見た。本当に立ち直ったのかと探るような視線だったので、問われる前に「もう大丈夫だ」と答えると、ようやく安堵したように深く息を吐く。
「戻って来てもレースに全く乗っとらんし、ワレがジョッキー続けるか解らんかったからな。みんなどう声かけて良いか戸惑っとるんや」
「なるほど、それも一理あるか」
「一万理くらいあるわアホ……食堂行ってみい、お前の話題一色やぞ」
「それはまた、寒気がするお話で」
 忘れ去られていた訳ではないのだと安堵した照れ臭さを隠すように、口からは軽口が漏れていた。
 サブは全てお見通しだと言わんばかりの小さな苦笑を零してから、どこから取り出したのか、缶ビールを一本投げてよこす。
 プルタブを引くとベッドダイブの余波が残っていたらしい、復帰祝いの乾杯が大量の泡を零しながらになるとどちらからともなく馬鹿笑いが溢れた。
 喉を叩く炭酸の刺激にオッサン特有の呻き声を漏らしてから、サブは小さな声で言う。
「話題になるのは昔から変わらんな」
「生憎お前と違って無名でね、そんな幸せな記憶はねえよ」
「嫌味かボケ。競馬学校の時も、騎手になってからも、話題の中心は大抵お前やったやないか」
「何だよそれ」
「初騎乗初勝利、デビュー二週目で重賞初勝利、話題にゃことかかんやないか」
「まあ、そりゃ運だわ」
 競馬学校を卒業したばかりの頃はバカヅキと言っても良いほどに運があった。デビューは三月の中山第二レース三歳未勝利戦、十六頭立て九番人気だったが、逃げ馬が他にいないから程度の気持ちで打った逃げが大当たり、ドンピシャで決まったゲートから一度もハナを奪われること無く逃げまくり、第四コーナーを回った時点で後続に十馬身以上の大差をつけた圧勝だった。最後の直線では真っ白になった頭で追いまくっていた為緩めてやる事が出来ず、手綱を預けてくれたテキから「馬を大事にしろ」と鉄拳を食らったのも良い思い出だ。重賞初勝利に至っては完全に運、三番人気の有力馬に騎乗予定だった先輩騎手が前のレースで落馬負傷した為にジョッキールームで暇をしていた俺にお鉢が回り、普通に乗って普通に勝ったという完全な棚ぼたである。
「競馬学校の時かてそうや。お前、ガースーに喧嘩売ったの覚えとるか?」
「須賀さんに?」
 須賀さんは競馬学校で騎乗技術の指導をしてくれた元ジョッキーで、指導があまりにも厳しいから、同期の間ではガースーなんぞと陰口を言い合っていた。
「負けても馬の負担が少ないレースをしろ言われて、お前ひとりだけ言い返したやないか。殺してでも馬を勝たせるのが騎手の仕事や、って」
 発言の苛烈さに思わず面食らってサブを見返すと、サブは真剣な表情で俺を見ていた。嘘ではないぞとその視線は言っている。
「お前以外の同期は全員覚えとるわ。捨てられた惨めな最期より戦いの中で死ねる方が幸せだから、何をしてでも、一つでも多く勝たせるべきだ……俗に言う大越名言の四番やな」
「大越名言って何だよ」
「俺が編集した凛太朗の名言集や、一〇八番まであるけど聞きたいか?」
「アホくさ」
 他人から聞かされて思い出す過去もある。
 呆れ笑いを見せながらではあったが、俺は、完全に忘れ去っていたその言葉を、俺が過去にしていただろう発言として受け入れていた。きっと、過去の俺は大真面目にそれを口にしていた。
 競馬村の出身では無いし、根からの馬好きでこの世界に入ったという訳でも無いから、競馬という競技の根底に感じた欺瞞をそう表現したのだろうと思う。
 競馬は優しいだけの夢じゃない。その本質は残酷な生存闘争だ。
 負けてターフを去る馬の行く末を知るにつれて、弱い馬達を競馬に出会う前の自分に重ねて感じるようになった。
 この世界には、俺や彼等の命を使い捨てのマッチみたいに気軽に消費出来る神様気取りの悪魔がいて、俺や彼等の命はそんな連中に都合良く使われるだけの消耗品だから、用を足さなくなれば、何の感慨も無くゴミとして捨てられる。
 媚びる為に、必死になって、パチンコ屋のホールで銀球を拾った事も、ボロの服を着せられて物乞いをしたことも、競艇場で散らばっている舟券を拾わされた事も、負けた時に殴られる肉体の痛みも、勝った時に得意気に振る舞われるチンケな焼肉が美味しくて悔しくてたまらなかった事も、その全てを、俺は忘れられないままだから、馬達の屈辱が他人事に思えなかった。
 だから、そんな青臭い発言をしたのだろう。
「いずれにせよガキの寝言だな」
 缶ビールを呷りながらサブに同意を求めたが、サブは首を振って否定した。
「確かに青臭いが、ジョッキーが忘れたらアカンことや。殺してでもっちゅうのは言い過ぎやが、勝たせてやれんなら俺らが殺すんと同じことや、全部の鞍にその気持ちで乗らんと……俺らは馬に生かして貰っとるんやから」
「慰めてんのか?」
「自惚れんな、矜持の話や」
 会話に集中していたせいで手元のビールはすっかり温くなってしまっている。これ以上味が落ちる前に残りを一気に飲み干した。
「明日の鞍、新馬戦だけか?」
 テーブルの上に散らかしていたレース資料を手に取りながら、サブが言う。
「そうだけど、お前は?」
「八鞍、メインも乗るで」
「毎日王冠? お前のお手馬出てたっけ」
「テン乗りや。ウチのエージェント、クリスと総司抱えとるさかい、クリスが蹴って総司も蹴ったら大抵俺んとこ回ってくんねん」
「うわっ、ハイエナ」
「言うな言うな。きっかけは何だってええねん、連中が蹴った馬で勝ちゃ馬主も次からは俺の方に先回すやろ」
 東西リーディングでブッチ切りの首位争いをしている天才二人を相手にそう言い切れるサブもまた、俺からすれば別次元の住人である。
「俺には想像出来ない世界だな」
 思わず漏れた率直な感想だったが、サブは突然ムッとしたような顔になった。
「情けない事言うなや」
「そうは言ってもな、クリスと総司相手に勝つってのは気軽に言えねえよ」
「んじゃ明日の新馬戦も負けるで、お前。二人共乗り馬あるからな」
「いや、明日は普通に勝てるだろ。乗る馬の能力が違うから」
「なんやねんお前ホンマ!」
「俺みたいな五流はお馬さんの力で勝って貰うしかないのよ、これが現実ね」
「お前な……まあええわ、気が抜けたし帰る」
「おう、帰れ帰れ」
 納得のいかなそうな表情のサブを手で追い払いながら、散らかしていた資料を拾い上げてクリスと総司の馬の情報を探る。馬の力は間違いなく抜けているだけに取りこぼしの要因となり得るのはむしろヤネの動き、となれば情報だけは頭に入れておく必要がある。
「そんなに強いんか、レラカムイは」
 まだ部屋を出ていなかったらしいサブの声に、視線は向けず首を縦に振って答えた。
「強い。アイツで負けるならそりゃヤネの問題だ」
「……ほなら」
「は?」
 意味ありげにボソッと呟いたサブの声が気色悪かったので、眺めていた資料から顔を上げてその表情を伺おうとすると、視線が合った。
「じゃかあしいボケ、さっさと寝え!」
 こちらは何も言っていないのに勝手に切れて勝手に叫んで、そうして勝手に出て行った。
 前検量を無事に終え、鞍とゼッケンを受け取る。
 府中と中山で使用する自前の鞍は、ほぼ一年ぶりに触れるだけに埃まみれになっていないかと少し不安だったのだが、丁寧に預かっていてくれたのだろう、最後に府中で騎乗した一千万下の時と感触はまるで変わっていない。
 騎手の手伝いをしてくれるバレットの女性に言外の感謝を込めて頭を下げると、察してくれたのか、俺の復帰を歓迎するような笑顔だけ返してくれた。
 一年ぶりの鞍と感慨を抱えて装鞍所へ向かおうとすると、検量室に関西弁の絶叫が轟いた。周囲のジョッキーが驚くような事は無い、普段からやかましい事で有名になってしまっている。
「何でや! 待って! ちょお待って! パンツ、パンツ脱ぐから!」
 声の主であるサブは大分錯乱しているようで計量秤の上で勝負服を脱ぎ始めており、先ほどのバレットの女の子などはいたたまれなさそうに視線を外している。騎手仲間は呆れたように眺めるヤツが半数、栗東組でサブと比較的仲が良い人間からは「パンツで足らなきゃ毛ぇ剃れや」などというヤジも聞こえる。
「パンツ脱ぐから! パンツ脱ぐから!」
 なおも叫び続ける騒音から逃れるようにして、検量室を出た。
 騒音から一転、耳鳴りがしそうなほど静かな地下馬道を踏みしめると、広いトンネルに反響したブーツの靴音は頭の奥深くまで沁み込むように届き、久方ぶりの心地よい緊張が脳髄に呼び覚まされる。
 地下馬道を抜けた先の、装鞍所の門の前では、見慣れた芋が一人立ち尽くすようにして中の様子を覗き込んでいた。
 それなりに気を遣ったのだろう、いつものジーンズではなく、まだ初々しさは残るものの一応スーツを着こなして、人に見られても恥ずかしくない平凡な格好。だがしかし、人気の少ない装鞍所の前で中の様子を覗き込もうとする姿は誰が見ても不審者のそれに違いない。
「何してんだ」
 声をかけると、振り返ったちせは心中の不安を隠しきれない風に目が泳いでおり、中の様子が気になって仕方ないようだった。傍から眺めていると、本人が必死なだけになおさら呆れ笑いが浮かんでしまうような光景だ。
 小学校の授業参観を思い出すような、遥か昔に見た、クラスメイトの母親達に似た雰囲気。廊下に並んだ母親達が、張り切って発表する彼らをこんな風に覗き込んでいたことを、よく覚えている。
「馬主がこんな所にいたら余計な詮索される。大人しく馬主席で待ってろ」
 ステッキの先端でフジビューの最上階を指して言うと、ちせは戸惑ったような表情でこちらを向いた。
「何だよ」
「いや、大越さん騎手だったんだなあって」
 俺の格好への感想らしい、こちらの力が抜けてしまう。
「そこかよ」
「だって、そういう格好初めて見たから」
「まあ、そんだけ力抜けてりゃいいさ……お前が緊張するとレラにうつるから、パドックに顔出すなら平常心で来い」
 気が抜けすぎないよう一言釘を刺し、促すようにじっと見る。
「馬主には馬主の付き合いがある、お前の役割だ」
 そうまで言ってようやく、ちせは渋々と言った具合に門の前から一歩を踏み出した。俺の横を通り過ぎる間際に、名残惜しそうにもう一度装鞍所の方へと振り返ってから、「レラのこと、お願いします」そんな風に言い残した。
 装鞍所の馬房を覗くと、どうやら今の段階から多少イレ込んでいるのだろうか、落ち着かない風に身体を揺するレラを御大がなだめている。
「ようやく来たか」
 俺を見るなり、疲れ切った声で御大は言った。
「装鞍所に入ってからずっとこれだ、敵わん」
「よしよし、緊張してんだよな。それとも、俺に会えなくて寂しかったかな」
『うるせえな、ウザいからその喋り方やめろ』
 相変わらず可愛げのない口調だが、身体を揺するのは止めたらしい。
「しばらく俺見てますから、鞍検量お願いしても良いですか?」
 御大はその言葉を待っていたかのように返事もなく頷いた。
 抱えていた鞍を預け、装鞍所検量室に向かう背中を見送りながらレラの首を撫でると、やはり多少汗を掻き過ぎているし細かく震えている。緊張しているのだろうが、これではレース前に干上がってしまいそうだ。
「新馬戦のこと、メイクデビューって言うんだ」
『は?』
 緊張を解いてやろうと頭の中で話題を探して、何となく口を出たのはそんな世間話だった。
「まあ馬には解らんだろうがな。見る側にとっては愛称がある方が特別に感じられるもんなのさ」
『特別?』
「どんな馬でも絶対に一度は走れる、自分が主役になれる特別戦だ」
 競馬はとても残酷だ。勝ち上がりより敗者の方が多いのだから一勝できれば御の字で、重賞どころか条件戦にも出られないまま消えて行く馬の方が多い。
 だが、新馬戦だけはどんな馬でも主役になってスポットライトを浴びることができる。未勝利のままターフを去る競走馬であっても後のG1ホースと対等な条件で競うことができる晴れ舞台。新馬戦とはそういうレースだ。
『別にどうでもよくねえか、そんなん』
 レラは言う、馬だから当然だ。主役だの脇役だのは舞台に立たずに外野から眺めている人間たちが勝手に決める事であって、ターフの上にいる俺達は全てのレースで必死になって走る事しかできない。G1でも、条件戦でも、未勝利でも、新馬戦でも、それは同じなのだ。
「それでも、周りにとっては特別なレースなんだ。だから、そんな舞台で緊張するのも当たり前ってことさ」
『またそれかよ』
「そうだよ。最初で最後の特別なレースだ、緊張することは悪くない。お前がどんだけヘマしても一着は取らせてやる」
『信用出来るかよ、お前だって一年ぶりじゃねえか』
「一年ぶりでも五千回はレースに乗ってる、下手な鉄砲もナンチャラってな」
 話しているうちにいつもの調子が戻って来たようだ。じっとり汗ばんだ首筋はもう震えていない。
「ともかく、今日は俺を信じろ。経験だけはお前よりある」
 ほんの少し力を込めて、人の肩を抱くように、両腕を回してレラの首を抱く。
『気色悪い、離せよ!』
「言う事聞くか?」
『聞く、聞くよ! だから離せ!』
「解った、離してやる」
 手を放してやると、レラは虫でも払うように身体を揺すった。熱すぎる程に高い体温も、こういう仕草も、本当に人間の子供にそっくりだ。

 パドック脇の控室では雑談をする数名の騎手から距離を取るようにベンチに座り、徐々に姿を見せ始めた馬達の姿を眺めていると、鎬総司が現れた。
 デビュー五年目の若手だが、日本人ジョッキーという限定付きなら三年連続、昨年は外国人を含めた全体リーディングの座をも射止めたこの青年は、往年の名騎手にして名調教師の息子として競馬村に生まれ、馬の背を揺りかご代わりにして育ったとも噂される、所謂ジョッキー界のサラブレッドだ。
 視線が交わったのは一瞬だったが、会釈もなく逸らされる。特段仲が良い訳ではなく、むしろ相性は悪いのかも知れない。競馬村における外様である俺とサークルの中心に立つことを宿命づけられた総司では一から十まで違っている。
「レラカムイ、一番人気やな」
 背中越しにサブの声がしたと思うと、断りもなく、勢いよく隣に腰を下ろしてきた。勢い余って俺に体当たりするような形になったのは意図的なのだろう。
「毛、剃ったのか?」
「剃っとらんわアホが、見せたろか。ブーツ変えたんがアカンかったみたいや、クリスのヤツに唆されてエライ目おうたわホンマ」
「前もって確認しないヤツが悪い」
「いけず言いよって。それより、エトゥピリカの応援幕出とるで」
 サブはパドックの一か所を指しながら言ったが、応援幕の前に陣取っているハゲ親父の存在を含めて、そんなことにはとっくに気付いている。
「あんま気にせんとけや」
「ご心配どうも、そこまで弱くはないさ」
 応援幕を掲げているハゲ親父は筋金入りのエトのファンで、エトの出走するレースであれば日本全国どこであっても必ずその応援幕と共に表れる男だった。エトがレースに勝つ度に段ボール一杯のリンゴとファンレターを厩舎に届けてくれる熱心なゲーハーであり、見た目が綺麗な女性であれば俺も有り難がっていたのだろうが、残念ながらゲーハーなのである。
 そんなゲーハー親父も去年の京都で見かけて以来だ。妙な懐かしさを覚えてしまう。
「挨拶くらいはしてやりたいけどな」
 出走前の騎手という立場でなければ気軽に挨拶出来る距離だが、そういう訳にはいかない。
「挨拶するより勝ったれや」
「確かに、孝行してくれるゲーハーには稼がせてやんないとな」
「勝たせたらんけどな」
「お手柔らかに」
 そうして世間話をしている間に整列の号令が掛かった。
 控室のだらけた空気は消え失せ全てのジョッキーが敵同士となり、俺とサブの間にもその一瞬で冷たい線が引かれた。
 パドックへ出て一列に並び、客へ一礼をしてから、それぞれの馬へと向かう。
 ヤネの動きに特に注意すべきなのは三頭。サブの騎乗馬は三番人気、総司は二番人気、クリスは五番人気。新馬戦など情報が無いから大抵は血統と騎手で人気が決まるものであり、サブと総司の馬は現在猛威を振るう種牡馬の産駒であるから人気になるのは当然、母親の差はさして無いから人気の差はそのまま騎手への信頼の差だろう。血統的にやや落ちるはずのクリスの馬が五番人気に押されているのは完全に騎手人気と見ていい。
 そうした中、俺という重りを背に乗せてなお単勝一倍台というダントツ一番人気に押されているのが我が相棒だ。
 新馬戦を買うようなコアなファン達は、血統のことも、生産者と馬主の事も、所属厩舎のことも、そして主戦騎手のことも、それらが意味する全てを知っている。
 レラはパドックの中心で御大とちせに囲まれて俺を待っている。御大は先程のように疲れ切った雰囲気ではなく、ちせも無駄な緊張は溶けたようだ。心配そうにレラを撫でる様は相も変わらず授業参観の母親だが、馬を不安にさせるような表情はしていない。
「作戦、任せて貰います」
 横に並び立ちながら、返事は聞かない。
 御大は面白くなさそうに一つ鼻を鳴らしたが、負ければ降ろすと短く呟いただけだった。そうして、スーツが汚れることなど気にせずに俺の脚を抱えると馬上へと押し上げる。
「勝って来い、凛太朗」
 背を張る一撃よりも重く熱い御大の激励と共に手綱を握る。
「激励は済んだか?」
 馬上から尋ねたちせは静かな微笑みで頷く。
「行こうか相棒、勝負の時間だ」
『クセえ台詞決めてんじゃねえよ、ヘボの癖に』
 すっかりいつもの調子が出たレラの首を軽く叩いてから、地下馬道の暗闇へ吸い込まれるように降りて行く。
 鞍が穏やかに揺れ、床を叩く蹄鉄はどんな楽器より柔らかく鳴る。その音に惹かれるように、馬道で作業をしている関係者達は作業の手を止めて舞台へと上がる馬達を見送る。馬主の関係者らしい、おめかしをした小さな女の子が母親と一緒に手を振っている。ホースプレビューから覗き込む観客は、厳めしい顔をしたゲーハーから動物園気分の家族連れまで多種多様な品揃えだが、それぞれの思いで馬達の背中を押している。
 頑張れと、彼らは皆祈っている。
 コースへ続く緩やかなスロープに出ると天が開け、降り注ぐ光の眩さに目が細まる。軽快な入場曲に被せるようにスタンドの声援が鳴り響く。温かな中秋の陽を浴びたターフは風にそよぎその輝きを散らす。彼方まで続く一面の緑が雄大な海のように揺れている。
 帰って来た事への感慨にふけるより先に、ちょっとした違和感を覚えた。
 メインの三時間前だというのに客の入りが多すぎるような、そして、レラへの歓声が一際大きいような、そんな気がしたのだった。
 そして、きっとそれらは気のせいではない。
「どうも、レースの前からお前が主役みたいだな」
『お前の名前も聞こえるぞ、すげえガラ悪いけど』
 レラが言う通り、大層ガラの悪い怒鳴り声で俺の名を叫ぶ声もあちこちから響いている。
『でも、歓迎されてるな』
 これもその通り。金返せとか、死ねとか、そんな野次くらいは覚悟していたのだが、聞こえてくるのは御帰りとか、待ってたぞとか、そういう温かい声援だった。
「有難いもんだな」
『ガラ悪いけどな』
「人気騎手でもなし、贅沢は言えないさ」
 いつも通りレラと話しているつもりだったが、引綱を持つ厩務員の斎藤さんからの怪訝な視線に気が付くとバツが悪い。
 馬に話しかける事自体は珍しく無い業界だが、俺の場合は完全に会話をしているから、周りからしてみれば妄想が行き過ぎたヤバいヤツにしか見えないのだろう。
 結局、馬場に入るなり引きを断って逃げるように返し馬に入った。
『絶対ビョーキだと思われてるぞ、あれ』
「誰のせいだと思ってんだよ」
 性悪な笑みを浮かべるレラにぼやきながら返す。
 開始直後に第二コーナーを回る府中二〇〇〇メートルは、外枠スタートから先手を取りに行こうとすると大外を回らされる為内枠が絶対有利とされているが、生憎と今日の枠は最外枠の十六番だ。枠順が発表された時には日頃の行いがよほどに悪い関係者(主に調教師)の姿が思い浮かび、悪態をつくより先に笑ってしまった。
『そういや、お前他の連中とは話せねえの?』
 思い立ったようにレラが言う。
「簡単な意思疎通は出来るけど、こういう会話は無理だな。お前は俺みたいに他の馬とも話せんの?」
『無理、そもそも馬って話さねえし』
「そりゃそうだ」
 そもそも馬が話さないというのならお前の存在は何なのだと言いたくなるが、さておき会話が成立しないのは本当だ。
 聞き慣れない言葉を使う外国人とのコミュニケーションとするのが最も近い表現だろうか。簡単な挨拶程度ならば交わせるが複雑な情報共有はまず無理、嫌いなこと・楽しいこと・嬉しいこと・悲しいこと、そういった解り易い感情表現は疎通ができても、レラやあの牧場にいた馬達のように、会話のキャッチボールを行うまでには至れない。
 そう考えるとやはりあの牧場の馬達は芋娘に何かしらの魔術でもかけられているのでないかと疑ってしまうが、考え出したらキリが無いので深く追求するつもりは無い。
「急にどうした?」
『話が出来れば作戦とか解ると思って』
「ああ、そりゃ無理だわ。そもそも作戦考えてる馬なんていねえだろ」
 かつて無敗の三冠を達成したかの皇帝様はジョッキーにダービーの勝ち方を教えたこともあるそうだが、そんな馬がそうホイホイいる訳がない。
 仮にそんな思考を出来る馬がいるとすれば、それこそレラ位なものだろう。
「お前は何かあるのか、試したい作戦」
『いや、お前が考えてあるんだろ?』
 背に乗った俺を見るように首をわざわざ反らしながら、いかにも当たり前のことのように言う。絶対に口に出してやるまいが、宝石のようにクリクリした目玉と相まってその仕草は妙にかわいらしい。
「そういうこった、任せとけ」
 預かった信頼の大きさに浮かれてしまいそうな自身を嗜めるようにレラの肩を軽く叩き、コーナーポケット内での輪乗りに加わる。
 ファンファーレを待ちながら輪乗りする時間は騎手にとって馬を品定めする時間であり、特にこの時期の新馬戦は来年のクラシックを見据えた合コン会場といった雰囲気そのものだ。
 合コンならイイ女が注目されるし、輪乗りではイイ馬が注目されるのも必然。だから今日の輪乗りで一番注目されているのは間違いなくレラであり、それに跨る俺には嫉妬と羨望が入り混じった心地良い視線が向くのである。
 イイ馬を見てあわよくば自分がと考えるのは騎手の本能だが、エトやレラの場合はそもそも馬主がエージェントと縁遠い人種なのでその機会もない。絶世の美女が目の前にいるにも関わらず薬指の魔除けを前にして手を出せない状態とでも言おうか、無論指輪の相手は俺だ。
 美人な嫁をひけらかす男の心地良さとはこういうものだろうかと下卑たことを考えているうちにスターターが台に上り、ファンファーレが鳴り響いた。
 ゲート入りが最後なのは最外枠の数少ない特権だろう、余裕を持って他馬の様子を観察しながら、レラにだけ聞こえるように声を絞って言う。
「スタートは多少遅らせるつもりでいろ、タイミングは俺が出す」
『解った』
 隣の十五番は今年デビューの初谷君がヤネ、スタートセンスは良いと聞いているし、馬もしっかり落ち着いている。何より栗東所属の彼は府中のポケットスタートが初めてのようだから、さぞ気持ちよく出て行ってくれることだろう。ほんのワンテンポ遅らせて隣を捌けば、一枠分インへ寄せる間に更に内の混雑も多少は捌けているはずだ。
 中盤は常に前に壁を作る。馬群に入れた時の反応を試しながら、理想は先頭から十馬身程度をキープだが何なら最後方でも構わない。末脚のキレが違うのだから府中の長い直線なら最後にヨーイドンの競馬をしても勝てる。
 四コーナーからは可能な限り内を突く。先の事を考えれば、外を回す大味な競馬で楽に勝つより馬の間をこじ開ける経験をさせておきたい。
 レースプランを脳内でなぞっていると、他馬のゲートインは完了していた。
 係員がレラを引き始めてから肺一杯に空気を吸う。
 枠に前脚が入った段階で肺の中身を全て吐き出しながら、同時に、先程までなぞっていたプランも全て消す。
 レース前のルーチンワーク。やり直しのきかない一発勝負で机上のプランに引っ張られる訳にはいかない。
 ゲートが閉ざされるコンマ数秒の間に作業は完了し、最後に残っていた係員がゲートをくぐって外に出る――刹那、視界の左隅に映っていた隣枠初谷騎手の姿が沈むように消えた。
 舌打ちする間も無く、レラに合図を送った瞬間ゲートが開く。
 絶好の、しかし外枠としては最悪のスタートだ。
『何でだよ!』
 レラは訳が解らないという風に叫ぶが、その足はしっかり大地を蹴っている。どうやら本当に絶好のスタートだったらしい、視界を左に振るとハナを切っており、そしてやはり、そこにいるはずだった十五番の姿も無い。
「隣がヘマした、付き合ったら競馬にならない」
 判断が正しかったことは客席の尋常ではないどよめきからして確実だ。出足が滑った程度であればまだ良いが、下手をすれば落馬まで有り得るだろう。
「外回らされるけど行けるよな」
『ヘボ!』
「うるせえ!」
 ゲートから第二コーナーに入るまでの百メートル少々で可能な限り内へ寄せたが、万一にも斜行失格など取られる訳にいかない状況でスタート直後の混雑を縫うように進路を取るのでは、当然間に合うはずも無かった。
 結局コーナーでは埒から遠く離れた外目を大回りする羽目になり、それだけで内を行く馬に対して十メートル近くのロスを背負わされた。府中の改修工事を担当したクソ馬鹿野郎に文句の一つくらい垂れてもバチは当たるまい。
 しかし、後の展開を考えると結果オーライかも知れなかった。
 絶好のスタートを切ってしまったにも関わらず、向こう正面の緩やかな下りに入る頃にはすっかり中段、七頭程を前に見据える位置まで落ちており、これ幸いと一気に仮柵沿いまで寄せきれば、前三頭のケツで自然と壁が出来上がる。
 ようやく辿り着いた位置取りに一息吐く間も無く、前を行く馬達が蹴り上げた土埃や芝、蹄底でプレスされた土の塊が降り注ぐと、レラは苦しそうに身をよじった。励ましの声でもかけてやりたいが飛礫を浴びているのは俺も同じであり、息をするにもしんどい状況では口を開くことすらままならない。
 手綱を介したハミの反応からも外に出たがっている事は明白。しかし、同時にそれが本質的な恐怖からではなくただの戸惑いであることも承知している。
 外を回しても勝てるレースだが、将来の事を考えればこそ、こんな所で楽を覚えさせる訳にはいかなかった。
 指先に力を込めて、手綱は頑として譲らない。
 降り注ぐ飛礫の衝撃は確かに強いが、人間の俺でも耐えられる事を考えれば、体重にして十倍近くの身体を有するサラブレッドが心底から音を上げてしまうものではない。ましてやレラは生まれ故郷のクソ田舎で野生のまま育てられた剛の者だ、場内の出来事程度で精神が折れることなど絶対に有り得ない。
 ほんの数秒耐えさせれば落ち着きを取り戻すという確信があった。
「大丈夫か?」
 苦い土を噛みながら声をかけると、ハミをカチリと鳴らして応える。
「上出来だ」
 唇に張り付いた芝を吐き捨てながら前の状況を確認する。
 先頭までは十馬身、そこから三馬身程離れて二番手、更に二馬身離れて二頭が並走、その後に並んだ三頭のケツを眺める形の俺達は八番手。
 第三コーナー手前の坂を上がり切る寸前で右後方から被せるようにサブの馬が上がってきた。更にその外からはクリスも位置を上げており、示し合わせた訳でもあるまいが二頭で外への進路に蓋をされる形になっている。
 コーナー入口の角度を利用して埒沿いの後方を確認すると、四馬身程後ろで俺達を監視するように総司の馬が待機している。
 一〇〇〇メートル通過は六五秒三程度。府中の新馬にしても遅すぎるペースなのだが、にも関わらず有力馬が後方に固まり過ぎている。上位馬がこぞってレラをマークしているのか、或いは来年のクラシック戦線を見据えた乗り役が観察を目的にしているのかも知れない。
 いずれにせよ大欅も間近に迫って残りは八〇〇、そろそろ動き出す頃合いだ。
 外は相変わらずサブとクリスが二重に固めておりこのまま直線まで蓋をして進むつもりだろう。元よりそのつもりも無いが外からかわす道は消されている。
 後方から迫る総司は速度を上げながらも外に持ち出す様子はなく、こちらが仕掛けどころを誤ればコースに先着して進路を塞ぐ魂胆だろう。
 馬の差を騎手の差で埋める――総司の選択はこのレースにおける最適解だ。
 レラの地力の抜け具合からして、他馬がこのレースで勝利を目指すのならば、騎手の差を最大限に活かす選択肢しかなかった。彼等が選び得る唯一の勝ち筋は内に潜り込んで俺達のコースを奪い仕掛けを遅らせる事だった。
 外のサブとクリスに勝ちは無い、注意すべきはリスクを取った総司のみだ。
「前の隙間を抜く」
『隙間なんて無いぞ!』
「すぐに出来る」
 分厚くひしめき合う前三頭のケツは容易に捌ける壁とも見えないが、馬体をピッタリ併せたまま府中Bコースのコーナーを回り切るなどまずもって不可能な芸当だ。近いうちに必ず綻ぶ。
 一瞬の綻びに躊躇わずに飛び込める度胸こそが重要なのであり、レラの将来に与えるべきはその経験だ。
「合図したら躊躇うな、反応遅れると怪我するぞ」
 レラは自らハミを深く取り走る気を見せている。
 大欅を過ぎて第四コーナーに入る。
 コンマ数秒の間隔で徐々に膨れていく前三頭の様がスローモーションで視界に流れ込んでくる。僅かな隙間だがこのままコーナーを回り切る頃には余裕を持って抜けるスペースが出来ているだろう。
 最内から蹄の音が迫ってくる――恐らくは総司、仮柵沿いの最内。先に捻じ込まれれば内の馬が外に振られて隙間が潰れる。
「ここッ!」
 声を出しながら一追いすると、レラは一瞬で風を巻いて速度を上げた。
 内と真ん中の馬の間に空いたギリギリ一頭分の隙間へ、締まりかけた電車の扉に手を入れてこじ開けるようにクビを捻じ込み、外側の馬を弾き飛ばして前へと突き進む。
「大越てめえ!」
 弾かれた馬の騎手の怒声が聞こえたが知った事ではない。隙間を空けたお前が悪い。
 彼の馬、正確には壁となっていた三頭の馬達は、怯んでしまってもう競馬にならないだろう。
 G1クラスの追い込み馬の末脚は周囲に風の音を響かせる。風を裂くような、破裂音に似た何かが確かに聞こえるのだ。
 上がり三十三秒台の音。
 その音を聞いてしまうと並の馬は心が折れる。聞かされると「はいどうぞ」と思わず進路を譲ってしまう。
 レラが馬群に突っ込んだ時も、彼らは抵抗せずむしろ自分達から外に寄って進路を開けた。一瞬にして敵わない事を悟ったのだ。
「気持ち良いだろ」
 レラに語りかけながら四コーナー明けの直線へ向くと、壁となっていた三頭は既に後方へ消えていた。
 右手に持っていたステッキを視界に入る様にチラつかせると、叩いた訳では無くとも火が入る。
 追う必要はなかった。
 一般道を走る他馬に混じってレラだけ鈴鹿でF1をしているようなものだ。
 視線だけスタンドに向ければ、絶叫と歓声が入り混じった興奮が俺達を祝福している。場内実況が「エトゥピリカの夢の続きを」と一際大きな声で叫んでから、レラカムイの名を三度呼んだのが聞こえた。
 坂の中腹で先頭を捉えてもなお、レラの勢いは落ちなかった。消耗を避ける意味でも無理に走って欲しくはないのだが、俺は一切追っていないから馬なりに走ってこれなのだろう。
 上り切る頃にはブッチギリだ。ここまで後続を引き離してしまうと、遊んでしまわないかと不安になる面もあるが、手綱からの手応えは依然として力強さを増している。
 真面目なヤツだなあなんて呑気に考えているうちに、ゴール板は過ぎていた。


 検量室前まで降りて行くとちせと御大が出迎えてくれて、他の馬主達からも雨のような拍手が降って来た。どうにも普段より騒がしい気がしたので、ふとホースプレビューの方を振り返ると、G1レースでも無いのに、満員の観客がガラスに額をくっ付けて手を振っている。
「愛されてるな」
 自分の事のように嬉しくなってレラの首を馬上から撫でてやると、からかわれたとでも思ったのだろうか、面白くなさそうに鼻を鳴らす。
 気難しい小僧の反応に苦笑して、鐙から足を外した時だった。
『半分はお前だぞ』
 人混みの雑音に紛れ込ませるように、レラはぼそりと言った。
 聞き直すよりも先にちせが駆け寄って来て、レラの首を抱き締めた。
 芋とは言え女だから、駆け寄ってくる姿を見た時にほんのちょっと期待した自分が情けなくなる。所詮は芋娘であるからと心中言い聞かせながら鞍を外し、今度こそ俺の方に寄って来てくれたバレットの子に道具を預ける。
「騎乗増やしてくださいね、私のお小遣いの為にも」
 コッチはコッチで見た目は綺麗なのに言う事が現実的である。引きつり笑いで考えておくよと返しながら検量室へ、入る間際に差し出された御大の右手をハイタッチする事も忘れない。
 俺以外の六人は全て検量を終えており雑談しながら待機している。いつものようにやかましいサブと静かな総司が対照的だ。
「お前が割って入ったせいで総司の前塞がったみたいやぞ」
 秤に乗っていると、サブがからかうように小声で言う。
「仕掛け丸解りだったからな、助かったよ」
「言うねえ」
 ぼそぼそと言い合っている間に検量は無事終了、順位で整列して採決委員の確定を待つ。
 一着が俺とレラ、二着はどうやらサブの馬が来たらしい、四着にはコーナーで吹っ飛ばした強面の園田さんがいたので怒鳴られるかとも思ったが、おめでとうと優しく肩を叩かれた。総司は五着、前を塞がれても掲示板に持ってきたのだからやはり人馬とも流石という事だろう。
 採決委員から着順の確定が宣言されるや否や、サブが声を張り上げる。
「凛太朗の復帰祝いや、胴上げする奴この指とまれ!」
 冗談だろうと思ったが、栗東では騎手会の宴会部長を自認するこの男は案外人望がある。あっという間に騎手やら手の空いた関係者が押し寄せて、あれよあれよと言う間も無く神輿の如く表へ引っ張り出された。
「私もやります!」
 レースの興奮が冷めていないのだろうか、騒ぎに反応したちせが勢いよく手を挙げると他の馬主達も面白がって輪に加わる。
 レース直後だというのに勝ち負けなんて忘れた風に、地下馬道に馬鹿笑いが木霊した。
sage