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 調整ルームでは食堂に向かう数名のジョッキーと顔を合わせたが、こちらが声をかけなければ所謂未遂者を相手に積極的に声をかけてくるような物好きもおらず、すれ違った騎手会長のクニヒコさんから、いつも通りの朗らかな笑顔で「ようやっと復帰やな」と簡単な励ましを受けただけだった。
 そうして人を避けるようにして引っ込んだ個室のベッドに寝転がり、レースシミュレーションを始めてから小一時間が経とうとした頃のことだった。いかにも育ちの悪いノックで扉が殴られると返事をする間も無く聞き慣れた関西弁が部屋の中へとなだれ込んできた。
「生きとったんかワレこの死に損ないが!」
 挨拶も無しに、マシンガントークを浴びせながらベッドにダイブしてきたのは同期にして現在東西リーディングで六位という人気ジョッキーの沢辺武人【サワベタケト】、苗字と名前の頭一文字を取って通称はサブ。
 俺の生存を喜んでくれているのは有難いが、お互い三十を超えたオッサンであるにも関わらずいまだに競馬学校時代のノリで抱き付いてくるのは勘弁して欲しい。
「離せ、ホモかお前この野郎」
「いけず言うなやボケ、どんだけ心配したと思っとんねん」
「どの口が抜かすか、俺のお手馬喜んで漁ってた癖に」
「言うなって、お前が帰ってきた時の為にお馬さんの背中温めといたんや」
「じゃあ返せよ、ゴールドロード」
 ゴールドロードは俺の元お手馬であり、札幌での新馬戦から二歳ステークスまでコンビを組んで勝ち上がったが、俺がやらかした後はサブが主戦となって東スポ杯とスプリングステークスを勝ち今年のクラシック戦線を賑わせている。
 その名を口にした途端、サブは胡散臭い口笛を吹きながらそっと手を離した。
「馬主さんの都合もあるしなあ」
 悪びれる風でも無く呟かれると力が抜ける。
 本気で返せと言っている訳では無いし、当然サブに恨みがある訳でも無い。言うなればこの応答自体が気心の知れた相手に対するじゃれ合いに違いなく、実際サブと話していると肩の力が抜けて自然な笑いが出てくるのだ。
「菊はどうすんだ」
「長いやろ。先生もオーナーにそれとなくマイル路線勧めとる」
「正解だな、長くて二〇〇〇だ。ダービーはよく掲示板まで持ってきたよ」
「そこは乗り手の腕やがな」
 自身の腕を誇らしげに叩きながら言うサブの顔を半ば呆れて眺めた時、彼の視線が宙を彷徨っていることに気が付いた。そうして改めて伺うと、普段通りの馬鹿話をしていると思い込んでいた彼の表情はひどく強張っていて、その肩が落ち着きなく左右に揺れていたから、俺はその時、サブが地雷原を手探りで進むようにして会話を探してくれているのだと知った。
「悪かった」
 美浦に帰って来てからこの方、こんな苦労を背負ってまで声を掛けてきたのはサブだけだ。
 詫びを入れるとサブはようやく俺を見た。本当に立ち直ったのかと探るような視線だったので、問われる前に「もう大丈夫だ」と答えると、ようやく安堵したように深く息を吐く。
「戻って来てもレースに全く乗っとらんし、ワレがジョッキー続けるか解らんかったからな。みんなどう声かけて良いか戸惑っとるんや」
「なるほど、それも一理あるか」
「一万理くらいあるわアホ……食堂行ってみい、お前の話題一色やぞ」
「それはまた、寒気がするお話で」
 忘れ去られていた訳ではないのだと安堵した照れ臭さを隠すように、口からは軽口が漏れていた。
 サブは全てお見通しだと言わんばかりの小さな苦笑を零してから、どこから取り出したのか、缶ビールを一本投げてよこす。
 プルタブを引くとベッドダイブの余波が残っていたらしい、復帰祝いの乾杯が大量の泡を零しながらになるとどちらからともなく馬鹿笑いが溢れた。
 喉を叩く炭酸の刺激にオッサン特有の呻き声を漏らしてから、サブは小さな声で言う。
「話題になるのは昔から変わらんな」
「生憎お前と違って無名でね、そんな幸せな記憶はねえよ」
「嫌味かボケ。競馬学校の時も、騎手になってからも、話題の中心は大抵お前やったやないか」
「何だよそれ」
「初騎乗初勝利、デビュー二週目で重賞初勝利、話題にゃことかかんやないか」
「まあ、そりゃ運だわ」
 競馬学校を卒業したばかりの頃はバカヅキと言っても良いほどに運があった。デビューは三月の中山第二レース三歳未勝利戦、十六頭立て九番人気だったが、逃げ馬が他にいないから程度の気持ちで打った逃げが大当たり、ドンピシャで決まったゲートから一度もハナを奪われること無く逃げまくり、第四コーナーを回った時点で後続に十馬身以上の大差をつけた圧勝だった。最後の直線では真っ白になった頭で追いまくっていた為緩めてやる事が出来ず、手綱を預けてくれたテキから「馬を大事にしろ」と鉄拳を食らったのも良い思い出だ。重賞初勝利に至っては完全に運、三番人気の有力馬に騎乗予定だった先輩騎手が前のレースで落馬負傷した為にジョッキールームで暇をしていた俺にお鉢が回り、普通に乗って普通に勝ったという完全な棚ぼたである。
「競馬学校の時かてそうや。お前、ガースーに喧嘩売ったの覚えとるか?」
「須賀さんに?」
 須賀さんは競馬学校で騎乗技術の指導をしてくれた元ジョッキーで、指導があまりにも厳しいから、同期の間ではガースーなんぞと陰口を言い合っていた。
「負けても馬の負担が少ないレースをしろ言われて、お前ひとりだけ言い返したやないか。殺してでも馬を勝たせるのが騎手の仕事や、って」
 発言の苛烈さに思わず面食らってサブを見返すと、サブは真剣な表情で俺を見ていた。嘘ではないぞとその視線は言っている。
「お前以外の同期は全員覚えとるわ。捨てられた惨めな最期より戦いの中で死ねる方が幸せだから、何をしてでも、一つでも多く勝たせるべきだ……俗に言う大越名言の四番やな」
「大越名言って何だよ」
「俺が編集した凛太朗の名言集や、一〇八番まであるけど聞きたいか?」
「アホくさ」
 他人から聞かされて思い出す過去もある。
 呆れ笑いを見せながらではあったが、俺は、完全に忘れ去っていたその言葉を、俺が過去にしていただろう発言として受け入れていた。きっと、過去の俺は大真面目にそれを口にしていた。
 競馬村の出身では無いし、根からの馬好きでこの世界に入ったという訳でも無いから、競馬という競技の根底に感じた欺瞞をそう表現したのだろうと思う。
 競馬は優しいだけの夢じゃない。その本質は残酷な生存闘争だ。
 負けてターフを去る馬の行く末を知るにつれて、弱い馬達を競馬に出会う前の自分に重ねて感じるようになった。
 この世界には、俺や彼等の命を使い捨てのマッチみたいに気軽に消費出来る神様気取りの悪魔がいて、俺や彼等の命はそんな連中に都合良く使われるだけの消耗品だから、用を足さなくなれば、何の感慨も無くゴミとして捨てられる。
 媚びる為に、必死になって、パチンコ屋のホールで銀球を拾った事も、ボロの服を着せられて物乞いをしたことも、競艇場で散らばっている舟券を拾わされた事も、負けた時に殴られる肉体の痛みも、勝った時に得意気に振る舞われるチンケな焼肉が美味しくて悔しくてたまらなかった事も、その全てを、俺は忘れられないままだから、馬達の屈辱が他人事に思えなかった。
 だから、そんな青臭い発言をしたのだろう。
「いずれにせよガキの寝言だな」
 缶ビールを呷りながらサブに同意を求めたが、サブは首を振って否定した。
「確かに青臭いが、ジョッキーが忘れたらアカンことや。殺してでもっちゅうのは言い過ぎやが、勝たせてやれんなら俺らが殺すんと同じことや、全部の鞍にその気持ちで乗らんと……俺らは馬に生かして貰っとるんやから」
「慰めてんのか?」
「自惚れんな、矜持の話や」
 会話に集中していたせいで手元のビールはすっかり温くなってしまっている。これ以上味が落ちる前に残りを一気に飲み干した。
「明日の鞍、新馬戦だけか?」
 テーブルの上に散らかしていたレース資料を手に取りながら、サブが言う。
「そうだけど、お前は?」
「八鞍、メインも乗るで」
「毎日王冠? お前のお手馬出てたっけ」
「テン乗りや。ウチのエージェント、クリスと総司抱えとるさかい、クリスが蹴って総司も蹴ったら大抵俺んとこ回ってくんねん」
「うわっ、ハイエナ」
「言うな言うな。きっかけは何だってええねん、連中が蹴った馬で勝ちゃ馬主も次からは俺の方に先回すやろ」
 東西リーディングでブッチ切りの首位争いをしている天才二人を相手にそう言い切れるサブもまた、俺からすれば別次元の住人である。
「俺には想像出来ない世界だな」
 思わず漏れた率直な感想だったが、サブは突然ムッとしたような顔になった。
「情けない事言うなや」
「そうは言ってもな、クリスと総司相手に勝つってのは気軽に言えねえよ」
「んじゃ明日の新馬戦も負けるで、お前。二人共乗り馬あるからな」
「いや、明日は普通に勝てるだろ。乗る馬の能力が違うから」
「なんやねんお前ホンマ!」
「俺みたいな五流はお馬さんの力で勝って貰うしかないのよ、これが現実ね」
「お前な……まあええわ、気が抜けたし帰る」
「おう、帰れ帰れ」
 納得のいかなそうな表情のサブを手で追い払いながら、散らかしていた資料を拾い上げてクリスと総司の馬の情報を探る。馬の力は間違いなく抜けているだけに取りこぼしの要因となり得るのはむしろヤネの動き、となれば情報だけは頭に入れておく必要がある。
「そんなに強いんか、レラカムイは」
 まだ部屋を出ていなかったらしいサブの声に、視線は向けず首を縦に振って答えた。
「強い。アイツで負けるならそりゃヤネの問題だ」
「……ほなら」
「は?」
 意味ありげにボソッと呟いたサブの声が気色悪かったので、眺めていた資料から顔を上げてその表情を伺おうとすると、視線が合った。
「じゃかあしいボケ、さっさと寝え!」
 こちらは何も言っていないのに勝手に切れて勝手に叫んで、そうして勝手に出て行った。
 前検量を無事に終え、鞍とゼッケンを受け取る。
 府中と中山で使用する自前の鞍は、ほぼ一年ぶりに触れるだけに埃まみれになっていないかと少し不安だったのだが、丁寧に預かっていてくれたのだろう、最後に府中で騎乗した一千万下の時と感触はまるで変わっていない。
 騎手の手伝いをしてくれるバレットの女性に言外の感謝を込めて頭を下げると、察してくれたのか、俺の復帰を歓迎するような笑顔だけ返してくれた。
 一年ぶりの鞍と感慨を抱えて装鞍所へ向かおうとすると、検量室に関西弁の絶叫が轟いた。周囲のジョッキーが驚くような事は無い、普段からやかましい事で有名になってしまっている。
「何でや! 待って! ちょお待って! パンツ、パンツ脱ぐから!」
 声の主であるサブは大分錯乱しているようで計量秤の上で勝負服を脱ぎ始めており、先ほどのバレットの女の子などはいたたまれなさそうに視線を外している。騎手仲間は呆れたように眺めるヤツが半数、栗東組でサブと比較的仲が良い人間からは「パンツで足らなきゃ毛ぇ剃れや」などというヤジも聞こえる。
「パンツ脱ぐから! パンツ脱ぐから!」
 なおも叫び続ける騒音から逃れるようにして、検量室を出た。
 騒音から一転、耳鳴りがしそうなほど静かな地下馬道を踏みしめると、広いトンネルに反響したブーツの靴音は頭の奥深くまで沁み込むように届き、久方ぶりの心地よい緊張が脳髄に呼び覚まされる。
 地下馬道を抜けた先の、装鞍所の門の前では、見慣れた芋が一人立ち尽くすようにして中の様子を覗き込んでいた。
 それなりに気を遣ったのだろう、いつものジーンズではなく、まだ初々しさは残るものの一応スーツを着こなして、人に見られても恥ずかしくない平凡な格好。だがしかし、人気の少ない装鞍所の前で中の様子を覗き込もうとする姿は誰が見ても不審者のそれに違いない。
「何してんだ」
 声をかけると、振り返ったちせは心中の不安を隠しきれない風に目が泳いでおり、中の様子が気になって仕方ないようだった。傍から眺めていると、本人が必死なだけになおさら呆れ笑いが浮かんでしまうような光景だ。
 小学校の授業参観を思い出すような、遥か昔に見た、クラスメイトの母親達に似た雰囲気。廊下に並んだ母親達が、張り切って発表する彼らをこんな風に覗き込んでいたことを、よく覚えている。
「馬主がこんな所にいたら余計な詮索される。大人しく馬主席で待ってろ」
 ステッキの先端でフジビューの最上階を指して言うと、ちせは戸惑ったような表情でこちらを向いた。
「何だよ」
「いや、大越さん騎手だったんだなあって」
 俺の格好への感想らしい、こちらの力が抜けてしまう。
「そこかよ」
「だって、そういう格好初めて見たから」
「まあ、そんだけ力抜けてりゃいいさ……お前が緊張するとレラにうつるから、パドックに顔出すなら平常心で来い」
 気が抜けすぎないよう一言釘を刺し、促すようにじっと見る。
「馬主には馬主の付き合いがある、お前の役割だ」
 そうまで言ってようやく、ちせは渋々と言った具合に門の前から一歩を踏み出した。俺の横を通り過ぎる間際に、名残惜しそうにもう一度装鞍所の方へと振り返ってから、「レラのこと、お願いします」そんな風に言い残した。
 装鞍所の馬房を覗くと、どうやら今の段階から多少イレ込んでいるのだろうか、落ち着かない風に身体を揺するレラを御大がなだめている。
「ようやく来たか」
 俺を見るなり、疲れ切った声で御大は言った。
「装鞍所に入ってからずっとこれだ、敵わん」
「よしよし、緊張してんだよな。それとも、俺に会えなくて寂しかったかな」
『うるせえな、ウザいからその喋り方やめろ』
 相変わらず可愛げのない口調だが、身体を揺するのは止めたらしい。
「しばらく俺見てますから、鞍検量お願いしても良いですか?」
 御大はその言葉を待っていたかのように返事もなく頷いた。
 抱えていた鞍を預け、装鞍所検量室に向かう背中を見送りながらレラの首を撫でると、やはり多少汗を掻き過ぎているし細かく震えている。緊張しているのだろうが、これではレース前に干上がってしまいそうだ。
「新馬戦のこと、メイクデビューって言うんだ」
『は?』
 緊張を解いてやろうと頭の中で話題を探して、何となく口を出たのはそんな世間話だった。
「まあ馬には解らんだろうがな。見る側にとっては愛称がある方が特別に感じられるもんなのさ」
『特別?』
「どんな馬でも絶対に一度は走れる、自分が主役になれる特別戦だ」
 競馬はとても残酷だ。勝ち上がりより敗者の方が多いのだから一勝できれば御の字で、重賞どころか条件戦にも出られないまま消えて行く馬の方が多い。
 だが、新馬戦だけはどんな馬でも主役になってスポットライトを浴びることができる。未勝利のままターフを去る競走馬であっても後のG1ホースと対等な条件で競うことができる晴れ舞台。新馬戦とはそういうレースだ。
『別にどうでもよくねえか、そんなん』
 レラは言う、馬だから当然だ。主役だの脇役だのは舞台に立たずに外野から眺めている人間たちが勝手に決める事であって、ターフの上にいる俺達は全てのレースで必死になって走る事しかできない。G1でも、条件戦でも、未勝利でも、新馬戦でも、それは同じなのだ。
「それでも、周りにとっては特別なレースなんだ。だから、そんな舞台で緊張するのも当たり前ってことさ」
『またそれかよ』
「そうだよ。最初で最後の特別なレースだ、緊張することは悪くない。お前がどんだけヘマしても一着は取らせてやる」
『信用出来るかよ、お前だって一年ぶりじゃねえか』
「一年ぶりでも五千回はレースに乗ってる、下手な鉄砲もナンチャラってな」
 話しているうちにいつもの調子が戻って来たようだ。じっとり汗ばんだ首筋はもう震えていない。
「ともかく、今日は俺を信じろ。経験だけはお前よりある」
 ほんの少し力を込めて、人の肩を抱くように、両腕を回してレラの首を抱く。
『気色悪い、離せよ!』
「言う事聞くか?」
『聞く、聞くよ! だから離せ!』
「解った、離してやる」
 手を放してやると、レラは虫でも払うように身体を揺すった。熱すぎる程に高い体温も、こういう仕草も、本当に人間の子供にそっくりだ。

 パドック脇の控室では雑談をする数名の騎手から距離を取るようにベンチに座り、徐々に姿を見せ始めた馬達の姿を眺めていると、鎬総司が現れた。
 デビュー五年目の若手だが、日本人ジョッキーという限定付きなら三年連続、昨年は外国人を含めた全体リーディングの座をも射止めたこの青年は、往年の名騎手にして名調教師の息子として競馬村に生まれ、馬の背を揺りかご代わりにして育ったとも噂される、所謂ジョッキー界のサラブレッドだ。
 視線が交わったのは一瞬だったが、会釈もなく逸らされる。特段仲が良い訳ではなく、むしろ相性は悪いのかも知れない。競馬村における外様である俺とサークルの中心に立つことを宿命づけられた総司では一から十まで違っている。
「レラカムイ、一番人気やな」
 背中越しにサブの声がしたと思うと、断りもなく、勢いよく隣に腰を下ろしてきた。勢い余って俺に体当たりするような形になったのは意図的なのだろう。
「毛、剃ったのか?」
「剃っとらんわアホが、見せたろか。ブーツ変えたんがアカンかったみたいや、クリスのヤツに唆されてエライ目おうたわホンマ」
「前もって確認しないヤツが悪い」
「いけず言いよって。それより、エトゥピリカの応援幕出とるで」
 サブはパドックの一か所を指しながら言ったが、応援幕の前に陣取っているハゲ親父の存在を含めて、そんなことにはとっくに気付いている。
「あんま気にせんとけや」
「ご心配どうも、そこまで弱くはないさ」
 応援幕を掲げているハゲ親父は筋金入りのエトのファンで、エトの出走するレースであれば日本全国どこであっても必ずその応援幕と共に表れる男だった。エトがレースに勝つ度に段ボール一杯のリンゴとファンレターを厩舎に届けてくれる熱心なゲーハーであり、見た目が綺麗な女性であれば俺も有り難がっていたのだろうが、残念ながらゲーハーなのである。
 そんなゲーハー親父も去年の京都で見かけて以来だ。妙な懐かしさを覚えてしまう。
「挨拶くらいはしてやりたいけどな」
 出走前の騎手という立場でなければ気軽に挨拶出来る距離だが、そういう訳にはいかない。
「挨拶するより勝ったれや」
「確かに、孝行してくれるゲーハーには稼がせてやんないとな」
「勝たせたらんけどな」
「お手柔らかに」
 そうして世間話をしている間に整列の号令が掛かった。
 控室のだらけた空気は消え失せ全てのジョッキーが敵同士となり、俺とサブの間にもその一瞬で冷たい線が引かれた。
 パドックへ出て一列に並び、客へ一礼をしてから、それぞれの馬へと向かう。
 ヤネの動きに特に注意すべきなのは三頭。サブの騎乗馬は三番人気、総司は二番人気、クリスは五番人気。新馬戦など情報が無いから大抵は血統と騎手で人気が決まるものであり、サブと総司の馬は現在猛威を振るう種牡馬の産駒であるから人気になるのは当然、母親の差はさして無いから人気の差はそのまま騎手への信頼の差だろう。血統的にやや落ちるはずのクリスの馬が五番人気に押されているのは完全に騎手人気と見ていい。
 そうした中、俺という重りを背に乗せてなお単勝一倍台というダントツ一番人気に押されているのが我が相棒だ。
 新馬戦を買うようなコアなファン達は、血統のことも、生産者と馬主の事も、所属厩舎のことも、そして主戦騎手のことも、それらが意味する全てを知っている。
 レラはパドックの中心で御大とちせに囲まれて俺を待っている。御大は先程のように疲れ切った雰囲気ではなく、ちせも無駄な緊張は溶けたようだ。心配そうにレラを撫でる様は相も変わらず授業参観の母親だが、馬を不安にさせるような表情はしていない。
「作戦、任せて貰います」
 横に並び立ちながら、返事は聞かない。
 御大は面白くなさそうに一つ鼻を鳴らしたが、負ければ降ろすと短く呟いただけだった。そうして、スーツが汚れることなど気にせずに俺の脚を抱えると馬上へと押し上げる。
「勝って来い、凛太朗」
 背を張る一撃よりも重く熱い御大の激励と共に手綱を握る。
「激励は済んだか?」
 馬上から尋ねたちせは静かな微笑みで頷く。
「行こうか相棒、勝負の時間だ」
『クセえ台詞決めてんじゃねえよ、ヘボの癖に』
 すっかりいつもの調子が出たレラの首を軽く叩いてから、地下馬道の暗闇へ吸い込まれるように降りて行く。
sage