5(ちせ・更新分)

 ふかふかで温かい、気持ちの良い所から、無理やり追い出されるように、目をこじ開けられて、口元のかぴかぴしたよだれを、ジャージの袖で拭う、朝。
 騒音を撒き散らす携帯電話が、とても恨めしい。
 自分で設定した目覚ましなのだから、恨むのは筋違いなのだけれど、疲れを知らない機械にはこの気持ちが解らないのだと、気が付けばつい画面を睨んでしまう。
 睨み付けた画面には、AМ232と表示されている。
 私にとってはちょっと早い朝だけど、世間ではきっと真夜中。
 半分眠ったまま、のそのそと布団から這い出し、ケトルのコンセントを刺し込んでから、台所で顔を洗う。
 パジャマのズボンを床に落として、昨日脱いだジーンズに左足を入れてから、ケンケンパ。机の上に出しっぱなしの食パンを咥えながら、今度は右足を入れて、ケンケンパ。もそもそと口を動かしながら、昨日の夜使ったままのカップに、インスタントのカフェラテをあけて、ケトルがコトコト鳴り始めたらお湯を注ぎ、フーフーと息を吹きかけながら、飲み終わるまで五分くらいかかる。
 それからカップを洗い、歯を磨いて、大体二時五十分に家を出る。
 厩舎までは自転車で十分もかからないから、三時までには作業を始められる。この時期なら他の厩務員さんが出て来る前に雑用を終えられて、みんなが出てくるまでに少しの余裕を作れる。
 そうして時間を作り、レラの馬房でゆっくりする。レラはまだ寝ている時間で、時々立っているけれども、私が行くと膝を畳んでくれるから、彼のお腹を枕にして目をつむる。
 今日も私が行った時にはレラは立っていたけれど、私の顔を見ると、心得たと言わんばかりに膝を畳んで、ぐてんと寝藁に身体を投げ出した。声をかけてくれるわけではないけれども、使っていいよと言ってくれている。
 レラのお腹は温かくて、つやつやしていて、とてもうまくさい。くさいけれども、懐かしい。とても落ち着く、草の匂い。
 だからこうして目をつむる時間は、私にとって何よりも落ち着く。わざわざ他の人より早起きして厩舎に行く理由は何だと考えたら、このくささが第一に浮かぶ程度には心地よい。
 馬は立ったり座ったりしながら眠るから、レラも本当は立ち上がりたいかも知れないけれど、私が頭を乗せている時は、静かに座ったままでいてくれる。
 とても優しい、良い子だ。人の気持ちが解る、賢い子だ。
 競走馬になれなくても、足が遅い子でも、私は馬が好きだ。そんな話を家族にした事があったけれども、その時、おじいちゃんは頭を撫でてくれて、お母さんは微笑んで、お父さんは「向いてないな」と困った風に呟いた。お父さんの特製カレーを食べている時だった。
 レラのお腹でくさいのを嗅いでいると、とりとめもなくそんな記憶が浮かんでくるから、きっと、レラのくささには私の家が残っているのだ。
 とてもあたたかくて、とてもくさい、レラのお腹が、私は好きだ。
 そうして暫くまどろんでいると、お隣の馬房から朝を告げるニワトリみたいな大きな鳴き声が届くから、私はそれを合図に起き上がって馬房の外に出る。
 お隣のスープちゃんを担当している斎藤さんは、おんぼろスクーターで出勤してくる。スクーターは私よりも年上で、本当におんぼろだから、エンジンを旧式の湯沸かし器みたいにぽんぽんと鳴らしながら走る。その音は私が聞いてもそれだと解るくらいに個性的で、スープちゃんはその音で一日が始まる事を知っているから、とても大きな声で鳴く。もしかしたら私に教えてくれているのかも知れない。
 いかにも今まで作業をしていた風に取り繕って、現れた斎藤さんに朝の挨拶をする。おはようございますと頭を下げるけれど、斎藤さんは小さく頷くだけで今日も言葉は無い。
 斎藤さんは、私の事を好きでは無いと思う。本当ならレラの担当は斎藤さんになるはずだったのだから当然だと思う。馬主だから、酷く言うようなことはされないけれども、最低限の言葉以外は交わしてくれない。
 厩務員さんは担当している馬が稼いでくれた賞金の五パーセントを進上金として貰える。厩舎によっては担当が直接貰うのではなく厩舎全員で均等割りにするところもあるらしいけれど、臼田厩舎では担当さんが貰う事になっている。けれども私が押しかけて、実質レラの担当に収まっているから、レラの進上金はそっくりそのまま私のお給料に充てられることとなった。
 斎藤さんの立場を考えれば、いじめられていないだけ有難いのかも知れない。
 そんなだから、無言の圧力を感じることもあるけれど、高校の時に比べればへっちゃらだ。
 黙って作業をしていれば、私は馬主だからひどい事はされないし、怖いことなんて何もない。教科書に落書きをされたり、ジャージを切られたり、机に虫を入れられたり、そういうことをされないのだから、全く気楽だ。
 そう考えると、思い出したくもない高校生活も少しは役に立っているように思えるから、あんな高校でも少しは学校らしい意義があったのだと思えるから、不思議だ。
 考えながら作業をしているうちに、レラが前足を掻き始めて、間を置かずに大越さんが来る。騎手の癖にすっかり厩務員さんみたいになっていて、本職の厩務員さんよりも早い時間に出勤してくる。
「おはよ」
 お互い慣れているから、私も丁寧な挨拶はしない。向こうも適当に私を通り過ぎると、牧場の頃と同じように、まっすぐレラの馬房に行って遊び始める。
 大越さんとレラは、仲が良い。人と馬なのに、ましてや騎手と競走馬なのに仲が良いというのも妙な表現な気がするけれども本当に仲が良い。ウマが合うというヤツなのだろうか、スープちゃん達と違って、レラは大越さんの気配に気付いても出迎えるような素振りはしないけれども、それでもしっかり待っているのが解る。
 たとえば中学の教室、休み時間、一人でぼーっとしている時に友達がやってきたような感じ。大きな声で歓迎はしないけれども、よう、みたいな、そんな感じの迎え方。
 今日も二人で何かお喋りをしている。大越さんは笑っている、レラも何だか楽しそうにしている。あの二人はもしかしたら本当に会話が出来ているのかも知れないと思う。眺めていると、なんとなく、ちくちく、いらいら、するから、視線を外して作業を続ける。
 大越さんは、あれで結構巧いらしい。エージェント契約していないのに、他の厩舎からの依頼がそれなりに来ている。臼田先生が外に出ている時に留守番をしていると、大越さんへの依頼が来ることもままある。
 特にこの前のレラのデビュー戦で勝ってからは数が増えているけれど、全部臼田先生が断っているから、本人はきっと知らない。
 センセイ曰く、大越さんが他の馬に乗るのはまだ早いのだそうだ。
 センセイ曰く、大越さんは騎手に向いていないのだそうだ。
 センセイ曰く、大越凛太朗は唯一代わりがいない騎手なのだそうだ――これは絶対に言うなと口止めされている。
 私には良く解らない。
 エトの時、朝日杯に勝ってクラシック有力候補と言われ始めた頃に、鎬さんのエージェントから乗り替わりを考えないかという話があった。
 おじいちゃんからそれを聞かされた時に、私は大越凛太朗なんていう名前も知らないパッとしない騎手よりも競馬界の王子様みたいな鎬総司さんに乗って欲しいと思って、迷わずそうした方が良いと言ったけれども、おじいちゃんは静かに首を振るだけだった。その時は理由が解らなかったし、実際の所今でも解らないのが本当で、心の底ではやっぱり鎬さんに乗って欲しい気持ちがあるのかも知れない。
 あの日、エトが死んだ菊花賞の夜、エトが夢に出て、レラには大越凛太朗を乗せて欲しいと言った。この上なく流暢な日本語で、はっきりと言った。翌日おじいちゃんに夢の話をしたら、おじいちゃんはまるで同じ夢を見たみたいに、そうだなと頷いた。笑い飛ばしてくれる事を期待して話したのに、ひどく真剣な表情で頷かれてしまったから、私も信じるしかなくなった。
 だから、レラには大越さんが乗っている。
 そして今、大越さんと遊んでいる時のレラを眺めていると、あの夢は、夢だけれども本当で、私に大越さんの事を伝えたかったエトが頑張って出てきたのかも知れないと思う。そうだとすれば、慣れない日本語を話して、エトは本当に頑張ったのだと思う。
 どうしてそんなに頑張ったのかは、やっぱり解らない。
「おい、ちせ。検温」
 ぼーっとしてしまっていたのだろうか、声の方を向くと彼らはすっかり私のことを待っている。体温計を持って駆けて行き、馬栓棒をくぐって馬房の中へ入ると、まだ寝てるんじゃないのか、なんてからかわれる。
「起きてます!」
 大越さんは何かにつけて私を子ども扱いする、デリカシーの無いおじさんだ。
 こういう風にからかわれた時は、レラが大越さんをじっと睨んで威嚇してくれる。大越さんは負けじとレラに何か言い返すけれど、結局はレラが勝つからいい気味だ。
 やり合う彼らを他所にレラのお尻に回り込んで、尾に触れると自分から上げてくれるから、とてもかわいいお尻の穴に体温計をぷすりと射し込む。
 そうして一度あくびするくらいの時間でピピピ。今日の体温は三十七度七分。
「絶好調だね、レラ」
 体温計を抜きとって首にキスすると、レラは大越さんの事なんて放り出して私に頬ずりしてくれる。ちらっと横目で見るとむくれた風なおじさんが一人でぽつんと立っていて、やっぱりちょっといい気味だ。

 午前の仕事を終え、家で昼寝をしてから厩舎に行くと、慌てた風にブルゾンを引っかけたセンセイが扉から飛び出して来たところだった。
「どちらに?」
 今日の外出予定は聞いていなかったので、せめて行き先だけでも聞いておかなければ留守番も務まらない。
 センセイはやはり慌てているのだろう、口を二、三度パクパクさせてから、先生が来ていると言ったので、それだけで解った。
 センセイが先生なんて呼んで有り難がるのは、競馬を除けば唯一と言っても良い趣味の、つまりは将棋関係の人達だけだ。競馬命なセンセイが珍しくイレ込んでいる大事なものだから、この状況で意地悪く引き留めるのは気が引ける。
「お気を付けて」
 短く見送りの言葉をかけると大層嬉しそうにセンセイは駆けて行った。
 何故将棋なんて地味なゲームにイレ込むのかは解らないけれど、解る人には解る趣味らしくトレセン内の将棋好きは意外なほどに多い。前に大越さんから聞いた話では「騎手が厩舎を回って営業してた頃の名残かもしれない」なんてぼんやりとした分析を聞かされたけれども、本当の所はわからない。
 センセイが外出する時は、自動的に私が事務室の電話番になる。他の厩務員さんは担当の馬の面倒を見ているけれども、私の場合は呼んでも無いのに大越さんが来るだろうから、レラの世話から手を離せてしまう。
 そしてやっぱり、今日も大越さんは【カツオ君と遊びに来た中島君】みたいな感じでやって来て、当然の如くレラに鞍を付けて出て行った。行き先は聞いていないけれども、いつもの事だから誰も気にしない。
 寄せられた目撃情報では、特に目的も無く、トレセンのあちらこちらをぐるぐるふらふらしているらしい。時には、下馬して引綱も付けずに散歩していたとか、森林馬道で昼寝をしていた、なんてものまである。犬の散歩でもリードくらい付けるのだから、彼らの場合は本当にただのデートだ。
 レラが嫌がっていれば止めるのだけれども、どうやらレラも大越さんが来るのを当たり前な風に待っているところがある。かなり妙な習慣なのに、レラにとっても【中島君から野球に誘われたカツオ君】くらいには、日常の一コマであるらしい。
 私は留守番なのに、大越さんは一緒に行く。考えてしまうと、やっぱり少しちくちくして、寝藁を敷く手が荒くなる。
 馬房の掃除を手早く済ませ、事務室の片付けがてら留守番していると来客があった。引き戸越しに聞こえた「ごめんください」の声は若い男性で、語尾に少し関西訛りがあるような気がする。
 弱ったなあと頭を掻きながら、とは言え放っておく訳にもいかないので腰を上げる。栗東の人が来るなんてレース絡みの可能性が大だし、そうすると先生がいなければ細かい事は解らない。
 どうしようかどうしようかと考えている間にも足はすっかり戸の前に着いてしまって、覚悟を決めるより無くなった。
 素直に謝ろう。そう決めて、引き戸に手をかけて、出来る限りの笑顔を浮かべながら、「ごめんなさい、センセイ今いないんですが」と言いながら、相手の顔を見たらうひゃあと変な声が出た。
「うおッ……や、何かすんません」
 驚いた私に驚いて、端正な顔立ちをちょっと強張らせながら、鎬さんは背を小さく折りたたみながらぴょこんと頭を下げた。
 心臓が、うるさいくらいに、どっくんどっくん鳴って、呼吸が乱れる。
 あの、鎬総司だ。
 競馬を知らない一般人向けのテレビ番組でもエリート騎手として何度も特集されて、ファッション誌の結婚したい男性有名人ベスト10に競馬界から唯一ノミネートされていて(しかも三位)、競馬場に来る女性を一人で数百万人増やしたとも言われていて(競馬会発表)、高校で私をバカにしていた子たちも競馬と言ったら鎬総司で(エトは大越さんが乗っていたから勝つといじめられた)、つまりは競馬界のスーパースターである鎬総司さん。
 鎬総司さんが目の前にいる。その事実だけで、頭の中身が場外ホームランのような勢いで吹き飛ばされてまっしろけっけになってしまった。心臓は壊れてしまいそうなくらいの鼓動を打ち鳴らし、その振動で癇癪玉が打ちあがった時みたいに身体が震える。
「あの、いえ……取りあえずお茶でも」
 散らばった思考をかき集めてお客様用の対応を引っ張り出すと、上手く取り繕えたのだろうか、鎬さんはおずおずと顔を上げてお邪魔しますと微笑んだ。
 笑顔、優しそう。やばい、格好いい。
 またも場外ホームランにされてしまいそうな思考を必死に繋ぎ止めて応接用の椅子に通す。お茶の用意をしようとすると、急須を持つ手がカタカタ震えてしまい、音が鳴らないようにするので必死だ。
「あ、コーヒーでしたか?」
「お構いなく。でも、そしたら緑茶で」
 椅子に座った鎬さんは、少し落ち着かない風に辺りをきょろきょろと見渡していたけれども、やがて私を見ると視線を止めた。
 頭がフットーしそう、なんて表現を何かで見た記憶があるけれども、今の私は正にそれだ。でもとても幸せだから、本当に沸騰して死んでしまっても良いかも知れないなんて、思考はまともに回っていない。
「カムイの馬主さんですよね?」
「ひゃい!」
 上ずってバカみたいに大きな声が出てしまい、余計に恥ずかしい。
 鎬さんも戸惑った風になってしまったけれども、幸いなことに言葉を続けてくれた。
「普段から厩舎に来てるんですか?」
「あ、はい。牧場はもう閉めたので、やることがなくて」
「ああ、牧場の話は雑誌で拝見しました」
 世間話をしていると意識が会話にいってしまって、却って手元が落ち着いた。話しながら、いつものように入れたお茶を買い置きのおせんべと一緒に出すと鎬さんはひょうきんな風に手刀を切った。
 私の反応を伺うように上目遣いに覗いて来て、自然と頬が綻ぶとそれを見てほっとしたような表情になったから、案外とお茶目な人らしい。
 ずずず、とおじいちゃんのような音をわざとに立ててお茶を一口啜ってから、「今日はレラカムイを見せてもらいに来たんです」と簡単に言う。
「連絡も無しに失礼かとも思ったんですけど、近くに用事があったので」
「用事……あ、ローズクイーンですか?」
 今年のオークスを勝ったローズクイーンは鎬さんのお手馬で、四軒隣の貞廣厩舎に所属している。次走は今週末に京都で行われるエリザベス女王杯だから明日の追い切り絡みのことだろうか。
 鎬さんは少し大袈裟な風に頷いた。
「そうそう。向こうで先約があって追い切りに乗れないから、お詫びに。それでご近所だったし、この前の新馬戦も凄かったから」
 そうして鎬さんはおもむろに胴上げの仕草をした。【一緒にやったの、覚えてるでしょ?】とその視線が言っている。
 レース後の、大越さんの胴上げのことらしい。わざわざそんな風にしてみせる鎬さんがとても可愛らしくて、吹き出してしまった。
「騎手の人たちがあんなにアットホームな感じだと思わなくて、驚きました」
 レラのデビュー戦で胴上げした時、検量室からわらわらと湧いて出た一団に鎬さんが控え目に混じっているのを見て、私は迷わず手を挙げた。大越さんを胴上げしてあげたかった訳ではなく、鎬さんに近付きたかったから手を挙げたのが本当のところだ。
 私が手を挙げたら何故か他の馬主さん達も手を挙げたからもみくちゃにされてしまったけれど、胴上げは楽しかったし、もみくちゃにされながら近付いた鎬さんは、レラとは違う、男の人の、良いにおいがして、とても幸せな気持ちになれた。大越さんも少しは役に立ってくれると、正直思った。
「いつもはあそこまでじゃないですよ。あの時は特別、大越さんの復帰ですし」
「大越さんが? そんなにして貰える人なんですか?」
 御世辞かジョークか、どちらにせよ本気では無いだろうと笑って流していたら、鎬さんが大きな咳払いをした。もしかしたら私を嗜める為にしたのだろうか、そんな風に思わせる仕草だった。
「誰だって意識しますよ、魔術師が帰ってきたんだ」
「大越さん、そんなに巧いんですか?」
 鎬さんという超一流騎手が大越さんを褒めるのは、驚きだ。本人が知ったら怒るだろうけど、実際に驚いているのだから仕方ない。
 あの、調教助手なのか騎手なのか良く解らないような生活をして日がな一日レラと遊んでいるだけのおじさんが、鎬総司に褒められているのだ。
 驚きから、思わず食い気味になってしまったらしい。冷静になると目の前の鎬さんは戸惑ったように目を泳がせている。
 我に返ると、大越さんの事なんかで必死になっているみたいで恥ずかしくなり、耳が熱くなってしまうのを感じた。大越さんは良い人だろうけど、私としてはやっぱり鎬さんの方が巧いし素敵なのだ。
 鎬さんは仕切り直すように湯飲みに口を付けてから、小さく首を振った。
「勿論下手では無いですけど……巧いという表現は、多分、少し違うのかな」
 あまりにも真剣に言葉を探していたから、やっぱり下手なんだ、なんて笑い出せる雰囲気ではなかった。何かを真剣に形容しようとしている時の、言葉を探すための沈黙だった。
 首を傾げたまま、言葉を探しながら、鎬さんの声は続く。
「たとえば、後方からの競馬をしていて、内と外の二つのコースがある。内の方はギリギリの隙間で、そこに入れたとしても前を捌けるかは解らない。外の方はロスがあるけど、馬混みの危険は避けられる……とする」
 ふと、覗き込むような視線で私の目を見るから、ドキリとした。
 何となく頷いて返すと、鎬さんも安心したように小さく頷いた。
「そういう時、騎手は絶対に迷う。どれだけ訓練をしていても、レース展開を想定していても、百分の一秒に満たないくらいの短い空白が出来る、はずだ」
「大越さんは迷わない?」
 その問いに鎬さんはうーんと大きく唸るようにしてから、二度深く頷いた。
「そうだけど、そんな簡単に言えた事でも無くて……つまり、競馬をしていると、それこそ死ぬ事もあるわけだから、その空白の間もある意味では本能的なリスク管理に繋がっている……と思うんだけど」
 気軽に解ったふりを出来る雰囲気では無く、黙って聞く他に私に出来ることは無い。けれども、バラエティ番組で笑顔でインタビューに答えている時とは違う、真剣な表情の鎬さんを眺めていると、身体がポカポカ温まってくる。
「例えばF1のレーサーなんかも似たような事をしているのかも知れないけど、こっちはイキモノだから、自分の意志通りに動くか解らないでしょう。そんなだから尚更、命が懸かった場面で迷わないのは、自分の命を馬にくれてやる位の覚悟が必要で……要するに、すごいんです」
 話の内容は、正直今一ピンと来ない。けれども、それを話す鎬さんはとても素敵で、ぎゅっとされたくなるような、そういう感じだ。
「この前の新馬戦もそうだけど、大越さんと乗る時は常に先手を取られちゃう印象があって。だから、そういうことなのかなと思うんですけど」
 ぼんやりと眺めていたら、視線がバチッとぶつかった。どうやら話に区切りがついてしまったようで、どうせならもう少し眺めていたかったのだけれども仕方がない。
「大越さん、凄い人だったんですね」
 適当に、話の流れに合う言葉を返すと、鎬さんはほっとしたように微笑んだ。自分の説明が伝わっているか不安だったのだろう。大越さんの事なんてあまり気にしていないから心が痛んだけれど、ほっとした表情もやっぱり素敵だ、と思った。

 レラと大越さんが散歩に出ている事を伝えると、鎬さんはお腹を抱えて大笑いした。ひとしきり笑い終えると、今日は急ぎの要件も無いらしく、事務室で待たせて貰っても良いかと言う。私は勿論頷いて、折角だからと色々なお話をした。
 勝って一番嬉しかったレースは何か。――二年前の安田記念(鎬総一郎厩舎のタケノメモリーで勝った、鎬総一郎さんは鎬総司さんのお父さん)
 学校には行かないの? と鎬さんに聞かれた。――高校に通っていたけれども周りと合わなくて辞めてしまったのだと私は答えた。(鎬さんは俺も中卒やし気にしなやと慰めてくれた。空気が重くなったけれども、私が虐められた理由は鎬さんにもあることを冗談めかして話したら、ジョシは怖いなあ、と一緒に笑ってくれた)。
 デビュー戦はどんな感じだったか。(三年前の阪神競馬場第1回3日目土曜日第三レース三歳未勝利・ダートの一八〇〇。二番人気の馬に乗って二着だったけれど、悔しい思い出のようだった。この話をするときの鎬さんは、やり直したいレースだと何度もぼやいた)。
 当歳の頃のエトやレラがどんな子供だったのかと、鎬さんに聞かれた。――二頭ともとても優しい子だったけれども、エトの方が腕白だったと私は答えた。(エトゥピリカの名前の由来はエトが生まれた時にエトゥピリカが飛んできたから、レラの名前の由来はレラが生まれた時の風がとても気持ち良かったから、二頭ともお祖父ちゃんがつけたのだと、私は一緒に伝えた)。
 どうして騎手になろうと思ったのか。――他の仕事に就くことを考えたことが無いから解らない(そっちだって牧場以外で働くなんて考えたことなかったでしょ? と聞き返されて、なるほど確かにと納得した)。
 騎手になる時に家族は反対しなかったのか。――小さい頃からそうなるものだと思って暮らしていたから、特に反対も賛成も無かったらしい。(私が牧場を閉めたのは祖父の遺言だと伝えると、「うちも本当は同じようなこと考えていたのかも知れないなあ」なんて呟いていた。お父さんはともかく、お母さんからは今でも心配されるらしい)。
 映画を見たりゲームをしたりはしないのかと、鎬さんに聞かれた。――映画は、言われてみれば映画館に行った事は無いし、小さい頃にテレビでトトロを見た記憶くらいしかない。ゲームもあまりやった事は無い。私が正直に答えると、鎬さんは豆鉄砲を食らったような顔をして、そら勿体ないわ、と言った。
「テレビでやっても夜遅いし、寝ちゃうんですよ」
「うーん、まあ、確かに」
「九時以降のテレビは見ないから、バラエティはともかくドラマはさっぱり」
「言われてみるとそういう生活だよね」
「ゲームは、やったら面白いのかな」
「俺は好きだよ、ゲーム」
「どんなのやるんですか?」
「スマホのもやるし、あとはジョッキーになってダービー目指すゲームとか」
「そんなゲームあるんだ」
「あるある、結構良く出来てる」
「鎬さんがやっても楽しいんですか?」
「コントローラーの言う通りに動いてくれるから、現実逃避にはなるかな」
 ちっとも楽しそうに聞こえないので私は笑った。
「最新作が、今年の八月に出てさ、去年までの登録馬が再現されてるんだ」
「へえ、じゃあローズクイーンとか、レイカウントとかも」
 本当にゲームが好きなのだろう、私が話に乗っかると、鎬さんは嬉しそうに大きな動作で首を縦に振った。そうして、じっと私の瞳を見つめるようにしたので、不意に冷静にさせられる。
 冷静になると、顔が燃えそうになる。めちゃくちゃ格好いい男の人とこんな風にお話している状況に、ひどく舞い上がっている。
「エトゥピリカもいるよ、ダービーも勝った」
 真剣な瞳だった。私は、話の内容がゲームのことである事なんかもうどこかに飛んで行ってしまって、ただただその瞳に吸い込まれてしまっていた。
「ゲームでは、鎬さんが乗ってるんだ」
 鎬さんは首を横に振る。
「レイカウントで勝った、ゲームでは勝てたよ」
 浮かれていた頭をガツンと思い切り殴れたみたいな、そんな気持ちになった。たかだかゲームの話だと解っていても、鎬さんの言葉が何故だかとても冷たく聞こえた。
「ひどいなあ。どうして乗ってくれなかったんです?」
「たかがゲームなんだけどさ、なんかこう、気持ち的にね」
「ゲームくらい良いじゃないですか」
「うーん、まあそうなんだけどさ」
 しつこくなってしまったと後悔しても後の祭りだ。鎬さんは困った風に苦笑して、心地よく繋がっていた会話がぎこちなくなってしまう。
 失敗したなあと悔やみながら、時間はぼんやりと過ぎて行く。

 間が良いのか悪いのか、それから十分と経たないうちに大越さん達が帰ってきて、大越さんは事務室の中の鎬さんを見るなり珍獣でも見つけたかのごとく仰け反った。
「突然お邪魔して、すみません」
 折り目正しく会釈する鎬さんになおも固まったままなので、「レラを見に来たそうです」と付け加えてあげる。
「今、洗い場ですか?」
「……ああ、繋いである」
 不機嫌なことが丸解りなおじさんは、ぶっきらぼうに言い捨てながら鎬さんを促す。鎬さんはそそくさと出て行って、楽しかったお話の時間は御終いだ。
 みんなで洗い場の方へ向かう途中、大越さんが「何言われても降りねえぞ」と、私にだけ聞こえる声で呟いた。
 まさか私も降りて貰う気など無いのだけれど、なるほど大越さんの立場からすると不安になる状況だったのかも知れない。
「頼まれたって降ろしませんよ」
 本当は鎬さんに乗って欲しい気もするけれど、それとこれとは話が別なのだ。
 お世話になっているこのおじさんを、私だってそれなり以上に信頼している。それに何より、他でもないレラ自身が、大越さん以外の人間を乗せて走りたくはないだろう。
 それ位のことは、私にだって解るのだ。
 洗い場に繋がれたレラは私を見ると嬉しそうに首を振って、前に立つ鎬さんの事なんて視界に入っていないようだった。
「お帰りレラ、楽しかった?」
 話しかけながら額に手を置くと、自分から首を振って、グリグリと撫でさせられる。やっぱりレラはかわいい。
「改めて見ると凄い筋肉してますね、これで二歳馬か」
 鎬さんはレラの回りをぐるぐると回りながら、お尻から後足のあたりをまじまじと眺めている。
「調教、クソハードだからな」
 まだ鎬さんへの警戒を解いていないらしいおじさんが言葉少なく返す。
 私は二人を放っておいてレラの顔にホースで水を流し始めた。
「エトゥピリカによく似てますね」
「まあ、全弟だからな」
「エトゥピリカのお尻は嫌と言う程見せられたんで、お尻で解ります」
「その発言、変態みたいだぞ」
「この業界、みんなそんなもんですよ」
「見た目だけじゃない、中身も良く似てるよ」
「性格も?」
「いや、それはどうかな。エトはカッとなる所あったけど、コイツはそういう感じでもない。ただまあ、日頃の行いがね」
 それまで気持ちよさそうに水を浴びていたレラが大越さんの言葉に反応してブルルと威嚇する。大越さんは威嚇されたのを楽しんでいるみたいにケケケと笑っている。嫌なおじさんだ。
「乗ってみたいか?」
 嫌なおじさんは鎬さんに対しても嫌なおじさんだった。乗り替わりはしないと改めて伝えたのに、まだ意地の悪い質問をする。
 意地の悪い質問だけれども私は無性に鎬さんの答えを知りたくて、ブラシでごしごし擦りながら自然と聞き耳が立っていた。
「そりゃ乗りたいですよ――」
 当然だと言わんばかりの反応で鎬さんは答える。
 やった、と私は嬉しくなる。
 でも、言葉は間を置かずに続いた。
「――でも、この馬には大越さんが乗っていてくれないと」
 その瞬間、ホースから溢れ出る十一月の水なんかとは比べ物にならない寒気を背中に感じて、指先から血の気が引くとブラシがカタンと床に落ちた。それまでの浮かれ気分が全部吹き飛んでしまうような気迫。
 いじわるをしているのは、大越さんだけではなかった。鎬さんはイケメンで優しい男の人ではなくて、大越さんと同じ騎手だった。
「アマツヒってヤツか」
「日曜、京都の第五レースです。見れば解ります」
「意外と自信家なんだな」
「宣戦布告のつもりですから、来年の」
 大越さんも、鎬さんも、お互いに飄々としたもので、声色は笑っているけれども、会話の雰囲気からとても笑顔とは思えない。怖くて、二人の表情を見ることは出来なかった。
 知らんふりをして落としてしまったブラシを拾い、作業を再開すると、心配した風なレラが鼻を寄せて来たので、勢い跳ね返った水を被ってしまった。
 冷たかったけれども、やっぱりレラは優しいから、ようやく笑えた。

 汗を流し終えたレラを馬房に戻すと何も言わなくても大越さんとじゃれ始めたので、自然と手が空いた私は鎬さんの見送りに出ることができた。いつもであればムッとしているところでも今日ばかりは感謝してしまう。
 タクシーを待つ間、冬が間近に迫って夕焼も早まった頃合いは吐く息も白く染まる。緊張で火照っていたから気付かなかったけれど、よほど寒そうに見えてしまったのだろうか、鎬さんはしきりに「申し訳ないからもう大丈夫だよ」と言ってくれた。
 私はその気遣いを受け流して、静かに隣に立った。鎬さんも言葉は無かったけれど、それで良かった。きっと、私の人生でこういう事はもう二度と無いのだろうから、今日くらいは少し我儘になっても良いはずだなんて、そんな風に思った。
 そうして暫く並んでいたら、突然鎬さんが羽織っていたジャケットを脱いだ。
 寒いだろうにどうしたのだろうと眺めていたら、顔を逸らして、あさっての方を向いたまま、脱いだばかりのジャケットをずいと差し出してくる。
「寒そうだから、着て」
「でも、悪いですよ。作業したから汗かいてますし」
「気になるならあげるから、とにかく着て」
 鎬さんらしからぬ強引さで私の手にジャケットを押し付けると、早く着ろと催促する。ここまでされては断るのも妙だし、内心では飛び上がりたいくらい嬉しかったので、そそくさと袖を通した。
「ありがとうございます……クリーニング出して、送ります」
「ありがと、何なら捨てちゃっても大丈夫だよ」
 悟られないように、襟元に顔を寄せて深呼吸、してしまう。高級そうなジャケットは、鎬さんの優しい匂いがする。ダボダボした袖の重みが、男の人に包まれているようで、心地よい。
 ふと隣を見ると、私の目線より、ちょっと上に、綺麗な男性の横顔が見える。騎手としては長身で、一七〇センチあるらしい。私が小さいのもあるけれど、上目遣いに覗けるこれくらいの人が彼氏だったら良い。体重は五〇キロくらいなのだろうから、ガリガリかと思ったら、シャツの上からでも解るくらいに、二の腕が張っている。顔立ちも立ち振る舞いも全然そういう風に見えないのに、アスリートだ。
 まつげ、すごく長い。ぱっちり二重、綺麗に伸びた目尻、鼻、高い。本当に王子様みたいな顔だ、なんて思った。
「今日は、すみませんでした」
 まじまじと眺めていたところに不意打ちの言葉が飛んできて、やましいことだらけだったので、心臓がビクンと跳ねた。今、頭の中身を知られたら、変態過ぎて逃げられてしまうという確信があった。
「慣れてしまって、ため口になってしまったので」
 どうやら鎬さんは私の頭の中を覗ける訳では無いらしいと安堵する一方で、こんなに良い人に私は何をやっているのだろうと自己嫌悪の情が沸く。
「それは、いえ、却って嬉しかったので」
「そう言って頂けると助かります」
「本当に、出来ればこれからもタメ語でお願いします。ほら、私年下ですし」
 半ばやけくそくらいの気持ちで言ってみると、夕焼けた鎬さんはにっこりと微笑んで「それならお言葉に甘えようかな」なんて、どこまで王子様なのだろうかと思うような言葉を平気で言ってくれる。
「この業界、自分より年下の女の子と話す機会なんて無いから、つい」
「ああ、確かに。女の人、少ないし、鎬さん、若いですし」
「そうそう、たまーに外部のメディアさんとかで女の人と話すけど、苦手でさ。高校とか大学に行かないとああいうノリって解らないのかな」
「それなら、私も高校中退ですから」
 そんな話をしていたら、自然と二人で笑えていた。鎬さんの笑い声がとても嬉しくて、ジャケットなんか羽織らなくても十分なくらいに温かかった。
「でも、さっきは驚きました。宣戦布告なんて言うんですもん」
「あれは本音。ゲームなんていくら勝っても虚しいだけだから、やっぱり現実で勝たないとね」
「私、レラの馬主ですよ?」
「そう。だから悪いけど、来年のダービーは諦めて」
 鎬さんがどこまで本気で話しているのか、もう解らなくなっていたけれど、そんなことどうでも良いくらいに幸せで、脳が溶けてしまったのかも知れない。
 そうして楽しくお話をしていたら、やがてタクシーがやって来た。
「ジャケット、送ってくれるなら着払いでお願いね」
なんて、去り際の冗談まで鎬さんは素敵だった。

 るんたった、るんたった、スキップしながら馬房に戻ると、レラと大越さんが揃って何か変な物を見たみたいな視線を向けて来た。浮かれ気分が顔に出てしまったのかも知れない。
 気を引き締めてから、「どうかしました?」なんて、何でもない風に聞き返す。
「そのジャケット、どうした?」
 どうやら気になっていたのはジャケットの事らしい、人から聞かれると嬉しくなるけれども、こんな事で浮かれているのがバレたらただの気持ち悪い女だから、極めて冷静に、あくまで何でもない風に、「鎬さんが貸してくれました」なんて答えた。
「寒そうだから着てて良いよって、貸してくれたんです」
「へえ、総司がねえ……ん?」
 大越さんは何か気になる事でもあったのか、やや前のめり気味にジャケットを凝視すると、考え事をする時のように唸り始める。
「いや、しかし……うーん……でも総司って、確かに……そうか……なるほど」
「何なんですか、気になるじゃないですか」
 折角の楽しい思い出なのに、良く解らない難癖を付けられたらたまらない。睨みながら言ってやると、大越さんは面倒臭そうに頭を掻く。
「いや、何つーか、まあ、色々と」
「却って気になるじゃないですか、言ってくださいよ」
「……じゃあ言うけど、作業の時に白いシャツ着るのやめた方が良いぞ」
「は?」
「この仕事夏じゃなくてもどうしても濡れるし……それか下の方を考えるとか、まあ、何とかしろよ」
 ごにょごにょと、いつもの大越さんらしくない歯切れの悪さだ。
「今までも言うべきか迷った事はあったけど、お前、一応年頃だし、牧場育ちだし、却ってそんな事言う方が変な気もしてさ……まあ何だ、悪かったな」
「ハッキリ言ってくださいよ、何なんですか」
「だから、透けてんだよ」
 言われて、自分の胸元を見ると、確かに透けている。レラの水を被ったからだろうか、この上なくはっきりと、肌の色まで透けている。
 自分としてはどうでも良い気がするけれど、他人から言われると、ましてや鎬さんに見られたと思うと、頬が真っ赤に染まっていくのが解るくらいに顔が熱くなる。
「大した事じゃないけど、多分、総司は本当に免疫無いんだ。本物のエリートだから、アイツ」
 そうして言い終えてから、堪え切れなくなったように馬鹿笑いを始めた大越さんは、紛れもない、ただのセクハラおじさんだ。
 後ろ手に家の鍵を閉めた途端、腕にかけていたネイビージャケットの重みが急に存在を主張しだした。ずっと意識していたものが我慢できなくなったみたいに溢れ出て、心臓がばっくんばっくんうるさい位に鳴っている。
 鎬さんのジャケット。そう考えるだけで、ぶっちゃけ、とても興奮する。
 ぐへへ、変な笑いが出そうになる。
 突然、自分のことが下着ドロをした変質者に思えて、後ろめたくなる。
 申し訳なくなり、視線が下を向くと、自然腕にかけたジャケットが目に入るから、鎬さんの横顔が思い浮かぶ。
 思い浮かぶと、レラのお腹にするように、顔を押し付けて思いきりにおいを嗅いでみたい欲望が、むらむら、沸き起こる。
 ぐへへ――以下略。
 そんなバカなことを繰り返してしまう。
 周りに誰もいないから、仕方ない。鎬さんのジャケットは本当にいい匂いがするのだ。嗅ぎたくて、嗅ぎたくて、仕方がなかったのを、皆がいるから我慢していたのだ。皆がいなくなったら、仕方ない。そう思う事は、仕方ない。
 実際にやらなければいいのだ。思うだけなら素直なだけだ。行動しなければ変態じゃない。
 言い聞かせるようにしながらきちんとハンガーにかけて、明日クリーニングへ出すことに決めた。そう決めてしまえば何のことは無い。ジャケットのことなんて気にしないでいつも通りに過ごすだけだ。
 そう、いつも通りで良いのだ。
 ……
 お風呂で髪を洗っていたら、毎週日曜日と決めているはずのトリートメントを、レラの尻尾にする時くらい丁寧に、擦り込んでいた。
 身体を洗っていたら脇の下が気になったので、前に大越さんが物真似してたTМナンチャラという人のようなポーズで、十分くらい鏡を眺めていた。
 脇が大丈夫な事に安堵していたら、物足りないおっぱいが目について、前に雑誌で読んだ豊胸体操を何となく始めた。
 途中で少し寒くなったので、湯船に浸かりながら取り組んだ。
 結局、一時間くらいお風呂に入っていた。当然ダントツで自己最長記録。
 ……
 バスタオルで水滴を拭きとりながら、下着を入れた衣装ケースの前で考える。
 洗濯物をしまう時は何も考えずに突っ込んでいるから、手前にあるものから適当に取ると色も柄もバラバラになってしまうのだ。
 考え始めると、良い物を選びたくなるのも、素直な気持ちだ。衣装ケースの箱をひっくり返して、床一面に散らばった下着を組み合わせながら、生まれて初めて下着について考えた。
 すっぽんぽんで、湯気を立てながら。
 ……
 パンツとブラの神経衰弱に没頭している最中、ふと寒気が背中からうなじに沿って這い上がり、特大のくしゃみが飛び出た。
 我に返ると、肌からは湯気ももう立っていなくて、どれだけ時間が経ったのかも解らない。すっかり湯冷めしてしまった現実を突き付けられると、少しもいつも通りに過ごせていないことを認めない訳にいかなくなった。
 どうやら、フケが来てしまったらしい。
 いかにすべきか。
 いかに、と言っても選択肢は単純だ。馬のフケと違って人間は一度スッキリしてしまえば万事解決するのだから【いたして】しまえば良い。
 しかし、今日は【いたす】上でのオプションがあるのだ。
 ハンガーに吊るされたジャケットが、視界から消えてくれない。
 いかに、すべきか。
 ――どうせクリーニングに出すし、大丈夫でしょ。
 ――そんなの下着ドロと同じじゃん。
 ――知っているのは私だけだし、バレないよ。
 ――いくらクリーニングに出しても、そんな物を返されたら、私が下着ドロに同じことされたら、気持ち悪くて死にたくなるよね。
 ――何言ってんだか、鎬さんは捨てても良いと言っていたし、何なら余す事なくいたしてから捨ててしまえば良い。
 ――善意で貸して貰った物を、いくら捨てて良いと言われていても、本当に捨てるのはいかがなものか。
 ――それなら、代わりのジャケットを買ってプレゼントすれば良い。むしろクリーニングに出して返すよりもその方が良識的だ。
 ――そうしたら、このジャケットはどうしようか。
 ――男物のジャケットなんて持っていても仕方ないし、捨てるしかない。
 ――捨ててしまうのは、勿体ない。
 ――確かに、有効活用した方が良い。
 悶々とした脳内会議を繰り広げた結果、満場一致でオプションは加えられることとなった。誰に見咎められる事も無いとは知りつつも、ジャケットを取る手付きは本物の下着ドロのように慎重になっていた。
 ジャケットを抱きかかえながら、ねぐらに籠もるネズミのようにそそくさと布団に潜り込んで、何故か正座。最早下らない倫理や一般常識の一切は頭の中に残っておらず、ここに私は人道を踏破し一つの超人となり得たのだ。
 いざイかん!
 気合を入れてネイビージャケットに顔を突っ込み芳醇な香りを味わうように深呼吸をしようとした、その時――ジャケットが小さく震えて生地の内側から小さな振動音が聞こえた。
 なんと至れり尽くせりなのだろう。まさかバイブレーションまで搭載されたジャケットだったなんて、そこまで機能的なオプションだったなんて、道具を使うのは初めてだから少し緊張してしまう……
 って、そんな訳あるかいと突っ込みながら被っていた布団を跳ね飛ばしたら勢いひっくり返ってしまい、ベッドの角で後頭部を強打した。
 素っ裸の状態で芋虫みたいにベッドの上を転げ回る、下着ドロ未遂者と同類の私。天罰に違いなかった。


 翌朝、いつものように厩舎に行って、いつものようにレラのにおいを嗅いで、いつものように取り繕って作業をしていると、いつものように大越さんが来た。
「おはよ」
 いつものように通り過ぎて行こうとする手をむんずと掴んで引き留める。
 大越さんは眠気が一気に吹き飛んだみたいに、目をぱちくりさせて驚いた。
 私は、懐からブツ取り出して、押し付けるみたいに突き出す。
「何だ急に……携帯がどうかしたのかよ」
 大越さんはぼやきながら受け取って、何の遠慮も無しに操作を始める。
「ジャケットに入ってたんです」
 幸いにしてたんこぶになりはしなかったけれども、あの壮絶な痛みのお陰で来ていたフケも吹き飛んだので、私の行為は未遂に終わった。そのこと自体は喜ぶべきだろう。
「ああ、総司のか」
「やっぱりそうですよね」
「そりゃアイツのジャケットに入ってたならアイツの携帯だろ」
 何当たり前の事聞いてんだよみたいな感じで、大越さんは呆れた顔を隠さずに言う。
「それにしてもアイツ案外アホなんだな、携帯入れたまま貸したのかよ」
「誰にだってうっかり位ありますよ」
「まあ……お前見て動揺してたのかもな」
 朝っぱらからセクハラ発言、しかも私の顔をちらりと見て、ぷぷぷッ、って感じの馬鹿にした笑いを漏らす。このオッサン最低だ。流石に頭に来て携帯をふんだくる様に取り返す。
 大越さんは反省する素振りも見せずにレラの馬房へ入っていったので、私は仕方なく後を追いかける。
「鳴らなかったのか?」
「へ?」
「いや、普通は携帯なくした事に気付いたら鳴らすだろ」
 馬房の中でレラを撫でながら、さも当然という風に大越さんから聞かれると、昨晩の出来事を思い起こして後ろめたさが溢れ出る。
「昨日の夜、何回か鳴りました」
「出なかったのか?」
「急だったし……色々あったから」
 自分でも解るくらいにごにょごにょ口籠ると、大越さんの怪訝な表情がより一層深まった。それを見ていたレラは、大越さんが私をいじめていると勘違いしたのかも知れない、大越さんに身体を押し付けるようにして、じゃれているのだろうか、威嚇しているのだろうか、どちらともつかない。
「やめろって、俺は何もしてねえだろうが」
 楽しそうな大越さんとレラのじゃれ合いを眺めていたら、手にしていた携帯がぶぶぶぶぶぶぶぶ。震えた。
「お、お、お、大越さん! 電話! 電話! 鳴りました!」
「いや、そりゃ電話なんだから鳴るだろ……どうせ総司だろうし、出てやれよ」
「でも、でも!」
「あー、もういいよ、貸せ」
 大越さんは面倒臭そうに馬栓棒をくぐると私から携帯を取り、何でもない風に通話を取った。
「おー、どうも、おはよーさん、そう、大越……いや、ちせが気付いた。レラの馬主だよ、昨日いただろ、そうそれ。うん、うん、あー、そうか、へー……」
 大越さんはちらと私を見て、指で携帯電話を指しながら、代わろうか? とジェスチャーする。私は殆ど反射的に首を振る。代わっても満足に話せる気がしないし、昨日の後ろめたさが爆発してとんでもないことを言い出しかねない。
「……へえ、ならアマツヒの最終追い切り明日にズレたんだな? そりゃ丁度いいや……いや、こっちの話だよ。ちょっと待ってろ」
 大越さんは通話口を指で押さえると、私の方に向いた。
「お前今週暇だよな?」
「いや、レラの世話が」
「レラの世話以外は事務とかもないよな?」
「それは無いです、今週は出走予定も無いですし」
 大越さんは小さく頷くと指を外して通話を再開した。
「……ああ、待たせたな。携帯無いと不便だろ、そっち届ける。調教終わってからだから昼過ぎに出るけど、まあ夕方には手元に届くだろ……いや、流石に俺は行かねえよ面倒臭え、ちせが行くから」
「え?」
「良いから……あ、スマン、コッチの話。大丈夫だよ、コイツにとっても社会勉強になるしな。その代わり栗東の案内してやってくれよ……そうだな、多分北海道から出た事ねえし、京都駅まで迎えに来てくれ。ああ、ホテルとかその辺もお前やっといて……いや、普通は泊まるだろ。京都まで呼びつけておいて一日で帰すワケ? そりゃあいくら何でもひどいんじゃないの?」
 勝手に話を進める大越さんに、私はあわあわするより無かった。あわあわ手を宙に彷徨わせているうちに大越さんは全部終えてしまって、ぶつりと通話を切った。
「じゃ、そういう事だから」
 あとはよろしく、なんて鼻歌みたいに軽い口調で言いながら私の手に携帯をポンと戻し、また馬房の中に入ってレラと遊び始める。
 見かねたらしい斎藤さんが声をかけてくれるまで、私の時間は止まったままだった。
sage