6(ちせ)

 京都駅で出迎えてくれた鎬さんはこちらが恐縮するほどに何度も何度も頭を下げてきたので、私も自らの行いに対するやましさから頭を下げ返す形になり、どちらも譲らず数十分謝り合ってから、鎬さんの車で栗東へ出発した。
 てっきり高い外車でも乗っているのだろうと思っていたらカワイイ軽自動車だったり、けれどもエンジンをかけたらクラシックの音楽が流れてくる辺りはイメージ通りだったり、車の中は良い匂いがしたり、もっと緊張すると思っていたのに意外と自然に話せたり、だった。
「携帯届けただけなのに、却って得しちゃいましたね」
「せやでー。楽しんで帰って貰わんと、大越さんにも言われたしな」
 穏やかな手つきでハンドルを切る鎬さんは、大越さんの名前を出す時に少し声を固くして、緊張している風でもあった。
「鎬さんって妙に大越さんの事立てますよね」
 お互い散々頭を下げ合って取り繕う事も出来なくなった後だから、距離感も近くなっていた。言葉は気を置けずに口を出て行くけれども、きっと鎬さんは受け止めてくれるだろうなんていう妙なカクシンめいた思い込みが漂っていて、その感覚が心地よかった。
「尊敬しとるもん」
「ぜったいウソだ」
「何でそんな事言うんよ」
「だって、鎬さんは去年のリーディングで、今年も二位でしょ?」
「せやで」
「大越さんなんてイチバン良い時で三十位くらいでしょ、今年なんてレラ以外に乗ってもいない。そんなの、普通に考えたらイヤミですよ」
 赤信号が見えると車は徐々に速度を落として行って、その感覚は柔らかいと表現するのが一番ピッタリに思えた。きっとこの人は馬に乗る時もこれくらい優しく乗るのだ。
「一番人気で一回勝つのと、十番人気で一回勝つのと、価値は違っても数字の上では同じ一なんよ」
 背を丸めてハンドルの上に顎を乗せるようにしながら鎬さんは言った。
「価値、違うんですか?」
「同じって言う人もおるやろけど、僕は違うと思う。少なくとも、技術の巧拙を語る指標として星を数えるなら、それは明確に違う」
 フロントガラス越しの信号機を見ているのか、その視線は遠くへ向いている。
「ましてや厩舎所属でエージェントも付けないなんて今時絶滅危惧種みたいなジョッキーやもん、そらリーディング上位なんて入れる訳ないわ」
「良く解らないですけど、騎手って究極的にはリーディングが目標でしょう?」
「まあ、そういう所はあるわな」
「じゃあ、何でそんな非効率的な絶滅危惧種を尊敬するんです?」
「うーん……せやな。尊敬ってのは嘘だったかも知れん」
「ほら、やっぱり」
 鎬さんは至極真面目な表情のまま言い、それがまたおかしかったから、私はケタケタ声を出して笑った。
 スピーカーからはヴァイオリンの旋律が流れている。昔、音楽の授業で聞かされた曲で、メントスゾーンだか、メンヘラソーンだか、そんな名前の人の曲だった気がする。
 信号が切り替わり青になる。鎬さんがスッと身体を起こしてアクセルを踏む。牧場で使っていた軽トラみたいに揺れたりせずに、エンジンは静かに回り出す。
「でも、僕はあの人に勝ちたい」
 静かなエンジン音よりよほどに小さな呟きは、けれども確かに耳に届いた。

 トレセン入口のゲート脇には見上げるような馬の銅像が立っていて、美浦ではあまり感じない重厚そうな雰囲気に気圧されかけていると、鎬さんがとある馬名を口にした。ファンであれば誰でも知っている三冠馬だ。
「実物大なんやって」
「そう聞くと乗ってみたくなりますね」
「小さい頃なんかはゲート通る度によじ登ってたらしい。覚えてへんのやけど、親によー言われる」
「鎬さんはずっとここ?」
「先祖代々栗東市民。町と言うたら栗東か白井か、生粋の田舎モンですわ」
「総一郎先生の事は勿論知ってますけど、先祖代々って?」
「ひひ爺さんからこの稼業、厩舎としてはオヤジで四代目になるんかな」
「へえ、そうなんですか」
 感心して唸ったら、鎬さんは悪戯っぽく笑いながら、
「ウチの家この業界じゃ結構有名なはずやけど、モグリやな」
「自分で言うんですね」
「ま、言われるより楽やし」
 淡々と返す口ぶりも、恥ずかしそうな笑顔にも、爽やかさすら覚える諦観が滲んでいる。褒められるのに飽きて面倒になった人の表情だ。
「外様の零細牧場ですから、世間知らずなんですよ」
 面倒臭くなって社交辞令を一切省いて返してみたら、一瞬目を点にしてから浮かべた笑顔が本当に無邪気で幼くて、こちらの毒気が抜けてしまうくらいに、私よりも年下に見える。
 ゲートをくぐり美浦よりも数倍は綺麗な厩舎が立ち並ぶ栗東トレセンに圧倒されること数分ほど、車は目的地の藤井厩舎へと辿り着いた。鎬さんの後に着いて、まずは馬房で作業をしている厩務員さん達に挨拶をしてから、事務所の応接室へ通される。
「お茶用意してくるから、取りあえず座ってて」
「はーい」
 ソファに腰を下ろしてからそれとなく辺りを見渡すと、そこかしこに当たり前のように優勝トロフィーが飾られている。まず目に入ったのは鎬さんのレイカウントが勝ったついこの間の宝塚記念。その隣にあるのはリーサルオサルが勝った今年のフェブラリーステークス、その隣は……と言った具合に、眺めているだけで圧倒される程の、ここにないG1トロフィーを探す方が難しいのではないかというラインナップだ。臼田先生もエトがそれなりに立派な物を持ち帰ったはずなのだけれども、センセイは丁寧に応接室に飾ってみせたりしないから、幸か不幸か、こういう威圧感は出ていない。
「――なかなか凄いやろ」
 声に視線を向けると、お盆を抱えた鎬さんが立っている。
「藤井先生、この時間はシガラキ行っとるんよ」
「シガラキ?」
 私が問い返すと、今度こそ鎬さんは呆れた表情を隠さなかった。
「宮代さんの所の育成牧場だよ、知らないの?」
「外様の零細なんですってば」
「驚いた、今の時代に知らない人がいるんだ……ほら、俗に言う外厩ってヤツ。普段はトレセンじゃなくファームで調教して、レース前だけ入厩するの」
「はあ?」
「トレセンって、どうしても馬にはストレスあるやろ? 極端な話だけど牧場にトレセン並の調教設備があればその方が馬にとっては良い環境やん」
「まあ、そうでしょうけど」
 調教設備と簡単に言うけれども、鎬さんは牧場の現実を解っていないのではなかろうか。私の家の牧場にも一応レースコースのようなものはあったけれども、当然トレセンの設備とは比べ物にならない、一周1000メートルぽっちのただの柵だ。それにしたって、お爺ちゃんとかお父さんとかが山から材木を採って来て必死になって補修してきたものであって、とどのつまり、トレセンにあるような坂とか、プールとか、ダートとか、綺麗な芝とか、ポリトラとか、そんなものを牧場に用意できるはずが無いのだ。
「信じられんって顔しとるけど、ほんまやで。現状栗東で出来る事は全部シガラキでやれてしまうもの、坂路とかはむしろあっちの方が立派なもんあるわ」
「ってことは、藤井先生はそこで追い切りしに行かれたんですか?」
「当たらずとも遠からずやけど、競馬会の規則で直前の追い切りはトレセンでしかやれないから……ってか君、馬主やのにほんとに何も知らんのな」
「はあ……まあ、外様の零細ですから」
 しかし世の中には凄い設備があるものだ。臼田厩舎で暮らしているとそんな場所があるなどとは夢にも思わなかったけれども、こうして話を聞いてみるとそんな施設があるのならば使わない手は無いと思う。
「でも、それならなんでわざわざ藤井先生が行くんです? 追い切れないなら別の日に行けばいいじゃないですか」
「いや、藤井先生の場合はホンマに日課なのよ。毎日シガラキ通っとるの」
「家が信楽にあるんですか?」
 大真面目に聞いたつもりだったのに、よほどに間抜けな質問だったのだろう、鎬さんは力が抜けた風に笑った。
「自分の預かってる馬の様子を見に行ってるの。宮代さんの馬はレース前以外はシガラキにおるから」
 鎬さんは当たり前のように言ったけれども私の首はますます傾く。初めから栗東じゃなくてシガラキに厩舎を構えれば良いんじゃないかしら、なんて感想が浮かんだ。
 それからしばらくとりとめもない世間話を続けるうちに、うちの牧場の話になり、栗東にいるはずのクーの話題が出ると、鎬さんから意外な言葉が漏れた。
「スギノホウショウやったら次走僕が乗るわ」
 そう聞いた私は、嬉しいのは半分くらいで、どうして鎬さんが乗ってくれるのかという疑問が半分。クーはこれまで六戦して一度も勝てておらず、未勝利戦が終わってしまったこれからは格上挑戦するしかない。当然、勝てる見込みは他の馬よりも低いだろう。鎬さんクラスの騎手ならばもう少し有力な他馬を選ぶのが自然なはずだ。
「ありがたいですけど、何で?」
「馬主の、杉山さんからどうしてもって頼まれて、鞍も空いてたし」
「杉山さんに御礼しないとですね」
 牧場は閉めてしまったけれども、付き合いのあった馬主さんには年賀状位は出さなければなあなどと考えていると、鎬さんは溜息を隠さずに呟いた。
「僕が乗ったからってどうなる訳じゃないし、なんか餞別みたいで、こういう依頼のされ方って嫌なんだけどね」
「餞別……ですか?」
「次勝てなかったら少なくとも中央は引退だって。地方の馬主さんに声かけるとは言ってたけど……そういうのって、餞別みたいじゃん。やれるだけの事はやったって、言い訳作りみたいじゃん。あんまり露骨だと、やっぱり困るよ」
 鎬さんはボヤくような口調で語り終えると、一際大きな動作でソファの背もたれに身を投げ出した。経緯はどうあれ、鎬さんがクーに乗ってくれるなら私としては有難いので複雑な気持ちで苦笑していると、ちょうどそのタイミングで藤井先生が帰ってきた。
「おお、お客さんか。こんちわ」
 気さくな挨拶と一緒に、無造作に手を差し出されたので慌ててしまい、大仰に両手で握り返してしまう。その様がおかしかったのだろう、藤井先生は破顔して鎬さんへと向き直り、
「なんやソウ、お前やっと彼女出来たんか」
言われた側が顔から火を噴きそうになった。からかっているとは解っていても生理的な反応だから仕方がないのだ。
「何言うとるんですか、カムイの馬主さんですわ。アマツヒ見に来るてちゃんと言うたでしょ」
 呆れた風に、平然と返している鎬さんが、却って少し寂しかったりする。
「洒落や、洒落」
 藤井先生は私の手を両手で握り返すと、まるで子供と遊ぶ時のように、ぶんぶんと上下に揺すりながらじっと私の顔を覗き込み、へえ、へえ、二回呟いた。馬の様子を見るような観察の仕方だったけれども、決して嫌な感じではない。
 やがて、揺すっていた手を止めるとそっと頭を下げた。
「この後野暮用でまた出なあかんのやけど、ゆっくりしてってください。明日の調教も好きなだけ見て行って貰って構いませんから」
「ありがとうございます」
 ここまで歓迎されると思っていなかったので、戸惑いながら頭を下げ返すと、藤井先生は遠慮がちにこう続けた。
「それから、もしお時間があるなら総一郎さんの所も顔出して頂けませんか?」
「鎬総一郎先生ですか?」
「ええ。こいつの親父で、私にとっても兄弟子で……私ら二人とも茂尻さんのところの、カンナカムイ号とご縁があったんです」
 初めて聞く話だったので鎬さんに視線を向けてみると、目を合った彼も首を振っているから、どうやら知らなかったらしい。狭い世界だけれどもこうして聞くと奇妙な縁に感じられ、私の方も自然と興味が沸いていた。
「後でお願いしても良いですか?」
 流石に厚かましい気がして内心では恐る恐るのお願いだったけれども、彼は意外なほどにあっさりと頷いてくれた。どうやら親子の仲は悪く無いらしい。

 そうして連れて行って貰った彼の家は、トレセン居住区の一角にある、何の変哲もない普通の家だった。古い立派な門がある訳でも無く、かと言って吹けば飛ぶようなトタン小屋でももちろん無い、普通の一軒家。
「ただいまー」
 鎬さんはごく当たり前な風に、チャイムすら押さずに家の戸を開けたので、私は恐る恐るその後に着いて入った。今でも実家暮らしをしているらしいから、彼にとっては普通の帰宅なのである。
 居間に通され、促されるままソファに座っても、落ち着かない。家の中には誰もいないのだろうか、静けさに却って不安があおられる。
「緊張しとるん?」
 よほど妙な動きをしていたのだろうか、からかうように鎬さんは言った。
「それはそうでしょ、いきなりお邪魔するんですし」
「取って食う訳やなし、大丈夫やろ」
「そもそも、私友達の家とか行った記憶が無いんですよ」
「嘘やろ、マジか」
「だって隣の家まで五キロとかあるんだから、気軽に遊びになんて行けないよ」
「さすが馬産地出身」
「北海道舐めてたら死にますよ」
「ちなみに、ウチの隣は国彦さんの実家やで」
「国彦さんって、騎手会会長の笹山騎手ですか?」
「うん、あの人の家もずっと栗東。尤もご本人はもう住んどらんし、最近じゃ京都とかに家持ってる人間も増えたからね……と、せや!」
 鎬さんは不意に思い出したように立ち上がるとドタドタと音を立ててどこかへ走って行き、また数分と経たずに、またドタドタと音を立てて戻ってきた。
 手には数冊のアルバムを抱えている。
「写真ですか?」
「じーちゃんがカメラに凝ってたから、今時こんなんが段ボール一杯あんねや」
 鎬さんは悪戯っぽい笑顔を見せながらページをめくると、病院でお母さんに抱えられている赤ちゃんだった。
「これは僕が生まれた時」
「はあ」
「これ、脇に立っとるのが親父」
「あー、本当だ、競馬中継で見た事ある」
「んで、こっちのページが僕の世話をしとる国彦さん、当時は若手騎手」
「ホントだ、凄い」
「コッチはトレセンの夏祭りかな……ほら、サブさんおる、大越さんの同期の」
「あー、あのうるさい人、本当だ」
「ホンマ当時からクッソうるさかったわ、あの人も栗東出身……あ、コースケやんコイツ。吉岡康介って解る? 栗東の騎手で僕の一つ下やねんけど、小中一緒に通っとったの」
「皆知り合いなんだ」
「……で、こっちのページ、これ、僕と親父。乗っとるのその年のオークス馬、親父のお手馬やったんよ」
「え、ほんとに?」
「ほんま。調教師の先生が縁起が良いから言うて乗せてくれたんやと」
「コッチ僕二歳、これその年の有馬の勝ち馬……コッチ僕五歳、これその年の菊花賞馬……コッチ僕七歳でその年のスプリンターズステークス勝ち馬――」
「七歳にして既に風格ありますね、騎乗姿勢が素人じゃない」
「本格的に乗馬始めたのは小学生入ってからやけど、馬は毎日乗せて貰ってたからね。写真があるのはじいちゃんの気が向いた時だけ」
「凄いですね、このアルバム。ちょっとしたお宝画像ですよ」
「せやろ? 競馬関係者にこれ見せると、大抵皆喜んでくれんねや」
 ニコニコしながら写真を解説してくれる鎬さんは、自慢気だけれどもイヤミには感じなかった。たとえば小さな子供が自分の宝物を見せてあげている時のような、裏表のない自然さ、そういう可愛らしさがあった。
 この人は、騎手や、厩舎の人間や、馬主や、競馬記者なんかがひっきりなしに訪れる家で育ったから、そうした大人たちと関わる中で彼らに喜ばれる立ち振る舞いを学んだのだろう。それはきっと小さい頃からの、積み重ねたつもりも無いくらいの、彼にとっては生活そのものだったのだろう。そうして、彼は競馬に必要とされる技術の中でもおよそ最上のものを、周囲の人間から自然と教え込まれたのだろう。
 鎬総司という人間がある種の宿命を背負って生まれてきた事に気付かされると、目の前の青年の無邪気さは、同時に途方も無く恐ろしいものに感じられるようになった。それは彼が、私やレラにとって打ち勝たなければならない敵として存在しているからなのだろう。
 私たちが倒そうとしている相手は競馬界に望まれた英雄なのだ。
 暫くして、両手に大量の食材を抱えた総一郎先生と由布子夫人が帰ってきた。総司さんから連絡を受けた時点で来客用の買い出しへ行ってくださったのだという。挨拶を済ませるなりアレルギー確認をされると、遠慮するという選択肢は消えてしまった。
「買ってから甲殻類は危ないと気付いてな、大丈夫なら良かった」
 大真面目な表情でエビカニアレルギーについて心配してくれる鎬総一郎先生は、天才・鎬総司の父親であり、本人もまた名人級の騎手だったらしい。現役時代の事に詳しい訳ではないけれど、お祖父ちゃんやお父さんは鎬総司の名前を見かける度に【総一郎の息子】と表していたからそういう事なのだろう。
「そういう事には疎くてね。せがれもガサツに育ったもんだから、アレルギーなんて品が良いものとは無縁な暮らしだった」
 淡々とした口調で話す方だったので笑って良いのか迷ったけれど、
「そら百パーセント親父の遺伝やね」
総司さんがそんな調子で合いの手を入れてくれたので頬が緩むと、
「……おお、良かったわ。若い子にもまだワシのセンス通じるみたいやな」
総一郎先生はまた淡々と言うので、どうやらそういう方らしいと安心した。
「明日は調教を見学なさるとか」
「はい。アマツヒという馬の追い切りを見せて頂きたくて」
「例の馬か。して、宿はどちらに?」
 そう聞かれてふと我に返ると、あわあわ、焦った。何も考えずに出てきたはいいが外泊など初めてだ。ホテルを使うにも予約する方法を知らないし、そもそも未成年の人間が一人でホテルを取れるのだろうか。
 あわあわしていると、横から総司さんが口を挟んだ。
「草津のホテル取っとるから大丈夫。後で送ってくよ」
 よほどにあわあわしていたのだろう、子供を嗜めるような口調だったのが私からすると恥ずかしかったけど、ともあれ、野宿は避けられそうな事が解ると一安心ではあった。生半可な環境で育った覚えは無く、いざとなればたかだか一晩野宿するくらいは何とも思わないけど、トレセンの近所で野宿したなどとバレたら世間体がよろしくない。
「会館に泊まるのが一番やけど、予約二日前までなんやって。スマンね」
「とんでもないです、助かりました。ありがとうございます」
 総司さんは手を合わせて謝る仕草をしてきたので、多少大袈裟に首を振ってから深く頭を下げた。何から何まで手配して貰っておいてその上謝らせたのではいくら何でも立場が無かった……のだけれど――
「草津までのアシはどうすんねん」
――脇から届いた総一郎先生の声は、何故かそれまでのものより一段階階重くなっていて、ちょっと不穏な雰囲気だ。
「タクシー使えば市内よりもあっちの方が楽やろ、県道一本やし」
「ダホウ、元はと言えばお前が携帯忘れたせいやろ。タクシーやのうて車出すくらい言わんか」
 怒鳴ってはいないけれども何故か怒っているらしい。更に言えば私がここに来た大本の理由もしっかり伝わっているらしい。
 さておき、こんな風に恩人扱いされてしまうと自身の行動のやましさに頬が引きつる。『下着ドロ同然の事をしようとしました』なんて、とてもではないが告白できない。
「僕が迎えに行くんじゃ朝の三時とかになってまうし、却って迷惑やろ。勿論お金は僕が出すよ」
「言うに事欠いて金の話するアホがおるか、気持ちの問題じゃ」
「なんぼ気持ちがあっても追い切り前に車出すのは無理やし他に泊まれる場所なんて無いんやもの、仕方ないやん」
 親子の会話は徐々にテンポを上げていき内容もヒートアップしているらしい。当事者でありながらそっちのけにされている私は、ぼんやりとその様子を眺めながら、総司さんって地は結構コテコテの関西人思考なのかもしれないなんて話の中身とはまるで関係のない感想だ。
「ウチに泊まって貰ったらええやろ」
「アホかこんなボロ家それこそ失礼やないか」
「親に向かってアホとはなんじゃアホが。大体俺の賞金で建てた家をようボロ家なんぞと言うたなお前」
「そういうのを語るに落ちるっちゅうねん、最後にG1勝ったの何年前や」
「偉そうな口きくな、まだ一千勝もしとらんひよっこが」
 そうしていよいよギャーギャー止まらなくなってしまった騒動を前にすると、私は自らの鈍感力を最大限に活用して口を挟むより他になくなった。
「泊めて頂けるなら、それで」
「え? マジで言うとんの?」
 言い合っていた総司さんが驚いた風にこちらを向いて言う。
「あ、ハイ。マジです」
「それがええ、そうしてください」
 総一郎先生は満足した風に深く頷いている。
「いや、それでええなら構わんけど……本当にええの? お風呂とかむっちゃ狭いよ?」
 このままではいつまた始まってしまうとも限らない。
「鎬さんの家に泊まれるなんて、ホテルよりよっぽど良い記念ですよ」
 適当に流すつもりで返したけれど、少し本音が混ざっていたのかも知れない。
 八時を少し回る頃にはおなべの中身も空になり、総司さんが翌日に備えて早々にお風呂へ向かい由布子夫人がお片付けに席を立つと、私は総一郎先生と二人でおこたに埋まりながらテレビを眺めることになった。昔の、お父さんや、お母さんや、おじいちゃんがいた時みたいな、あったかいおこた。
 テレビにはレラのひいおじいちゃんにあたるカンナカムイのレースが映っている。配色が妙にキツイ昭和のカラー映像、実際に見るのは私も初めてだった。
「三十年以上前でもまだ覚えてるくらい不思議な乗り味でしたわ、よう覚えてます」
 御猪口を片手に持った総一郎先生はほんのりと鼻の頭が赤く染まっている。
「知りませんでした、乗ってくださったんですね」
「主戦の人が別の競馬場行っとってね、調教乗ってた私が乗せて貰えたんです」
「先生が調教に乗ってたんですか?」
「アンコの頃だからね、当然ですよ。追切だけじゃなく普段から調教に乗りに行って、そうして本番で乗る機会を貰うんです」
 大御所とされる方の下積み時代の話というのは、ある意味定番なのだろうか。けれど私からすると【あの鎬総司の父親】が、大越さんみたいな事をしているというのは到底イメージがわかない。
「総司もそうですが、今は、騎手が馬から離れすぎている気がします。分業だ効率化だと偉そうな言葉を並べてはいますが、私には建前に聞こえる」
 総一郎先生は少し寂し気に呟くと、画面に視線を移した。
「三角手前で追い始めてからの反応が段違いでしたね、もうこの時点で勝ちを確信してました」
「やっぱり末で勝負する馬だったんですか?」
「主戦が前目の競馬を好む人だったけど、私は調教の時から後ろから勝負した方が良いと思っていたんだ。人気も低いし、テキも任せてくれたからね」
 福島競馬場らしい小回りのコース、カンナカムイは四コーナー途中から先頭に立つと直線で他馬を更に千切って圧勝した。エトやレラに遺伝したのだろうと自然に感じるような圧倒的な末脚だ。
「乗り手が不安になるくらい、すごく背中が柔らかくて、エンジンがかかると前脚を振り出した時に背がグッと沈むんや。乗ったことは無いけど、チーターとかのネコ科動物に乗ったらきっと同じような乗り味なんやと思う」
 五十代の男性なのに、十代の少年のような若々しい口調で総一郎先生は言う。競馬のことを、そしてカンナカムイという馬のことを、本当に好きなのだろう。
「エトゥピリカを初めて見たのはレースの時でしたが、一目見てカンナカムイを思い浮かべましたよ。お陰で自分の所の馬なんかそっちのけだった」
「総一郎先生はG1だっていくつも勝ってるのに、そこまで言って貰えるとは思いませんでした」
 有難い事だと思った。私が生まれるよりもずっと前の馬だけれど、私の牧場の馬を、それも数十年前の馬のことを、これだけ一生懸命に語ってくれる騎手がいるというのは、本当に幸せなことに違いない。
「初めて重賞を勝たせてもらったという事も確かにありますが……何よりあの馬は、私が厩舎に入ってからずっと調教で乗っていたからね」
「調教で?」
 問い返すと、総一郎先生は御猪口の中身を一息に呷ってから頷いた。
「思い入れというか、騎手と競走馬の関係性の話かな。だから……そうですね、そういう経験をできないんだから、総司たちは可哀そうな世代かもな」
「可哀そう、ですか」
「想いで馬の力を引き出すという経験がない。今のサークルじゃそんな経験は積めないでしょう……と。いや、しかし、あるか」
 総一郎先生はそこで言葉を止めると、じっと私を見つめた。言わんとする事は何となく予想がついた。
「オーナーブリーダーも、厩舎スタッフも、調教師も、素晴らしいチームだと思う。何より大越君は良い騎手だ」
 面と向かって褒められるのはおもはゆく、そしてここでもやはり大越さんの評価が妙に高いのが腑に落ちない。
「総司さんもですけど、随分大越さんのこと買ってらっしゃるんですね」
「そりゃあそうです、私が引退を決めた理由は彼の騎乗だからね」
「……は?」
 文字通り、呆気に取られて、いかにも間抜けな反応しか返せない。
 総一郎先生はそんな私に気付かない風に、こう続けた。
「総司が乗るアマツヒという馬は、確かに強い。三冠という言葉が夢物語とも聞こえない程度には、現実離れした強さの馬です。
 しかし私は、トレセンに厩舎を構えている調教師としても、カンナカムイに乗った騎手としても、総司の騎手としての成長を願う父としても、レラカムイと大越騎手には簡単には負けて欲しくないんです。
 こうしてお話出来るのも折角の機会ですから、お伝えしておきますよ」
sage