7(ちせ)

 ――鎬総一郎元騎手、現調教師。栗東トレセンの鎬総吾調教師の長男として生まれ、鎬総吾の弟子である沢渡貞一厩舎の所属騎手としてデビュー、結婚と前後してフリー騎手となった。父・総吾が病床に臥せった際には調教師に転身するのではないかとも囁かれたが現役を続行、鎬厩舎のスタッフや馬は総吾の弟子たちによって分配管理されることとなった。息子・総司の競馬学校入学を見届けるようにして調教師試験を受験・合格し、騎手免許更新を行わず調教師へと転身した。
 初騎乗は阪神競馬場の未勝利戦で結果は十八頭立て九着、初勝利はその翌週の五歳上900万下という条件戦(五歳上という表現や900万下という条件戦にはいかにも年季を感じる)。重賞初騎乗はデビューした年の福島記念で十番人気の馬に乗って六着。重賞初勝利はデビュー二年目にカンナカムイ号で達成。
 G1初騎乗はデビュー三年目の春の天皇賞、十四番人気の穴馬を三着に押し上げた事で周囲から技術を認められたらしい、初勝利は同年秋の天皇賞でこの時もやはり八番人気と人気薄の馬で勝っている。
 中央競馬通算で二〇九二勝は歴代騎手として七位。G1級のレースも通算で二十七勝しており、並べられたお手馬の一覧には私が知っているような超ド級の有名馬も数多く並んでいる。
 長距離レースでの名騎乗ぶりはファンの間で語り草になっており、特に春の天皇賞では通算七勝という最多勝利数を誇っている。中には人気馬に乗っての大敗などもあるが、競馬評論家の宇崎修明は『実績からして人気が出るはずの無い馬でも総一郎が乗っているだけで馬券が買われた』と分析している。実際に当時の競馬新聞などでは長距離戦の総一郎がオッズに影響を与えるのは半ば前提として語られており、そうした事などからもファンの間では【魔術師】の二つ名で親しまれるようになった。
 この点に関しては総一郎自身も意識していたようであり、負けた直後の取材で『操れるのはオッズだけやな』とぼやいた事がある。
 宇崎はこの発言を『馬の力だけで勝てるレースは無いという総一郎の競馬観が自然と表れたもの』として取り上げ、更に『鎬総一郎に寄せられた【ある種の信頼】はファンのみならず関係者にも通じるものだった。実際にそんな話が語られるようになるとレース中の騎手はまず総一郎の動きを見るから、自然と総一郎の馬がペースを握るようになったのだ』と分析している――
 ……と、ウィキペディア先生によるとそういうことらしい。
 とどのつまり総司さんのお父さんは超一流の騎手だったのだけれども、そうすると腑に落ちないのは、今日のレースで久々の重賞勝利を挙げたからなのか、いい歳をしてはしゃいでいるおじさんの存在だ。
「レラー、好き好き大好き超愛してるぞー」
 レラの首を抱き締めて頬ずりする三十路のおじさんの絵面は傍から見ていても気色が悪いし、ちょっと怒った風なレラに甘噛みされて(レラにとっては甘噛みでも痣が出来るくらいに痛い)飛び上がったりしている様は、バカとしか言いようのないものだ。
 けれども。
 鎬総一郎は息子が競馬学校に入学したのを見届けてから引退した、とウィキ先生には書かれている、けれども。
 鎬総一郎氏本人曰く、大越凛太朗の騎乗を見て引退を決意した、のだ。
「んだよ、何か用か?」
 私の視線が気に障ったのか、おじさんは面倒臭そうに言う。
「いえ、別に」
「栗東から帰って来てからずっとそんなだな、お前」
「別に見てないですよ」
「嘘つけ絶対見てたぞ」
「……大越さん、総一郎先生とお知り合いですか?」
「知り合いっていうか、まあ騎手だからな。挨拶はした事あるぞ」
「鎬先生が大越さんの事べた褒めしてたんですけど、心当たりは?」
 大越さんは暫く視線を宙に彷徨わせて、記憶を探っているようだったけれど、一つも思い当たらなかったのだろう、怪訝な表情を浮かべている。
「人違いじゃねえかな、覚えがない」
「同じレースに乗ったこととかは?」
「それはまあ、普通にある。鎬先生の馬って大抵人気だったし、こっちは滅茶苦茶意識してたから覚えてる」
「結果は?」
「何回か勝った記憶もあるけど、負けた記憶は何十倍だぞ。細かい事は覚えてねえけど、やっぱり人違いだろ」
 とは言え鎬総一郎から評価されるのは騎手として光栄な事らしい、言葉とは裏腹に声の調子が弾んできている。たとえば先生に褒められた小学生、憧れの先輩から褒められた中学生、そんな無邪気な喜び方だったから、きっと本当に心当たりが無いのだろう。
「総一郎先生が騎手を引退した理由、大越さんらしいですよ」
「……は?」
 放り込んでみれば案の定、栗東でこの話を聞かされた私と同じような反応を返して来て、あの時自分もこんなに間抜けな顔をしていたのだろうかと思うと少し不安になるのだった。

 その日、レラが初めて重賞を獲った夜のお祝いは、厩舎にとってもまる一年ぶりの大きなレースだったから、お世話になっている装蹄師さんや出入り業者さんなんかも顔を見せてくださり、結構な賑わいとなった。倉庫に眠っていた専用の大きな鉄板を引っ張り出し、方々から勝祝いとして持ち寄られた大量の肉をひたすら焼く。ラムも、牛も、豚も、そこに肉の区別は無く、野菜と共にひたすら焼く。
「代わりましょうか?」
 鉄板と格闘する私に、蓬田さんが遠慮がちに声をかけてくれた。
「大丈夫です、焼きながら食べてますし」
「でも、馬主さんに焼かせて私みたいな記者が食べてるというのは」
 私に気を遣ってくれているらしいけれど、言われて困ってしまう。
「道民の性というか、牧童の性というか、焼かせて貰った方が落ち着くんです」
 言いながら自分でも呆れ笑いが出てしまうような間抜けな話なのだけれども、それが事実なのだ。牧場を出るまでは気付かなかったけれども、どうやら私は内地の人間が鉄板で野菜と肉を焼いているのを見ると山の作り方が気になってしまうという、心底どうしようもない性質らしい。
 本来臼田厩舎の勝ち祝いで肉を焼くのは臼田先生の仕事だったのだけれども、特にこだわりがあった訳でも無いようで、お願いしたらあっさり任されたことは有難かった。肉と野菜のバランスを気にしてお祝いに集中出来ないようでは先々苦労が増えてしまう。
「鍋奉行みたいなものでしょうか」
「そんな感じですかね……あ、この肉どうぞ」
 程よく焼けたラムをひょいひょいつまんで蓬田さんのお皿に放り込みながら逆の手で近場にあったビール瓶を握る。
「お祝い、本当にありがとうございます」
 軽い挨拶と一緒に軽くなってしまっていたコップに注ぐと、ヨモギダさんはおっとっと、ちょっと勢いがついて溢れそうになった泡をずずずと一舐めした。
「沢山食べて行ってください。そちらのお言葉を借りて申し上げるなら、馬主がそうしてくださいとお願いしているんですから」
 そうまで言うとヨモギダさんも納得してくれたらしい、しっかり頷いてから勢いよくコップの中身を空にした。
「こんなに楽しい酒、就職して以来初めてですよ」
「そんなに言って貰えるとこっちとしても有難いですね」
 注ぎ足そうとビール瓶を構えるとふらりと大越さんが現れて、私の手から瓶を奪い去る。
「ガキが気安く酌なんてするんじゃない」
 自分で蓬田さんのコップに注ぎながら、ザ・おじさんのお説教。
「大越さん、ホントにおじさんの感性ですよね」
「バーカ、未成年の女が酌してたなんて記事を書かれたら厩舎が終わるんだよ」
「そんな記事は絶対に書きませんよ、僕はレラカムイの熱烈ファンですからね」
「もう少し公正とか公平って言葉を覚えろよ、ヨモギダ君」
「そんな建前どうでも良いですよ。それより、今日で僕は確信しました。来年のダービーはレラカムイが勝ちます」
 まだ酔うには早いだろうけど、蓬田さんにしては珍しく語気が強まっている。
「先週のアマツヒのデビュー戦、確かに強いですが、言うほどのインパクトは感じられなかった。対してレラカムイ、デビュー戦もそうですが、今日の勝ちは圧巻ですよ、とても二歳馬の走りじゃない」
 蓬田さんがまくしたてるように一息で言い切ると、大越さんは却って醒めてしまった風だった。
「それより、頼んでおいた件は?」
「ああ、ある程度は……ただここだと」
「一応この場は八時目安でお開きにするから、それから事務室でな。俺とテキと……後はまあ、コイツもか」
 肉を焼きながら話を聞いていたら、突然私も話に加えられたらしい。しかも心底オマケみたいな扱い。鉄板から視線を上げて大越さんを見ると、呆れた風な顔つきでこちらを見ている。
 何さ、そんな顔してたら肉あげないよ。と、口には出さないけど、そういう視線で返してやる。
「何の話ですか」
 大越さんは答える代わりに空の皿をずいと差し出してきた。肉をよこせ、という事らしい。多少の不満は残るが与えてやらねば口が止まる。
 一枚だけ、程よく焼けたラムをお皿に入れてあげるけど、二枚目はつまんだまま待機。
 肉が欲しけりゃ教えろなんて、こちらの意図を察したのかは知らないけれど、大越さんはちらりと周辺を確認するような素振りを挟んでから、
「今後についての話だ」
そんな風に、小声で言った。
 テレビ画面に映し出されている映像は今日の府中ではなく先週の京都競馬場、オッズも、展開も、勝ち馬のことも、ここにいる全員が知りすぎる程に知っているレースだ。
『――続きましては第五レース、芝一八〇〇メートル、一〇頭立ての新馬戦になります。断然の一番人気は、当然とするべきなのでしょうか、四番アマツヒですが、単勝で1・1倍となりました。この人気、これについて率直にいかがでしょう、解説おなじみ競馬クロニクルの遠山さんです。』
 専門チャンネルのアナウンサーが手慣れた調子でレース前の情報を紹介する一幕にもそのレースの異様さが滲み出ている。出走前から全ての話題を攫っているのは例のアマツヒ君だ。
『――そうですねえ、こんなにかぶるものかと驚きましたかね。馬体は四六〇程度で兄弟と比べるとやや小柄ですが、血統的な背景は勿論陣営から聞かれる話でデビュー前から騒がれていますからね、ファンの皆さんが事情に詳しいという事でしょう』
『実際に走りをご覧になった事は』
『走る馬です、順当に行けば間違いなく勝つと思います』
『なるほど、ありがとうございました……さあ、奇数番各馬がゲートに収まりましてこれから偶数番へ進みます。なお単勝二番人気は八番のペニージョージで9・4倍、三番人気は一番のポンポコリンで13・7倍です――』
 温かい緑茶を啜りながら、画面から視線を外して事務室に残った面々を見る。意外にもとするべきなのか、顔を赤くしているのは一番真面目そうな蓬田さんだけで、大越さんも臼田先生も醒めた表情で画面に集中している。
「このレース、どう見た」
「展開は悪くなかったと思います。前から行ったクリスと明田さんはスタートスムーズに出したし、後ろから行く邦彦さんとサブの馬で巧く挟んでる。全員でアマツヒをマークして負かす乗り方になっています」
 尋ねた臼田先生も答えた大越さんも視線は画面から外そうとせずに、いつになく真剣な表情だ。
「ササクニとクリスの馬も宮代の馬だったよな?」
 その質問は情報役として同席を許された蓬田さんへ向けられたものだったのだろう。慣れた私でも思わず鳥肌が立ってしまうような、研ぎ澄まされた刃のような雰囲気。蓬田さんも、怒られている訳では無いはずなのに、声を向けられた途端に姿勢を正した。
「ああ、えっと……はい、そうです。両馬宮代ファームの生産ですね、ただし笹山騎手のペニージョージはダイナース、クリストファー騎手のグローブタイタスはシュラインですから、所有は別名義です」
「その二つなら結局同じようなもんだろう、要は宮代の集金箱だ」
 いかにも面白くなさそうに、臼田先生は吐き捨てた。二つとも宮代グループ直系のホースクラブで、そして臼田厩舎とは犬猿の仲だ。
 宮代グループが生産した優秀な馬は、セリに出す前に、そうした直系ホースクラブへと優先的に回される。当然よく走るからクラブの評判が上がって出資者が沢山集まる。要するにグループが主催する一口馬主会だ。株を買うような感覚で馬に投資する人たちの窓口と考えるのが適切だろうか。その様子を先生風に言うなら、宮代の集金箱となるのだろう。
「系列クラブの所有に絞ればその二頭になりますが、宮代ファームの生産馬という事ならばこのレースは他に二頭、沢辺騎手のゴッドフリートと村山騎手のアンクルサム、それぞれ個人所有です」
「なるほど……が、レースを見る限り協調する風では無いという事だな?」
 臼田先生は大越さんに視線を向けながら、念を押すような問い方だ。
 大越さんは画面を睨んだまま頷いた。
「少なくともこのレースのアマツヒは徹底的にマークされています。宮代系列の馬、クラブや生産者繋がりで何らかの意思が働けばまず有り得ない展開です」
 レースの録画映像は進み、有名な淀の坂を上り始めている。映像は一番人気のアマツヒを中心に据え先頭から最後方がきちんと収まる様に、集団を映している。アマツヒ君は前を行く馬からおおよそ四馬身程度離れての四番手を集団で追走している……というより、ギチギチに囲まれてしまっていると表現した方が正しいのだろうか、周りの馬から進路を閉ざされて自由がきかなくなっているように私には見えた。
「これは、鎬さんの騎乗ミスなんでしょうか」
 何となく漏らしてしまった言葉は、大越さんに鼻で笑われた。
「普通は、ラビットとは言わずも、宮代系列の馬はある程度共倒れにならないように協調する。ここまで露骨にマークした事実は考えるべき材料なんだよ」
 要するに、周囲が徹底的にアマツヒをマークして潰しに行っているレースであり、総司さんの騎乗ミス云々とは次元が違う話だと言いたいのだろう。一応は関係者なのだからあまり間抜けな分析はするなと釘を刺されたようでもある。
「解せんな」
 臼田先生は小さく呟くと、灰皿を手元に寄せながら煙草に火を点けた。
「宮代本人が個人所有するくらいイレ込んでいる馬なんだろう。重賞ならともかく、新馬戦からこんなにバチバチやらかす理由がどこにある」
「別のレースを使えば良いのに、って事ですよね」
 仮に私が宮代さんの立場だったら、自分の馬を敢えて同じレースに出そうとはしないはずだ。どちらも良い馬で自信があるならなおさら、別々のレースに出して両方とも勝つ事を期待する。それが普通だ。
「そうだ。尤も、宮代の生産馬が他に一頭も出ないレースを探すなど今の日本競馬ではまず不可能な話ではあるからな。そこはお前さんとは違う話だ」
「どうせウチは外様ですよ」
「外様だからウチで預かったんだ、宮代の馬なんざ俺は絶対に受け入れんよ」
 臼田先生は豪快に笑いながら言ってみせるけれども、この話を関係者が聞けば、百人中百人が、干されているのは臼田先生だと言うだろう。今の競馬界で生き残る方法なんて【いかにして宮代の馬と繋がりを作るか】が全て、栗東で総一郎先生が話していたことも結局はそれなのだ。
「その事についてなんですが」
 ふと、蓬田さんは発言を求めるように挙手をした。臼田先生が顎でしゃくるようにして促す。
「このレース展開についてなんですが、どうも宮代さんご本人が意図していたんじゃないかって、そんな噂があります」
 蓬田さんが言うや否やのタイミングで、よどみなく流れていたレースの映像が突如一時停止した。リモコンを手にしているのは大越さんだ。
「話の出所は?」
 よほど気になったのだろうか、蓬田さんの方に身体ごと向いている。
「トラックマンのタナトラさんです」
「タナトラって……確かか?」
「はい、本人が話した場に僕も居合わせたんで、間違いないです」
 大越さんの反応は驚きに満ちていて、答える蓬田さんもスクープを語る記者そのものと言った自信あり気な声色、臼田先生も声には出さないけれども眉を寄せて思考を巡らせているようだ。
「タナトラさんって、誰ですか?」
 唯一人理解出来ていない私は、おずおずしながら、一番聞き易い蓬田さんに小声で尋ねた。
「鎬騎手やクリストファー騎手のエージェントを務めているトラックマンの人で……要は、宮代グループの内情に一番詳しい関係者ですね」
「おお、それならかなり信用できる情報ですね」
 ようやく話の流れを理解出来た喜びから軽い調子で言うと、
「しかし、そんな迂闊な発言を漏らす人間でも無いはずだが」
無言で考え込んでいた臼田先生が横からバッサリ斬っていく。
 提供した情報を疑われた形の蓬田さんは、けれども気後れする事も無かった。
「ですから、ここからが本題ですよ――」
 なおも自信満々の表情でそう言うと、鞄からタブレットを取り出して説明を始める。
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