2(凛太朗)

 朝は習慣で四時半に起き、モーニングコーヒーを一杯引っかけてから朝食の用意をする。最初の頃はちせが作ると言い張っていたが一度風邪をこじらせてダウンしてからは強制的に交代制とした。
 昼夜放牧を行っているとちせから聞かされた当初は驚いたものだった。この牧場の広さでそんな事が出来るはずないと思い込んでおり、連日の馬房清掃で重労働になる事を想定していたのだったが、馬が馬房に入るのはカイバを付ける時くらいなもので、あとは一日中表で遊んでいる。
 秘密は裏山にあった。柵で囲ってある範囲は狭いが山自体が自分の家のものだからと、本当の意味で放し飼いしているのだ。冗談のような話だが俺も自分の目で確かめたから本当だ。彼らは沢で勝手に水を飲み山の適当な草を食べるという野生の馬さながらの生活をしておよそサラブレッドらしからぬ異常に図太いメンタルを鍛え上げていた。
 とはいえ北海道の山なぞ熊やら野犬やら肉食の野生動物がウヨウヨしているのではないかと不安になった事も事実だ。最初の頃の数日間はどうしても気になったのでレラの背に乗って彼らの遊びに付き合ったが、結果はそれが全くの杞憂である事を思い知らされただけだった。
 この三頭の馬、そんじょそこらの野犬程度であれば余裕で蹴り殺してしまうのである。俺が付き合っていた時も運悪く四頭程の野犬の群れに出くわした事があったが、馬達は逃げ惑うどころか北斗の拳のモヒカンよろしくヒャッハーと雄叫びを上げて突撃し、野犬の脳髄をそれはそれは夏の花火よりもド派手に辺り一面にぶちまけてみせた。
 暫く肉類が食えなくなりそうなスプラッタ映像を見せられて打ちひしがれていた所に、少し狩り過ぎて数が減っちまったんだよなあ……としみじみ呟いたレラを見て、中学生時代に学校をシメていたヤンキー連中のそれと似た空気を感じ取った俺はコイツ等の保護者役を早々に辞退した訳だ。
 流石に熊が出た場合はやり合わないらしいが、雑木林を通常の調教のように時速七十キロ近くでビュンビュン突っ走る馬達である、捕まる訳ねえだろとはレラの弁だが全くその通りで、この山での彼らは熊や野犬が避けて通るような存在に違いなかった。
 故に三頭の馬は殆ど牧場におらず大抵山を駆け回っており、牧場に帰ってくるのはカイバの時間とちせにじゃれたくなった時だけらしい。
 そうして俺はゆったりとコーヒーを飲みながら朝食の準備をするという、競馬の世界に入って以来恐らく一番まったりとした朝の時間を手に入れたのだ。
「おはようございます」
 欠伸を噛み殺して起きて来たちせに時計を見ると五時半を少し回った頃だ。
「大分寝坊するようになったじゃん」
「すみません、でも朝ゆっくりで良いって幸せですねえ」
 所帯じみた主婦みたいな事を言いながら机に突っ伏したちせの事はインスタントのコーヒーとミルクを出して放置、構い過ぎると恐縮するからこれくらいで良いのだろう。
 年頃なのになと、世間の女どものことを考えてほんの少し可哀そうになる。
 高校は中退したらしい。そう本人が言っていた。
 牧場の手伝いもあったのだろうがちせの祖父が存命だった頃の話だ、レラに聞いた話ではどうも周りと合わなかったのではないかと思う。
『あのクソブス共、チセの事馬鹿にしてたんだ。絶対許せねえ』
 まあ、平たく言えばイジメだろう。当時の事を語る時のレラはいつも以上にヤバい空気をまき散らしていたから俺も詳しく聞こうとしなかったが、垢抜けないちせは普段からスクールカースト最底辺の存在で何かとばかにされていたようだがこの牧場をバカにされた際にとうとうブチ切れた、という事らしい。
『ダービーを獲れば馬主もテレビに映るだろ、だから俺はダービーを獲りたい。チセをテレビに映して、チセをバカにした奴らを見返してやりたい』
 そう語った時のレラは聞いている俺がちょっとキュンとする程の純情な感情が滲み出ており、それは家族に対して抱く親愛の情だろうと思った。
「愛されてんだよなあ、ホント」
 そんな言葉が口に出る程、ここの牧場は人と馬が一緒になって暮らしていた。生活それ自体が人間の家族のそれだった。馬と人が家族になってお互いに思い合いながら日々を過ごしていく、幸せな家庭のそれだった。

 レラ達が帰ってくるのは丁度朝のニュースが終わり世間が仕事を始める時間帯で、そこからその日の調教が始まる。レラに鞍を付けてコースへ向かう途中、葦毛の牝馬が寄ってくる
『今日は何やんの』
 初日に牧柵の中で俺の陰口を叩いていた馬その一、登録名はサンスピリット号、牧場ではレタルと呼ばれている。三歳の牝馬で脚部不安から放牧中、中央で七戦二勝しており重賞経験もあるらしいからうだつが上がらないという評価は間違いだったかもしれない。オーナーの意向で繁殖に上がる事まで決まっており、大事を取って来年の春まで戻らない予定だそうだ。
『俺らも走って良いか?』
 レタルの後から着いて来たのはその二、登録名はスギノホウショウ号牧場での呼び名はクーと言い、鹿毛の額には弓張月のような形の星がある。メジャーどころの冠号だったので名前を聞かされた時は驚いたものだが戦績は一戦して勝ちなし。夏の函館でデビューしており入着もしたが二戦目を目指している時にソエが出たらしい、軽く走らせる程度ならば全く問題無いようだが、馬主は無理をさせずに来年の夏競馬で上を目指す方針とのことで、こちらももう暫くは放牧されている予定とのこと。
「大丈夫か?」
『軽く流す程度ならヘーキだよ、それより退屈でさ』
 牧場の暮らしに飽きているのだろう、前足を掻きながらレタルが言うと、
『レタルが走るなら俺も平気だよ』
あまり考えていなそうなクーは何となくという風に後に続く。
「ほんじゃ最後に軽くな、最初はいつものやるからお前らは自由時間」
 そう言うとレタルとクーは喜んだが、レラは心底嫌な風に、
『またアレやんのかよ』
そうぼやいた。
「必要なことだ。我慢しろ」
 気の乗らなそうなレラを押してコースに出た。

 エトにそっくりだったのは当然雰囲気だけではなかった。出足の良さ、追い始めてからのギアチェンジの滑らかさ、天井知らずに伸びるような最高速度とトップに入ってからの息の長さ――エトという馬はおよそ競走馬に求められる能力の全てが理想的な馬だったが、レラもまた、そんな兄の全てに【似過ぎる程に】瓜二つだった。故に、その秘密が彼等に共通する特殊な足運びとそれを可能にする身体の先天的な柔らかさにある事にもすぐに気が付いた。
 エトの最大の特徴は異常に柔軟な肉体にあった。有名な話だが、とある高名な競馬解説者がエトのパドックを見た際に、あの馬は故障していると断言した事があった。エトの歩様がふわふわ浮いているように、もっと言えばスキップして跳ねているかのように見えたのだそうだ。実際の所それは故障でも何でもなくエトとしては普通に歩いていただけだったのだが、本職のベテラン解説者が騙される程にエトの歩様は他の馬と違っていた。
 いかにも軽やかな感じで飛ぶように大地を蹴っている癖に、後脚の踏み込みは良すぎる程に良いから、他馬よりも広いストライドを取りながら足の回転も他馬より早いというインチキ臭い走法が出来上がり、その結果、尋常ならざる速度が生み出されるという仕組みだ。
 だがそれは諸刃の剣でもあった。脚を動かす肉体がいくら柔らかくとも大地を蹴る力は他の馬のそれより軽い訳ではないのだから、単純に考えれば、長いストライドと優れた回転数を両立させるエトの歩様は他の馬よりも常に大きな衝撃を四本の脚に与えていたことになる。いくら柔軟性に優れた肉体とは言え衝撃の受け皿となる骨格は他の競走馬と同じだ。ガラスにも喩えられるサラブレッドの脚ではそんな負担に当然耐え切れず、砕け散る。
「並に走ったって十分G1クラスなんだ、無理せず勝てる方法を身に着けた方が良い」
 首を叩きながらレラを促し、一定のリズムの歩様を学ばせる。俺が来てから一番時間をかけたのは、この歩行訓練かも知れない。
 速度は気にせず、とにかくリズムを意識して走らせる。俺が少しでも“心地よく”感じてしまった場合には左前を鞭で撫でるように触れる。それが合図であることをレラには徹底して教え込んだから、それだけで足運びは普通の馬と変わらないものに変わる。
『窮屈だ』
 レラはこの日もぼやいたが、むしろ俺の中では、月日を経るごとに普通の馬と変わらない走り方でも十分に上を獲れるという実感が増していた。
「我慢しろ」
『でもよ、これじゃあ――』
 ぶつくさと続けそうなレラを黙らせるには一言で良い。
「――もうお前しかいないんだよ」
 こいつは賢い。馬の癖に本当に人並みの思考が出来る。だからこれだけ言えば言葉の裏に込められた意味も全て察して、自分の主張を引っ込める。
「お前の仕事はレースに勝つことだけじゃない。お前の四本脚にはチセやチセのご先祖さん達が積み重ねたモンが全部詰まってんだ。その重さを自覚しろ」
 正直な話、俺はもうG1を獲ったつもりでいる。エトに乗っていた俺だからこそそう思うのだろう、あの末脚を封印したとしてもエトが負けることはそう簡単には想像出来ない。
 何よりレラの賢さがあれば後方一気という脚色に拘らず自由にレースを作ることも可能だ。となれば、G1クラスのレースでも、限界を封印したまま勝ち切る事は可能だろう。
『悠長なんだな』
「それだけの才能があるよ、お前には」
『お前に褒められると気色悪いぜ』
「天才はいる、悔しいが……ってな」
 誉め殺しのつもりも無かったがどうやら効いたらしい、レラは大人しく練習を再開した。
 練習が一段落してからはレタルとクーの二頭を混ぜて、大体正午になる頃合まで適当にコースを回る。練習と言うよりも馬たちの走りたいように走らせているだけだが、レラの歩様訓練にはその程度の方が丁度良かったし、何より俺も楽しかった。案外騎手よりも牧童の方が向いていたのかも知れない。
「ご飯だよー」
 拡声器を通したチセの声が届くと遊びの時間はおしまい。馬房へ戻って馬にカイバを付けてから、俺達もその場で一緒に握り飯を食う。
 もっしゃもっしゃと、、せわしなく草を食む馬達を眺めながらの食事が、ちせにとっては日常だったらしい。ご飯は一緒に食べた方がおいしいからと笑顔で言われたが、やはりこの女の感性は良く解らない。ちせに倣ってそうするうちにどうにか胃に押し込める程度に慣れはしたが、そもそも獣臭い馬房で食欲がわくはずも無い――のだが、しかし、と後の言葉が続くのも本当で、馬たちもワイワイ楽しそうに食べているしちせも楽しそうだから、悪くなかった。
『チセ、今日のカイバも美味しい』
 レタルが言うと。
「美味しいでしょ、今日のはよく干したから」
ちせも嬉しそうに返す。
『チセも食べなよ、美味しいよ』
 クーが続くと、
「クーも沢山食べないと駄目だよ。まだ大きくなる年なんだから」
その首を撫でながら。
『チセ、チセ! 俺やっぱコイツ乗せるの嫌だ! ヘボだ! ねえチセ!』
 構われている二人を見ていたレラは思い付いたように言った。ちせの関心を引きたい一心からの言葉だろうが、その内容は俺からすると青筋ものだ。睨み付けてやるとあからさまに視線を逸らして知らん顔をしている。
「レラは疲れてるのかな、頑張ってるもんね。でもご飯も沢山食べないと駄目だよ」
 会話は噛み合っていないようだが、構って欲しいという意図は伝わっているのだからこれも立派な意思の疎通というヤツだろう。ちせに声をかけられるとそれだけでレラは上機嫌になったようで、フンフンと嬉しそうに尻尾を振ってカイバ桶に顔を突っ込んだ。
「大越さんもお疲れじゃないですか? 何なら事務室で食べても」
 レラへの仏頂面が残っていたのだろうか、気遣うようにちせは言った。
「ここで良いよ。お前ら見てるの楽しいし、飽きないからな」
 咄嗟に俺はそう返していたが、きっと本音だったのだろう。
 午後は馬達の身体を洗ってやり、天気が良い日はそのまま牧場で日向ぼっこをする。そういう時、ちせは馬たちに付き合って一緒に日向ぼっこをしているが、ある時何かの本を音読しているのが目に留まった。本は大抵が児童書で、思春期の女が読むには対象年齢のギャップを感じる光景だったが、そんな彼女の回りに馬たちは寄り添っていたから、俺は自然と、それが読み聞かせをしているのだと知った。
「――シンデレラは王子様と幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」
 俺もいつの間にやら付き合って聞くのが習慣になってしまったが、どうやら馬たちは話の内容をきちんと理解しているらしい。良かった良かったと互いに語り合っている。
「今日のお話はこれでおしまい、また明日ね。行ってらっしゃい」
 ちせが言うと馬達は山の方へ駆け出した。野犬でも狩りに行くのだろう。
「これ、いつからやってんの?」
「ずっと、らしいです。私もハッキリ覚えていませんけど、お爺ちゃんが言うには幼稚園くらい、文字が読めるようになった頃からずっとやっていたと」
「なるほど」
 案外ここの馬たちが人とコミュニケーションを取れるようになったのはこの読み聞かせが効いているのかも知れないと、ふと考えていた。
 当たり前のように馬とコミュニケーションを取れているちせの存在についてとか、そもそも馬が物語を理解出来るのかという疑問は尤もだが、この牧場でそれを考えることはタブーなのである。
 言い出したら馬と会話が出来てしまう俺の状況の方がよっぽどファンタジーだろう。
「大越さんは魂って信じますか?」
「オカルトか?」
「そうだけど、そうじゃなくて、考え方の話かな。人間も、馬も、生きている存在全てが生まれた時に神様から預かって、死んだらまた神様に返すもの。私とあの子たちは形が違うけど、元は同じ、神様からの預かりものなんです」
「……難しい話は解らんけど、実家の墓は真言宗だぞ」
 俺の反応にちせは苦笑したが、言葉は静かに続けられた。
「私はね、お爺ちゃんからそう教わったんです。お爺ちゃんはお爺ちゃんのお爺ちゃんからそう教わって、この牧場はそうしてずっと続いて来たんです。馬は神様からの預かりもので、同時に私達の家族だって、人と同じに、人よりも大切に思いなさいって。
 だから私がみんなに本を読んであげる事をおじいちゃんは喜んでた。言葉は交わせなくてもきっと気持ちは通じる、そういう風に向き合う事が大切だって」
 語るちせの横顔を見た時に、俺は心地よさを覚えた。恋愛感情とは全く違う、例えば春の温かな空気や夏虫が舞う夜、秋の色付いた森や冬の澄み切った早朝、そんな四季折々の彩りに溢れた風景を見た時に覚えるような、心が安らぐ感覚だった。
「でも、もうお爺ちゃんは行ってしまった。私は、きっとお爺ちゃんの言っていたことをきちんと理解できないまま一人になってしまったから、きっとこのお話は私でおしまい」
 ちせは語り終えた。駆けて行った馬たちを追って山の方を見ると、空はもう茜が射していた。

 牧場には俺とちせしか人間がいなかったから、必然的にちせからは色々な話を聞いた。好きなアーティストの話、好きな漫画の話、好きな俳優の話、嫌いな芸能人の話、片思いをしていた男の話、俺が過去に付き合っていた女の話をした事もある、肉と魚の調理法の話、綺麗だった空の色の話、そして当然牧場の話、自分の先祖の話や過去にここで生まれた馬の話――エトセトラ。
 その時に聞いた話だが、カンナカムイ号の祖先に混ざったサラ系は元を辿るとウンマカムイと呼ばれていた馬に行きつくらしい。ウンマカムイはまだこの国に競馬が存在しなかった時代に本州から連れてこられた、詳細は解らないがとにかく日本の在来種だったようだ。ちせの先祖は当時開拓地だったこの場所で軍馬の飼育を生業にしており、その時に預かった馬の血を脈々と繋げてきたという訳だ。
「大した情熱だな」
 その話を聞かされた時、俺は素直にそう言った。
 競馬産業とは徹頭徹尾血統主義なのだ。現存する競走馬の全てがたった三頭の種牡馬に遡れるとまで言われるこの世界で、遥か昔に排された日本の在来種の血統が伝えられているなどという事態は、その血を繋いでいくという明確な意思が無ければ有り得ない。言ってしまえば、この牧場そのものがその血統を残す為に仕事をしてきたと表現しても良いだろう。
「ご先祖の、ご先祖の、そのまたご先祖が、ウンマカムイを預けてくれた神様と約束したんですって。全部ただの言い伝えですけどね」
「結局オカルトか」
「そうですね……でも、おかげでエトや、レラや、あの子達と出会えました」
 今まで出会った馬達のことを思い返しているのだろうか、その言葉はどこか述懐のようですらある。
「ここ、やっぱり閉めるのか?」
「ええ、お祖父ちゃんの遺言なんです。最後の産駒が、レラが入厩したらこの牧場は閉めるって」
 今の時代に銀行からの借り入れ無しで運営している事業所など牧場に限らずとも有り得ない話だから、それはきっと彼女の祖父が用意した口実なのだろう。
 ウンマカムイの血脈を伝えるという祖先の意志を継ぐことがこの牧場の意義なのだとすれば、それはあまりにも前近代的な観念、宿命めいたものを帯びてしまっている。十代で天涯孤独となってしまう孫娘にそんなものまで背負わせたくなかったのだとすれば、その考え方はむしろ常識的に思えた。
「レラのお母さん、レラを産んで直ぐに死んでしまったんです。牝馬であれば繁殖として手元に残せるように考えたんでしょうけど、エトも、レラも、牡馬でしたから、もうその時からやめるつもりだったみたいです」
「……エトでぬか喜びさせちまったな」
「ぬか喜びじゃありませんよ。うちの牧場が大事にしてきたものでダービーを獲ってくれたんです。きっと世界中のホースマンを探したって、あんなに嬉しい思いをした牧場はありません」
 それまで淡々と語っていたちせが、その時ふと声を詰まらせた。
「お祖父ちゃんね、皐月賞を勝った時に本当に喜んでいて、ダービーは絶対に来いって、臼田先生もわざわざ呼んでくれて、だから、本当は、府中に行きたかったはずなんです。でも、私が一人になっちゃうから、行けなかったの……それだけ、残念だったのは、申し訳なかったのは、それだけ」
 僅かに零れたその涙は、俺の人生で一番響く涙だった。
 エトの口取り写真でオーナーも生産者も一度も入ったことが無い事に疑問を抱かなかった訳ではない。
 だが、その背景について俺は真剣に考えていただろうか。少しでも、それを知ろうとしていただろうか。
 こうして競走馬を育んでくれた存在を、忘れてはいなかっただろうか。
 俺のダービーは彼等が与えてくれたものだと、少しでもそう感謝することが出来ていただろうか。
「レラが府中に連れて行く」
「ええ……ええ、信じています」
 罪悪感から目を逸らす為の方便であったかも知れない、俺の戯言めいた言葉にも、ちせは笑顔を作って素直に頷いてくれた。
 その時俺は、ダービー・レイをちせに送ってやりたいと語ったレラの気持ちを本当の意味で理解出来たのかも知れない。






 月日が流れるのは早いもので年明け早々にクーが栗東へ帰ると二月の末にはレタルも美浦へ帰って行った。去り際厩舎を尋ねると、クーは栗東の笠松厩舎で気軽に会いには行けないが、レタルは美浦でも同じ北区画で何度か乗り馬を回して貰った事もある関口厩舎だというので驚いた。戻ったら挨拶周りがてら覗いてみるのも良いかも知れない。
 二頭がいなくなるとレラはどこか寂しそうだったが、それも僅かな期間だ。
 テキから連絡が入り正式な入厩日が決まれば、それはこの牧場が無くなる日でもある。馬産地からも遠く外れた辺境の牧場では買い手もなかなかつかないようで今後の処分についてはまだ決まらないままだが、閉める事は変わらない。
 牧場が無くなればちせもここに留まる理由は無いからと、生活し易い札幌の方へ転居する予定らしい。不動産屋任せで現地を見ないままなのは不安だったが、春から入居するマンションも既に契約していた。
 俺とちせは空いた時間で少しずつ片付けを進めた。机や事務用品の類は近所の農場や役所に相談して引き取って貰う段取りを付け、古くなった文書の類は少しずつドラム缶で燃していく。
 レラの入厩日を四日後に控える頃には生活用品を段ボールに詰め込む作業も一段落して後は業者を呼ぶだけ、事務室の中はすっかり空になっていた。僅か半年ではあったが、こうなってみるとどこか寂しさを感じるものだ。
「業者、手配したか?」
「うん。馬運車が来る一時間前に来て貰います」
「そうか、これでホントに一段落だな」
 俺はレラを運ぶ馬運車で一緒に美浦へ帰る予定だったが、道中ちせを札幌に届けて行く事にしたのだ。行きがけの駄賃と言うより、誰もいなくなったこの牧場にちせを一人残して行く事が憚られたというのが本音で、俺から提案した。
「でも良かった、ここに一人でいたら本当に寂しくて、きっと怖いですし」
「だろうな」
 今までは馬達がいた。だが、レラがいなくなれば本当にちせは一人だ。隣の民家まで数キロあるような世界でたとえ数日でも一人暮らしをするというのは、十代女子でなくとも精神的に参ってしまうだろう。
「どうすんだ、これから」
「取りあえず大検取って、大学に行くかも知れないし、行かないかも」
「バイトは?」
「する、かな。でもコンビニのバイトとか、私に出来るかな。ねえ、アレってどうなの、難しいんですか?」
「知らん、俺もやった事ねえよ」
「大越さんって騎手になる前は何してたの?」
「騎手って大抵中卒で競馬学校入るからな、前歴なんて無いよ」
「へえ……私も騎手目指そうかなあ」
「残念、騎手は馬主をやれないの、ついでに言うと厩務員も調教師もダメだ。それともレラを誰かに売るか?」
「絶対やです」
 ケタケタと笑いながら、片付けも全部済んで、すっかり解放感に支配されていたから、気の置けないバカ話の延長のつもりだった。
「あるとすれば厩舎の専属事務員とかか、あれは競馬会通す必要無いはずだし」
「そんなの、あるの?」
「さあ、でもテキが雇うって言えば雇えるんじゃねえの。あの人一応社長的なもんだろうし、そういうの雇ってる厩舎もあるし」
「私それやりたい!」
 ここまで食い付くと思ってなかったというのが正直な話だ。何よりここまで自分の意志を示したちせを見たのは、短い付き合いながらも初めてだった。
「まあ、テキが雇うって言えばの話だからな」
「臼田先生なら大丈夫、レラの事言えば大抵の条件は呑んでくれますから」
 交渉事には慣れているという事だろうか、サラッと脅し文句のような言葉も聞こえるが、どうも本人は大真面目に言っているらしい。
「大学に行きたい訳でも、バイトをしたい訳でも無いの。でも、レラの事近くで見ていられる場所があるなら、それをやりたい」
 俺は、心のどこかにちせを一人で残して行く事への罪悪感があったのだろう。ちせにとって馬達が本当の家族であることを見て来たからこそ、レラを連れて行く事が彼女から家族を奪う事であるように感じているのも事実だった。
「なら、取り敢えず電話してやるよ」
 内心雇うはずが無いと思ってはいたが、取りなすことくらいはしてやりたいと思って言うと、
「あ、大丈夫です。先生には私が連絡しますから」
ちせはあっさり過ぎる程にあっさりと、俺の申し出を断って自分の携帯を取り出した。
「ちょっと外しますね」
 友達に電話をするような軽いノリで事務室を出ていくと、時間はものの数分とかからなかった。
 戻ってきたちせは満面の笑顔で、
「マンションの敷金って返ってきますかね?」
俺にそう尋ねた。




 出発の日、荷を受け取りに来た運送業者は突如として目的地が札幌から茨城県のクソ田舎に変更になった事に戸惑いを隠さなかったが、ちせが勢いで押し切ると渋々荷物を預かって、到着が多少遅れるかも知れないと吐き捨てながら去って行った。
 すっからかんになった牧場のブレーカーを落として馬運車の到着を待つ間、ちせとレラはぼんやり山の風景を眺めながらちょっとした郷愁にふけっているようで、僅かながらこの地にいた身ではあったが気軽に立ち入れる雰囲気ではない。
 生の全てを過ごしてきた風景が終わる瞬間。野犬を狩った山も、読み聞かせをした牧場も、皆で食事をした馬房も、他馬と競って遊んでいた玩具のようなコースも、これで見納めだ。
「いつだって、最後はやるだけだ」
 何気なく漏れた呟きだったが、ちせも、レラも、確かに頷いた。
 最早失う物など何も無く、取り戻せる物も一つとしてありはしない。自らの一族が繋いできた集大成を、意地と誇りを見せつける為だけに彼等はターフへ向かう。得るのは勝利の栄光か敗北の虚無か、不確かな未来へ向けて賽は既に投げられたのだ。
 ふと、風が吹き牧場の若葉を揺らした。頬を撫でる心地よい風に“レラ”とちせが呟いた。
「方言なんです。風を、こんな風を、お祖父ちゃんはレラって言っていました」
「コイツが生まれた時も?」
「ええ。今日みたいに、とても気持ちの良い風が吹いている日だったから」
 俺へ向くのではなくレラに語り掛けるように。その姿は、この風を、故郷の色彩を、どこかに覚えておいて欲しいと、そう言っているようにも見える。

 やがて馬運車が到着すると俺達は手ぶらで乗り込んだ。旅立ちは身軽な方が良いと昔の人は語ったそうだが、そう考えればこれ以上ない旅立ちだろう。
 ちせは振り返らずにさようならと別れを告げた。




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