3(凛太朗)

 厩舎に行くとちせはもう作業を始めていて、おはようございます、なんて初々しい挨拶をよこす。事務屋待遇なのに労組に染まったそこらの厩務員より手際よく作業をこなすのだから、厩舎的にも超が付く優良物件だろう。
「テキは?」
「天狗山、もう出ました」
「今日何本だって?」
「最低五本、悪ければ六本だって」
 トチ狂ったスパルタメニューを当たり前のように告げるちせに、僅か三か月でも時の流れは無常にして無情にも人を変えてしまうものだと、独身の身空でありながら【大人になった娘】に気付いた男親のような一抹の寂しさを覚える。
 牧場にいた温和な芋娘は美浦一番の極悪サド調教師として有名なアキトシ・ウスタの手によって丸の内のSM嬢も顔負けな鞭の似合う女に染め上げられてしまった。椎名林檎も真っ青だなんて冗談はジェネレーションギャップに叩きのめされるだけなのでもう言わない。
 過激派動物愛護団体がこの惨状を聞けば即座にこの悪徳調教師を抹殺せんが為の暗殺部隊でも送り込んでくれるのではなかろうかとも思うが、意に沿わない相手は馬主であろうと鉄拳で支配し競馬会からの制裁も余裕綽々どこ吹く風で十数年間この業界を渡り歩いてきたテキのこと、ベトナム帰りのスタローンよろしく返り討ちにするまであるだろう。
 朝っぱらから主食がピザで副菜ステーキみたいなヘビー級のメニューを課せられて胃もたれしそうな心境だったが遅刻すれば六本が七本に増えるのだから遊んでいる時間も無い。
「レラの引き運動俺がやるから、そのまま馬場に連れて行く」
 その名を口に出すと、馬房からひょっこり顔を出した相棒の、鮮魚コーナーに並べられた魚のような濁った瞳と目が合った。

 まだ陽も登らない五時前のトレセンの中を散歩の如くフラフラと歩きながら、すれ違う他厩舎の厩務員には軽く会釈をしてやり過ごす。殆ど半年ぶりにトレセンに戻ってきた俺に向けられている視線は決して温かいものではなく、お前競馬辞めたんじゃなかったのか、という何とも素朴に人を傷つける反応が大半だった。
 それでも最初の一週間は美浦の村民と会う度に説明をしていたのだが、いつからか疲れを感じたので流すようになってしまい、その結果大多数の人間から【大越は騎手を辞めて調教助手に転身したようだ】と受け止められてしまっている。
『ダービージョッキーも落ちぶれたもんだ、だってよ』
 今しがたすれ違った厩務員の独り言だろうか、馬の耳は性能が良く俺が聞き取れない言葉までレラはしっかり聞き取って逐一報告してくれる。有難いようだがすれ違いざまにボヤかれる言葉なんて大抵が人という種の真に迫るが如き罵詈雑言の類であり、要するに聞いて気分の良くなるものでは無いから、メンタルが余計に擦り減るだけだ。
「一々報告すんじゃねえよ、へこむから」
『だから言ったんだよ』
「性格悪いな、お前」
『お互い様だろ』
 レラもハードな調教に疲労困憊と言った所だろう、身体は温まってきたはずだがドブ川よりも濁った瞳が虚ろに宙を彷徨っている。
「馬って筋肉痛とかあんのか?」
『キンニクツーが何だか解らねえけど、脚がガクガクしてしょうがねえ。故障じゃねえのか、これ』
「自分で言えるなら大丈夫だな、まあ頑張れ」
『ふざけんな、偶にはお前が走りやがれ』
「他人に嫌な事をしたら返ってくるんだよ、覚えておけ」
 やり合いながら調教馬場へ向かう道中『目が死んでるぞ』とレラに言われたが、相棒とは言えそんなところまでシンクロしたくはない。



 調教を終えると俺達は出汁を取り切った昆布みたいにヘロヘロのくたくたになっており、調教馬場から引き上げるその足取りはさながら無限に広がる砂漠で水を求めてさまよい歩く死にかけのキャラバン隊だろう。美浦村で昨今話題になっている坂路難民とは何を隠そう俺達の事であり、悪魔の手先に違いないかのイカレ調教師USUTAのスパルタ指導は遠からずこの命まで奪い去るのではないかと真剣に危惧するこの頃、キャラバン隊はどうにかオアシスならぬ我らが厩舎へ辿り着き、今日も命を繋ぎ止めた事に感謝しながら洗い場でレラに水を浴びせていると、朝カイバの準備を終えたらしいちせが客だと言う。
「俺にか?」
「記者さんだそうです、後は私がやっておきますから」
 俺としては作業を途中で放り出すのは後味が悪かったのだが、地獄を共にし強固な絆で結ばれていたはずの相棒はちせがそう言った途端にマルゼンスキーみたいなスピードで俺への信頼をゴミ箱送りで抹消したらしい。
『さっさと行って来いよ』
 吐き捨てるが如き元相棒の物言いに感じた不満は隠さずに、ブラシを地面に投げ捨てるようにしてその場を離れた。
 事務室には見た事が無い新顔記者がいた。牡、二十歳前半だろうか、いかにも大学出てきましたみたいなクソ真面目さを感じさせるスーツ姿が美浦村では逆に新鮮に映る。七三にして眼鏡でもかければ一昔前のステレオタイプな日本人像そのものだろう、百八十近くありそうな長身だがスラッとしたと表現するよりヒョロッとした牛蒡みたいな体形で、会釈するとハートマン軍曹に怯える新人りのように直立し、アル中ばりに手を震わせながら名刺を差し出してきた。
「ああ……PRセンターの」
 PRセンターは競馬会の広報部所であり、競馬ファン向けイベントをはじめコマーシャルや公式情報誌の発行等を一手に担うセクションだ。馬のグラビアがメインコンテンツというこの情報誌、一般社会からすると中々にぶっ飛んだ存在に思えるが、名前も知らない水着アイドルの尻なんぞよりも牡牝を問わず競走馬のケツが見たいというマニアックな性癖の持ち主が世間には案外多いのだろうか、いち団体の機関誌という立ち位置であるにも関わらず本誌売上だけで黒字ベースだと言うのだから競馬ファンの変態ぶりには恐れ入る。
「蓬田と申します、よろしくお願いします!」
 カチコチに固まったヨモギダ青年のせいで落ち着いて世間話を出来る雰囲気など欠片も無く、たとえば今厩舎のドアを開ける人がいたらどこからどう見てもイジメの現場としか受け止められないだろう。
「今日は取材?」
「はい!」
「俺で良いの?」
「はい!」
「何聞きたいの?」
「はい!」
「ふざけてんの?」
「はい!」
 これである。
 緊張しすぎて何を言っているのか解っていないのだろう、人参みたいに紅潮した顔は呼吸をするのも苦しそうでありその様は微笑みデブが軍曹にのど輪をかけられたかの名場面を想起させる。
「取り敢えず座んなよ、お茶出してやっから」
「はい!」
 ともかく嫌なヤツではない事は確かだろうと思ったから、俺は苦笑しながら椅子を引いて促した。
「コーヒーで良いか?」
「はい!」
「ブラック?」
「はい!」
「砂糖は?」
「はい! あ、無くて大丈夫です」
 ようやく多少は落ち着いたのだろうか、受け答えが出来るようになったのを見てからカップを持って俺も席に着く。
 対面に座ったヨモギダ青年をもう一度まじまじ観察すると、恐らくトレセンに来たこと自体初めてなのだろう、まだ新しいはずのスーツの裾や革靴が泥にまみれて悲惨な事になっている。
「駿馬の編集部なの?」
「あ、そうです」
 とにもかくにもこの状況では一向に話が進まないためまずは当たり障りない世間話から持ち掛ける。
 世間話は村社会における必須スキルだ。コミュニケーションが無くとも仕事が出来る業界もあるらしいが、競馬社会は一にコミュ力二にコミュ力三・四が飲み力五にコミュ力とは大尊師臼田調教師の言であり、臼田厩舎の一員として叩き込まれた無駄知識の中で唯一と言ってもよい有益な情報だった。下らない世間話は人間関係の潤滑油であり朝飯の話題からシモの話題まで手広くカバーする話術を磨く事で強い馬を取ってくるのだ、と。
 尤も、有力ホースクラブの代表に『お前らの態度は気に食わないんじゃボケ』と面と向かって言ってのけその系列からは完全に干されている尊師に社会人としてのコミュ力が備わっているとは到底思えないのだが、コミュ力云々の件は騎手として考えてみれば当然だろう。技術より気合より何よりも営業力、強い馬に乗る為に走り回るのが騎手の仕事の内情だ。
「競馬は?」
「小学生の頃から見てました」
「好きな逃げ馬は?」
「ツインターボでしょうか」
「ハラハラする方が好き?」
「その方が見てて楽しいので」
「二着と言えば?」
「ステゴかドトウ」
「三着と言えば?」
「断然ネイチャ」
「親御さんは?」
「普通のサラリーマンでした」
「外から来ると大変だろ、この世界」
「いや……でも、そうですね」
 会話の流れで笑顔が見え始めると競馬オタクである事が良く解った。好きが高じて外の世界から業界に飛び込んだ人種であり、もしかすると情熱と現実のギャップに悩み始めている頃なのかも知れない。それまで淀みなく答えていた彼に生じた僅かな間こそが内面の煩悶を表しているように聞こえた。
 俺自身、外からこの世界に入った人間だから何となく解る部分もある。この世界の人間関係は一般の競馬オタクが溶け込むにはあまりにも濃密だ。
「で、今日はどうした?」
 緊張も解けた所で本題を切り出す。俺も調教上がりでヘロヘロだし、午後もレラの運動に付き合ってやらなければならないからさっさと飯を食べて休んでおきたいのだ。
 水を向けるとヨモギダ青年は慌ててⅠCレコーダーを取り出した。録音ボタンを押してからよろしいでしょうかと尋ねるのは順番が違う気もするが、いい加減話を進めたいので細かい事はまあ良しとしよう。
「注目の二歳馬としてレラカムイ号の特集を企画しておりまして、今日はその取材に伺いました」
「そっか、よろしく頼むよ」
「主戦は大越騎手という事で間違い無いでしょうか」
「それテキとかオーナーに聞いた方が良いんじゃねえの?」
「臼田先生は大越で行くと明言されていまして、オーナーサイドからの要請だと言う話もその時に出ました」
「そっか……まあ、それで間違いないよ」
「大越騎手が牧場まで出向いて、一歳の騎乗訓練から携わっていたという情報もあるのですが、本当ですか?」
「本当だよ。あの騒動の後で送られて、一緒に戻ってきたってこと」
「牧場ではどのような訓練を?」
「普通だよ。簡単な追い運動とか、後は山行ったりとか――」
 その後は暫く当たり障りのない話が続き、ヨモギダ青年は熱心にペンを走らせながら聞いてくれたのだが、血統の話に行き着くと途端に口調が重くなった。
 その重さは過失致死をやらかした重罪人に事故の過程を尋ねる事への躊躇いに違いない。言葉の裏で全兄であるエトの存在を、その血統表に記された血筋の重みを、強く意識していることが却って解り易かった。
「絶滅寸前のパーソロン系。しかも曽祖父はかの皇帝、祖父があの帝王と来て、無名の父親から出た起死回生の化物だ。その意味くらいは解ってるさ」
 エトの死に与えられた意味は一頭の優駿の死というだけには留まらなかった。
 彗星の如く現れた絶滅危惧種の内国産父系を救い得る素材が目の前で潰えたのだ。ホースマンは当然としてファンも怒る。必然、エトを潰した俺やテキはいわば競馬界全体の敵になった。
 俺の言葉に深く頷くヨモギダ青年に、いかにも真剣な声色を作って言う。
「レラの才能はエトに少しも劣らない、ひょっとすればそれ以上だ。今度こそ必ず繋げるよ」
 心中ではハナクソをほじりながら言っているような台詞だが、ヨモギダ青年が感動に目を潤ませているのを見るとこれで正しいのだろう。
 エトの血統の話になると当時から周りは盛り上がったが、俺からすればそもそも自分が皇帝や帝王に乗っていた訳でも無いのに何故そこまで感情移入して考えなければならないのかと、呆れに近い感覚で眺めていたというのが本音だ。そういう意味では馬の血統というものに必要以上の拘りが無いのだろう、極論だが速ければロバの子でも良いとすら思う。
 ただ――と付け加えたくなるのは、短いながらもあの牧場で過ごした日々があったからだろうか。
「母方の血も面白いんだよ、アイツらは」
 そんな言葉が口を出た。
「母方……ああ、母父にバクシンオーも入ってるんですよね」
「そうじゃなくて、母の母の父親がだな――」
 それから俺はカンナカムイの話を、エトやレラがちせと一緒に過ごしたあの小さな牧場の話をヨモギダ青年に聞かせてやった。
 チンケな牧場の精一杯の意地の物語が、今時流行らない浪花節が、この新米記者にどう響いたのかは解らない。
 ただ一つだけ言えることは、ヨモギダ青年はペンを走らせる事も忘れてこの話を真剣に聞いてくれたという事だ。

 ひとしきりの話を語り終えるとヨモギダ青年は満足げに頷き、有難うございましたと丁寧に頭を下げた。こういう記者になら時間を割いて話してやる価値もあるというもの、出来るならこの姿勢を保ち続けて欲しいものだ。
 最後に一枚レラの写真を撮らせてくれという願いを聞き入れ馬房へ案内すると、ちせがいつものように読み聞かせをしているところだった。
 今日は何を読んでいるのかと聞き耳を立てるより先に、俺とヨモギダ青年の気配に気が付いたのか、朗読は止まってしまう。
「何でやめちまうんだよ、途中だろ」
 言ってもまごまごとするばかりで何も返そうとせず、どうやら初対面のヨモギダ青年に緊張しているらしいが、対照的に馬房の中のレラが堂々としているのが却ってこの芋娘の情けなさを助長している。
「臼田厩舎って女性の方いませんでしたよね?」
「レラの生産者兼馬主だよ、牧場閉めたから今はここの手伝いやってんだ」
 前もって職員録でも調べてあったのだろう、取材熱心なヨモギダ青年に敬意を払って答えると、ふと一つの妙案が思い浮かんだ。
「これからレラの写真撮るから、お前が綱持て」
 レラの方に確認の視線を向けると激しく首を振って肯定している。少しでもちせを表舞台に出してやりたいというレラの気持ちからすればこの上ない提案だったろう。本人は戸惑いを隠さなかったが、ヨモギダ青年がここに便乗して賛同すると表面上の結果は二対一、実質三対一という大差である。流れで押し切り引綱をちせの手に握らせた。
「オーナーブリーダーと一緒に写ってる新馬紹介なんて斬新だぞ」
 カメラを構えるヨモギダ青年に言うと、既に十分意識していたらしい、頼りなさは残っているがそれでもはっきりと頷いた。
「絶対に三冠獲ってください。牧場の話とこの写真でもっと大きい記事を書きたいです」
 一心にファインダーを覗き込みながら、ヨモギダ青年は言う。
「獲るさ、獲れないはずが無い」
「油断はマズいです、今年の二歳はもう一頭ヤバいのがいます」
「初耳だな、宮代の馬か?」
「ええ。あの宮代明総帥直々に歴代最高傑作と評して、クラブではなく個人で所有した馬です。グループ内じゃ今の時期から凱旋門なんて話もあるとか」
「名前は?」
「アマツヒ。どうせ基本は外厩でしょうけど、名義上は栗東の藤井厩舎に所属するそうです。主戦はあの天才鎬総司ですよ」
「アマツヒって何語だよ」
「日本語ですよ。天つ日、太陽という意味だそうです」
「へえ……ま、見なきゃ何とも言えねえわ」
「前に撮らせて貰った映像ならありますけど、送りましょうか?」
「んー、まあ頼むわ」
 他愛の無いやり取りをしているうちに十数枚は撮り終えたようだ。長過ぎる撮影に困惑したちせが泣きだしそうだったので、何よりその様子にブチ切れたレラが暴れだしそうになったので、撮影会は早々にお開きとなった。

 ぱっと見て【大したこと無いじゃん】って思うような物なのに何故だか妙に気になるからもう一度見直して気付いた時には三度見していた――なんて経験は誰しも一度はあるだろうし、そしてそういう感覚を受けるものは大抵が本物だったりする。
 俺の人生で今までに一番強烈に尾を引いた【ぱっと見大したこと無いじゃん体験】は天空の城ラピュタを初めて見た時のそれだったのだが、ヨモギダ青年から送られてきた映像はかのロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ氏が俺に与えたバルスの衝撃よりも遥かに深くそして強烈なものだったと言える。
 厩舎事務室で件の映像を見た第一印象は【何の変哲も無い販路調教】だった。
 映し出された鹿毛と青鹿毛の二頭はどちらも並ではないと一目で解る逸材であり、なるほど鹿毛のアマツヒ君は今の段階から翌年クラシックの有力候補と目される事にも頷ける。
 だがしかし、正直に言うとどうも迫力を欠いて見えた。その違和感がマウスを操作する指先を自然と二度目の視聴に向かわせ、ぼんやり眺めているうちに併せているもう一頭の青鹿毛が良すぎる程に素晴らしいから並べるとどうにもアマツヒに物足りなさを感じてしまうのだと解ると、今度はその青鹿毛が気になって当たり前のように三度目を視聴していた。
 その段になってようやく相手の青鹿毛が完全に完成された古馬の馬体であると気が付き、更にまじまじと眺めると、なんと青鹿毛の正体はG1三勝の現役最強候補筆頭レイカウントではないか。
 追切の日付はレイカウントが勝利した宝塚記念の二週間前であり、アマツヒはデビュー前の二歳馬であるにも関わらず、ファームから厩舎へ戻る直前の、万全な状態にあるG1馬に比肩する走りを見せているということになる。
 映像の持つ意味に気が付いて暫くは頭の中から言葉が消えていた。
 グランプリレースで勝ち負けを出来る二歳馬なんて、例えば四段になり立ての新人将棋指しがハブに勝つとか大リーグでピッチャーをやりながら打席にも立って前年のサイヤング賞投手からホームランを打ってのけるとか、そういう類の、つまりは荒唐無稽という言葉が四本脚で走っているようなものであって、仮にかの花京院典明氏にコメントを求めればまず間違いなく『ファンタジーやメルヘンじゃないんですから』と一笑に伏す存在なのだ。
 では、実際にグランプリホースと併せて坂を駆け上っている二歳馬の映像を見た俺はこの事実をどう説明すれば良いと言うのか、教えてくれ花京院。
 しばし呆けたようになりながらアマツヒの情報を探ると、父は十年前の日本競馬界を文字通り震撼させた三冠馬、母は牝馬でありながらダービーを制したという怪物、どちらも宮代が仕入れた血統が日本で花開いたという血族でありなるほど歴代最高傑作という表現も頷ける。
 生後間もない当歳の頃から既に期待の星であったらしく、世間がエト一色に染まっていた頃に宮代明総帥が受けたインタビューには【カムイエトゥピリカよりも強くなるだろう】と当時は負け惜しみにしか聞かれなかったはずの応答が残っていたりもする。実際当事者の俺がそんな発言があった事すら知らない程度には世間からも相手にされなかったようだが、今にしてみればそれは虚勢でなく本心だったのだろう。
 だからこそ、その記事を読んだ時にふつふつと熱いものが込み上げて来るのを感じた。エトよりも強いと言われて【はいそうですね】と頷ける程度の思い入れではない。何せ俺にとってのエトはうだつの上がらない三流どころか五流ジョッキーにダービーを勝たせてくれた神にも等しい存在なのである。御神体に唾を吐かれて怒らない信者がいないのと同じように、心中に生まれた熱が渦を巻いて急激に温度を高めていく。
 勝たなければならない。たとえ相手が日本競馬界の独裁者こと宮代グループの最高傑作であろうとも、その思い上がりを叩き潰してやらねばならない。
「その天狗鼻へし折ってやるよ、宮代明」
 厨二病をこじらせたキメ台詞が口から漏れるや否やのタイミングで、厩舎の引き戸が豪快に開け放たれると戸の向こうから現れた臼田御大は両の腕を胸の前でバッチリ組んだ所謂ガイナ立ちだった。
「よく言った凛太朗、それでこそ俺の弟子だ」
 自慰行為の最中に部屋を覗かれた中高生レベルで狼狽える俺の事などまるで視界に入っていない風に、御大は事務室に入り込むと派手な音を立ててパイプ椅子に腰を下ろし一言【チャ!】と叫んだ。
 気が触れている訳ではなくましてやアラレちゃんの物真似でもない。御大の日常表現の一つでありさっさとお茶を用意しろという意味だ。なお反応が遅れると灰皿がフリスビーのように飛んでくる。
「お茶は私が用意しますので、大越さんは座っていてください」
 腕組みの状態でどうやって引き戸を開けたのか考えてみれば謎だったがどうやらちせが開けたらしい、御大の後からひょっこり現れそそくさとチャの支度を始めた。目の前を通り過ぎる一瞬、チラッとこちらを見ていたからやっぱりがっつり聞かれていたのだろう。死にたい。
「レラカムイだがな、一〇月の府中二〇〇〇でデビューだ。そこから東スポ杯使ってホープフルステークスを目指す」
 負けることなど欠片も想定していない風に御大は淡々とローテを読み上げた。
 俺とて初戦で躓くとは思っていないがここまでストレートな物言いをされては苦笑の一つも漏れるというもの、気合が足りんと怒られないようちせが出してくれた湯飲みを口に運んで表情を隠す。
「朝日杯じゃないんですか?」
 朝日杯とホープフルステークスはどちらも二歳限定のG1だがコースと距離が異なり朝日杯は阪神一六〇〇のマイル戦、ホープフルステークスは中山二〇〇〇の中距離戦となっている。昔から二歳最強馬の決定戦として位置付けられている朝日杯に対しホープフルステークスは元来G3の格付けであったものが近年G1に格上げされた若いレースだ。
「リハのつもりで走れ、年明けは皐月に直行する」
 御大の発言の後、僅かではあったが事務室の中に奇妙な沈黙が生まれた。俺はその無茶苦茶な発言に言葉を継げなかったし、ちせはすっかり納得したように何も言わない。
 俺が止めなければマズイのだと察すると同時にこうなった御大を止められるはずが無い事も理解していた。御大が俺の発言でローテを変えるなどお天道様が槍を降らしても有り得ない。
「直行は流石に無理があると思いますけど」
「NHKマイルも狙うからな、春先に使うレースは出来るだけ減らしたい」
「ダービー前にマイル挟むのはともかく、十二月のホープフルから皐月賞直行なんてローテ聞いた事もありませんよ」
「不思議な事だ。何故誰も試さないんだろうな、コースも距離も同じなのに」
「そんなもん間隔が空き過ぎるからに決まってるでしょ、直行で勝てる程皐月は甘くない」
「レラカムイなら七分仕上げで勝てる、ダービーでの完調をめざせば丁度良い」
「んな無茶苦茶な」
「多少の無茶も通せない馬が三冠なんぞ獲れる訳が無い。負ければ乗り替わりだからな、覚悟しておけ」
 つまり【無茶苦茶なローテーションではあるけれど馬の力は間違いないから負けたら全部騎手のお前が悪いんだよ、責任は取ってね】と御大は仰っているのだ。
 ガッハッハという擬態語が似合う豪快な笑いを見せながら御大は言い、俺は眼前のド腐れ調教師への怒りに頭の血管の二、三本でもぶち切れたんじゃないかって頭痛にコメカミを抑え、そうしているとそれまで無言でお茶をすすっていたちせが静かに口を開いた。
「乗り替わりはしないって条件ですよね?」
 いつもと変わらない芋娘の癖に、声だけ聞いてしまうと金玉ヒュンってなりそうな迫力があった。御大を相手に一歩も引かないどころか完全に上から押え付けるような物言いだ。
 流石の御大も女であり子供でもある相手に鉄拳までは繰り出すまいが相手が他の馬主ならまず間違いなく俺が身体を張って止めなければマズイ場面である。御大への怒りに膨張していた血管から今度は一転、週刊誌を彩る臼田厩舎傷害事件の小見出しが脳内ビジョンを通り過ぎると便所の大を流す時みたいな勢いで頭から血の気が引いていき強烈な眩暈に襲われる。とどのつまりは脳細胞がストレスでマッハな感じにヤバいのが自覚できる状況だ。
 ところが、意外だったのは御大の反応だ。普段なら相手が誰であれ少なくとも机を蹴り上げるくらいの傍若無人っぷりを見せつけるはずが、何も言わずにむっつりと黙り込んだままなのである。
「もしそんなことになるなら転厩させますから」
 追い打ちの一言がちせから放たれると今度こそ大噴火するかと思われたが、御大は無言のまま煙草を咥えて事務室を出て行った。
 ふんぞり返っていたボス猿が一夜にして猿山の頂点から追い出された衝撃とでも言おうか、いやそれ以上に目の前の現実に理解が追い付かないという方が正確だ。
 今までどんな一流騎手も有力馬主すら逆えなかった日本競馬界のジョーカーこと臼田昭俊という男をたった二言で厩舎から追い出したのは御存じ芋娘ことクソド田舎のチンケな牧場の元主・茂尻ちせなのである。
 この二人何かあんのか、なんて勘繰りが浮かんだ一瞬の間にちせは言った。
「私は臼田先生と同じくらい騎手としての大越さんを信頼します。他でもない、エトの遺言ですから」
「はあ……そうですか」
 返す語尾が思わず丁寧語になってしまう程、目の前のちせは普段通りの芋娘なのに馬主としての威厳に満ちている気がする。
「お前ら、何かあんの?」
 勘繰るのも面倒になって本人に直球を放り投げると【昔からお世話になっているので】と答えるちせは身内を紹介するような気恥ずかしさを漂わせていた。

 その後暫くはちせとぼんやり茶を啜っていたのだが、ちせが作業に戻ると暇になり何となしにレラの様子でも見てみようかと馬房を覗くと、御大がレラに話しかけていた。
 こうして馬の相手をする事自体は珍しい光景でも無いがその表情の柔らかさは記憶に無い。調教師として馬の状態を見るのではなくコミュニケーションを楽しんでいる、ただの馬好きのそれだ。
「先生が引き下がるなんて珍しいですね」
 声をかけると僅かに視線を向けて、相手が俺だと解った途端に舌打ちを隠さない。やっぱこのオッサン糞だわ。
「契約は契約だ、俺はお前なんぞ乗せたくないのが本音だよ」
「いつもなら言い返してたでしょうに」
 適当に笑って流しながら隣に立つと馬房の中のレラも上機嫌なようだ。御大の手には角砂糖の詰まった小袋が握られている。
「厩務員試験受ける前にあの牧場で世話になってたんだよ、もう二十年以上も昔の話だ」
「へえ、あそこに」
「爺さんにも散々世話になったし、ちせの母親が一人娘で丁度今のちせくらいだった。よく似てるよ」
 芋から芋が生まれた図を想像して一人吹き出しそうになっていると、御大は静かに言った。
「エトゥピリカは俺が殺した」
 その言葉は馬房で動き回る馬達の物音に紛れる事も無く、ただ静かに、透明に響いた。
 御大は俺の責任を軽くする為に言ったのだろうかという思いが僅かに巡ったが、直ぐにその傲慢に気が付いて笑う。御大はそれほど出来た人間ではない。
 俺達はカムイエトゥピリカを殺した共犯者だ。
 世間に言われたからではない、その重みを忘れてはならないものだと他でもない自分自身が思うからこそ、そう信じるのだ。
「そんな人間にこうして与えられたラストチャンスだ。義理を欠いたままあの牧場の名を消すことは、男として絶対に許されん」
 血統表という紙っぺらに残す為などではなく、そこに関わった人々の願いを成就する為にこそ臼田昭俊という男は決意を固めたのだろう。
「俺はこいつに、レラカムイに調教師生命を懸ける」
 その言葉は俺にも問うている。
 ――お前にその覚悟はあるか?
「無論です」
 間は空かなかった。置くことが出来なかったというのが正しいかも知れない。【この言葉に詰まるようでは男じゃない】などと内心で感じていたのかは自身でも定かでないが、俺の精神も臼田イズムに汚染されているようだ。
「俺の全てを懸けます」
 元よりカムイエトゥピリカと共に終わったはずの騎手生命だ、惜しいはずが無い。

「でも先生、ローテは考え直してくださいね」
 それとこれとは話が別だから無茶苦茶なローテに念を押す事も忘れなかったのだが、御大も御大でやっぱりムカついてはいたのだろう、俺相手には遠慮が無くなるらしく油断していた顔面にしっかり右ストレートが飛んでくると視界に綺麗な星が飛んで寝藁とボロにまみれた床にキスをする羽目になった。
「ウルセエ馬鹿野郎、乗せてやるだけ感謝しろ!」
 怒鳴り散らしながら馬房を出ていく極悪イカレ調教師にして諸悪の根源こと大魔王USUTA。やっぱこのオッサン糞だわ。
『大丈夫か……凄い音したぞ』
 心配そうな声をかけてくれるレラが良いヤツに思えてしまうくらいに、あのクソ調教師が俺は憎い。
 時は瞬く間に過ぎ、神様方が出雲へ帰省する頃合いになるとレラはすっかり注目の的だった。調教内容がマトモじゃないと騒がれることは元より叩き出している時計が既にオープン古馬クラスのそれだから来年クラシックの有力候補と目されるようになり、更には悲運の二冠馬カムイエトゥピリカの全弟で厩舎メンバーもそっくりそのままとくっつけば数えで役満にも届こうかという手役なのだから注目されない方が妙とも言えた。
 普段であれば閑古鳥が鳴いている臼田厩舎にも連日記者が詰めかけるようになっており、最初のうちはおだてられて上機嫌だった御大だが、近頃では挨拶より先に【手に持っているナニカ】を手あたり次第投げつけている。行動だけ見れば四六時中衆目に晒され続けた結果ストレスで精神を病んでしまった動物園の猿そのものだ。
 今日も今日とて天狗山から引き上げてきた御大が身に付けていたパチモンのロレックスか何かを全力投球して記者達を追い返す様を横目にレラに水を浴びせていると、多少こなれたジーンズ姿のヨモギダ青年が現れた。
 彼は恐らく今週末の新馬戦に出走予定の各馬の情報を収めたUSBか何かを持参しているはずであり、本来なら客人としてお茶の一杯でも出して然るべき相手だが錯乱状態にある猿が人間社会の常識を理解出来ようはずもない、哀れヨモギダ青年は御大渾身のラリアットに刈り取られその場に倒れ伏す。
 暫くの沈黙の後で冷静になった御大は、サバンナで周囲を警戒する獣の機敏さで辺りを見渡してから俺の方へ向き直り【さっさと運ぶぞ】と顎で事務室の方をしゃくって指示を出す。ダーティーな清掃作業に慣れたヤの字の如き淀みのない反応に【生コンに詰めて東京湾にでも沈めるつもりかも知れない】などと考えたのは俺だけでは無かったらしい、怯えたレラが身震いすると弾かれた水は豪雨の如く降り注いで見事な濡れ鼠が一匹出来上がる――と言った具合に、躓くはずもない初戦のはずがレース前から前途多難である。

 三途の手前から無事帰還したヨモギダ青年に米つきバッタと化した俺とちせがひたすら頭を下げる傍らで、御大はいかにも重要な仕事に取り組む風に神妙な雰囲気でモニターを眺めている。
「敵になりそうな馬は、いないな」
 咥えタバコで渋くキメて、あわよくば話題を逸らす心積もりだったのだろうがやらかした内容が傷害未遂事件では雰囲気に騙されるお人好しなどいるはずもない。顰蹙の視線に晒されてポーズを保てなくなると、不貞腐れてそっぽを向いたままではあったが、小さくスマンと呟いた。
「もう少し真面目に謝ったらどうですか」
 一歩間違えば警察沙汰であっただけに今回ばかりは言っておこうと多少の意を決した俺の言葉だったが、当のヨモギダ青年が割って入る。
「大した事無いですから、大丈夫ですよ。先生も大変でしょうし」
 被害者自らハハハと笑ってみせてやるその優しさは人間相手には美徳となるのだろうが相手は猿であって人情よりもバナナである。甘やかすと後悔するぞと目で伝えてやったが、ヨモギダ青年は却って俺を宥めるように話を続けた。
「それより、当日の作戦は決まっているんですか?」
「そんなもの、教えてやる訳が無いだろう」
 バツが悪いことは隠しようもなかったがレースに直結する内容は話せないという事か、御大が回答を拒否すると、ヨモギダ青年は一呼吸の間を置いてから不意に首をさすり始めた。
「……あ、何か、首、痛いなあ。やっぱりこれ労災申請――」
「――凛太朗、話してやれ」
 サーカスの猛獣使いのような鮮やかさであった。ライオンを相手に鞭を振るって支配する辣腕に動物園の猿が敵うはずもなく、御大のプライドはオークに捕らえられた姫騎士もかくやという具合にあっさりと陥落した。してやったりの表情を隠さないヨモギダ青年を見てやはり大卒資格は伊達では無いなと自身の中卒という学歴に僅かな負い目を感じるも、俺としては隠す必要性を感じていなかったので御大のかましたラリアット分程度は話してやることにする。
「新馬戦だから競馬に慣れさせるのが第一かな。スタート良くても多少抑えて、中段待機でギリギリまで馬群に入れておくつもりだよ」
「そうすると直線勝負ですか」
「理想は坂の手前で先頭、スピードが違うから末で勝負にはならないと思う」
「大越騎手から見て不安要素は?」
「無い。調教も他の馬より数段キツイのこなしてるし、地力を発揮させてやれればそれだけで勝てるはずだ」
「では勝つ前提の質問になりますが、本レースの目標を一言でお願いします」
「うーん……後続と三馬身程度を保ったまま勝てれば理想かな」
「三馬身程度、ですか? 大差とかではなく?」
 クエスチョンマークを浮かべているヨモギダ青年に、ちょっと得意になりながら、俺はただ頷いて返した。

 土曜の夕暮時、調整ルームに入る身支度を整えてから馬房を訪れると、レラは落ち着かない風に左前足で地面を掻いている。
「緊張してんのか?」
 声をかけても一瞥したきり何も返してこない、無言の肯定というヤツだろう。図太い神経だと思っていただけに意外な繊細さだった。
「安心しろって、手綱を取るのはダービージョッキー様だぞ」
『それが一番不安なんだよ、レースに乗るのは一年ぶりじゃねえか』
 憎まれ口だけは忘れていないようでこちらのジョークにはしっかり反応するのだから苦笑も漏れる。
「そうだな、確かにそうだ」
 緊張を解いてやるつもりが却って説き伏せられているのだから話にならない。案外レラよりも俺の方が緊張しているのかも知れないと自嘲しながら、しかし考えるより先に言葉は続いた。
「そんでもまあ、勝たせてやっからよ……最初で最後の経験だ、精々思う存分緊張しておけ」
 言葉にしてから腑に落ちた、というのが正しいだろう。腐っても騎手として五千回近くの数だけはこなしてきたのだから、チェリーボーイの緊張くらいは引き受けてやれなければそれこそただの重りである。
 今までにも数えきれないほどの新馬戦に乗ってきて、デビューを控えた彼らが皆緊張している事は言葉を交わせなくてもどこか伝わってきたから、きっと俺は、彼等にもこの言葉を伝えてやりたかったのだと思う。
「明日の朝、俺はいねえけど寂しがるなよ」
『気色悪い事言ってんじゃねえよ、さっさと行け』
 考えてみると、レラと半日以上離れるのは出会って以来初めてかも知れない。ただ一頭のお手馬にここまで関わるなど考えた事もなかったが、出掛けの挨拶が出来る関係というのは、なかなかどうして、悪くないものだ。
 茜色の外へと足を向け、二歩、三歩と進んでから、ふと振り返る。
 夕焼けた栗毛で金色に燃える馬房からは、黒い瞳が二つほど、水面に浮かぶ月のようにぽっかりと浮かび上がって、じっとこちらに向いている。
sage