「彼女を好きな理由」

 僕は、下坊夏子が好きだ。
 その理由として三つある。
 まず一つは歯だ。非常に整った歯並びをしていて、小麦色に焼けた肌から見せる真っ白な歯は春の陽光のように清潔感に溢れ、輝かしい。一度、先生の冗談話に大きな口を開けて笑った下坊夏子の奥歯が見えたことがある。虫歯ひとつなく、丁寧に手入れをされた白い歯。奥歯には歯医者で加工されたアマルガムの詰め物の形跡は一切なく、健康体をその形で表せる歯が一切の乱れも許さぬよう陳列していて彼女の存在そのものの潔白を証明しているようだ。
 二つ目はその髪だ。肩にかかるほどのセミロングでやや色素が抜けている。下坊夏子は水泳部に所属していると言っていた。塩素ナトリウムで自然に染め上げられた、夕焼け空のような色をしたその髪は揺れる度にサラサラと流れてゆき、夏の清流を思わせる。日に焼けた肌に、その髪は反則的なまでに和合しており一種の芸術作品を見ている感覚に陥る。下坊夏子の髪は蛍光灯の下ではキラキラと七色に発光し可愛らしい笑顔を更に映えさせるのだ。
 三つ目は。

 ○

 下坊夏子とは中学が違う。
 僕が通う中学は下坊夏子が住む場所と学区が異なり、少し離れた場所に彼女の通う中学がある。だから僕は彼女が学校でどんなことをしているのか、どんな態度で授業を受けているのか、どんな友達がいて、どんな風に過ごしているかの大部分を知らない。
 僕が下坊夏子と会えるのは水曜日の夕方から夜にかけて。週に一度の進学塾でたった一度のタイミング、たった数時間の間だけであった。
 僕と下坊夏子はその進学塾でも下位のクラスに所属しており、難関高校や私立高校受験というよりかは、学校の授業についていけるようなベースの授業を軸に、地元の公立高校を専願で狙っていくようなクラスに配属されていた。そんなこともあって、我々のクラスの授業態度は学校とほぼ変わらない。お金を払って勉強をしに来ているはずなのに、まるで学校の延長線上のように授業中に私語はするし、教科書は平気で忘れるし、そもそも塾に来ない奴も何人かいる。下坊夏子は僕の前の机に腰を掛け、「な、宿題写させて!」と無邪気に白い歯を見せて笑っている。足を組んだそのしなやかな太腿は夏の太陽の日差しに焼かれてスベスベと蛍光灯の光を吸い込んでいる。白いハイソックスが小麦色と調和し、眩暈さえも覚えてしまう。
「自分でやれよ、そんなもん」僕はあえて不躾な態度で対応するが、彼女は至って気丈だ。
「いいじゃんかよ、ケチ野郎」そうしてまた笑うのだ。それはもう嬉しそうに、楽しそうに、笑うのだ。
 彼女は誰にでもそうだ。人に慣れた子犬のように誰にでも直截に振る舞う。あっちで笑顔を撒き、こっちで大きな声で笑い、女にも男にも同等の笑顔を見せる。それは僕にはたまらなく辛抱できず、たまらなく愛おしい下坊夏子の一面でもあるのだ。
「今回だけだぞ」僕がそう言ってノートを彼女の前に差し出すと、机に腰かけていた下坊夏子は「お、サンキュ」と前かがみになりノートへ手を伸ばした。その時、組み替えた脚の隙間からほんの少し彼女の下着が見えた。水色の下着だった。

 ○

 その日の授業は一切頭に入ってこなかった。下坊夏子が見せた一瞬の下着の色に脳内が侵され真っ黒な泥のような感覚が一切の思考を遮断した。まだ胸が高鳴って止まらない。血圧が乱れていくのがわかる。恐ろしいまでの興奮と執着。下坊夏子が一瞬見せた、その下着。炎天下で食べるアイスキャンディーのような色をしたその下着。下坊夏子の下着。下着。下着の下はどうなっているのか。僕は下坊夏子の陰毛を想像した。きっと水着の跡で股間は日に焼けていないはず。真っ白な恥丘に薄らと生え揃う細く繊細な陰毛を想像する。撫でてみたい。引っ張ってみたい。頭がおかしくなりそうだ。下坊夏子。下坊夏子。
 夜の九時。賀茂川沿いを自転車で走っていた塾帰りの僕は我慢が出来なくなって自転車を放り投げ、河川敷の草むらの陰に隠れた。下坊夏子が一瞬僕に見せた隙。水色の下着。日に焼けていない白い肌。柔らかな陰毛。水着姿の下坊夏子が僕の頭の中でその姿を変えていく。塩素ナトリウムが下坊夏子の水着を溶かしていき、裸体が露わになった。大きくない胸、発達した腰回り。下坊夏子は恥ずかしそうに、日に焼けていない真っ白な部分を手で隠すのだろうか。見られたら、やはり恥ずかしがるのだろうか。下坊夏子。下坊夏子。
 僕は着ていた学生服を全て脱ぎ捨て、草むらの中で息をひそめた。塾用のカバンを抱きしめ、自身の恐ろしく高鳴っていく心音だけに耳を傾けた。
 下坊夏子、僕も君と同じ姿になっているよ。下坊夏子、僕を見てどう思うんだい。
 どうやら興奮が限界に達したらしい。乱れきった呼吸から吐き気を催し、眩暈さえもした。あられもない姿をしている僕を通りがかった誰かに気づかれでもしたらどうしよう。それがまた興奮に繋がっていく。気づくと僕の股間は火傷するほどの熱を帯びて膨張しており今にもはち切れんばかりの状態になっている。これ以上になくいきり起ち鋭い痛みが走っている。嗚呼、下坊夏子。
 僕は僕の股間に手をやった。その瞬間、勢いよく射精した。滴り落ちる精液が止まらない。全身が快楽の痙攣を起こしている。三度、四度、勢いよく射精した僕は眼前に七色の極彩色を見た。下坊夏子が優しい笑顔をこちらに向けて手を広げている。嗚呼。ああ。あ……。
 しばらくの間を置いて、僕は下着を履いた。あれだけ射精を行った股間はまだ熱を帯び、勃起している。
 誰かが後ろを自転車で通りがかったのに気づいたが、そんな事をもうどうでもよかった。
 ただただ、濃紺に沈んだ夜の賀茂川がサラサラと音をたてて流れているのを僕は見つめていた。

 ○

 下坊夏子と会えるのは週に一度だけ。だから彼女と会うたびに新鮮だ。
 いつしか下坊夏子が授業の始まる前に筆箱を落とした事がある。たまたま後ろにいた僕は彼女の筆箱の中身を一緒に拾い集めたのだが、そこに小さな四角形のパッケージが落ちていることに気づいた。下坊夏子はそれに気づかず、拾い集めた筆箱を持って「ありがと」と微笑んだ。僕は皆の目を盗んでそのパッケージを拾い、ポケットに入れた。
 塾が終わり、誰もいなくなった教務課の前のベンチでそのパッケージを確認した。それはコンドームだった。下坊夏子のものか。確かにあの時、筆箱を落とした時に床に散らばった中にこれがあった。また胸が高鳴っていくのを感じる。白いパッケージに黒字で何か英語で書かれているそのコンドームを僕は握りしめ、そっとポケットに戻した。

 ○

 それからしばらく経ったある日、下坊夏子から僕に誘いがあった。
 塾が終わってから、近所の高原公園に来てくれないかという誘いであった。下坊夏子は事前に「告白とか違うから。ちょっと相談っ! ね?」と念を押した。「わかった」と僕は返事をし塾を終えて約束の時間である高原公園へやってきた。
 下坊夏子は一度家に帰ったのか、制服から私服に着替えて現れた。
 ピンク色のキャミソールに、太腿が露わになったデニムのパンツ姿だった。白いハイソックスはそのままなのか、デニムから伸びる脚がさらに長く見える格好だった。
「夜でも、暑いねー」
 下坊夏子は先にベンチに座っていた僕の横に座りながらそう言って足を組んだ。僕は生唾を飲み込み、彼女の太腿を見た。小麦色した太腿が街路灯の光に晒されている。
 僕の股間はみるみる膨張していき、ねっとりとしたローションの感触がパンツに染みてくるのがわかった。
 僕はいま、下坊夏子が落としたコンドームを装着して、彼女の前にいる。彼女の所有していた、コンドームを僕が今、彼女の目の前でしている。下坊夏子はもちろん、そんなことは知るまい。
 公園で二人きり、他愛もない話をした。どちらかといえば下坊夏子が一方的にどうでもいい話を僕に投げかけていて、僕は返事をしたりしなかったりした。
 話はごく自然に本題へと滑り込んでいき、下坊夏子の好きな人の話になった。同じ学校の、違うクラスの男子の話だった。
 部活動が同じなこと、何度か一緒に下校したこと、お互い良い雰囲気になってきていること。
 そんなことを聞かされた。僕は黙った頷いていた。そんなことよりも、下坊夏子の前で彼女の落としたコンドームを装着している恥ずかしい姿の僕に興奮を覚えていて、男の話なんてどうでもよかった。下坊夏子は僕が、コンドームをしていることを知らない。君のことを考えて、君のいやらしい太腿を見て、君の裸を想像して膨張している、コンドームを被った僕のアレを彼女は知らないのだ。知らなくて、好きな男の話をしているのだ。こんな変態な僕の前で。
 下坊夏子、僕は君で何度自慰をしたと思っている?考えたことはあるか?なんでもない、他愛もない、君の好きでもないなんでもない男が君の体躯を舐めるように見つめ、様々な姿の君を想像し、僕の精液で君を毎夜汚していることを。君は知らないだろう。そんな男が君のコンドームをして君に前で好きな男の相談に乗っているんだぞ。どう思う?下坊夏子。
「それで日曜日に会うんやけど、告白しようと思うんだ」
 下坊夏子はそう言って僕を見た。大きく純粋なその瞳は街路灯の光でかすかに滲んでいる。
「そう。そうか。いいんじゃない。告白」
「でも、うまくいかなかったらどうしよー!」
 下坊夏子は表情を崩して僕の手を取り上げた。一瞬、膨張した股間に手が触れ気づかれないかヒヤリとしたが、下坊夏子は僕の手を取ったまま首をぶんぶんと振って「ダメダメ、ネガティブ思考ダメだね」と言った。
「それで、僕はどうしたらいいの」僕は彼女に問いかけた。
「うん、でね。お願い! 一緒に来て! 途中まででいいから! 一緒に映画館行くんだけど、その近くまで一緒に来てお願い!」
 そう彼女は言って手を合わせた。
「でも、僕が同行してそれを彼に見られでもしたら不味いんじゃないの」
「だって、一人で行くのめっちゃ怖いんだもん。足が震えてさ。あんたとバカ話しながらなら、緊張も取れるかなーなんて」
 そう言って彼女はニッカリと笑顔を見せた。
「僕は付添いのお母さんか」
「あはは、うまいこと言うねー」
「いいよ、どうせ暇だし」
「嘘? ほんとに? うわー、ありがとう。優しいとこあんじゃん!」
 下坊夏子は笑って、僕の肩をぽんと叩いた。その反動で僕の股間がビクンと反応したのがわかった。
「じゃ、日曜日ね! よろしくね!」
 去っていく下坊夏子を見送ってから、僕はズボンを下し装着していたコンドームを見た。コンドームの中は精液で溢れ、だらしなくぶらさがっていた。
 僕は射精していた。

 ○

 約束の日の当日。
 下坊夏子はいつもの動きやすい格好ではなく、少し女の子らしい姿で現れた。夏らしく麦で編まれたカバンをぶら下げている。
 駅に着き電車がまもなくやってくるというアナウンスが構内に響いていた。
 下坊夏子は何やら嬉しそうに、この間の出来事や、彼との将来の話を僕にしているようだったが、僕にはアナウンスが頭の中で響いてくるばかりで何も入ってこなかった。
 僕は、下坊夏子が好きだ。
 その理由として三つある。それは君の歯と、髪と。
 電車が汽笛を鳴らして構内に入ってくると同時に、僕は下坊夏子の背後に回り込み、彼女の背中を勢いよく押した。
 下坊夏子は「 」と声にならない声を残し、振り返るか振り返らないかのところで線路内に落ち、そのまま電車が轟音を立てて滑り込んだ。

 ○

 僕は、下坊夏子が好きだ。
 その理由として三つある。
 三つ目は。
 僕は僕が下坊夏子を誰よりも好きだということ。