Neetel Inside 文芸新都
表紙

出町柳心中
「人生ディストラクション」

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 最近、私が地下室で書いている渾身のイッヒロマン超大作を「つまらん」と馬鹿にする人がいる。この屈辱的仕打ちはあの日から続く私の日常と同じであって、現在に至るまで連綿と螺旋する人生の敗者的余韻は今日も、そしてこれからも、私が死ぬまで続いていくのかと思うとゲロを吐いてしまいそうだ。
 例えば私が近所のジャスコへ赴いた時も毒を含んだ視線が一身に注がれて軽蔑されているような感覚に陥る。「ちょっと、あの人、小粋なカフェでお茶してるわよ」なんて言いたげな奥方が数名、遠巻きに私を一瞥している。「おい、あいつ、フードコートでクレープ食ってるぜ、しかも一人で」なんて今にも口にしそうな少年達が指で示す気がするのだ。私のような劣等種がストロベリー・ア・ラ・モードなんて選択をしてはいけない。明日から顔を上げて街を歩けなくなる。だから仕方なく、私は納豆ごはんクレープを選択せざるを得ないのだ。この苦痛が諸君にはわかるか。だからこそ、この手記がせめてもの償いである事をここにそっと告白しよう。
 第一、ジャスコなどという街の一級レジャースポットへ私のような奴隷が訪れてはいけなかった。だいたいどこのジャスコでも訪れる方々は都の豪商、資産家、石油卸、医療関係者、東大出身、パリコレモデル、西宮在住、東証一部上場企業社員、ポールスミス大丸心斎橋店スタッフなど名高いステータスを肩書に持つ勝者がコアターゲットになっている。併設されている百円ショップならいいかな、と淡い期待感を持って買い物籠を手に取ったら、店内はスーツやドレス姿の紳士淑女がワイングラス片手にレッドブル翼を授けるを酌み交わしていた光景を目撃した事がある。私はもう自信がなくなってしまった。そう、私が根本的に悪かったのだ。何もかもが悪い。育ちが悪く、容姿も悪く、頭も悪く、胃も悪く、視力も悪く、髪質も悪く、親知らずを抜いて顔面が変形しているこの私である。もう死ぬしかない。
 全ては私の所為(せい)なのだ。
 したがって、私はここに遺書を認める。

 ○

 ふと思い出したことがある。小学三年生の、何もかもが懐かしく、全て許されていた日々の事である。
 その日、ちょっとした事件が起こった事を私は覚えている。朝、登校した私はクラスメートから冷たい視線を感じていた。何やらヒソヒソと耳打ちで言葉を交わし、私を蔑みながら笑っているような気がした。みらいちゃんも、ロランちゃんも、葵ちゃんも。親友の馬酔木ちゃんも。でも私が一番ショックだったのはボツワナ共和国出身のゴンゴ・ホブオシュガスちゃんが冷たい笑みを浮かべていた事である。昨日友達になったばかりだったのに、この表情である。帰り道にコイサン語族について教えてもらったあの日。「でもね、十七世紀半ば頃かしら、南部より移動してきたツワナ人が支配したのよ」っぽい事を彼女は言っていた。私は未知なる話に胸を躍らせながら耳を傾けていた。ほとんどが初めて、彼女の言葉ひとつひとつが新鮮で、そもそも何を話しているのか、それが何語なのかもわからないけれど素敵だったと記憶している。夕に焼け染まる公団の曲がり角で彼女は挨拶をした。私は小学生の頃、母と二人で公共住宅に住んでいた。彼女はここから踏切を越えて少し行った先の、採石場横の木造小屋に住んでいると母が言っていたのを覚えている。なんでもその小屋には大人の人が何人も一緒に住んでいて、一緒に仲良く生活をしているのだそう。私は一度だけ彼女の後をつけてみたが、本当だった。黒い肌した大人の人が数十人、とても静かに家の中へ入っていったのだ。大家族である。私は一人っ娘なもので、大変羨ましく、また夢のように思ったものである。そのすぐ後で警察の人が小屋周辺に集まってきたが、黒い車が横に着け、黒いスーツを着た熊のような男数人が出てきたかと思うと警察の人にお金をあげていたところを目撃した。私は心が暖まりすぎて気づくと落涙していた。警察の人におじさんがお年玉をあげていたのだ。私は幼心に感嘆していた。黒いスーツを着た大人の人は小屋の中へ入っていった。共に晩餐でもするのだろう。私はこれ以上その場に居る事ができずに泣きながら帰宅した。あまりの感動に胸が痛くなってしまったのだ。きっとあのおじさん達は、中にいる黒い大人の人にもお年玉をあげるのだろう。母がたまに言っていた。「あそこには黒い交際がある」と。確かに黒い人たちが交際していた。母の言っている意味がようやく理解できたのだ。とても良い話である。黒い交際は最高だと思い、将来私も黒い交際をしようと心に決めたものだ。
 私はそれから登校する度に「黒い交際」の歌(自作)を歌い、クラスメートに「黒い交際しようよ」と声をかけて回った。親友である馬酔木ちゃんの家にお誕生日会で呼ばれた日も「黒い交際だね」と笑いかけ、馬酔木ちゃんのママにも「私たち、黒い交際してるんだよ」と元気いっぱいに報告したものだ。
 しかし、しばらく経って何かが変わり始めたのだ。私が話しかけてもみんな知らない顔をするようになってしまった。みんなが私の事をいきなり嫌いになってしまったのだ。何がいけなかったのか、未だに判然としなかったが、たぶん小学生の頃の私はそこそこ可愛らしかったので(町内会が主催する地蔵盆で歌や踊りを披露するアイドル級)少し嫉妬しているのだろうか、なんて邪推もしなかったわけではないが、まあ大まかそんなところだろう。所詮は子供である。
 クラスメートのみんながクスクス笑う中、私は席に着いた。すると同時に、私の幼心は粉々に砕け散ったのである。
「汝なほ努々(ゆめゆめ)仏を念じ奉り、法花経を受持・読誦し奉るべし」と私の机に掘ってあったのだ。しかも、彫刻刀で、かなり繊細に掘られていた。
「だ、誰? 誰なの? 私の机に今昔物語第十二集の一文を掘ったのは」
 教室はシン、と静まり返っていた。
 息が詰まりそうなほどの静寂だった。遠くでジェット機のエンジン音が聞こえている。夏の始まりだった。だんだんと高くなる陽が私の横顔に影を落としてゆく。
 その緊張を破ったのはロランちゃんだった。
「私じゃないよ」
「私でもないわよ」続くようにしてみらいちゃんが言った。
 馬酔木ちゃんは遠くで、ドアの陰に隠れて震えていた。いつもは元気な馬酔木ちゃんであったが、その時ばかりは何も言わなかった。
「じゃあ、じゃあ誰なのよ! 正直に言いなさいよこのクソ豚どもが!」私は激昂のあまり四辺に写るクラスメート全てが豚に見えたのである。「いい加減ブチ切れるぞこの豚ども!」私は彼女らが家畜にしか見えなくなっていた。中には鶏に見えた子もいたが、私はあえて「豚」で統一した。その方が芸術的だと思ったから。
「いいだろう、五秒待ってやる。私が五つ数える間に名乗り出なければ、貴様ら全員このクラスター爆弾で木端微塵にしてやる。何、心配する事はない。一瞬だよ。一瞬であの世行きは約束される。苦しむ事無く殺してやる。さあ、いくぞ。ひとつ」
「ふたつ」
 私がランドセルからCBU-59ロックアイセカンドを取り出すと教室内は一瞬で阿鼻叫喚の地獄と化した。あまりの恐怖で腰が抜け失禁しながらその場へ倒れ伏せるものも居れば、「せんせーい! せんせーい!」と担任を呼ぶ空しき声が響き、ただただ私に視線を送るものもいれば、前列で寝ている奴もいた。
 その時である。
「そうはさせないわ!」と、私に銃口を向けた一人の反逆徒がいた。
 馬酔木ちゃんだった。
「そうよ、私が言ったのよ、誕生日会に来たあの子は変だって皆に言ったのは私っ! でも、でもねっ! 仕方がなかったのよ。お母さんが、もうあなたとは遊んじゃいけないって」
「みっつ」
 私の怒りは臨界点をはるかに突破し、計り知れない殺意と憎しみが渦巻いていた。それは黒々とし頭上でうねりながら燃えている。万里をも超えていくその怒りで、もはや秒読みが止まる事はなかった。
「お母さんが言う事は絶対。私は何でもお母さんの言う事を聞いたわ。ピアノのお稽古だって今まで続けている。スイミングスクールだって頑張って続けているわ。お母さんが続けなさいって言うから。でも、大嫌いなのっ! ピアノも水泳も私は大嫌いっ!」
 吸い込まれるような銀の銃口を私に向けたまま今にも泣きだしそうな馬酔木ちゃんに葵ちゃんが言った。
「やめて! 今はそんな事を言っている場合じゃないでしょう! 見てよ! あいつは狂っているわ! あれじゃまるで狂人よ! あの目は確実に殺るわ、いや、もう殺った事のある目ね。私にはわかるのよ。あの子はもう、あの子じゃない。悪魔よ! ダミアンよ!」
 私がCBU-59ロックアイセカンドを頭上に掲げると、何人かの賢明なクラスメートがドアから一斉に退避を始めた。そうだ、逃げた方が賢いに決まっている。今すぐ逃げろ、必死になって、虫のように逃げ惑え、そうして家に帰ってママのミルクでも飲んでいるがいい、二度と、もう二度と私の前に顔を見せるな。
「でもっ!!」馬酔木ちゃんはそう言って銃口を下した。何故だかよくわからない。馬酔木ちゃんは笑っていたのだ。
「いくらママが言ったって、あなたの事、嫌いになれなかった……」
 はっきりと見えた。一筋の美しく濁りのない涙が落ちたのを。
 私は爆弾を抱えながら言った。
「じゃあ誰よ! 私に意地悪したの!」
「わたし、だ」
 ボツワナ共和国出身のゴンゴ・ホブオシュガスちゃんだった。
「わたしが、やった」初めて、ゴンゴ・ホブオシュガスちゃんが日本語を喋ったのだ。その後、ゴンゴ・ホブオシュガスちゃんは涙を流しながら動機を語ったが、何語かわからなかったので全然聞き取れなかった。
 私はそっと「五つ」と数えてCBU-59ロックアイセカンドを床に置いた。
「もうおしまいだ」とクラスメートは頭を抱え、誰しもがその場へ蹲(うずくま)った。

 ○

 どれくらい時間が経ったのか。恐らくほんの数秒だったと思われる。しかしその数秒は途方もなく長いものだった。
 最初に顔を上げたのは馬酔木ちゃんだった。
「あ……れ?」
 きょとんとした目で馬酔木ちゃんは辺りを見回していた。それから次々と頭を上げ目を開けるクラスメート達。ようやく、彼女たち全員が顔を上げた頃、私は教室を後にしていた。
 私が床に置いた小さな球体の花瓶から馬酔木(アセビ)の花が一輪だけ、顔を覗かせていた。
 あの時、馬酔木ちゃんに渡せなかった誕生日プレゼントだった。
「私、わかってたんだ。あの子は、そういう子なんだって」
 誰にも聞こえないくらいの声で馬酔木ちゃんは言った。
 
 ○

 死にたくなると、生前の楽しかった思い出を思い出すという。
 私にとってこの思い出は、かけがえのない、友情と愛のエピソードだったようだね。
 この世界に、サンキューだよ。

 (臨終)

       

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