Neetel Inside 文芸新都
表紙

出町柳心中
「恋は流れてゆくものだ」

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 まだ名残る四条河原町の灯下が降り注いでいる。俺は一人、みすぼらしい姿で途方に暮れている。
 あまりにも悲惨な己の運命を呪わざるを得ない。

 ○

 その日だ。俺はいつにも増して無益な休日を過ごすわけにはいくまいと朝から入会したばかりのスポーツジムにて汗を流していた。なんとなく日々の虚空に漂う敗者的余韻を払拭しなければならないと思い立ち、生まれついての虚弱体質を改善すれば精神の浮上が望めるであろうと期待し柄にもないスポーツジムの門戸を叩いたのだ。強靭な身体さえ手に入れてしまえば何事も滞りなく捗るであろうっぽい事が勧誘チラシにも明記されていたし、例え酒の入った不埒な学生に夜の鴨川で絡まれたとしても臨機応変に拳で語り合える事ができ、結果女の子にモテて彼女もできて鼻炎も治り給料もアップで空には虹が架かるであろう。我ながら素晴らしい構想に舌を巻いておる。
 しかし、一人で黙々と筋肉をいじめ抜くのも殺生であるので、ここはひとつスポーツジムを紹介してくれた職場の伊沢先輩を誘ってトレーニングを行う事にした。
 ここでその伊沢先輩についてライトなノベルティよろしく子細に記するつもりはないが、話の進行上不備がないよう書くとするならば、歩く清潔感と形容するに相応しい。社交性があり、仕事ができ、笑い声が大きく、虫歯がなく、家が金持ちだ。終業後はフットサルに打ち込み、社内の仲間や取引先の女性達と旨い店を毎晩のように渡り歩きながら球を転がしているらしい。そんな伊沢先輩は日陰者で全く冴えない俺にも優しく、キャンプの誘い、バッティングセンター、カラオケ。「お前も来い!」と肩を抱き、いつも太陽のもとへ連れ出してくれる。いつしか頼れる兄のように親密になり、伊沢先輩と付き合い始めてからかれこれ三年の月日が過ぎた。
 そんな伊沢先輩と午前の瑞々しい陽光が差すトレーニングルームにて亜麻色の髪をした女性インストラクターが白い歯を見せ馴れ馴れしく話しかけてくる中、俺は笑顔で応対しつつも心の中では「どうせ彼氏とやりまくっているくせに」と唾を吐いていた。恐らく、彼女も笑顔で話しながら「何このエヴァンゲリオン初号機みたいな体型のきもい男」と思っていたに違いない。
 朝から見えない心理的応酬にほとほと疲れ果ててしまった俺は伊沢先輩と仲睦まじくサウナで語り合い、シャワー室を出て、ロッカールームで持参したスポーツドリンクをがぶがぶ飲んだ。
 その時、機種変更したばかりの携帯に初めてのメールが届く。
 珍しく、職場の女性からだった。

 ○

 彼女は同年代であるが、俺より二年あとに入ってきた派遣社員である。
 遠い田舎から出てきたらしく、まだ地理さえも疎いらしい。「市バスの乗り方、いまだに迷うんです」と毎回同じ話題を俺に投げかけてくる。常にどこか焦点が合わぬような話し方で、ふわふわとした甘いオムレットのような女の子だ。彼女はこっちに友達がほとんどいないと言っていたが、明るく真面目で、誰にでも優しく笑いかけてくれる。
 健気に働く後ろ姿をいつも遠目で見ながら「とても良い娘だ」と思っていた。たまに休憩所の自販機前で出会う事があれば「市バス、いまだに迷うんです」と話しかけてくるのである。最初のうちは「ややこしいよな」と同意を含めつつ系統の巡回コースについて他愛もなく話をしたが、次第にこの話題について何が面白いのか漫然と思うようになり、俺に向けられる変哲無しの市バストークが社交辞令的に用いられる天気の話題と同類であると薄々気付き始めた時、妙に悲しい気持ちで市バスの話を聞くのが日課となっていた。
 彼女とは部署が違う関係であまり面識はなかったけれども、俺と彼女の趣味や性格がどうやら近しいらしい、しかも誕生日が同じだと四月の合同懇親会で知り、そこで紹介されて限りなく事務的な番号交換を果たした。名を久瀬さんという。その時初めて名を知った。
 彼女からメールが来るなんて珍しいな、と思いながらメールのやりとりを何度かしていたが、実家付近にある定食屋でカニクリームコロッケを食っている最中、それはいきなり訪れた。
「今晩、空いていますか?」
 女の子らしく、絵文字で彩られた、実に可愛らしいメールが舞い込んできたのである。
 俺は玩味(がんみ)していたカニクリームコロッケを盛大に吐きだし、突然訪れた春を垣間見る。手が震え、濃厚に立ち上るコロッケの油気に吐き気を催した。
 こういう時はまず、頼れる伊沢先輩に相談をと思ったが、「飲み?じゃ俺も連れてけ」と言わんばかりの若干空気の読めない彼の性格も考慮しつつここは一度冷静に息をついた。
 ならば大学時代のオタク友達はどうだ。奴らなら数多の恋愛シュミレーションゲームより引き出される選択肢への知識があるし、次元を問わず美少女への造作も深い。腹違いの妹から眼帯機械少女まで手広く対応できる一手を秘めているだろうけれど、肝心な事に誰もが童貞でありどこにでもいそうな一般女子に対する攻略法は持ち合わせていないように感じる。
 そんな事を考えているうちに、俺は浮かれる気持ちを抑えきれずに返信をしてしまう。
 彼女からの返信はすぐにあった。
「嬉しいです。今夜、四条京阪改札前で待っています」

 ○

 待ち合わせは七時だった。四条駅は彼女が住んでいると言っていた出町柳駅よりおけいはんで約七分ほど。彼女がギリギリに来る場合を想定すれば六時五十分には改札前に着けばいいのだが、何故(なにゆえ)律義で思いやりのある娘だ。「私がお誘いしたのだから」と三十分前には駅に着いている可能性も考えられる。ならばと俺はその先の一時間前には改札前で彼女を出迎えねばならない。しかし待たせすぎたと彼女に罪悪感を持ってもらっては困るので、俺は念の為二時間半前から祇園四条の地へ参上しドラッグストアでコンドームを購入した。念のためである。もしもという場合がないわけではない。最低限のマナーも守れぬ男に明日はない。そう思わんかね? そうして改札口が見える構内喫茶に陣取り彼女の姿を確認してから店を飛び出し、ちょうど今来たところを演出する準備に入った。我ながらいい作戦である。
 時刻は七時少し過ぎ。改札から 集塊の人だかりが流れ、最後に現れたのが彼女であった。俺は急いで店から飛び出し、かいていない汗を拭いながら彼女のもとへ駆け寄った。
 彼女はまさしく美女と形容するに相応しい姿だった。いつも会社で見る姿とは違う。薄らと笑みを浮かべ、その唇は艶やかなグロスに彩られている。いつものリクルートスーツ姿ではなく、乱雑に巻きついたトイレットペーパーのような服を着ている。後ろに括っていた黒髪は、耳のあたりでゆるふわと柔軟に揺らいでおり、あぁさぞかし良い匂いがするのでしょうねお母さん。本当に可愛らしいでございます。
 その時点で既に俺は恋愛という美酒に溺れかけていた。
 グーグル検索機を始め、ホットペッパーや、本屋に並ぶグルメ情報誌など、万策を尽くした中で選び抜いた決戦の場へ俺と彼女は移動した。
 他愛もない事を話しながら並んで四条大橋を歩いていると、もうこのまま鴨川へ身を投げてもいいとさえ思えた。
 俺の店選びは実に的確だった。照明は暗く、完全個室ときている。ともすれば、闇に紛れて今すぐ彼女のたおやかな双丘に手を伸ばすことも可能だろう。限りなく勝ち試合の流れがきている。
 それから乾杯をし、事前に調べた順序で料理を注文してから、春先に咲いた桜のような温かで健やかな会話をゆるりと交わす。
 誰が見ても抜かりはなかった。これがコナミのときめきメモリアルであるならば、メーターが上昇しすぎて即エンディングに突入だ。
 話はさらに弾んだ。
 そう、我々には最強のカードがあった。
「共通の趣味」である。
 話は尽きず、このまま朝までどうだ? と全くの下心無しで俺は思っていた。
 彼女は上機嫌のまま酔いが進み、なんとなくふにゃぁんとした態度になってくる。それが可愛すぎて、俺は穴を掘って「かわいい!」と絶叫したくなった。
「私、価値観を共有できる男の子が好き。話してて楽しいし。またこうしてご飯食べにいきたいね」ちょうど共通の話題にひと段落がついたところで互いの余所余所しい敬語も取っ払われ、彼女は笑顔でそう言った。
 この時、俺の頭上では「you win」の文字が虹色に輝いていたことだろう。即刻帰宅し、恐ろしく無意味な契りを交わした童貞の友人達に勝利の報告をせねばなるまい。
 いよいよ、この俺にも春がやってきたのである。

 ○

 帰り道、「酔っぱらった」とのことで酔い覚ましの意味も込めて我々は鴨川におりた。あの等間隔に並ぶ量産型ザク機どもの間に割って入り、俺はまさかの等間隔の一員としてそこに存在した。夢じゃないかと感動に打ち震え失禁するかと思った。恐らく自分史上最大のクライマックスを迎えていた。
 俺は勝利を確信していた。その桜色に染まった柔らかな顔面表皮をじっと眺め、今にも抱きしめてやりたい気持ちを紳士らしくグッとこらえた。
「お前が言わぬなら、俺から言ってやってもいいんだぜホトトギス」とクラウチングスタートの状態で、俺は愛の宣言を待った。
 たぶん、これは彼女の方から切り出してくるに違いない。俺にはどこか見えないところより無尽蔵に湧き出す所在不明の自信があった。
 四条河原町のネオンが美しく瞬き、彼女の瞳に映る。その瞳は燦然と輝いていて小さな宝石のようであった。まるで夢の果てにいるように感じた。

 ○

 しばらくして、会話が途切れた。
 柔らかな風が二人を通り過ぎた。
 少しばかり、夏の匂いがまじっていた。
 互いの手が触れる。
 いよいよ最高の結末が近付いている。
 俺の脳内会議室は過密を極め、今すぐに岡崎周辺のラブホテルに連絡を入れよ、そして最高の一室を用意するのだと声高に喚起している。
 俺は彼女を見た。
 彼女の大きく澄んだ瞳は吸い込まれそうなほどうっとりとしている。なるほどそうか、恋愛漫画で読んだ通りだ。彼女は接吻を今か今かと待っているのだ。ロケーション、雰囲気、新密度、どれをとっても接吻しろと言わんばかりの条件が整っている。
 俺は所存のホゾを固めた。据え膳食わぬは男の恥である。晴れてゴールインである。俺の貞操よ、さらば。ついに童貞を捨てる時が来たのだ。
 いくぞ。いくぞ。いくぞ。いくぞ。いくぞ。

 ○

 何が起こったのか判然としなかった。気付いた時には手を振り払われていた。彼女は「なんですか」と言った。
「あの、私、彼氏いるから、そういうのは……」
「え! か、かれしいるの!?」
「うん。もう親友のあなたになら言っちゃってもいいよね。私、伊沢先輩と付き合ってるの。五月くらいから」
 恐ろしいほどに痛く白い衝撃が俺を通り過ぎ、その瞬間、胸の中で高まっていた鼓動がリズムを崩し始めた。ガラガラと崩壊していく音が耳の奥で鳴った。
「俺が、し、親友……だと?」
 この期に及び彼女の口から発せられた言葉が信じられなかった。しかも、その相手がよりによって今朝一緒にホモセクシャルな筋肉トレーニングに励んだ伊沢先輩だったのだ。
 しばらくの沈黙が続く。それが逆に俺の冷静さを取り戻した。
 今までの俺の勘違いっぷりが想起され、やがて悶絶した。もういっそ、あの時鴨川に飛び込んで川の藻屑と消えればよかった。
「酔い覚めてきた」彼女は明らかに切り上げたそうな表情でそう言って、すたこらと帰って行った。最後に彼女は「ごめん」と言った。
 恥ずべき余韻と、後何かよくわからない空しさがそこには残っていた。
 男女が等間隔に座る鴨川の縁で、俺は一人膝を抱えて蹲った。

 ○

 俺は夜空の下を蹌踉と歩いていた。
 今までの、一連の出来事は何だったのかともう一度整理して考えてみたりもした。それと同時に、今まで数々の痛々しい俺の思い上がりな行動が思い起こされた。あれだけ思わせぶられ、本気になったところでいとも簡単に両断された。ようやく俺も春を迎えるんだと意気込んでいたにも関わらず、俺は完膚なきまでに打ちのめされ、大火傷を抱えて虚空を見上げていた。
 悲しさに酔わんとすればするほど悲しくなり、四条河原町の暖かで賑やかな灯りが更に俺を惨めにさせた。
 しばらく頑張って河川敷を歩いてみたが、エチルアルコールがいよいよ涙腺に作用して、俺はその場で崩れ落ちた。

 ○

 これは敗北を記した物語である。
 人は敗北を知り、涙を流して強くなっていくものだと先賢は言う。
 しかしながら、俺の春はまだ遠い。
 願わくば、この物語をアネモネの咲く場所へ。

       

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