Neetel Inside 文芸新都
表紙

出町柳心中
「夕夏」

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 岬は教壇に立つ講師の大きな声でハッとした。
 ホワイトボードは英文で埋め尽くされ、岬が再びペンを握った時には最初の英訳が講師の手により消されてしまった。
 教室内は講師の枯れた刺々しい声と蝉の鳴き声、そしてペンの走る音だけが響いている。岬のノートには、小さく描かれた「彼」の後ろ姿だけがぽつんと残った。
 小さくなった消しゴムで小さく描いた彼の後姿を消しながら、岬は眉を寄せた。
「まだ、写してなかったのになぁ……」

 ○ 

 来年大学受験を控えた岬は母親の勧めで予備校の夏期講習に申し込んだ。
 確かに岬の成績は良くはなかったが、学校で夏休み期間中五日間だけ開催される特別補習だけで十分だと思っていたし、予備校の授業料は高いから親に迷惑はできるだけかけたくないと思っていた。
 しかし母は、浪人中で毎日ふらふらしている兄の姿を見て神経質になっているのか、どこからか掻き集めてきた予備校のチラシを岬の前に叩きつけたのだ。
 血相を変えて「浪人は認めないし、フリーターはもっと認めない」と釘を刺す母に、なんだか岬は可笑しくなってしまう。
 だって、近所の建前が一体何になるの? お母さんが損をするの? 私は私なんだから……岬は思った。
 母はいつも、「あの時勉強しとけばよかった。あの時大学に行ってればよかったと後悔するのは自分だ」と岬に言っていた。
 そんなことは、岬だって十分わかっている事実だった。
 わかっているから、迷っていた。

 ○

 午前の授業が終わり、昼休み開始のチャイムがなった。
 岬は一番後ろの席で、小さな弁当箱をカバンから取り出しながらぼんやりとしていた。
 英単語帳片手に菓子パンを頬張る人、ヒアリングの問題をイヤホンで聞きながら机に突っ伏す人、友達と受験の話をしながら弁当箱を開ける人。
 いつの間にか岬の視線は「彼」に注がれていた。明るく笑いながら友人と話をしている「彼」。何を話しているのかは聞こえなかったが、こうやって楽しそうに話をする「彼」の姿を眺めるのが岬は好きだった。
 やがて「彼」はそのまま教室を出て行ってしまう。「彼」は昼休み、決まって友人と近くの店で昼食を取り、昼休み終了とともに教室に戻ってくる。岬が「彼」に会えるのは、授業中のほんのわずかな時間だけだった。
 その後姿の名残にくすぶる感情を置いたままの岬を覗き込む美しい髪。
「あ、恭子ちゃん」
 岬は我に返ったように視線を恭子へと向けた。
「なに? また彼のこと見てたの?」
「そ、そんなんじゃないけど……」
「隠さなくてもいいって。一緒にご飯食べよ」
 橘恭子は岬と同じ学校、同じクラスの同級生。普段から仲も良く、岬が予備校の話を恭子にした時、恭子もまた夏期講習に申し込むかどうかを迷っていた。
 岬が申し込むなら私も、といった軽いノリで恭子は夏期講習の参加を決めた。国立大を志望する恭子は国立大コース、志望校が全く見えない岬は一般私立のコースを選択していた。
 コースごとで教室は分けられ、恭子はいつも三階の教室から降りてきて岬を昼食に誘っていた。
 恭子は学内でも成績がよく、三年の春にはもうとっくに自分の進路を決めていた。そんな毅然とした恭子の姿に、岬はどこか憧れのようなものを感じていた。
「どう? 志望校決まった?」
 恭子はメロンパンの袋を破りながら岬に問いかける。岬は少し苦笑いを含ませてから、小さく首を横に振った。
「まだ、かな」
「そっか。でもお母さんは大学行けって言ってるんでしょ?」
「うん。フリーターは許さないって。でも大学行って何がしたいかって言われると……」
 箸を持ちながら目を伏せる岬に、恭子は明るく笑いかけた。
「彼と同じ大学に行っちゃえば?」
「え?」
「理由なんてそんなのでいいと思うよ。私もさ、なんとなく東京に住みたいなーって思ったのがきっかけだもん」
「恭子ちゃんは東京以外の大学はもう受けないの?」
「うん、受けない」
 岬は「そうなんだ」と寂しそうに笑った。そんな岬を見て、恭子はより一層明るい声色で岬に語りかける。
「まだ受かるかどうかも分んないのにそんな顔しないでよぉ。岬は何でも深く考えすぎなんだって。もっと堂々としなよ」
 恭子が悪戯に両手で岬の頭をかきまわす。岬の柔らかい黒髪がふわふわと踊った。
 岬が「あはは」と笑うと恭子も「あはは」と笑う。教室内を流れるクーラーの冷風が窓際のカーテンをなびかせていた。
「明日で夏期講習も終わりかぁ。長かったような短かったような……」と恭子はうな垂れた。そんな恭子を見て、笑みを含ませる岬に恭子は言った。
「ねえ、明日彼に告白しなよ」
「え!?」
「だって、明日で予備校最後だよ? 明日言わないと、一体いつ言うのさ。どこの学校か、名前さえも知らない人なんだから」
「いや……私は、そんな……」
「言わないと後悔するよ~」
 恭子は冗談っぽく声を低め、そして再び岬に笑顔を向けた。
「まあ岬のことだからさ。告白までは行かなくても、声くらいはかけなよ。なんなら私が言ってあげようか? 臆病な女の子がずっとあなたのことを見てますよーって」
 岬は頬を赤らめ、眼を丸くしてぶんぶん首を横に振った。恭子はその様子を見てにんまり笑う。
「岬ってすごく料理上手いから、お菓子でも作ってあげれば? それに携帯番号を添えて! みたいな! 男って結構そういうの喜ぶよ」
 恭子は岬の弁当箱に入る綺麗に巻かれた卵焼きに目を落としながらメロンパンをひと齧りした。
「そのお弁当も自分で作ったんでしょ?」
「これは、そうだけど」
「男はまず胃袋を捕まえろってね」
 岬は苦笑いを見せながら小さく頷く。岬の柔らかい髪が肩にふわりと乗った。
「考えてみる。ありがと」

 ○

 午後六時。本日の授業が終わり、大教室の外へガヤガヤと人の波が流れていく。
 恭子は今日も他校の彼氏と約束があるらしく、岬に手を振って足早に一階へとおりていった。
 青いカバンを肩にかけ、人混みに紛れて教室を後にする「彼」の後姿を岬は見送ってから、「よいしょ」と静かに席を立つ。
 名前も、学校も知らない「彼」。岬は「彼」のことを何も知らないし、恐らく「彼」も岬のことを知らない。
 部活は何をやっているのだろう。どこに住んでいるのだろう。どこの大学を受けるのだろう。
 岬はいつも彼のことを考えた。考えても、考えても、岬には何もわからない。岬が知っているのは、「彼」の後姿と、まぶしい笑顔だけ。
 やがて誰もいなくなったオレンジ色の教室で、岬は小さな溜め息をついた。
「お菓子って言っても……もし甘いものが嫌いだったらどうしよ」
 岬が落とした静かな独り言は、廊下から響いてくる喧騒に呑まれて消えた。

 ○

 自転車に乗って予備校を後にした岬は、駅前の本屋で本を購入した。
 そしてそのまま自転車を走らせ、予備校近くにある河原のベンチで本をぺらぺらとめくった。流れゆく川のせせらぎは夕陽に照らされオレンジに輝き、犬の散歩をする老人が岬の前をゆっくり通り過ぎる。
 東の空はすでに紫色に染まっており、清々しい草の香りと夏の夜の生ぬるい風が岬の柔らかい髪をさらさらと揺らした。
 自分をできるだけさらけ出さないようにして生きてきた岬にとって、選択をするということが怖くて仕方がなかった。
 今通っている高校も、進路相談で先生と母が勧めたところに入ったまでだし、今通う予備校だって――。
 岬はクッキーの作り方が載っているページに目を落としながら、臆病な小さな心揺らしていた。
 空はどんどん深い藍色に染まっていく。夕蝉の鳴き声が、儚い夏の終わりを感じさせた。

 ○

 翌日。
 岬は朝からある英語の授業に出るため自転車を走らせる。
 突き抜けるような青い空の真ん中、入道雲の隙間から大きな太陽が浮かんでジリジリとアスファルトを焼いていた。
 熱気でにじむ交差点では皆、気怠そうな表情で信号待ちをしている。信号が青に変わり、岬は流れる人混みに紛れた。
 住宅街を抜けて、蝉の鳴き声が大きくなってくると、やがて予備校近くの河原に出る。
 涼しげに流れる水の音と、キラキラ光る水面が少しだけうだる暑さを和らげてくれるような気がして、岬は少しだけ橋の上で自転車を止めた。
 カバンの中から可愛らしい桃色の包装紙が顔を覗かせているのに気付き、慌ててカバンの奥へと押し込めた。
 ゆっくりと深呼吸をして、跳ね上がっている鼓動を少しだけ落ち着かせる。
「きっと、大丈夫。だよね」
 そう言って、岬は再び自転車で走りだした。

 ○

 夏期講習の時間割は、午前が英語で午後が数学となっている。
 座席も指定されており、岬はいつものように早めの着席をすませてテキストとノートを開いた。
 クーラーの冷風が隅々まで行き渡った涼やかな大教室の一番後ろで、岬はそわそわしながらノートをめくる。
 小さく、丁寧な字で英文が書き込まれているが、ところどころに抜けている箇所がある。
 限って横には、消しゴムで消された彼の後姿があった。
 教室の時計が8時45分を告げると、予備校のチャイムが鳴る。それに合わせるかのように、受講生が教室内へと流れてきて座席は満席となった。
 見つめる先の「彼」は今日も「彼」だった。そして、それは最後の「彼」でもある。
 岬の胸はきゅっと痛んだ。
 9時のチャイムと同時に痩せた英語講師が教室内へと入ってくる。
 日常になりつつある日々が終わる事に、岬は寂しさと違和感を感じながらテキストに目を落とした。

 ○

 午後の数学講師から受験に向けてのアドバイスが終わると、ちょうどチャイムが鳴った。
 夏期講習すべての日程が終了したことを告げるチャイムだった。
 受講生たちは背伸びをしながら疲労の息を吐き、いつもとは違う騒めきが教室内を包んだ。
 岬は一人、一番後ろの席にて固まっていた。カバンをぎゅっと抱え込み、立ち上がる「彼」に視線を送りながらも、岬はなかなか立ち上がろうとしない。
 震える唇をぐっと一文字に結び、今にも泣き出しそうな表情で目を伏せる岬。怖くて、怖くて、仕方がない様子だった。
 やっぱり、私には……。
 そう思い始めた岬に、恭子が廊下から「岬!」と声をかけた。
 そして、教室内に入ってきた恭子が岬の腕をぐっと掴み、「大丈夫。私がついてるから」と微笑みかけた。
 恭子に無理やり引っ張られるようにして廊下へ出された岬の前に、「彼」が友人と笑いながら歩いている。恭子が岬の背中をぽんっと押して「中庭で待ってるからね」と言うと、岬は少し考えてから小さく頷いた。

 ○

 カバンをぎゅっと胸に抱きしめながら岬は「彼」の後姿を追った。
 大きな階段を人混みに紛れてくだり、校舎を出た自販機の前で「彼」は立ち止まって友人と話しこんでいた。
 岬は校舎の影から息をひそめて「彼」を見つめた。今すぐ逃げ出してしまいたい感情が岬の中にどんどん膨らんでいく。
 赤い夕陽が「彼」の青いカバンに反射して、眩しく鮮やかな色をたたえている。
 やがて友人が「彼」に手を振り、その場を去っていった。「彼」は変わらず自販機の前に立ち、ポケットから取り出した携帯を眺めている。
 今だ、今だ――。
 岬はそう思うも、震える脚がどうしても動いてくれなかった。体のあちこちが震えて、鼓動の音が耳元で聞こえている。カバンを抱え直すと、カバンの中でカサリと包装紙の擦れる音が鳴った。
 岬は思った。初めて自分が望んだ選択をしようとしていることを。恭子を羨ましく思った理由も、岬にはわかっていた。このままでいいと思いながらも、岬はどこかで悔しさを覚えていた。
 後悔はしたくない。自分の事くらい、自分で決めたい。まずは一歩、まずは一歩。岬は自分に言い聞かせる。
 深呼吸をして、岬は小さく「よし」と言った。そして校舎の影から一歩を踏み出そうとした時、岬の横を一人の女性が通り過ぎた。
 校舎から飛び出したその女性は、自販機前に居る「彼」に手を振り、「彼」もまた女性に手を振った。
 二人は少し見つめあった後、仲よさげに手を繋いで予備校の校門を出て行った。
 岬は、校舎の影から二人の後姿を見つめた。二つの影が夕陽に照らされ大きく伸びていく。
 それは、岬が見た、「彼」の最後の後姿だった。

 ○

 予備校の中庭に、恭子がいた。掲示板に貼られている受験情報をしげしげと眺めている。
 岬が「恭子ちゃん」と声をかけると、恭子の表情はぱっと明るくなった。
「どうだった?」と瞳を輝かせる恭子だったが、岬が寂しげに持つ桃色の包みを見て「そっか」と言った。

 ○

 二人は中庭のベンチに腰掛ける。電燈が灯り、藍色の空が濃くなった。夕蝉の鳴き声と、風に吹かれた木の葉のさらさらという音だけが聞こえる。
 ふいに恭子が明るい声で「おなか減った!」と叫んだ。
「勉強した後は甘いものが食べたくなる!」
 その言葉に、岬は小さく笑って桃色の包みを開けた。中には丸いクッキーが入っていた。
 恭子がそれを一つ、自分の口に運び、もう一つを岬の口に放り込んだ。
「いつも思うけど、岬の作るお菓子ってどうしてこんなに美味しいのかねぇ」と恭子が笑うと、岬は頬をもごもごさせながら「ありがと」と言った。そして、「ちょっと甘すぎたね」と岬も笑う。
 恭子が岬の小さな手をきゅっと握って、穏やかに話しかけた。
「岬、明日は暇?」
「え?うん」
「夏休みもあと三日しかないけどさ、受験なんて忘れてどこか遊びに行こうよ。三日間だけ、二人で夏休みしよう」
 かすかな夕焼けの名残が、空に浮かぶ雲を包装紙と同じ色に染めている。北からは涼しい秋の匂いがする夕風が恭子の美しい髪をなびかせた。
 岬が小さく「うん」と頷き、「あはは」と笑うと、恭子もまた、「あはは」と笑った。

       

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