Neetel Inside 文芸新都
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 本講座ではまず「光」について論じ、次に、僕がなぜゴキブリなのかを明かしていく。以上が大まかな流れである。これを踏まえて精読して欲しい。

 漫画家が持つ「光」
 それは欠かせぬものだ。
 本講座でいう「光」とは、救いであり、絶望であり、教えであり、無駄であり、ときには笑いを誘うものだ。目の中に燃ゆるハイライトのことだ。
 抽象的概念であるが、もっとも近い表現は、「信念」であろうか? しかし、そんなに窮屈なものではない。信じ念じなければ維持できないような、大変なことでもない。しかし多分、努力によって勝ち取れるものでも無いのだ。漫画描きとしてじゃなく、人としてどうやってきたか、それが問われる部分だと思う。

 漫画家として間違いなくポジティブな要素なので、「光」と表現した。
 人を揺さぶる作品にはこれがある。逆に、クズのような作品、たとえば僕の描くようなものにはそれが無い。
 深海には謎が多い。しかし人は、深海というものがあるということを知っている。それと同じで、光が何であるか、僕には分からない。しかし実感しているのだ。
 自分の描く内容を信じられるかどうか、いわば自信、だろうか? 近いような気もするが、じゃあその自信をどうやれば得られるのかが知りたい。

 僕はこの世界を信じていない。漫画なんか描いたところで救われるとも思っていない。生活が苦しい中、一発逆転できそうなのが漫画だから、しこしことプロットを練り、作画担当を探している。
 しかし多分上手くいって、売れたとしても、僕はこの「光」をつかめないだろう。僕は闇の人間だ。先ほども言ったが、この世界を信じていない。自分も世界の一部である以上、世界を信用できない者が、どうして自分を信用できようか。
 そしてこの「光」をつかめない以上、そもそも面白い作品を描けない。デビューなどできようはずもない。

 地獄の袋小路に迷い込んだのだ。
「創作によって救われました」とか言うやつは多いが、僕には彼らが哀れに見える。彼らの手は震えている。救われた人間は、もう言い訳ができないのだ。
 あんなものが、救いであろうはずも無い。創作による救いだなんて、中二臭いメンヘラ小説家やらミュージシャンがいう自己陶酔に過ぎないのだ。
 創作による救いなど僕は信じていない。僕が何を書いたところで、世界は変わらないし、僕から搾取をし続ける。
 ゆえに僕の作品には「光」がない。希望などを描いても、しょせんは虚構であり、うわのそらで発した営業トークに過ぎないのだ。
 自分の作品に、世の中を変えるだけの力が無いことなど分かりきっている。夢は一つもかなわない。なのに描く理由などあろうか? 僕にはある。小銭のためだ。

       

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