Neetel Inside 文芸新都
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まひるのゆーの
まひるのゆーの

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 青く、どこまでも広がる空に雲がふくらんで、あぶらぜみの声が充満する季節になると、人知れず足を運ぶ場所がある。
 町外れのあぜ道を抜けた、海を見下ろす小さな岬。そこには何もないけれど、知っている場所でもないけれど、なんだか懐かしくなって僕は自転車で駆けていく。調子に乗って口笛を吹いたりもする。あの子がたまに口ずさんでいたメロディだ。名前も知らないメロディを、五秒ちょっとしかないその歌を思い出すだけで、世界がまるでタイムスリップしたような感覚になる。
 たとえば僕が歳をとって、過去の勲章を誇るように武勇伝を語る大人になったとしても、この思い出だけはそっとポケットに仕舞っておくだろう。
 長いようで短くて。
 だけど永遠にも感じられた、三十六日間を。


     ○

 七年前の夏。
 ちょうど、僕が高校生に上がった年だ。
 陸上漬けだったせいで勉強に苦しんで、大会でも活躍できず、高校生になればできると思っていた恋人もさっぱりな夏休み。部活を辞め、課題の山と対峙していたときに、母の朋美が突然言った。
「博己さあ、今年、行ってきてよ」
 僕は思い切り変な顔をした。何を言っているのかさっぱりだったからだ。元々海外を飛び回って仕事をしている母が家にいること自体おかしなことだけど、母の言動はそれ以上におかしかった。
「なんやっけ、あれ」
 返事をせずにいると、母はごろごろ転がりながら続けた。アイスキャンデーをくわえたままだから、飛沫が散る。掃除するのはだいたい僕か、ひとつ下の妹の紗英だ。紗英は残念ながら市民プールに行っている。朝の曇り空から一転、今日は快晴だ。僕も行けば良かったかもしれない。
「なんやっけ、あれぇ」
「あれって言われても、わからないんだけど」
「あ。思い出した。わたし神かも」
「なんだよ」
「ユースホステル」
 今度は露骨に嫌な顔をした。母はにやりと笑っている。
「今年は博己が行ってきて」
「やだよ、めんどくさい。母さんが行きなよ」
「わたしは来週からモロッコだし。その次はヴェネツィアかな」
 けらけら笑う。ぐうたらでタンクトップ一丁で寝っ転がる母だが、これが世界的なビオラ奏者と言って誰が信じるか。母にとってはそれくらいのほうがいいのかもしれない。まあ、家でも練習熱心な真面目人間は好きじゃないからそれでいい。かえるの子はなんとやら。
「母さんが駄目なら、兄さんとか」
「あいつはもう独り立ちしちゃったからねえ」
「じゃあ紗英」
「中学生の妹をひとり送り出すの? あんた鬼やねえ」
「……父さん」
 笑い声が止む。それまでひっきりなしに鳴いていた蝉の声も静かになって、蒸し暑かった部屋は少しだけ気温が下がったように感じた。
「いりゃ苦労しないんだけどねえ」
「そうだよ。そもそも、父さんの私物かなんかだろ、あれ。だったら今はうちが面倒見る必要はないだろ」
「現実はそう簡単に行かないのよ博己ボーイ。袖振り合うも他生の縁ってね。無下にするわけにはいかないの」
 母が体を起こす。半分になったアイスキャンデーを一気に食べきって、勢いよく立ち上がった。こうなると母は早い。恐ろしく手際よく服を着替えて、長い髪を後ろでまとめて、お気に入りのチロリアンハットを被ると、そこに立っているのは世界的ビオラ奏者の唐沢朋美となり、こっちであぐらをかくのは一六歳の一般的男子高校生。勢力図は言うまでもなくあちらが優勢だ。
「ちゃちゃっと手筈を整えてくるから、あらかた準備しといてね。紗英が帰ってきたらしばらく大家さんにお世話になってーって言っといて。マルコリーニ買ってあげるっていえば多分機嫌悪くならないと思うから」
「お、おいちょっと」
「んじゃよろしく~」
 玄関の戸を閉める直前に、母は言った。
「いいじゃない。きっと、やりたいこともないんでしょ」
 言い残して、扉は閉まる。
 少しだけ間抜けっぽく、あぶらぜみが鳴いた気がした。




       

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