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表紙

禊小説アンソロジー
横浜デーモンハンター(6年前)/Zippedsquire

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<1>

 音楽を聞くというのは実に楽しいものだ。 気分が良いときに聴けば、その気持ちが更に高まり、逆に憂鬱な気分の時は、元気と活力を与えてくれる。 無論、聞く曲にもよりけりではあるが、どんな曲にしろジャンルにしろ、聞き手に悪影響を与える物ではない。それは確かな筈だ。
 しかし、それはつまる所主観的な意見にしか過ぎず、他者に取ってみればその意見は真っ向から否定される時もある。
 今現在、日高幸子が経験しているのもそういう類いの物であった。相鉄線、二俣川駅から横浜へ向かうこの間。先程から隣の座席から聞こえて来るのは、ヘッドフォンから漏れている雑音である。自身のつけているカナルイヤフォン越しからでもはっきしと聞こえる、音漏れ。
「……………」
 ちらりと横目で確認する。 ちらりとしか見れないのは、隣のその乗客が、強面の二十代の男性だからである。 女性優先車両の時間はもうとうに過ぎたこの昼前の時間帯。 この車両に男性客が乗って来るのはさして奇異な事ではない。 幸子自身、そもそも女性専用車両等という意味の解らない物に頼るほど自分の容姿に自身を持っている訳ではないのであるが………これは、こちらの車両の方が人数が少ないから乗っただけである。 そこに深い意味など無い。
 それに、こちらの車両の方が静か………という理由もある。 自身のおんぼろポータブルCDプレイヤから流れる音は、ゆったりと聴きたかった。 誰にも迷惑をかけず、この曲を独り占めしているような感覚が、なによりも好きであった。
 ……そう、つまる所そういう事である。音楽というものは、一人で楽しむ物だ。特にこのような公共の場で音を漏らしてまで、音楽を楽しむなどもってのほかだ。 そう幸子は考える。
しかし、今の日本に注意をするという『お節介』を出来る人間はそうそういない。 いるとするのなら、それは正義感の強い人であったり、単にお節介好きな老人かのどちらかである。 礼節を重んじる以上に、迷惑事が嫌いな人種なのだ、日本人というのは。
幸子とてそれは例外ではない。 注意する勇気もなければ、そもそも声を掛ける度胸も無かった。 仮に、かなり楽観的に考えてだ。声を掛け、彼が自分の注意を受け入れたとしよう。 静かにはなるのだろうが、その後の空気は最悪な物になるに決まっている。 舌打ちをされたらどうしようか、いや、それどころか彼がこちらの言葉に激昂したら、と。
そう思うと膝の上に置いた手も動かなくなってしまう。我ながら『ザ・小心者』と言わんばかりの発想力である。実際の所、そんな事になるのは、まずあり得ないのだろうが。。
 こうなると、幸子の出来る手段は二通りしかない。
 席を変えるか、――――そう。我慢である。 というより、我慢するしかない。 下手に席を離れ、『何かが』起こりえる状況を作るよりかは、現状維持の方が安全確実だ。
本当、自分でも溜め息が出て来てしまうほどひ弱発想であった。

 周りの乗客も幸子の思考構造とさして変わりはしない。皆が皆、関わりたくないようにその男性客の半径80センチ程の距離を取って吊革に掴まっている。 自分のような座席側は変えようがないのであるが、男性客のそのまた隣、つまりは幸子の対象席の女性客は、気持ち拳一つ程席を詰めているのが見てとれた。
 お互い災難ですね、と心の中で女性客に呟く幸子であった。無論届いてはいないだろうが。
 しかし、そう極端に不快に思うこともないだろう。 二俣川から横浜まで、ざっと20分ちょいの待機時間だ。 そこまで長い物ではない。 せいぜい曲を四五曲聴いていれば、辿り着く。
既に二俣川を発ってからそれなりに経っている筈だ。
 我慢だ我慢。 じっと我慢の子です幸子。
「すみません」
 ――――そう思っていた時だ。 諦め、ポータブルプレイヤからCDを取り替えようとした時、その声は聞こえた。
 声を放ったのは、丁度、彼の真ん前に佇んでいた男性客である。 他の乗客が離れて乗っている中、彼だけは、堂々とそこにいた。
 流暢な日本語だ。 そう思えたのは、その男性が一見してすぐ外国人だと判る容姿であったからだ。高い身長と引き締まった豪腕。入れ墨の入った浅黒い肌に、長く編み込まれた黒髪、ドレッドヘア。無骨なその四角い顔には、瞳を完全に隠したサングラスと―――――誰が見ても異国人だと見て取れる風貌。 タンクトップとジーンズだけというのも含め、目の前のヘッドフォンの彼より遥かな強面であった。
 彼にとってみれば、座席上から見下ろされる形である。声によって気付いた、というよりは純粋にその様相に圧倒されたと言った方が正しい。
 驚きよりも動揺が走っている事は、幸子から見ても明らかだった。
「……音量、少し、下げてくれませんか? 周りの迷惑ですよ」
 ずずいと顔を近づけ、右人差し指で自身の耳を指差してみせる。 朗々としたその声は、未だ音漏れを起こしている彼には、恐らく聞こえていない。しかし、ジェスチャーのお蔭か、意味は理解出来たのだろう。
「ぁ……………はっ、はぃ。すみません……っ」
 視線を合わせず、というより合わせられず。 彼は胸ポケットのipodを急いで操作した。どうも、と男性が言葉を掛けても、彼はこくこくと小さく首を頷かすだけであった。
 他の乗客も二人の一部始終を眺めていたが、男性が首を動かすと同時に一斉に視線を変えた。
 幸子だけは、そうしなかった。まだ自分が視線を向けられていないというのもある。男性の行動に感動、ではなく唖然としていた。 まさか注意をしてくれる人がいるとは思ってもいなかった。 それも、外国人の人に、だ。
 ぼんやりと男性を見つめていると、彼と視線が合う。 どきりとして身を固まらせるも、彼は顔を緩め―――幸子に軽く会釈をした。
『ぁ、ありがとうございます』
 ―――と言えたらどれほどいいか。残念ながら、小心者な自分にその感謝の言葉は出せない。だから、代わりに彼女もぺこりと。深々と低頭して、その意を表した。
 返事のアクションは無かった。互いに一度だけの会釈を交わし、元の立ち位置に戻る。 変わったのは、車内の騒音量だけだ。
 隣で鼻を紅潮させ俯く男性客の横で、幸子も僅かばかりに赤面した。情けない気持ちと同時に、ただ純粋に『すごい』と思えた。礼儀を以て、ああもスムーズに動くことは中々出来ない物だ。 自己主張の出来ない自分とは正反対に、彼のその行動は正しく清く、正しい物であった。
 いるんだなあ、こういう人も。
 どこか他人事的な呟きをして、幸子はCDをbuilding429に替えた。
 横浜まで、残り7分程の事である。



<2>

 21世紀にもなり、世の中は様々な物が変わってきている。 テレビはアナログから地上デジタルになったし、携帯電話の代わりにスマートフォンなる物が現れ、音楽再生機はmp3媒体が主流になりつつある。
 横浜市の中心駅であり、JR,私鉄、地下鉄の各線が集まるここも、大きく変わっている。 いや、そもそも横浜駅は昔から移り変わりの激しい場所だ。最初の横浜駅は桜木町駅の辺りだったし、高島町駅付近の時もあった。 無論、幸子はその当時の経験者ではないが、それでも今現在の横浜の変化は激しいと感じられた。この場所に来る度にあちこちの場所で工事が行われているし、各線に向かう途中通路も、しょっちゅう変わっている。 階段で歩き続けていた通路が急に全部エスカレーターを取り付けられたり、使っていた通路が封鎖。代わりの通路が突如開けられたりと様々だ。
 各線のホームの位置もそうだ。かつては東急線のホームはJR線脇の地上2階部分に平行して高架ホームがあった。 それが、みなとみらい線との直通運転が始まると地下3階へと移転した。改築工事に終わりという物が全く見えない。
 横浜駅が日本のサクラダ・フェミリアと呼ばれる由縁である。
 駅どころか、その周辺事情もころころ変わっている。2007年にはららぽーと横浜が出来、2008年には三越が閉店し、ヨドバシが出来て、2011年にはハマボールは閉店し、同じくCIALも48年の歴史の幕を降ろし、ステラおばさんのクッキーは相鉄南西口側に移動してしまうし、同時にその2階にあった珈琲喫茶店も無くなってしまった。 あそこの店の古めかしい雰囲気が好きであったのに、残念である。
 同様に、ダイヤモンド地下街も店舗がころころ変わったし、ルミネの地下も、一時期、成城石井が無かった。とにかく、その他にも例を出したらきりがない。
 こうしてみると、この駅が落ち着いた事など無かったなあと幸子は思い返してみた。
 ならば、この重々しい『ゲート』も、考えようによってはさしておかしな物ではないのかもしれない。
『順序よく、列を乱さずお並びください~!』
「ご協力、お願いします!」
 拡声器を持って誘導棒を動かす自衛隊員達を、幸子は横目で見遣る。 改札口前に新たに取り付けられた『瘴気探知機』のゲートを通らないと、横浜駅を出入り出来ないのは中々不便な物であった。 只でさえ狭いこの一階、みなみ改札口のスペースが余計に狭くなり、前のそれと比べたら歴然である。 改札を待つ間に、予定していた時刻の電車に乗り遅れるなどざらだ。それは通勤ラッシュの終わった正午ちょっと過ぎの今も、さして変わりはしない。
 4人が各取り付けられたゲートを潜り、反応がなければ改札を通り。 逆に何か反応があれば、向こうの消毒室で変な光を浴びる事になる。 その後は普通に改札を抜けることが出来るのだが、これがまた時間が掛かる。 消毒室に行くことになれば、住所、氏名、年齢、電話番号等の約20以上の筆記を義務付けられ、血も一滴採られる。 毎回針をチクリとされることもあれば、綺麗にスルーする事もあったりする。果たしてこの探知機は本当に意味があるのだろうかと幸子はいつも思っていた。そして、いつ解除されるのか、とも。 十年前の米国で起こったテロに対する特別警戒令も、未だに解除されていない。
 約8分程待って、ようやく自分の番である。
「次の方、どうぞ」と事務的な声に合わせ、幸子は2番目のゲートを潜る。
 ブザーが鳴ってどきりとするが、自分ではない。隣の女子高生だ。
「はァ? うっそ、サイアク………」
 心底嫌そうにそう呟く彼女の脇を、瞬時に二人の隊員が挟んだ。
「反応が出ましたので、消毒室へご同行願います」
「チッ、わかってますから。 一人でいけますから」
「ご協力、感謝します」
 そうは言うも、隊員は彼女から離れない。 結局消毒室に入るまでの数メートルを、半ば連行されるようにして入って行った。
 災難ですね、と心の内で同情する幸子であった。 勿論届いちゃいない。
 pasmoを使って改札を出ると、一緒に抜けた社会人が、ふうと溜め息をついた。 後ろを振り替えると、皆一様に嫌気のさした顔をしているのがわかる。中にははしゃぐ子供もいたりするが、大抵は一緒だ。 反応がなければ安堵の溜め息をつき、反応が出れば疲れた吐息、舌打ち。 どちらにしろ、同じ反応であった。誰一人として得をしないシステムである。
 気持ちを切り替え、歩き出そうとして、また背後で反応を示すブザーがひと鳴り。
 あぁ、誰だか分かりませんが御愁傷様です。
 そう思いながら歩く中、また隊員達の声が聞こえる。
「反応が出たので、向こうの消毒室に移動………を。……あ、失礼しました。 どうぞ、お通り下さい」
 ん?
 何か反応がおかしく思い、幸子はもう一度後ろを振り向いた。
 周囲がざわめく中、その人物は手元の手帳を胸元にしまい、改札を通る。位置的に立ち塞がる形になってしまい、幸子はまたも彼と目が合ってしまう。
「あ………」
 目の前の人物は、先の電車で注意をしてくれた『黒人さん』である。
 その大きさに圧倒されつつも、そそくさと体を引くと、彼はまた小さく会釈をし、ダイヤモンド地下側へと消えて行った。
「ねえ、なにアレ?」
「ズルくね、あの人」
 何処かで誰かがそんな事を話しているのを聞く。
 確かに、おかしな話だ。 何故あの人は探知機をパス出来たのだろう。自衛隊員も敬礼をしていたし……………。
 なんとなく、関わっては駄目なような気がして、幸子はそれ以上詮索するのはよした。 当初の予定通り、男性とは正反対の西口5番街の方へと向かうのであった。



<3>

 昭和30年代の後半に成立した西口5番街は、かつてはバーやグランドキャバレー等がひしめく歓楽街であった。 現在はパチンコ店や小規模のナイトクラブ、喫茶や居酒屋、ゲームセンタ、カラオケ店等々がひしめき合う通りへと変貌している。しかし、定期的に潰れては現れる店々であるが、それを構える建築物というのは、実の所、あまり変化はしていない。
 駅を出て目と鼻の先。 淡く玉虫色に光り輝くタイルを目印に店を構えるパチンコ店、パチンコ&スロット007。その騒々しさで、その存在を忘れがちになってしまうが、その先ものの10メートル前。 ラムタラ横のそこに、ひっそりと入り口が存在した。
 このパチンコ007、そしてPC店ドスパラまでのテナントを包有するビルを『太洋ビル』という名だと知ったのはつい最近の事である。知る必要もないし、幸子自身、さしてその名に興味があったわけではない。だが、今の自分には目印として必要な名詞であった。
 年老いた警備員が警備室の窓越しから見つめてくる玄関を通り抜け、手前の階段を昇る。2階の高島屋事務室をちらりと見遺りながら昇り、3階の更衣室、4階の太洋観光の看板を視界に入れつつもう一つ上。 5階にて階段から出たその更に奥。 そこに、幸子の目的地があった。
 年期の入ったその扉には、『有宮探偵事務所』という看板が掲げられている。 木製の表札板に、黒マジックで書き殴ったような、お世辞にも綺麗な字体と言えない文字だ。『有宮』と『探偵事務所』の間が微妙にあけているのは単に読み易くする為なのだろうが、ここまで汚いと逆に読み辛い。というより、そもそも読めない。一階のテナント名を纏めたプレートで、ここが有宮探偵事務所だというのを辛うじて理解しただけに過ぎなかった。
 本当に開いているのだろうか、ここは。
「とと、いけませんいけません。勇気を持つのです幸子」
 そう自身に鼓舞をしてみるも、どうにも空元気な気がする。 口調も相俟って、棒読み加減が強い。 鼓舞も出来ていない。頬をぺしりと叩いてみて、ようやく吹っ切りがついた。
 とはいえ、念の為に確認をしなくては、いざ間違っていた時にどう釈明をすればいいのか考えなければならないし、赤面するのは御免である。
 幸子は手提げの鞄から、一枚の紙切れを取り出した。市民掲示板から頂戴してきたそれには、相変わらずド派手な文字で、こう書かれていた。



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追記:綺麗な美人さんだと給与アップです。ただし自惚れ野郎は給与ダウンなので悪しからず。

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「………本当に、ここでいいんでしょうか」

 場所があっているかとういう意味ではない。こんな怪しげなチラシを信じていいのだろうか。 時給の高さに惹かれたとはいえ、そう世の中旨い話はある筈もなく。どこかしら引っ掛かる所があるのは否めない。というか、このチラシの中身の大半が怪しさ満点だ。
 下に小さく書かれている追記の部分が妙に目につく。 なんなのだ、この差別丸出しな文面は。
「……ダウンされなければいいけど」
 若干、その気がないからここまで来た――――なんて言えばそれは自惚れ以外の何物でもない。
実際の所、『そんなわけない』と。 それに尽きる。一体この世の中、容姿によって給料の値が左右される仕事など、水商売やその手の物に限られた物だ。 ………多分。
「住所も、ビル名も、階数も合ってます………ね」
 そう呟き、一呼吸。
 未だに初見の場所を訪ねるのはどうにも慣れない。 見知った場所でない――――未知の空間は幸子にとってみれば、どんな事があっても可笑しくはない存在だ。用心に越したことはない。
 尤も、棒立ちかつ心拍数を上げただけでは用心も何もないのではあるが………。
 けんけんとした外の様相とは打って変わってビル内は静閑そのものだ。 すぐ上は囲碁教室なもので、時折階段付近の廊下から足音は聞こえるものの、それだけである。
 軽めに叩いたつもりのノック音は、幸子の思う以上にうるさかった。自分で出した音に自分で驚く始末である。
 一瞬だけ思考が停止したが、慣習というのは恐ろしいもので、いくら混乱や動揺をしていても体は素直に動くものだ。
「失礼します」と早口に口に出す。 安物ドア特有の変に軽く、軋んだ音を立てて、幸子は足を踏み入れようと―――――――
「………あれっ」
 ドアノブは回るが、ドアは微動だにしない。 実は引き戸だとかそういう『とんち』の話ではない。単に、鍵が締まっていた。 それだけの話である。これは恥ずかしい。
「たはははは………………………はぁ」
 自分一人しかいない事もあって、赤面とはいかないまでも吐息は出てしまう。事前に連絡はしたつもりなのだが…………。
 改めて携帯のバックライトを点ける。 時刻は12時50分を指そうとしている。 電話では、確かに今日の午後1時にと予定をつけた。 携帯のメモにもきちんと書いてある。 間違える筈ない。 早すぎという訳でもないだろう。
「…………何か用かい、嬢ちゃん」
「ひゃうっ!?」
 携帯を見下ろしていたせいなのか、その背後の存在に全くといって気づけなかった。 小心者癖が災いして、両手に掴んでいた携帯を滑らせてしまう。 慌てて掴み直そうとするが、宙で踊り廻るだけである。
 数秒の葛藤の後、最終的に後ろの『彼』が。 それも、半ば呆れた末といった感じで―――――取った。頭上で、男性の御手の窪が幸子の視界に入った。 ぱしっと、幸子が苦労していたのとは対称的に、内に一回凪いだだけで取ってしまう。
「あっ…………………………ぇと、あの、………ありがとうございま」
「んぁ~なになに?」
「はぁ?! え、ちょ、ちょっと! 止めてください! なに見てんですか!」
 その男はあろうことか、幸子の携帯を掴み取ったかと思うと、中の液晶を覗き込んだ。 即座に幸子は手を伸ばすが、のらりくらりと華麗にかわされてしまう。
「……なんだい嬢ちゃん、ここに用かい?」
「えと………まあ、そうですけど」
「なんの?」
「何のと言われましても」
 何故に貴方にそげな事言わんといかんのですかいな。
 思わず存在しないごった混ぜ方言で呟きつつも(勿論心の中で)正直に話してみる事にする。 言って不利益になる無いようでもないし、頑なに拒む理由も無かった。
「バイトの面接ですけど」
「嬢ちゃんがかい?」
「えと、はい、まあ………」
「なんでよ?」
「いや、何でと言われましても」
 これは、俗に言う、『いちゃもん』をつけられているのでしょうか? それとも新手の勧誘?……こんな場所で?
 いや、それこそありえないか。
 返答に答えかねている幸子であったが、何か口を開く前に、男の方が先に話し始める。 最初から返答を待つ気は無かったようだ。
「どうせお前さん、あれだろ? これが目当てなんだろ?」
 そう言って右手でお約束の『丸』を作る。したり顔な辺り、どう見ても挑発してるようにしか見えない。嫌な笑いだ。
「余計なお世話です。 というか、返してください。 窃盗罪ですよ?」
「おーおー言うねぇ。 か弱い女性がそうやって法に関することを呟けば、俺ら男はさも簡単にお縄についちまう世の中だ。 そこに故意も証拠も糞もありゃしねぇ。 たった一つの証言だけで方がついちまうなんていい世の中になったもんだぜ」
「ぁ、いえ、あの………そこまで言っては」
「どうせ俺を窃盗なんかじゃなく、痴漢で逮捕すんだろ? ………っふ、甘ェ甘ェ! それくらいの事、俺にとっちゃ日常茶飯事なのさ!」
「日常的に何してるんですか貴方?!」
 静謐なこの廊下に、二人のそのやり取りは余りに喧しい。 自分の声の反響音に、今さらながら驚く幸子である。荒みかけた声を咳き込みで鎮め、ついでに心も落ち着かせ、なんとか穏便に解決しようとした。少なくとも幸子はそのつもりであった。
「………あ、あの。 そろそろ本当に返して貰えませんか? 周りにもご迷惑が掛かってますし………その」
「なんだお前ぇ、俺を痴漢に仕立て上げようとしてた癖に」
「してません! というか、仕立て上げようとしてるのは貴方じゃないですか! 私はただ携帯を……!」
「携帯ごときでガタガタ抜かすんじゃねぇよ。 人がせっかく親切に取ってやったっていうのに」
「う、嘘つかないで下さいよ……! 絶対そんなつもりなかったですよねっ」
「いや当たり前だろ。 なに言っちゃってんの」
「えー………」
 ……修正します。
いちゃもんをつけているんじゃなく、おちょくっています。私を。ええ、そりゃもう完璧に。
 いくら小心者で温厚な幸子でもこれには我慢の限界で、怒りと言うよりは純粋に勘弁して欲しいという願いのほうが強い。
右掌を彼の前に出し、
「くぁっ、返してくださいっ。 これ以上嫌がらせするのなら、警察を呼びますよ!」
「どういった罪状でだ?」
「え」
 そういえば、こういう時って、どんな罪に問われるんでしょうか。
 痴漢はされてはいないし、………営業妨害? 威力妨害? や、自分は店を開いている訳ではないが………。
「……ぃ、嫌がらせの罪、で、その……」
「なんじゃそら」
「っ、と、とにかくです! 急いで返してください! もう時間が―――」
「じゃあ、なんだ? 取り合えず中でゆっくり話すか? そろそろ立つのがしんどいんだわ。 年かな?」
「んもうっ、そんなの知りませんよ!! だから私は……!」
 ………………………。 え?
 ぽかん、とただ一言。苛立たしさに昇りかけた頭も瞬時に下がる。
 男の顔と、事務所の看板を交互に見比べる。
「…………えと、あの、貴方は」
「いやあ、名乗るほどの者じゃありやせんよ」
「いや、そこは名乗ってくださいよ」



<4>

幸子の思う探偵事務所というのは、アガサクリスティーやポアロ、ホームズのような、知的で小洒落た空間――――なんて、夢のようなものは想像してはいない。
 夕刻のニュース番組の特集で流れていた現代の探偵のドキュメンタリーは、夢見がちな幸子の目を醒まさせるには十分の威力を持っていた。
 事務所は個人経営のこじんまりとした、それでいて資料やゴミが雑多に散らばっているような、『今時の』ドラマのような空間でもなく、きちんと清掃され、複数の社員と事務員が働いているという――――――ただの会社風景であった。
 社長と名乗るその人は、世の不倫調査だとか、行方不明者の身元探しだとか。 次にはやれ女性の権利だとか、人権だとか…………そんな事ばかりを、感情の存在しない『営業スマイルのマスク』を被りながら、レポーターではなく、カメラに向けて語り続けていたのが印象的だったのを覚えている。そこには幸子の求めていた謎解きだとか、刺激だとかを求めている人間は存在せず、ただただ自身の会社を拡大しようと利益を追い求め続けている『大人達』しか写っていなかった。
 それを見たのは幸子が16歳の頃で、高校生活にようやく慣れ始めたときだあり、また同時に思春期の真っ只中で、恋もすれば夢も持っていて、その淡い夢が脆くも崩れ去った瞬間でもあった。 恋は片想いで終わった。
 今にして思えば、無知故に馬鹿な憧れを抱いていた物である。 物事の裏側に潜む謎を解き明かすという行為が当時はとても魅力的で、そんな頭も理念持ち合わせちゃいない幸子には眩いばかりに憧れの象徴であった。
 単純に、当時読んでいたミステリー小説やドラマに触発されたから、と今でも言えないのは、恥ずかしいからというよりも未だに心のどこかで諦めきれていない所があるからなのかもしれない。
 でなければ、このバイトのチラシを掲示板から剥がしていなかった。
全ては時給。自分自身に誤魔化す言い訳にはもってこいだ。
「えーっとぅ………? 日高幸子、23歳、女性。 バイト経験はドラッグストアに3年勤務。 ドラッグストアねぇ………何やってたんだ? やっぱレジ打ちか?」
「あ、はい。 それと、薬剤の案内や説明。 品出しや清掃もしてました」
「つまりは雑用か」
「ぇと………………まあ、はい」
 お世辞にもふかふかと言えない、バネが弱りに弱りきった紺の三人掛けソファーの中央に『沈み』ながら、幸子は泳がした目線を素早く男に向け直した。
「23っていやあ、順調だったら大学終えてる頃だろう? 就活はどうした?」
「えと………就職難で」
「あーよくテレビで耳にするアレね。不況だ不況だと言ってるが、実際どうなんだろうな。俺が若ぇ頃は確かに就職難ってのは有り得ねえ話だったが………あーやだやだ、歳は取りたくないもんだなオイ」
「はぁ」
「しっかしまあ、意外なもんだ。 まさかホントに募集して来る奴がいたとはねえ。 『てっちゃん』から電話が来たって聞いた時ゃ、半信半疑だったが……………」
 あの、意外なのは自分も一緒なんですが………。
 というより、こちらは未だに半信半疑だ。目の前でコンビニ袋から缶コーヒとバターピーナッツを取り出している中年男性が、雇用主だというのが信じられなかった。
目の前のその人は、自分が憧れていた人物像とは間違いなく程遠くて、そして知っていた筈の現実とはまた少し違う、なんともパッとしない様相であった。偏向報道の多いこの世の中だ、あれを見て全てがそうだと決めつけるのは愚かというべきなのだろうか。
「いんやまぁ、募集はしてみるモンだな。別嬪さんには程遠いが、色気には違ぇねえか。……あ、喰うかい?」
「えと、結構です」
「まあそう言うなよ」
「えー……」
……とはいえ、こんな現実もさして変わりは無い。理想像からかけ離れている。嫌な方面に。
これで見た目が、所謂『ダンディ』的な物であるのならまだ様になっているのだろう。いや、ある意味、様にはなっているのだ。やはり嫌な方面に。
薄くなった白髪交じりの頭髪、馬のような面長に刻まれた法令線と、上唇の剃刀負けの絆創膏。生気は感じられるが活気を感じさせない半分だけの黒目。
服装も今時流行りのクールビズワイシャツに余裕を持たせすぎたダボダボのズボン。いや、流行りはとうに終わったのだけどなんとなく言ってみましたはい。
漂う臭いはひたすらにヤニと正露丸。一日二日では染みつかない、正しく年季の籠った臭いである。魅力的という言葉からは程遠い。
ピーナッツをひとつまみしつつ、幸子は「あの」と遠慮がちに訊いてみた。
「掲示板で見た時、業務内容について書かれていなかったのですけれど……具体的にはどんな事を?」
「どんな事? ふぅーむ」
ぐるりと男性が室内を見渡す。 元がそれなりに広い空間なのだろうが、四方を多数の棚が置かれているので結局はせ真っ苦しい物へとなっている。来客用のソファーが二つに、一昔の―――それこそ80年代のバブルの名残のような豪勢な硝子製の机が一つ。後は窓際に置かれた金属光沢光る事務用机がぽつりと二つ。 探偵小説に出るような、自己主張の激しい社長椅子なんて存在しない。至って普通、いや普通以下。そんなパイプ椅子がまた同じように二つ。それだけだ。簡素というには生活感溢れ、やはり幸子の想像するそれとは違う。
ただ一つ、幸子の中で興味を引く物を挙げるとするならば、その四方の棚の中に並べられたラベルであった。本や資料などではない。確かにそのような類の物も置かれているが、部屋の隅に置かれた別の棚にひっそりと締め切られたガラスケースの中にあるだけだ。残りの棚全てに収納されているのは、CDケースやレコード。膨大なコレクション数だ。
そしてその中の幾つかは、幸子の知っている物もある。
「まあ取りあえず、部屋の掃除か? とはいえ、一応いつもやってるつもりなんだが、肩が上がんなくてなぁ。この上の隙間とか、ダスキンで掃除したくても出来ねェんだなこれが」
「え、嘘……!」
「仕方ねぇだろ、流石に歳にゃ勝てねえ。てっちゃんに頼んでも、アイツ」

       

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