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禊小説アンソロジー
彼岸花(2008年) /黒い子

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 この頃、空が高くなったのを感じる。茜龍蝿(あかねとんぼ)の飛ぶのをよく見かける。秋だ。夏の名残と一抹の寂しさを内包した季節。高校を卒業して五ヶ月と少し。私は段々と、この大学という新しい日常に慣らされていった。日常の中で、何も分からぬままに女子大生を気取っていた。彼(あ)の人の面影を探しながら。そんな折だった。私のところに高校時代仲の良かった幸子から花火をやろうという誘いが舞い込んできたのは。実のところ、花火の計画は以前、夏休みの間にしようという話があったのだ。しかし、幸子と私を含む中のよかった仲間たち六人の都合が中々合わず、そのまま流れてしまったのだ。私などは、せっかく花火まで買って楽しみにしていたのに、と落胆していたので、幸子の誘いは素直に嬉しかった。日付は九月の十五日。偶々(たまたま)その日は祝日で、特に用事はなかったので、私はすぐに行くと返事を出した。
 私たちは美術部のメンバーだった。部長だった竜田姫 幸子、副部長の私、そして早稲田 勇人、日暮 正義、鈴堂 紫苑、不知火 肇の計六名が、今年卒業した美術部のメンバーだ。勇人はサッカー部にも入っていたため、不在のときも多かったが、私たちは大概毎日放課後の美術部で顔を合わせていた。何だかんだで高校生活の三年間、一番濃く時間を重ねてきた仲間たちだ。奇しくも全員が別々の進路を選んだが、今でも時々は連絡を取り合って会っている。しかし、今年の夏は皆何かと忙しく、私は誰とも会うことが叶わなかった。時は逝き過ぎ、いつの間にか葉は呉藍(くれない)に染まり、しかし、もうすぐ皆と逢える――彼と、逢えるのだ。
 不知火 肇は知的な男だった。しかし、同時にきちんと思いを表情に表せる男だった。楽しいときに笑い、悲しいときには泣く、そういう男だった。同じ美術部入部し、日を重ねるにつれ、段々と私は彼に惹かれていった。始めは気付きすらしなかった。ある時無意識に彼を眼で追っている自分に気付き、戸惑った。中学の頃、恋に溺れて痛い目を見た私は、それに対して傷ついた獣のように臆病だった。しかし、彼は優しかった。最早、私から彼への想いを抜き取る事など出来ないほどに、想いは膨れた。私は全てを受け入れた。儚き夢と知りながら、しかし止める事はできなかった。結局、私は傷ついた獣のままだったのだ。しかし今、当の彼によって傷の癒えた私は、獣の皮を脱ぎ捨てる決意をした。嫌われもいい。兎に角、私は彼に想いを伝えたいと、そう思えたのだ。

 九月十五日は、良く晴れた気持ちのいい日だった。蒼穹には雲が泳ぎ風が紅く為りだした木葉を散らしていく、そんな日だった。私は皆の集まる時刻よりも少し早くに以降と思い、相応の時間に家を出た。電車の窓から見える景色は刻々と変化していく。川辺では芒が手招きをしている。海へと続く川。そう急かさないで欲しいと思う。そうでなくともはやる気持ちを抑えるので手一杯なのだから。
 約束の海岸にはまだ誰も来ていなかった。私は手提げ袋に入れた花火を持ったまま、気まぐれに歩き出した。さまざまなものが打ちあがっている。徐(おもむろ)に白い貝殻を一つ、拾い上げてみる。貝殻は何時の間にか燃え出した太陽に炙られて、黄橙(オレンジ)色に光っていた。私はそれをポケットに入れて、待ち合わせの場所へと戻った。待ち合わせ場所には既に四人が揃っていた。幸子は戻ってきた私を見るなり、開口一番こう云った。
「やっぱ栞菜(かんな)か。今皆であそこで歩いてるのって、栞菜だよねって話してたのよ」
「白菊は昔っから一寸夢見がちな所、あったもんな」
 早稲田君までがそう云う。紫苑と不知火君は黙って微笑んでいた。私は態と澄ました表情を作り、
「日暮君は、」
 と訊いた。
「いつもの遅刻」
 と、紫苑が肩を竦めて見せた時、当の本人が血相を変えて走りこんできた。
「今、肇の家の近くで列車の脱線事故があって――」
「俺は此処にいるけど」
 不知火君が云うと、日暮君は露骨に驚いた表情であれ、と頓狂な声を上げて皆の失笑を買った。
「肇、大丈夫なのか、」
「ここにいる事が何よりの証拠だろう。そんな事よりも今日は花火だ。そろそろ暗くなる。始めよう」
 珍しく早口でそう云うと、不知火君はさっさと花火の準備に掛かってしまった。私たちは顔を見合わせ、少し笑って不知火君に続いた。
 楽しかった。赤、青、黄、緑、紫、白――様々な色の火花が競って浜辺を照らした。中には湿気てしまってしょぼくれた火花しか飛ばさない物もあったが、私たちにはそれすらも楽しかった。いつの間にか、私たちは制服を着てはしゃいでいたあの頃に戻っていた。ふと隣に目を遣ると、不知火君の横顔があった。高校時代から愛用の黒縁眼鏡が、火花を映して光っている。
「ねえ、一寸歩かない」
 気付けば、自然に声が出ていた。不知火君は一つ笑って歩き出した。左手に海、右手に土手を見ながら歩いた。美しい満月の光に包まれて、海には波が、土手には彼岸花が、気持ちよさ下に揺れていた。
「いい月だ」
 不意に不知火君が口を開いた。私は「ああ」だか「うん」だか曖昧な返事を返した。再び、沈黙。いつしか私たちは立ち止まって月と夜天を見上げていた。月は彼の云う通り、本当に綺麗だったその光を浴びている内、私の心は不思議と穏やかになった。私は意を決して彼の横顔を真っ直ぐに見詰め、云った。
「不知火君、私、貴方にどうしても言わなければ不可(いけ)ない事がある」
「――、何、」
「高校のときから、ずっと、ずっと好き。今でも、好きなの」
 不知火君は嬉しさと、苦しさと、切なさと、その他私には計り知れない様々な感情のないまぜになったような顔で亦(また)空を見上げた。そして、一筋の涙が頬を伝う――。
 次に彼が顔を向けた時、そこには何の感情も見受けられなかった。彼はゆっくりと口を開く。
「俺も好きだ。――でも、恋人同士には、なれない」
 思わず、私は下を向いてしまった。覚悟はしていた筈だったのに。それでも涙だけは堪えて微笑顔(えがお)を作って向き直る。
「そうだよね。御免ね、こんな事云って。でも、嫌いになったりしないで、欲しいな。これからも、友達で――」
 最後は言葉にならなかった。涙を堪えるのに忙しすぎたのだ。しかし彼は首を横に振る。
「違うんだ。きちんと、恋愛として好きなんだ。でも、駄目なんだ。俺は――遠くに行かなくちゃ不可ない君を連れては、いけないんだよ」
「どうして。私は何処にだって行ける。北海道でも沖縄でも、アメリカでも何処だっていけるよ。若しも本当にそうなら、私も連れて行って」
「駄目なんだ。駄目なんだよ。好きだから、愛しているから、連れては逝けないんだよ」
 瞬間、私は襟から背中に氷を落とされたような感覚に見舞われ、そして全てを理解した。しかし、受け入れる事は出来なかった。
「嫌、逝かないで」
 私にはそう云って愚図る事しか出来なかった。これが我侭でしかない事も分かっていた。彼は緩慢な動作で首を振った。
「もう、逝かないと」
 彼はそう云って土手の方へと歩き出す。彼岸花の咲く方へ。此岸(しがん)と彼岸を訣(わか)つ花の方へ。今正に、彼は彼岸花の咲く中へと足を踏み入れんとしている。
「待って」
 彼は振り返る事もなく止まった。私は駆け寄り、ポケットに入っていた白い貝殻を彼の手に握らせた。月明かりに映える、小ぶりの貝殻――。
「これを、持って逝って」
 彼は一寸驚いた顔をして、ふと目を細めると貝殻の蝶番を折って二つにし、片方を私に渡して云う。
「これを、持っていて」
 手のひらには白い貝殻。月明かりに映える小ぶりの貝殻。涙に濡れた顔を上げると、彼はもう居なかった。ただ、彼岸花が揺れていた。さわさわという囁きは、不思議と有難う、と聞こえた。

 不知火君の葬儀は、三日後に行われた。あの後、皆の所に戻った私は不知火君はどうしたのかという質問に答えることも出来ず、ただただ「逝ってしまった」と繰り返して赤子の様に泣きじゃくった。
 翌朝の新聞に列車の脱線事故のことが書かれていた。死者百余命、負傷者三百余名を出した大規模な事故だ。彼はその列車の先頭車両に乗っていたと後で聞いた。
 ポケットには、なぜか白い貝殻が入っていたという。私は彼の両親に懇願してそれを彼と一緒に焼いてもらった。片割れはロケットの中に入れていつも身に着けている。そして、彼を想って泣く代わりに、そっと開いて眺めるのだ。
 十月の十五日。私はあの海辺を歩いていた。帰り際にふと土手の方に目を遣ると、季節に乗り遅れた呉藍、一輪だけ目に映った。花弁にそっと触れて、私は歩き出す。
 後には、たった一輪の彼岸花が残った。それは、風に吹かれて静かに揺られていた。
 夕映えの景色に、彼はそっと佇んでいた。

       

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