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勇者の居ない8月
プロローグ:巣鴨のはげわし

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ブレイブインザオーガスト


プロローグ:巣鴨のはげわし

 1948年12月22日、深夜。東京都豊島特別区、巣鴨。
 その日、人々が眠りについた東京にあって唯一、こうこうと光をたたえ、静かな慌ただしさを見せている場所があった。周辺住民から巣鴨拘置所、あるいは巣鴨プリズンと呼ばれるその場所では今まさに、最大の警備体制をもって一人の男の処刑が行われようとしていた。

「時間です。部屋を出るように」

 裸電球がひとつ吊るされただけの、四畳半ほどの広さもない小さな控え室の中央、部屋とおなじくらい簡素な椅子に小さく腰掛けていた男は、日本人の刑務官の指示に「わかりました」とだけ答えた。日本人刑務官の両脇にはMPの腕章をつけたアメリカ兵が二人いて、男につけるための手錠を持っている。ここに3年もいる男にとってはもはやお馴染みの光景だった。普段と違うことがあるとすれば、部屋の外にさらに数人の銃を持ったアメリカ兵が居て、不測の事態に備えていることだろう。
 アメリカ兵が手錠をかけている間、男は首だけ振り返って窓の外を見ていた。格子のかかった窓の外は暗く人々は寝静まっているが、それでも遠方にはどこかのビルディングか街灯の光が点滅して見えた。男はこの小窓から見た景色を目に焼き付けた。男にとってはこのささやかな夜景が最後に見る東京であり、最後に見る日本になるのだ。誰にともなしに、男はつぶやく。

「まだ暗いようだね」

***

 処刑場までの移動はちょっとした大名行列だった。刑務官と付き添いのMP二人に加えて、部屋の外に居たアメリカ兵8人が男の前後を護衛していた。さらに廊下の角という角、階段、渡り廊下など思いつく限りの場所にはやはりカービン銃を構えたアメリカ兵が立っており、屋上や正門には投光器と機関銃座が据えてあるのが見えた。このヒステリーとも言っていい警備体制は、処刑を執行する連合国軍総司令部の警戒、あるいは恐怖と言い換えもできるが、それらをそのまま形にしたものだった。
 男にとってこのような厳戒態勢下に置かれるのは2年前の軍事法廷初審以来のことだった。あるいはかつての自分の部下や、その縁者が自分を誘拐しようという計画でももっているのではと考えたが、男はすぐにその考えをはねつけた。男の前後を囲んでいるアメリカ兵の上役の将軍たちや、未だ保障占領の身にある日本にとってそうであるように、男の処刑は男自身にとっても既定事項であり、たとえかつての帝国の威光を掲げるものであっても邪魔立てすることは許されない。言ってみれば、男の処刑はそれが男に課せられた最後の役割なのであって、故国に尽くせる最後の機会をふいにするなどという事は、男の性分からいえばあり得ないことだった。

 処刑場にはすぐについた。普段は屋内集会場として使われている大部屋は、収容所の所長以下役員、立会いと思しきスーツ姿のアメリカ人数人と同じくアメリカ軍将校、それに警護役の兵士でごった返していた。外と同様この会場の警備も相当なものであり、窓という窓は布がかけられ(カーテンなどというものはこの収容所にはない)唯一の出入り口である観音開きのドアの前には数人の兵士が立っていた。またよく見ると端の方には報道班らしき連中がおり、活動写真(ビデオカメラ)を回しているではないか。

 男と付添のMPが処刑場に入り切ると、ゴトンという音とともに鋼鉄製のドアが閉じられ、警護兵が内側から貫抜をかける。密室になった処刑場を満たす大勢の目線が男に向けられる。誰もが男――太平洋全域とユーラシア大陸東部を巻き込んだ戦火の責任者――の顔を目に焼き付けようとしている中、男の目には巨大な絞首台がうつっていた。それはざっと3mはあり、縄をかける梁などは天井にぴったり当たっていたから今日のために作られたと思われる。木製の無骨な絞首台は、周囲を囲むアメリカ人たちの敵意や嘲笑に満ちた目線の中にあっても際立って見えた。

***

「Today, we will enforce sentences based on the International ...」

 将校の軍服を着たアメリカ人が登壇し喋り始めると、部屋の隅にいた報道班のシャッターがいっせいに焚かれる。この処刑の法的根拠となる先の軍事法廷での裁定事項についての説明が為されるが、そんなことはここに居る誰もが理解している。空気を察してか、あるいは執行を急いてのためか、カメラマンが閃光球を取り替えるまもなくスピーチは終わってしまう。将校が壇から降りるや、脇から一人のMPが現れ、男に黒い袋をかぶせた。袋は口の部分に紐が通してあり、動いても外れないようになっていた。男は手を引かれ、絞首台の一段づつ登っていく。

 ふたたびフラッシュが焚かれる。頂上まで登りついたところで、男の首には頑丈な縄がかけられ、促されるまま一歩進む。
 誰かが男の名前を叫んだ。記者か、でなければアメリカ兵か。今から死ぬのだ、どうでもいい。
 ゴトン、という音がすると、男は宙に浮いた。足の感覚がなくなり、全身の力が抜ける。直後、首に強い衝撃がかかり、首の骨が砕ける音が全身に響いた。みたびフラッシュが焚かれる。

 遠のく意識の中、真っ暗なはずの男の目に一本の木が映る。木の枝には一羽の蝶が止まっている。そんな景色を男は知らなかったが、それが何なのか考えるより前に男は事切れた。
 

       

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