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勇者の居ない8月
幕間 予言の書とその解釈③

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IX章:3つの終末の書と新たな予言③


 多少の混乱があったが、第二終末文書によって、信仰厚き民および教団の管轄する信仰の形態はほぼ固まったと言っていい。人々は神を信じ、傍らで魔王に率いられた魔族の襲来と戦争に備える。また、これらは信仰厚き民に道徳的な規範を示すうえで理想的だったことも触れねばなるまい。予言から導かれる”神の偉大な御力に守られ、そのように力強く清廉であろうとすると同時に、来る審判のために心身を研ぎ澄ますべし”という教えは特に教団にとって、ときに拠り所を見失う民を導くにあたっては合理的で洗練された文言だった。読み解くだけでも熟達を要する偉大な経典の中でなくとも、このような簡潔で明快な教えの中に神の恩寵を見出すことが信仰の道なのだ。

 そんな中で登場したのが、冒頭でも触れたドレイコスの予言(第三終末文書)だ。教会に籠もって預言書を執筆した後、王宮府および教団の定める方法で正式に預言者として認められた彼の予言の大半は先の二つの予言で示された事柄、とくに魔族との戦争の描写を補うものであった。しかし、その予言の解釈で教団は再び混乱することになる。

 彼はおよそ650年ぶりの正当に認められた預言者であり、その一言一句において疑いをかけるなどということは神への冒涜であるから、民に先んじて書面を見る事を許された方々は大司教であっても大学院図書館長であっても、あるいは王でも、その文面・文意への疑問を口にすることはなかったという。しかしながら、その後の長い長い議論の進展から察するに、初見で意味を読み取れたものはいなかったのではないかと私は思う。

 この予言の書は他の書と異なり一つの文章ではなく、それぞれ独立した114節からなる短文の集まりになっている。私も予言書を研究する大書院付きの僧侶として選任された頃、はじめての仕事としてこの114節すべてを読んだが、特有の難解さに戸惑ったおぼえがある。

 そもそもなぜ同書がこのような難解さ・解釈の幅を備えたものになってしまったかといえば、それはドレイコスの特有の執筆方法に原因があったと言われる。彼が敬虔な信徒でなかったことはすでに触れたが、度を過ぎた飲酒と好色の悪癖があったことも当時の時点で広く知られていた事実だった。それは神託を受けて以降も改まらず、それどころか神託を得るためにそれらに強く頼っていた。予言書の執筆中も教会にこもりきりだった訳ではなく、夕方から朝方まで遊び歩いた後、疲れと飲酒で朦朧とした状態で司祭の協力を得て口述筆記によって予言を書き記していたのだ(もっともこの逸話は修道士や司祭たちに飲酒や喫煙などを戒めるために、既存のドレイコスの人物像を下書きに強調されたという向きもある)。それでも神託が事実であると証明されてしまったのだから、当時の教団関係者はどんな顔をしていいか困ったことだろう。

 といった具合に、曖昧かつ一筋縄ではいかない予言ではあったものの、一つだけ明確に示されている点があった。中予言の書以降に預言者は3人居て、新しい預言者が現れるたびに魔族の帰還と戦争に関する情報は増えていったが、具体的にいつ彼らがやってくるのか、そしてあと何人預言者が現れるかは明らかにされていなかった。しかしドレイコスの第三終末文書によって、その問が明らかにされたのだった。以下、その箇所を抜粋する。

 ”「94.悪しきもの、魔術によって従えるものとの戦いを最も知る男が司教に神託を教える」”
 ”「95.男は自ら戦いを止めようともし、戦火のなかで燃えて朽ちる」”

 上の文によれば、追放されし魔族との戦いについて詳細な神託を授かった男性の預言者が現れ、神託を教える=予言書を執筆するとされる。また下の文から、預言者は戦いによって命を落とすことも分かる。これは魔族との戦争が次の預言者の存命中に発生する事を意味する。具体的な年数こそ明らかにされいないが、今まで謎でしかなかった魔族との戦争の時期の先触れが分かっただけでも大変に意義深いことである。教団では「第四の終末文書」を書くことになる預言者を、その運命になぞり「最後の預言者」と象徴的に呼び表している。


       

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