3☆「水辺にまつわるエトセトラ(下)」(2018/09/08)

 薄っすらと光の差した暗がりが、少女の世界だった。
 外では雨が小屋の屋根を叩いている。
 雨は止んでは、思い出したかのように降り続くために、小屋の中には絵具のような黴の臭いで充満していた。
 二畳ほどの手狭な屋内には水の入ったペットボトルと、銀マットとランタンだけが無造作に敷かれている。
 伸び切って跳ね上がった髪を壁に押さえて壁に凭れかかった少女は、短い鼻歌を何度も繰り返す。音に合わせて、足の指を地面に叩いていた。

 急に、立て付けの悪いアルミのドアの軋んだ音が広がり、少女はゆっくりと虚ろな目を向けた。
 ドアにいたのは昨日の夜に来たあの饐えた臭いのする男ではなく、今日はまた見たことのない別の男だった。

 ・・・

 「目が覚めた?」
 左半身に温く柔らかい感触を覚え、夢から這い出た莉茉は薄目で、自分よりも小さな少女の姿を確かめた。
 「……だれ?」
 「え、そこからなんだ。俵山で出会った古宮だよ。古宮乃々香」
 乃々香という少女は、湖畔で倒れたこと、半睡半醒のまま湊太の車に乗せられたことを話したが、莉茉はぼんやりと頷き、「俵山ってどこだっけ」と呟いた。
 「蛍見に行った場所だろ」
 運転席で湊太がそれに答える。
「蛍が全然見れなかった場所かぁ。結局桜も見れなかったね」
「季節とちょっとずれてるんだから仕方ないだろ」
 会話に興味がなくなったのか、すぐにまた莉茉は乃々香に体を預けて寝息を立て始めた。
 乃々香は視線を外に移す。車軸を流すような雨が窓に張り付いて流れるのを見て、雨に降られる前に車に同乗させて貰ったことを幸運に思った。スマホで天気予報が晴れだと書いてあったのに最近は当てにならない。
 「おふたりは兄妹なんですか?」「そう見える? ……ただの知り合いの子守」「今日は平日じゃないですか、いやその……」「りまりま、不登校なんだよね」「りまりま?りまちゃん? あー、……私もです」「そっかー、まあいいじゃん、不登校。仲良くしてくれよな」「……はあ」「りまりまは春以外が嫌いらしくて引きこもっちゃうんだ。だからこうやって色々連れ回してるんだけど、よかったら乃々香ちゃんも付き合ってくれないかな」
 二度目の「はあ」を繰り出した。
 電車で行くよりも早く、すぐに青海の市街地が見えてきた。街とはいえ数万人しか住んでいない山陰の片田舎なので、生活に必要な施設が必要なだけ道路沿いに建ち、数百メートルもすれば道路脇は自然に戻ってしまう。
 「家は――」と、湊太が尋ねて、「あの地球儀の近くで」「ああ、あそこか」と返ってきた。
 車は、仙崎駅の前で信号待ちをした。
 仙崎駅は青海駅から海の方へ二キロほど突き出した山陰本線の支線で、乃々香にとっては特に利用することもなく、地元が輩出した詩人の金子みすゞや、星空観測区を目当てにやってくる観光客用の駅といった認識だった。
 ただ、最近は物々しい。地元の学生が大会で成績を残すと駐車場の金網に激励の横断幕を張ることもあるが、「星空観測区を辞めろ」「漁業を守れ」というような批判の文言が並んでいた。
 青海市は、ホタルイカ漁で有名だ。
 立夏から晩秋にかけて真夜中に何十もの艇が大海に浮かび、水中に向かって投げ出された光がさながら十字のように見える漁火は息を呑むような神秘的な光景だった。最近では元乃隅稲荷神社へ来る流れで、その近くの高台の棚田に好事家が集まって秘かなフォトジェニックな場所になっているようだ。その神社も、半世紀以上前に、漁師の枕元に現れた白狐が「これまで漁をしてこられたのは誰のおかげか。」と告げたことにより、建立されたのだから、夜焚きのイカ釣りは伝統的な漁法だった。
 今回、「星空観測区」と、その二つが衝突した。
 この地では名前を知らない人間はいない然る御仁が、市制何十年の記念の壇上で「星の瞬くこの地を、『星空観測区』としようじゃあありませんか」と公言し、数年後に実際にそうさせたのだ。東にある萩市では最近になって明治期の遺構が世界遺産になり、南の美祢市は秋吉台が日本ジオパークに認定されていたので、過去には原子力発電所を立てようか等という話が上がる程不毛であったこの地は、長い間栄に浴することを欲していた。
 乃々香は、理科の授業で教師が言っていた「星空観測区とは、光害の影響のない、暗く美しい夜空を保護・保存するための優れた取り組み」だと、頭の中で諳んてみた。
 「うちも親が漁師でさ、下宿先から帰るといつもギスギスしてるよ。乃々香ちゃん家はどう?」「私の家はそんなに」「学校は?」「学校……」「やり返そうとか、思わないの?」
 この人は何を言っているのだろう。二の句が継げずにいると、
 「去年の文化祭前日に三階から飛び降りて自殺しようとした……周りの人はそう言っている。だけど、本当は誰かに突き落とされたんだろ?」
 乃々香は顔色を変えなかった。
 「すいません、良く、分かりません。どうして私のことなんか――」
 「誰かを庇っているの? まあいいや、乃々香ちゃんがそれを正しいと思うならそれでいいんだけど。ただ、りまりまとは付き合ってやってくれよ。これは君のお兄さんのことでもあるから」
  大型犬が飼い主を信頼して睡るように、隣で肩を寄せるこの子が兄が一体どういう関係があるのだろうか?乃々香には訊きたいことが山程あった、ただ、
 「さあ、着いた」
 湊太が半身で後部座席に振り返り、莉茉の鼻を摘んだ。莉茉はむぎゅう、とよくわからない声を上げて「おはようございます」と言い、乃々香もつられて「うん」と言った。
 「乃々香ちゃん、どうせ週末暇だろ?こいつと遊んでやってくれよ」「私がですか?」「お前もおねがいします、って言え」「えー外出るのヤだけど……あ、いたた、お、おねがいします」
 高く掲げられた地球儀の前から乃々香を残して、車は走り去っていく。車の中はそれほどエアコンが効いていなかったので、じわりと背中に汗をかいた。雨はすでに止んでいて、ドクダミの強い臭気が雨後の田畑に広がっているのを鼻で感じていた。

 「ノノカ」
 青海市駅前ではタクシーが二台、いつか来るはずの客を待っているアイドリングの排気音だけが響いていた。その無機質な音のなかに、莉茉の声が濃淡をつけていく。
 「待った?」
 「うん……だいぶん、一時間ぐらい。でもそのおかげで次の電車もそろそろ来そうだから」
 軽く皮肉めかして乃々香は言ったが、莉茉は「そっか」と、すげない。
 「それよりその服どうしたの……」
 先週会った時は薄い緑の長袖のカットソーカーディガンにパンツであしらって調和した涼し気な見た目をしていたのに、今日の莉茉は、両胸にバルタン星人の刺繍が施され背にゼットンが大々的に仁王立ちしているスカジャンとボロボロのダメージジーンズを恥ずかしげもなく着ている。
 「ウルトラモンスターズ?」
 「ソウタに車で連れて行って貰おうと思ったんだけどダイガク?の用事で来れなくなったし、朝起きて寒かったから違う服を着ようと思ったけど家に誰もいなくて服がある場所も分からなくて……仕方なく」
 「アウターは?」
 「コーラかけて汚した」
 乃々香は、あの人そういう服着そうだな、今にも泣きそうな大人びた莉茉の姿格好と重ね合わせていた。それにしてでもある。同世代にしては、この子はあまりにも幼いのではないだろうか?幼児退行?ネグレクト?言い憚れる色々なことを想起して、それからひとつをため息をついて、「とりあえず行こっか」と手引きした。
 一番乗り場と二番乗り場どっちに乗ろうか、乃々香がそんなことを考えていると、「ソウタから一万円貰った。流しそうめんに行きたい」と莉茉が言う。
 「そんなに貰ったの」「うん、でもモノなんか買わずに消費しろって」「あ、そうなんだ。萩とか、下関に行って服を買おうかなって思ったんだけど」「遠いところもナシ」「それは手厳しい……。今から行くのは」「美祢の於福ってところ。地図あるよ」
 於福駅は、青海市駅から南に美祢線を通って四駅のところにあった。線路沿いに国道が通っているので、美祢に行く時もいつも親の車に乗っている乃々香にとっては、通り過ぎるだけの風景の中にこんな場所があったのかと、自分の世界が広がっていく感覚を覚えた。
 一軒家のような簡素な駅を出て、棟々の立ち並ぶ川沿いに歩き出す。十分も歩くと左手に『西寺水神公園そうめん流し』というのぼりが立っていた。山の中程にあるらしい。
 「春が好きなの?」「ウン」「他の季節は嫌い?」「ウン」「それはどうして?」「暑いのも寒いのも嫌い」「それは私もそうだけど……そんなこと言ったら外に出れなくなるよ」「それでもいい。乃々香もそうでしょ」「私はど~~かなあ。でもまたこんなに時期を外して流しそうめんをしたいってことは、季節嫌いを克服したいってことじゃ」
 それに莉茉は答えなかった。
 途中に建っているトイレを越えると、道こそアスファルトなものの周りは背の高い広葉樹に包まれて、森の中に踏み入った圧迫感と登坂の急激な運動によって乃々香の心臓は早鐘のようにどくんと打っていた。
 水神公園というだけあって脇を勢いよく流れる川に清涼感を味わえる。
 「もう動けないい。乃々香おんぶして」
 「ええっ……」
 ああ、口数が減ったのはそのせいだったのか、玉粒の汗を浮かべながら地面に腰を降ろす莉茉を見下ろす。まず無理だろうが、とりあえず格好だけでもおんぶしようとした。莉茉が股を開いて乃々香の背中に立つ姿勢は、大人がポニーに跨っている具合に残酷な描写に映り、体重を預けようと少しだけ凭れると、哀しい声を上げて二人は倒れた。
 フォールされた弾みで外側に転がった乃々香は「重すぎだよ!」とは、言えなかったし、言わなかった。
 スカートを叩きながら、ぐずった莉茉に対して「あそこから遊歩道になってるみたいだから頑張ろう」と、とりなした。
 
 大きな東屋が見えて、提灯がぶら下がっている。
 どうやらそこがそうめん流しの会場のようだ。
 炊事場のような造りの建屋は段々に連なっているらしく、乃々香たちが来た下の方は現在使われていないようだった。
 上の方へ登っていくと、梁に付けられた蛍光灯の人工的な光眩しく、その下にはステンレスのそうめん流し台が五レーンほど鈍く存在感を現していた。
 「竹に流すのかと思ってた」
 莉茉がそう言うせいで、売店の前、一番手前のレーンで興じていた四人家族の、そのうちの子供が背を向けてこちらを伺ってきた。
 「え、衛生的なやつじゃないのかなあ」と、乃々香は道化て、「そうめん流しやろうよ」と催促した。
 売店のおばさんに、そうめん流し五百円、おむすび一八○円、ラムネ一八○円を二人分頼んだ。乃々香と莉茉は、溝が一つ掘られたステンレスの台に対面して、木で出来たベンチに座る。何も言わず二人はラムネで喉を潤していた。東屋の外は、山の岩肌が迫っていて、その上を滝が勢いよく流れて耳触りが心地よさそうだ。その周辺を紫陽花の青と、苔むした青が、目を楽しくさせる。
 「あ、流れてきた」
 すでにおにぎりを頬張る茉莉が、天井から這うようにして伝わった配管から流れてきたそうめんの第一号に声を上げる。売店のおばさんが上流から流す仕組みになっているらしい。スチームパンクの様相だ。
 人間が流すのだから流れる間隔は粗く、そしてやや速かった。
 「おにぎりを食べてる暇ないね」と莉茉が言う。「うん、莉茉ちゃんがほとんど取ってる」
 二人でもぐもぐさせていると、ふと、どちらかが「夏だね」と言った。「うん」
 緑色をした一条のそうめんが流れてくる。それを乃々香は摘んで、つゆに浸した。
 「あ、それ終わりの合図の(そうめん)!」と、言って、莉茉はまた綺麗な顔をしたまま泣き出しそうになっていた。
 「ならあげる」と乃々香が言うと、莉茉が複雑な顔をするので「え、いらないの」と呟いて、二人で苦笑した。

 「池がある!鯉いるかな」
 さっきのはなんだったんだろう、という具合に元気に坂を降りる莉茉を眺めながら、元来た道を降りていった。
 線路を挟んで向かい側に出てみると、どうやら駅の近くに立派な道の駅があるようだ。
 「道の駅おふく」。
 おしゃれなシャーベット屋が併設されていたので、二人は舌鼓を打つ。こればっかりはソウタさんにお礼を言わないと、という気分でいると、莉茉が「温泉があるよ」と言う。渋る乃々香に莉茉は、
 「温泉好きじゃないの」「好きには好きだけど……」「温泉ばかりで会った」「それには理由があって」
 莉茉の「入りたい」という意見に押し切られる形で、気づけば入泉料五百円とタオル代を払っていた。
 この温泉施設は年季が入り、ホテルの温泉や湯治場とは違って昔ながらの健康ランドといった感じだが、料金は安い分致し方ない。
 二人は女湯のノレンをくぐり、脱衣所にやってきた。
 ああどうしよう、知り合ってそんなに言葉も交わしてないし相手のことだって分からないのに温泉に入るなんてどうかしてるよ。なかなか服を脱ぎ切れずにいる乃々香をよそに莉茉は、スカジャンを脱いでキャミソール姿になっていた。
 その肢体に目を瞠る。綺麗なんだろうな、と思い捉えた視線は異様な感情を生んでいた。見えている腕だけでも、なにか鋭いものでスライスされたような傷が、大小数え切れないほどピンクに変色して遺っていた。社会の教科書に乗っていた蘭奢待のようで、それは、とても痛ましかった。
 「ちょっとこれ着て、着いてきて」
 戸惑う莉茉に、スカジャンを羽織らせて、受付まで向かう。
 「家族風呂ってありますか」
 髪を白くさせた老人は、「ありますよ。一時間千円です」と言った。それに応じて家族風呂の鍵を受け取る。
 「どうして?」
 目を丸くさせる莉茉に、「他の人の目があるし……、それに訊きたいこともあるし」と乃々香は言った。