2☆「水辺にまつわるエトセトラ(中)」(2018/08/22)

 星空観測区――、この地がそう標されるようになったのは、二年ほど前からだった。
 乃々香の住む青海市は、本州の西端に位置する日本海に面した人口三万人ほどの小さな町で、温泉と自然と焼鳥以外には取り立てたものもなく、石垣島に続く全国二例目の「星空観測区」に認定された時には、地元はそれは大いに沸き立った。その頃は毎日学校に通っていたので、事あるごとに教師達が故郷の自然がどれほど恵まれているかについて説いていたのを思い返す。隣の市では明治の頃に作れた産業遺構が世界遺産になっていたので、それと対比して「何もないと思っていたこの町って案外凄い」と刷り込まれ、頬を紅潮させた同級生たちを喜びを分かち合っていた。
 「昔はよかったね」
 乃々香の自室の学習机の上に、二つの手紙が開かれて置かれてある。
 ひとつは、同級生たちからのいわゆる学校に来てね、という寄せ書きで、こと決まって二週間に一度ぐらいの間隔で近所に住むクラスメイトの戸川さんが手渡しで持ってきてくれていた。
 内容は一度見さえすればいいものだった。同じことを書かれていても気づかないかもしれない。多くのクラスメイトが半ば強制的に書かされていることを思うと、乃々香は申し訳ない気持ちすら感じてしまう。
 もうひとつの手紙には、日付と場所の名前が記されてあった。

『六月三日 十六時 一ノ俣桜公園』
 
 「桜公園?どこだろう……」
 兄からの手紙はこれで三通目だった。
 一通目は、乃々香の自宅の近くにある巨大な地球儀(表面はピンボールのように艷やかで、鈍色で大陸が描かれている。二階ほどの中空に一本の土台から三叉に分かれたものに支えられており、大きさは隕石だったら住んでる県が吹っ飛ぶぐらいのもの)だった。地元の企業が作ったもので、田園風景の中で映えるその銀色は、「地球儀 十六時」としか手紙に書かれてなくても、すぐに分かった。
 二通目は先週行った俵山で、三通目は三日後に一ノ俣公園らしい。
 スマートフォンの地図で調べると、一週間前に行った俵山温泉から山一つ挟んだ向かいに、その「一ノ俣桜公園」はあるらしい。
 最初の地球儀に比べたら、大旅行だ。
 乃々香は、兄が不登校の自分を慮って手紙という形で外の世界に誘っているのだろうなと察していた。外に出られないわけではないが、去年の秋に足を骨折してから冬の間出不精だった。いい運動不足解消にはなりそうだ。学校にもろくに行かない娘が外に出ると不審がるだろうが、「兄が」というとそれで、どうにかなるような家だった。兄は偉大なのだ。兄、凄い。それに、交通費なのか、報酬なのか、いつも手紙と共に封筒に数千円入っているのは、中学生にとって目が眩んだ。
 
 通学時間を過ぎた頃にやおら制服に着替えて家を出ようとする娘に、乃々香の母は不安な顔を崩さなかった。
 制服を着るのは半年ぶりだった。余人から見れば、放蕩娘ではなく、ちゃんと学生をしているように見えるだろうか、そう気にした。
 家を出て、両側に広がる田園の中の一本道を、何度も立ち止まりながら駅へと向かっていく。
「疲れた、やっぱり自転車に乗ればよかったな」
 雲ひとつない青空に向かって恨めしい声を上げる。テレビでは早い梅雨入りが宣言されたが、そうすると今日みたいにかんかんに日が照ったりして、じんわりと額に汗を浮かばせる。気温は二十五度に近い。
 長門古市駅は山陰線の駅舎のなかではちょっとした道の駅風の瓦葺でしっかりとした造りの駅だった。海外のニュース番組で取り上げられてから一躍有名になった元乃隅稲荷神社に近いから見栄えを意識しているのだろうか。
 乃々香は、ホームと吹き抜けになっている駅舎の中で、時刻表を宙でなぞった。山陰線は一時間に一本といった具合で、次の下り列車小串行きは二十分後に来るらしい。この見栄えはよくない。
 「滝部に行くのかい」
 ホームに出て突然、横からそう尋ねられて乃々香はぎょっとした。すぐそばの椅子に老婆が座っていた。乃々香は軽く会釈して、「ええ」と答える。
 「私も阿川の方に行くからね」
 阿川。たしか、滝部の何駅か前だった気がする。
 列車には月に一度乗ったらいいほうで、乃々香は駅の名前には明るくなかったが、阿川の近くには角島という、フォトジェニックな橋があるのを思い出していた。家族と車で何度か行ったことのある場所だ。
 老婆はその駅の近くの和菓子屋で手土産を買って知り合いの家に行くのだという。
 相槌を打つばかりで乃々香の話す番が巡ることはなく、老婆も乃々香を訝しむ様子もないようで、胸を撫で下ろした。
 一両の黄色のディーゼルが駅に滑り込んできて、老婆とは離れ一人ボックス席に座る。
 列車が動き出すとすぐに、空の青と、緑の豊かな島を挟み、大きな青を湛えた油谷湾が眼前に広がった。
 「向津具(ムカツク)半島だ」
 気分が騒がしくなっていた。

 阿川駅で老婆が降り、特牛駅(こっとい)、そして滝部駅へ降り立った。ここで、サンデンバスに乗り換え、二十分ほどして一ノ俣温泉に辿り着いた。
 海の青は、山の緑に変わっていた。空は夏模様だが、今が梅雨だと知らせるように、充満した湿り気が青臭い草の匂いを強く感じさせた。
 ペンションのような低層のホテルが川沿いに建っていた。この川を一時間ほど徒歩で遡上していけば、その「桜公園」に着くはずだ。その公園の先は、いわゆる自然の要害で、民家もなくバスも通っていない。乃々香はそのためにスニーカーを履いてきた。事前に調べたささやかな情報によれば、その公園はダム湖のようで、春になれば人知れず、名前に恥じず桜が咲き誇るらしいが、時期外れもいいところだった。
 母が作ったお弁当をホテルのベンチで食べた後、目的地へ足を向けた。
 軽い傾斜が続くが、完全な山道というわけではなく、山陰地方に特有の頭に朱い石州瓦を乗せた木造家屋が畑の合間に建っていたので、乃々香にとってそれほどの負担ではなかった。
 軽いハイクみたい。
 空は雲がかってきたが、太陽に熱された地面は悪くのない独特な臭いを発散させていた。四方の低山と、斑に張られた水田と、そばにある整然とした杉、朱い瓦の家、うねる黄色のガードレール。
 「昔ここのあたりに来たことがあるかもしれない」
 きっと幼い頃だ。小学生よりもうんと、小さかった頃。こんな田舎に来るということはきっと兄の仕事ではなかっただろうか。兄は私の子守と併せて、こういった辺鄙なところにあるアメダスや、震度計の確認に来ていた。手にあるスマホで調べたが、電波の掴みが悪かった。
 道の人に聞けば話は早いだろうが、怪しまれないだろうか?
 運良く軽トラのドアに凭れて手持無沙汰にしている、矍鑠とした老爺がいた。グレーの作業着を着ていて、農作業の合間なのだろうか。
 「あの」と乃々香が問いかけると、首を斜にした。
 だが、「このあたりに地震計とか」の、地震の「じ」で、老爺は相貌を崩して「ああ、あそこ。いまはないけどね」と、指さした先に田圃に縁取られて雑草の生い茂った区画が確かにあった。乃々香は「社会科見学の……」と、もにょもにょと言葉を連ねているのもどうでもよくなって、「ありがとうございます」と頭を下げた。
 ああ、たしかにあったんだな、無くなっていてもそこにあったのが分かれば嬉しいもんだな、と乃々香は思った。
 
 民家も絶えて、勾配のある上り坂を過ぎると、川沿いにコンクリートの堰が見えた。低木に遮られてダムの全容は見えそうにない。
 しばらく歩くと、背丈ほどの木羽葺きの「一ノ俣桜公園」という看板が立ってあった。道路から脇道を下ると、そこが公園らしい。
 看板のそばに青い普通車が一台止まってあった。先客がいるのだろうか。
 おそるおそる下っていく。
 すると、たしかに二人の男女らしき姿があって、見覚えのある姿に乃々香は姿を隠した。
 ああ、俵山温泉で会った二人だ。
 
 湖面に向かって半歩ほどの距離感で見つめている二人の顔を伺うことはできない。
 それにしてもこの公園は一体なんだろう、と乃々香は思った。
 眼前にある青い色に染まった湖の最奥に、朽ちかかった骨のような樹木がなにを実らせるわけでもなく幾本も刺さっている。
 それが反射して、泉の中にもうっすら木立を投影していた。
 まじまじとそれを眺めていると、不意に、りま――と言う名前だったか、それが、地面へしたたかに倒れ込んだのが、静謐の中でそれだけが響いた。
 
sage