Neetel Inside ニートノベル
表紙

精神限界オタク
後編

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6


「それは寂しさという感情です」
 天使はそう言った。
「なるほど、これが寂しさというものなのか」
 他人の肌から離れた時に感じる途方もない虚しさのことを、どうやら寂しさというらしい。
「僕は今、寂しさを感じているのだな」
 僕は青い空を見上げながらそうつぶやいた。それは、誰に向かって言うわけでもないただの独り言だった。
 天使は唇をぐっと噛みしめながら、険しい表情でじっと僕を見つめている。天使の隣にいる金髪の美少女は、何も考えていないようなあっけらかんとした表情で僕を見つめている。
 しばらくの間、沈黙が訪れた。天使は何か言葉を発しようとしていたが、言葉を選んでいる様子だった。隣の美少女はぽかんとした顔で、「どうして誰も何もしゃべらないの」と言いたげな表情で僕と天使の顔を交互に目配せしていた。


 僕はというと、憂鬱に襲われていた。
 物心がついた頃からずっと心の片隅にあったこの虚しさのことを「寂しさ」と呼ぶのなら、僕は物心がついた頃からずっと、「寂しかった」のかもしれない。
 今まで「辛い」とばかり名付けてきた幾つかの感情も、実のところは「寂しい」という感情なのかもしれない。
 人生は辛い。だけどその人生の「辛さ」にも、きっと種類はあるのだ。
 人生の「辛さ」というものが人それぞれでオーダーメイドであるように、僕の人生の「辛さ」とは「寂しさ」に起因するのもなのかもしれない。
 僕は今まで何度も何度も「人生が辛い」と悩んできたが、それは「寂しさ」という病に悩んでいたということなのかもしれない。
 そういう風に考えると、何だか色々と辻褄が合うような気がしないでもない。
「そうか……。これが寂しさというものなのだな」
 僕は空を見上げながらそう呟いた。
「……この寂しさというものに、僕は長年苦しめられてきたんだな。……なあ天使、僕に教えてくれないか。この寂しさとやらを消し去る方法を」
 僕はそう天使に問うた。天使は返答に困っている様子だった。
 隣にいた金髪の少女が声を発した。
「あのね、お兄ちゃん」
「なんだい」
 僕は即答した。
 それから、沈黙が訪れた。
 しばらくした後、隣にいた金髪の髪の女の子が、しきりに僕にスマホを出せというジェスチャーをした。
「一体何だい。スマホがどうかしたのかな」
「ううん、違うの。えっとね、LINEで友達登録をしてみればいいんじゃないの。こうすればいつでもメッセージを遅れたり、電話できるよね。これでもうお兄ちゃんも寂しさを感じることなんかないよね!」
「……とにかく、スマホを出せばいいんだね」
 僕はスマホを取り出した。金髪の美少女は僕のスマホを高速でタップしていく。
 ピロンという音がする。スマホを確認すると、ラファ子という女の子からメッセージが届いたらしい。
「えっとね、これが私のLINEのアカウントなの。友達申請、承認してくれるよね?」
 にっこり笑顔で金髪の女の子もといラファ子は僕を見つめる。
「う、うん……。よろしくね、ラファ子さん」
「やったー! フレンド増えたー!」
 ラファ子が叫ぶような声量で声を張り上げる。
 それを見た天使が、「こらこら」とラファ子を少し注意している。
 しばらくすると、注意が終わったのか、ラファ子がスマホをじっと見つめている。
 「かまって」という文字と一緒に大量のスタンプが送られてくる。
「何だこれは……」
 僕はたじろいだ。
「お兄ちゃん、寂しさを消し去るにはどうすればいいかって言っていたでしょう? あのねー私、こうしたら寂しさが紛れると思うんだー」
「こうするって……、一体どういう意味なんだい」
「うーんとね、かまってーー! って手当たり次第にLINEを送るの。そうすれば、きっと誰か一人くらいはかまってくれるから。そうすればきっと寂しくなくなるよ?」
「そ、そういうものなのかなぁ……」
 半信半疑だった。だけどラファ子のLINEに返信していくにつれて、僕の心の奥の何かが穏やかになっていく気がする。
「……みんな、誰かにかまって欲しいと思ってるんだよ」
 スマホを見つめながらラファ子はそう小さく呟いた。
「私みたいにさ、こうやってみんなにかまってかまってってLINEを送るのは、みっともないことなのかもしれないよ。だけどさ、寂しいのって、やっぱり辛いなぁって、私そう思うんだ。お兄ちゃんもそう思うでしょう?」
 一理あると思う。確かに寂しいのは辛い。ここで「寂しい」とラファ子に言ってしまえば、僕の寂しさというのも少しは和らぐのかもしれない。だけど僕はラファ子に寂しさを伝えるだけの言葉を見つけることができなかった。
 僕は何も言えず押し黙っていた。
「……あはは。やっぱりそう思うのって、私だけなのかな。変なこと言っちゃったかな」
 ラファ子が苦笑いをしながらそう言う。
「……ち、違う」
 僕は声を発した。
 多分、こんな短い言葉じゃ、胸の内に抱いている気持ちの1%すらラファ子に伝わっていないのだろうと思う。だからきっと、「……ち、違う」なんて返答じゃ駄目なんだ。
「……そっか」
 ラファ子は目をつぶりながら、小さくそう言った。
 ……伝わったのか、これで? こんな言葉で?
 だけどもしもこんな拙い言葉で、僕の気持ちを誰かに伝えられているのだとすれば――そう思った瞬間、瞼の奥から熱を帯びた何かが沸き上がっていくような感覚に襲われた。
「お兄ちゃん、頬」
 ラファ子が僕の頬を指さす。頬を右手で触ってみると、瞼の奥から何かが湧き出て、それが頬を伝っているのがわかった。恐る恐る瞼の奥に手をやると、それが何であるか、すぐに察しはついた。涙だった。
 ラファ子が声を発する。
「お兄ちゃん、ずっと寂しかったんだってね。天使さんから聞いたよ。あまりにも寂しかったから、お兄ちゃん、自分で自分を殺める道を選んでしまったんだよね」
 うるさい、赤の他人のラファ子に何がわかる……とは思えなかった。
 僕は寂しくてしょうがなかったから、自殺の道を歩んでしまったのかもしれない。
 学校でも家の中でも爪弾きにされ、社会はおろかネットでも居場所をなくした者が心の内に抱く底知れない負の感情の正体――それは、紛れもなく、寸分の狂いもなく、「寂しさ」だった。
「だけどもう大丈夫だよ。お兄ちゃんは一人じゃないから。私と天使さんがついているんだもん。お兄ちゃんはもうひとりぼっちなんかじゃないよ」
 ラファ子はそう言った。
「……だけど、ラファ子と天使だって、きっと一時的なものなのだろう? しばらく時間が経てば、君達が僕の目の前からいなくなってしまうことくらい、僕だってわかる。君達がいれば僕は寂しさを感じないで済むかもしれないけれど、君たちがいなくなれば、元通りさ。僕はまたひとりぼっちになっちゃうわけさ」
 僕は早口でそう言った。ラファ子は不思議そうな顔で僕を見つめている。
「えー、そんなことないよー。そうでしょ? 天使さん」
「私達は、あなたの目の前からいなくなったりなんかしませんよ。それにもしも私達があなたの目の前にいなくなったりしたとしても、その時は私達を呼び出してくれればいいのです。そうすれば私達はあなたのもとに駆け付けるつもりです。……私達は、自殺を選んでしまったあなたを、生半可な覚悟で助けたわけではないのですから」
「……では、君達は、本当に僕の目の前からいなくなったりしないのだな? 本当だな?」
 僕は天使とラファ子にそう問うた。
「私達は、あなたの目の前からいなくなったりなんかしません。あなたの心が私達を欲している限り、私達はずっとあなたの傍にいます」
 天使はそう言った。あまりに饒舌な語り口だったので、いつもこうしたやり方で人々を諭しているのかと勘ぐってしまう。だけど今は天使の発言を疑おうとは思わなかった。むしろその発言が虚偽のない真実であると信じたかった。
 「嘘を言うな」と言いたかった。だけどそれと同時に、自分の胸の内から、天使とラファ子との関係性を壊したくないという想いが沸きあがっているのを感じていた。
 天使やラファ子を否定しようとする言葉が頭に思い浮かぶ度に、彼らは今まで僕は出会ってきたような温情のない人間ではないということを頭によぎらせた。どうにかして、天使とラファ子を否定したくなかったのだ。
「ら、LINE、やろっか」
 気付くと僕はスマホを握りしめていた。
「よし、LINEしよっか、お兄ちゃん」
 ラファ子は屈託のない笑顔でそういう。隣の天使はただそれにうんうんとうなずいている。
「お兄ちゃん、寂しさのかいしょー方法、私が教えてあげるよ!」
 そう言い終わるやいなや、ラファ子はスマホを高速でタップし始める。


「えっ、何そのスタンプ、すごい面白い!」
 ついさっき僕が送ったスタンプを見てラファ子が笑っている。
「だけどさ、わざわざLINEなんかしなくっても……、目の前にいるんだから話せばいいんじゃ……」
「いいのいいの、こういうのも楽しいでしょう?」
 ラファ子は少しはにかみながらそう言った。
「う、うん……まあ……」
 ラファ子に言いくるめられて、僕は黙々とLINEをした。やりとりの最中、何度かラファ子が笑った。僕も何度か笑みがこぼれそうになった。
「ね? お兄ちゃん、LINEってくだらないけれど楽しいでしょう?」
「うん……楽しい……うん……」
 自らの発した言葉を一つ一つ噛みしめるように、僕はそう言った。
「お兄ちゃん、今、寂しい?」
「ううん。寂しくないよ」
「そっかー、よかったー!」
 寂しければ、誰かにかまって欲しいと叫べばいい。そういうことなのか。
 しばらくラファ子とLINEをしていると、天使が僕の目の前にやってきて、こう言った。
「あなたは、人生というものを難しく考えすぎているのです」
 天使の声が静かな屋上で大きく響く。
「人生など、所詮こんなものなのです。人生とは、所詮こんなものの寄せ集めでしかないのです。だから、難しく考える必要などないのです。寂しければ、寂しいと叫んでみればいいのです。そうすれば、きっとどこかの誰かが助けてくれますから。人間社会というものは、そういう道理で出来ているものなのです」
 天使のありがたいご講話を聞きながら、僕はスマホの画面をじっと見つめていた。


7


 病室に戻ると、看護師さんに注意された。点滴をしているのだから、それを外して出歩くのはやめるように、とお叱りを受けた。
 注意が終わり、看護師さんが他の病室に入っていくのを確認した後、僕はポケットの中に入っているスマホを取り出した。
 ベッドに仰向けになって、白い天井を見つめながらスマホの画面を見る。ラファ子からLINEが届いていた。
 ラファ子のLINEにぼんやりと返信する。特に意味のないやりとりが続く。僕の将来のことだとか、決して建設的な話をしているわけではない。本当に他愛のないやりとりだった。
 LINEをしている最中に、ふと自分のこれからの行く末を想うことがあった。僕には何もない。社会的な地位を確立しているわけでもなく、何か特別な技能を持ち合わせているわけでもない。かといって人間関係に恵まれているのかというと、決してそういうわけでもない。
 自分を取り巻いているのは自分がいなくても成立する程度の薄っぺらい人間関係だった。社会との交流はズタボロに絶たれ、家族関係はどんよりとした不和に覆われており、守るべき大切な人もいなければ、恋人もいない。
 親のすねをかじっていればかろうじて生きていけるだけの、先の見えない人生だ。これからどうしようなどと考えようものなら、ネガティブな考えに頭を支配され、寝込むしかない。先行きは真っ暗だ。希望の光は何もない。
 ――希望の光は何もない、そのはずだったのに、ラファ子とLINEしている時は、不思議とそうは思えなかった。気が付くと僕は、ラファ子と天使に来週の土曜日に会う約束を取り付けていた。
 「寂しさ」がないとは、こんなに幸せなものなのかと思った。窓の外を眺めてみる。どんよりとした灰色の曇り空が、何だか色づいて見える気がする。
 今なら何でもできる気がする。心の中は根拠のない希望に満ち溢れていた。


 窓の外の景色を眺めながら、ぼんやりと思いを巡らせた。おぼろげな未来を頭の中に思い描いた。そして、あるたった一つの想いを胸に抱いた。それは、決意と呼ぶにはあまりに弱々しい決意だった。


 またここから始めよう、と思った。
 何もない人生だった。辛いこと続きの人生だった。なけなしのプライドくらいしか守るものがない人生だった。何も成し遂げられず、何者にもなっていない人生だった。
 情けなくすすり泣くことすら恥ずかしがる人生だった。
 だけど、またここから始めようと思うのだ。
 この先の人生に上手くいく保障などないのかもしれない。「寂しさ」に呑まれ、自暴自棄になって自分で自分を傷つけてしまうこともあるのかもしれない。
 だけど僕はひとりぼっちじゃないのだから。そう思うと、不思議と頑張れる気がした。
 僕はスマホを握りしめた。
「ありがとう、みんな」
 僕はグループLINEにそう書き込んだ。天使とラファ子と僕がいるグループLINEだった。
 数分すると、バイブが鳴った。返信が来ていた。
 天使からは笑顔のうさぎのスタンプが来ていた。ラファ子からは「いいってことよ」という文字の入った渋い顔の猫のスタンプが来ていた。
 それを見た僕は、何だか少し満たされた気分になっていた。


8


 それから、十年の歳月が過ぎた。
 静まりかえった寝室で、僕は妻に天使達と出会った時の話をしていた。昔話だった。妻と僕の間には、息子が小さな寝息を立てて眠っている。
「ふーん、私と出会う前にそんなことがあったのね」
 妻がつぶやくようにそう言う。
「まあ、いいんじゃない」
 そう言って妻は布団にくるまった。しばらくすると、妻の寝息が聞こえてきた。
 静かな寝室に、息子と妻の寝息、そして時計の針の音だけが鳴り響く。
 カーテンの隙間に目を向けると、木々が風で揺れている様子が見えた。ガタン、と窓の外を打ち付ける音が聞こえた。
 どうやら今夜は嵐のような強風が吹いているらしい。しかし、枝葉が折れたりする心配もなさそうだ。黒い影に染まっている木々達は、互いに手と手を取り合うように揺れている。
 目覚まし時計を見る。時刻は午前一時三十分を指していた。


<終わり>

       

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