形代とは……心霊が取り付きやすいよう形を整えた依り代の一種。
「……だそうだ」
「へぇ、何か怪しい響きだけど、魔術っぽいといえば魔術っぽいな」
嫌がらせのように現実的な話が続く中、久し振りに出てきたファンタジックな単語に、スピーカーの声が若干上ずった。
厳密には当人の生命力や魔力を取り出して封じ込めた器であって心霊が取り付いているわけでは無い、とはオリンの補足である。
翻訳の不可能性を目の当たりにして改めて異文化を意識した男であったが、当の異世界人の思惑はそこには無いらしく、深刻そうな顔つきを崩そうとはしなかった。
「それで、これがどうしたんです?」
「……先程、御友人達をこちらに送り込んだ組織の目星が付いたと、当局から連絡がありました。それによると、彼らはどうも、施術の際に形代を用意していなかったようなのです」
「はぁ、なるほど……」
男が要領を得ない返事を返す。
「すみません、それってそんな大事な事なんですか? いや、決まりだってのは分かるんですが……」
異世界側にとっても元の世界の側にとっても、転移した人間そのものに積極的な価値が見込めないことは、友人の例からも既に明らかである。
社会に益する存在として呼び込んだので無い以上、他国の工作員にせよ悪戯な魔術士にせよ、事件の黒幕が悪意を持って彼らを転送した事は、男にも容易に想像が付いた。
悪意を持って魔術を使うのだから、むしろそうした決まりなど破るのが当たり前ではないのか。
銃刀法があることを理由に、素手で殺人を行う殺人鬼は居ない。
現に、異世界側との安易な接触を避けなければならないというルール自体、異世界人を自分の世界に呼び込んだ時点で破られている。
男としても他国の法だからと軽視しているつもりは無かったが、形代の一件だけを殊更重大事として取り上げていることについては、やはりピンとこなかった。
「馬鹿だな。そういう儀式ってのは、何の意味があるか分からない呪文だとか人形だとかが一番大事なんだよ。なるほど、折角異世界に来たのに俺にチート能力が備わってないのは、儀式が不完全だったから……」
「全然違います」
オリンは苛立ちを含んだ声色で友人の話を両断すると、小さなパック入りのジュースとペットボトル入りの麦茶をテーブルの上に並べた。
「詳しく説明しようとすると専門的で込み入った話になってきますので、取り急ぎ転送魔法の仕組みについて簡単に説明します」
並べ終わると、今度は紙パックにストローを突き刺し、男に見せた。
「このパックを一つの世界だと思ってください。転送魔法というのは、このように閉ざされた世界の一部に穴を開けてトンネルを作り、行き来させるというものです」
そういうとオリンは、ジュースを一口吸い上げて口を離す前にストローの中間を指で摘んだ。
「私がここに来たのもこの方法です。任意の対象を他の世界に移して、移動が終われば扉を閉じる。これ、元の世界はどうなっていますか?」
オリンがそのままの状態でパックを男に突きつける。
「どうって……見た目の話なら、ちょっとへこんでますね」
「はい、本来その世界にあるべき存在が丸ごと消える事になるわけですから、その分の歪みが世界に生じます。形代と言うのは、それを防止するためのダミーのようなものなんです」
「つまり、移動した奴の代わりにそいつを元の世界に置いとくわけですか……」
「そういうことですね。完全に反作用を防ぐのは原理的に不可能ですが、これなら無視できる範囲に影響を抑えられます」
「え、それじゃ俺にチート能力が備わってないのは……」
「仕様です」
「お前はいい加減現実を見ろ」
「そんな……」
落ち込む友人の声を他所に、オリンが残る麦茶に目を移す。
「そして、それを使わないとどうなるかというと……」
「もしかして、世界が歪んだままになる?」
「いえ、事態はもう少し深刻になります」
オリンがボトルを逆さにして麦茶をコップに注ぐ。
その指は、口から底へ向って登る気泡を差していた。
「世界の復元力が、歪んだ状態を是正するために、別の何かで穴を埋めようとするんです」
「何かって……」
「何か、としか表現できません。お茶の代わりにこのボトルへ入ってきたのが空気でなくとも良かったのと同じで、手軽に取り込めるなら、どんなものでも無作為に……」
「それじゃ、今俺らの世界に……」
事態を察した男の顔色が、瞬く間にオリンと同調していく。
「おい、今すぐ帰って来い! お前のせいで世界が危ない!」
奪い取るようにテーブルの上の端末を握り締めて男が叫ぶ。
新種の病原菌、未知の外来種、人類種の天敵……。
物騒な単語の数々が、男の脳内を駆け巡っていた。