前編

 81マスの戦場には太陽が燦々と照りつけていた。前列の歩兵が太陽を見上げる――燃える火の玉はまるで興味のないことを嫌々眺めている片目のように見えた。最近、歩兵はよくそう思うことがある。以前、歩兵の故郷の村を襲ったひどい日照りのせいで(そして、その日照りは今も続いている)――あまりに酷かったのでろうそくを消した後の残像のように目に焼き付いている。来る日も来る日も飽きることなく降り注ぐ無慈悲で強烈な太陽光線と、その下でボロ雑巾さながらに横たわる母の死骸と。

 一目見ただけで死んでいる、と分かった。
 朝、目が覚めたとき、すでに母は家にいなかったし、村からも消え去っていた。それが一週間ほど前のことだ。村人も一緒に探してくれたが、日照りで自ら生きていくだけでも危ういのに、他人の親にかまっていられる状況ではなかった。
 結局、歩は一人で山奥を探した。
 見つけたのは、母だったミイラだけだ。村の食料は日照りによる不作だけでなく、租税で持っていかれたせいもあってか数カ月前に底を尽いていた。老いた母は、心中ではすでに口減らしのために自ら山奥で餓死することを選んでいたのだろう。帰る気が全くないからこんな山奥まで来られたのだ。
 本当は家に死体を運んで、ちゃんとした供養をしてやりたかったが、山の斜面を、いくらミイラ化したとはいえ一人で村まで運ぶ力は、もはや今の歩には残っていなかった。それに、死体を持って帰ったりすれば、家にいる幼い妹にいらぬショックを与えてしまう。妹には、まだ母はどこかで生きていると言ってあった。
 とにかく、妹にはうまく誤魔化しておくとして、死体を野ざらしにするのはいくらなんでも忍びない……
 歩は持ってきた道具で地面に適当な穴を掘ると、その中に母を埋葬した。
 外は日照りでうだる様な暑さだというのに――不思議とミイラと化した母は冷たかったことを、よく覚えている。

 村に帰って来た歩を待っていたのは赤い愛馬を従えた飛車の鉄拳制裁だった。顔面を思いっきり殴り飛ばされ、地面に倒れこむ歩。
「墓の普請から勝手に抜け出すなんて、中々度胸のあるやつじゃねえか。今度は戦場でそのクソ度胸を発揮してもらおうか、ええ?」
 唇から流れ落ちる血を乾いた手でぬぐう。手についた土が口に入って、ジャリジャリとした嫌な音を立てる。
 すでに沈みかけた夕陽が真赤に充血した眼で歩を無関心そうに眺めている。(わあ、痛そう、大変そう。だけど僕はこれからお寝んねの時間さ。明日の朝もまたよろしくね。それじゃあ、さようなら)ようやく立ちあがろうとする歩の脇腹を、飛車の具足が蹴りあげた。
「要するに、こんな時間まで仕事放っぽり出してどこ行ってたか、て訊いてるんだよ」
「……くは……」
 蹴られたショックで腹の中の空気が最初の言葉をかき消した。
「……母を……探しに行っていました……」
 今、歩の目にはかつて豊穣な畑だったものが広がっている。畑の表土は干からびたミイラの皮膚のようで、そこを夕日が血をばら撒いたかのように紅く染め上げているのが嫌でも見えた。
「前に一度村総出で探しに行ったじゃねえか。隣の村の向こうまで探しにいったけど結局見つからなかったんだろ?」
「国境近くの山奥にいました」
「でも一人で帰ってきた、てことはアレか?」
「すでに死んでいました……」
 歩はそこに仕方なく母を埋葬したことを口に出そうとしたが、どうせ飛車にとってはそんなことは何の興味のないことなので、やめた。
「ご愁傷様」
 8割の侮蔑と2割の同情を含んだ言葉。
 ようやく蹴られた内臓の痛みに耐えて立ち上がった歩の肩を、飛車が軽く叩いて言う。
「向こうにあるのがお前の担当区間だ。母親探索で疲れているところ悪いが、明日の朝までに仕上げとけよ。ああ、後、お前たち」
 ここで、飛車はこのちょっとした騒動を眺めていた野次馬の村人たちに向かうと、
「手伝ったりするんじゃねえぞ。これはこいつの仕事なんだからな」
そう言い残すと、飛車は長い影を、赤いキャンパスに引きずりながら騎乗して駆け去っていった。その光景は血の海を渡る修羅のように見えた。

 「おい」例の野太い声がした。
 歩兵が振り返ると、そこには馬に乗った飛車がより威圧感のある眼で見下ろしていた。
 抜けるような晴天の中、年季のはいった兜の縁が陽光を反射して輝いている。歩兵のような農民ですら高そうだと一目で分かる代物だ。自分がこの兜を買うとしたら(別に欲しい訳ではない)何年かかる? 幼い妹を奴隷として売り飛ばしたって買えないだろう。
 馬にしても、毛並からして良馬であることは一目瞭然だ。かつて村には共同の農耕馬がいて、村人全員で世話をしたものだ。その馬も、日照りで食糧が尽きると真っ先に村人の胃袋の中へ送り込まれた。

 ヘボ君主、民より飛車をかわいがり。

 こんな筋肉と性器の大きさだけが自慢の暴漢を、王将はなぜ日照りで苦しむ善良な大多数の民より大切にするのだろう?
 その答えは分からないし、もはやどうでもよかった。ただ、歩兵は今日こそこの圧政者たちに天罰を喰らわしてやるつもりだ。
「聞いてるのか」
 飛車の思いのほか冷静な問いかけに、歩兵ははっとした。
「聞いています」
「今日は特に大切な戦さの日だ。分かっているな?」
「ええ、確か今日の対戦相手は海の向こうからやって来た――
 忘れている訳ではない。自分の命に関わることでもあるし、敵軍の名前を忘れるはずがない。ただ、とっさの飛車の質問に軽い混乱状態に陥ったのと、外国の耳慣れない名前のせいですぐに思い出せなくなっていた。家に教科書を忘れてきたようなものだ。早く取りに戻らないと、鬼教師のしごきが待っている。
「チェスとかいう、気取ったいけすかない奴らですよね」
 飛車の斜め後ろから、銀将が会話に割り込んできた。
 このお調子者は、よく一人で敵軍に突っ込んで行っては窮地に立たされることが多いのだが、この時だけはその性格に感謝した。おかげで、教科書を取りに行かなくて済んだし、鬼教師を怒らせずにも済んだ。
「今日はその気取った毛唐どもに、どちらが元祖か教えてやる日になるだろうな」
 これは金将の受け売りか?
 頭の中身を八丁味噌と入れ替えても以前となんら変化しないと思われる程、脳みそ筋肉の飛車にこんな言い回しができるわけがない。
「この槍でな」
 飛車が十文字の槍を構える。
「こりゃあ、俺の分も残ってますかね?」
 ゴマすりの銀、発動。
「お前には、今晩飲む酒がうまくなるように期待してるぜ」
「ダンナにそう言われちゃ頑張るしかありませんや、ははは」
 その酒の原料はどこの誰が作ったもの米なのかを、歩兵は小一時間問い詰めたかった。そして、それは一昨年までに村人が必死に作った米であり、日照りの前にはいざという時のために、蔵の奥で眠っていたものだ。なけなしの貯蔵は王将の愛人が死んで、その大規模な墓(古代の前方後円墳みたいな、でっかいやつだ)を作るための臨時税でもっていかれた。そのせいで、死ななくていい人間まで大勢餓死していった。
 それでもいつ殺してやるかは決めかねていた。やはり、この戦いで飛車の戦力がないのは非常にマズいからだ。やるなら、大勢が決した後、と考えていたが、馬上で高笑いしている飛車を見てその考えは消し飛んだ。
 関係あるものか。
 初手。そこで飛車を殺す。そうすれば、もう二度とこいつの酒臭い息を嗅ぐこともなくなるだろう。

 雑談も終わったんで、俺はそろそろ最初の一手、“飛車先の歩を突く”命令を出した。これは王将ともすでに決めてあることだった。
 「まあ、頑張れよ。ただし、俺の足を引っ張らないようにな」
 歩兵が足を踏み出そうとしたときだ。何を思ったのか、急にこっちに振り向いて言いやがった。
 「一つ聞きたいことがあるのですが」
 「何だ? 小便ならもう無理だぜ」
 よっぽど殴り倒してやろうかとも思ったが、これからコイツには頑張って死んでもらわなくちゃあ、ならねえ。残りの人生を俺の邪魔にならないように精いっぱい生きろよ。
 「いえ、そうではありません。それは出陣前に済ませましたから。それよりも、ルールの違いについて聞きたいのです。今回は、持ち駒が無いというのは本当ですか?」
 「ああ、そうだな」
 「では、いつものように捕虜になるのではなく、死んでしまうということですか?」
 「ああ、そうだな」
 「やはり、飛車先の歩というのは死にやすいですか?」
 「ああ、そうだな」
 死にやすいどころか、確実に死ぬぜ。それにしても、さっきからゴチャゴチャうるせえヤツだな。俺の気が短い、て知っててわざとやっているのか?
 いくら命が惜しいからってこれ以上ゴネたら半殺しにしてでも前に進ませてやる。
 「では、天国というものがあると思いますか?」
 「ああ、そうだな」
 もちろん、青天井の上にはお前専用の天国があって、そこにはお前の死んだお袋でもいるんじゃねえのか。三途の川を渡って彼岸花が咲いている川原で手を振っている。んで、天国の家に帰ったら、もしそのお袋さんの気がきくんなら、おはぎの一つでも作ってくれるんじゃねえのかな。そのお袋さんの顔を俺は知らねえけどよ、心配なら一応天国に手紙を出してやってもいい。『もうすぐ息子さんがそちらへ参ります』てな。だから、もし言い残すことがあっても安心して出陣していい。それとも――
 「この俺を怒らせたいのか? とっとと先に行きな、雑兵ヤロウ」
 そうすりゃ、もう永遠に喋ることもなくなるだろうね。

 それじゃあ、お望みの天国までブッ飛んでいくがいいさ。
 歩兵は懐から拳銃を取り出すと、日本酒に漬けたクソのような臭いを吐き出す、飛車の口腔めがけて引き金を引いた。
 弾丸は飛車の後頭部の兜を突き抜け、地面に脳漿をばら撒いた。時間がたてば、きっとこの血溜まりにも草が生え、木が育ち、実を結ぶのだろう。だが、一つだけ確実に分かることがある。
 もし、今晩歩兵が酒を飲むとしたらそれは極上に美味いということだ。天国の母にも飲ませてやりたいくらいに。

 パーンと乾いた破裂音がしたかと思うと、銀将の目の前で、砂埃を上げて赤備えの飛車が馬から転がり落ちた。目は驚きに見開かれたまま、真っ青な晴天を見上げており、半開きのままの口はそこに神か仏がいるとでも言いたそうだった。
 飛車が乗っていた馬は、その破裂音を聞いても相変わらず敵陣の方を眺めながら、微動だにしない。銀将は飛車の消えゆく瞳の光芒を眺めながら、微動だにできない。
 こんなに動けないのは『銀ばさみ』を喰らったときくらいのものだ。
 こいつはマズい、非常にマズいぜ。
 しょっぱなから攻めゴマが消えた。そして、それは銀将にとって出世街道の消滅も意味する。中途半端な能力しか持たない銀将にとって飛車のお伴をしなければ攻めには活躍しづらい。といって、守りでは金将のお伴をしなければ受けにならない。
 とにかく、まずは飛車が本当に死んでしまったのか確認しておかなくてはならない。できれば、これがあぶみか何かの事故でありますように――そう祈りながら飛車に近づこうとしたときだった。
「妙な動きはやめてもらおうか。いくらなんでも、天国までお伴するのはキツいだろう?」
「ああ、そうだな」
 歩兵に拳銃を突きつけられては手も足も出ない。しかも、ことここに至って歩兵の反乱は将棋の陣営全体に衝撃を及ぼしつつあった。
「まず、武器を地面に置くんだ。ゆっくりとな」
「分かった。言うとおりにするから、絶対に撃たないでくれ、な?」
 恐怖で石のように硬くなった関節を無理やり動かして、ゆっくりと地面に方天戟を置く。
「そこのお前もだ」
 銀将が完全に地面に武器を置くのを見てから、歩兵は金将に銃口を向けた。
「こんなことをしてただで済むと思うなよ」
「別に許してもらう気はハナからないさ。ただ、俺は飛車が心底許せなかっただけだ。それに、飛車を許すお前ら支配階級も。お好きにしなよ。ただし、俺は躊躇なく引き金を引くぜ」
「人にはそれぞれ我が身にあった身分がある。今はその強力な武器のおかげで何とかなっているが、それがいつまでも通用すると思うなよ」
「下らないお説教をしている暇があるのかい? こうしている間にもチェスはこっちに向かって進軍中なんだぜ。その上、やつらは俺のように武器を捨てろと言うほど慈悲深くはない。問答無用で皆殺しにするだろうね」
「このままで済むと思うなよ」
 金将は渋々、自らの魂とも言える刀を地面に置いた。
「よし、そのまま両手を上に上げろ。頭より下に降ろしたら、容赦なく撃つ」
 二人は、言われた通りにした。

 やっとここまでたどり着いた。盤上で言うところの金将の頭。王将を射程範囲に収めつつ、金将と銀将を同時に威嚇できるスポット。
 王将は今日も能天気でアホそうで、何の悩みもなさそうな、白くて丸い顔をしてそこに鎮座していた。歩兵は王将に銃口を向けなおし、金将と銀将の動きにも注意を払っていた。
 さあ、ここからが正念場だぜ。この馬鹿殿からいくら年貢をとり返せるか、腕の見せどころだ。

 両手を空に向けながら銀将は、この歩兵は最初思っていたよりまともな精神の持ち主だと思った。少なくとも、気違いの殺戮狂ではない。どうやら、言うとおりにしていれば無理にこちらの命を奪うようなことはしないだろう。
 しかし――もはや存在さえ忘れ去られようとしている、仰向けに寝転がったままの飛車の死体を見て思う(あの馬、まだじっとしてやがる。人間より勇気があるな。それとも、ただ単に馬鹿なだけか?)――相変わらずヘヴィな状況に変わりない、と。
 チェスにはルークという、飛車と同じ働きをする駒が2枚もある。その上、角と同じ働きのビショップも2枚。極めつけに、飛車と角行を足した動きをする、最強の駒クイーン。
 竜王や竜馬がルーク二枚、ビショップ二枚に匹敵するとして(実際は無理だろうが)それ以外の駒で守りを固めつつクイーンを圧迫してゆく――そんな戦略を将棋側は描いていたが、まさか初手で飛車がいなくなってしまうのは誰にも予想できなかったことだろう。しかも、それ以上に厄介なことは、歩兵の反乱によって陣営が動揺しており、満足な駒組みさえ全くできていない状況だ。もう、チェス側はいくつかのポーンを動かして駒の機動性の確保を進めている。
 歩兵の強力な例の拳銃があれば十分に逆転できるだろうが、それでも動揺を早く鎮めないことには埒があかない。いくら強力でも、一人でチェス全軍を相手にできるものではないからだ。

 「よく歩兵ごときがここまで移動できたものだな」
 王将は銃を持った者を目の前にしてさえ、王者としての威厳を保ちながら、悠然とした口調で言った。
 「今はもう歩兵じゃない。反逆者だ」
 暗君とはいえ、やはり王が放つ気は歩兵には不快だった。それにしてもこの態度、父親が子供をたしなめるような、いや、犬でもしつけているかのような口調――苦境に立たされたことがないので、自分がどのような状況に置かれているか把握できないでいるらしい。
 少々、手厳しい教育が必要だな、こりゃ。

 ふぅ~、全く気が滅入るぜ、これじゃあ。両手は頭上、武器は地面。ちょっとでも動いたらすぐに撃ち殺す気だ。だからと言って今までで最悪の気分って訳でもない。出世のためなんで、仕方なく上手くもないゴマすりをしてきたが、飛車は死んで当然の筋肉馬鹿だった。あいつにとって歩兵とは、まさに使い捨ての駒に過ぎなかったワケだ。他人の命で買った功績は、いつか利子をつけて返さなきゃならない。歩を笑うものは歩に泣く。因果応報、自業自得。そのことを知らないと、いつかはああいう惨めな結果が待ってる、ということさ。だから、俺は歩兵に対して軽い同情とうか、共感というか、その二つが入り混じった感情を抱いている。たかだか一兵卒をここまで追いこんでしまうこの国の政治。いつの時代でもそうだが、支配階級ってやつは腐ったミカンのように無能なくせに、樹の養分の大半を持っていってしまう。
 この歩兵の政治思想、信条がどんなものかは全く知らないが、もし俺がこの銃を手にしたとしたら、この国の支配階級ではなく、敵軍に対して使っただろう。そうすれば出世間違いなしだからだ。
 俺だって、昔は理想に燃えていた時期もあったさ。だが、年月が経つにつれて国を変えることより、いかにして国に取りいって甘い汁を吸うか、そのことだけしか頭にない下衆野郎のひとりになっちまったのさ。そんな俺には、王将に銃を向けることなんてできないだろう。たとえできたとしても、手はブルブル震えて標準は定まらず、膝は登山直後のようにガクガク笑い、きっとからだじゅう冷や汗だらけだ。顔はなぜかこっちが『頼むから許してください』ていう表情なんだろうな。
 だが、この歩兵はそんな根性のない俺とは違った。王将に銃口を向ける手は何の震えも起こしていない。晴れた日の中、汗一つかかずに平然としている。
 おもわず横に『銃を持つ歩兵の木像』てタイトルを入れたくなるくらいだ。ただ、本物の木像と違うのは、そいつの人差し指はたまに動く、ということだった。何の躊躇もなくな。

 晴天の下、またもや乾いた破裂音が響き渡った。
「まだ痛いとかいうんじゃないぞ」
 太ももの銃痕を押さえてうずくまる王将に、お経でも読み上げるような口調で語りかける。事実、陣傘を頭にかぶっている歩兵の姿は、どことなく旅の僧侶に見えなくもない。
「俺たちが受けた痛みはこんなものじゃない」
 落ちた薬莢がコロコロと地面を転がり、高貴な血溜まりの中に落ちる。
 「余に……余に、こんなことをしていいと思っておるのか……」
 「思ってるに決まっているだろ。だから引き金を引いた。天国(何てものがあるのならね)の愛人のところに行きたくなかったら、今から言う俺の要求を聞いてもらおう。まあ、天国に行くのがどうしても待ちきれないというなら、すぐに送って差し上げますが」
 「う……くぅ……」
 「言うぞ」王将のうめき声を無視して続ける。
 「まず、このくだらない戦争を終わらせろ。そして、国に帰ったら三年間の租税免除と飢餓救済のための兵糧庫の解放を要求する。反論、異論、譲歩はいっさい認めない」
 「もし、断ると言ったら……?」
 「お前を殺して、俺がさっき言ったことを実行するまでだ」
 「余の代わりに王になろうというのか?お前に王が務まるとは到底思えんが」
 歩兵は王将の傷口を思いっきり蹴った。
 「ぎゃああああ!」
 「まだ痛いとかいうなよ」
 そういう歩兵の心中には怒りが渦巻いていたが、顔面の筋肉が作る表情は笑顔としか言いようがなかった。
 「俺は王位になんてこれまでもこの時もこれからも、全く興味なんてないんだ。俺の望みは、ただ故郷で残った家族と平穏に暮らしたいだけなんだ。だから、こうしてお前に最後のチャンスをやった。もちろん、『いいえ』と答えてくれることを願っているがね。そうすれば躊躇なくお前を殺せるからだ」
 この土臭い呑百姓め。手足を切り落として肥え溜めに落としてやる――そうは思ったものの、今の王将にはなす術がない。考えをまとめるために歩兵からそらした目線が、両手を上げている金将と合った。

 ついにやりやがった!王将もあわれといえばそうだが、正直自分でまいた種だから仕方ない。民の生活より自分の女の墓造りを優先したんだからな。あんなデッカイ古墳みたいな墓を造ってタダで済むと思っていたのが間違いだ。つまるところ、そんなに悲しいのなら、手前一人で悲しんでいろ、てことさ。
 だが歩兵の直訴がそうそう容易く聞き遂げられることはないだろう。それだけの心の広さがあれば、そもそもこんなことにはならなかったはずだから。

 王将はいつだって金将のことを信頼してきた。だから、いつも自分の傍に置いてきたし、その分、金将は王将の盾となって命懸けで守ってきた。信頼が深まると、互いの心の中をより簡単に相手に伝達することが可能となる。わずかな仕草や表情――金将の無言の言は『とにかく時間を稼ぐように』だった。
 長期戦になれば、必ずその間に何らかの隙が生まれるはずだ。

 その時、俺はふと金将と目があった。
 俺はすぐに金将の無言の言を察した。どうやら、王将が時間を稼ぐようだから、その間に隙を見つけて二人で同時に攻撃を仕掛けようという作戦らしい。
 冗談じゃあない!
 お前は給料を金貨で貰ってる。だから金将だ。俺は今まで給料なんて錆びた銀貨でしかもらったことがない、ただの雇われ兵だ。
 いくらうまく隙をついたところで、武器を拾って叩きこむまでの間に一人は撃たれるだろう。確率は2分の1。命の半分と錆びた銀貨。どうやったって釣り合わない。まあ、ここでこの作戦がうまくいったとして、そして俺が何の偶然か撃たれることなく、うまく生き延びれたとすれば、その時はご褒美の一つでも出るのでしょうが。
 重傷を負った暗君と反乱を起こした歩兵――果たしてどちらに味方するのが得か。王将にはたっぷりと考える時間を稼いでもらいたい。

 「そなたの言いたいことは分かった」
 ようやく、流れ出る血の量が少なくなってきた。
 ここからが勝負どころだと王将は思った。とにかく、のらりくらりと相手の要求をかわさなければならない。
 「確かに、民の生活が苦しいことを、余は見過ごしてきた。余のせいで民が苦しんでいると言うのなら、そなたの要求も受け入れねばなるまい。まず、一つ目の租税の免除だが、流石に余の独断ではどうしようもない。それについては地方の有力者を集めてから合議の末決めていくしかないだろう。中には、隣国の王に寝返る者も出るかもしれんが、そうなるとそこの領地は余の国の支配ではなくなるから租税の免除についても如何ともしがたい。これは兵糧庫の解放についても言える話であって、領主が離反すればこれはもうどうしようもない。余の領民ではなくなるのだからな。最終的なことは今から城に戻って主だった大臣との話をして――
 パーン!
 王将の話を例の音が叩き割った。銃口の先には、額の穴から血を噴き出している金将の顔があった。そのまま後ろにどう、と倒れこむ金将。
 「余計な時間稼ぎをするたびに、一人ずつ殺す。お前は『はい』か『いいえ』で答えるだけでいい。分かったか?」
 「はい」「それでいい。じゃあ、続けて訊く。俺の要求を飲むな?」
 「はい……だが、兵糧庫の鍵を持っているのは別の大臣だ。彼を説得して鍵をもらうのに少々時間がかかるかもしれん……」
 「あぁ、別にいいよ。俺はその努力を積極的に評価したいね。それに、もしゴネたらコイツに喋らせてやればいいさ」と言いながら拳銃を示す。
 「さて、これでメデタシ、メデタシ、といきたいところだが、残念ながらその前にやって欲しいことがある」
 王将は『それは何だ』と言いかけたが、「はい」と「いいえ」しか言ってはいけないので、敢えて黙っていた。
 「チェスとの講和だ。さすがにこればかりは、王たる者が行かないと話にならないからな」
 「もちろん行くが、足を怪我している……向こうに着くまでに時間がかかってしまう……」
 「それなら心配はいらない」
 地面にはまだ飛車の死体が転がったままだった。
 「やつの馬がある。それと、遠足に必要のない余計な荷物を預からせてもらおう」
 歩兵はそう言うと王将の身分を示す宝剣と指揮権を示す鉄扇を取り上げた。

 「うまくいくと思うか?」
 足をかばって馬に乗って行く王将を見守りながら、銀将が言った。すでに手には方天戟が握られている。もはや、歩兵は完全に王将の指揮権を奪い去ったからだ。
 「それは、あいつの頑張り次第だ」
 歩兵がどうでもよさそうに言った。
 「もしうまくいかなかったらどうするんだ?やっぱりその銃でやっちまうのか?」
 「それはその時考えるさ。まあ、当面の利用価値を考えて生かしておこうとは思っている」
 銀将はそれは絶対嘘だと思ったが、やはりどうでも良かった。今は、このチェスとの戦いから生きて帰ることだけが唯一の関心事項だ。
 そんなことを言っている内に、王将はみるみる小さい点となってすでに視界から消え去ろうとしていた。
 自分がチェスのキングだったら、と銀将は自問自答してみる。自分だったら――この講和を受け入れたりすることは絶対にありえない。敵はもはやガタガタなのだから、今ここで攻めれば確実に勝てる。チェス側が考えることは、後は如何に犠牲を少なくして勝つか、という一点に尽きるだろう。そして、古来から失敗した使者がどのような末路を辿ったかを思い出すと――王将の命すら危ぶまれる。だが、銀将の心の中には同情や憐みの念は全く湧いてこなかった。今まで“棒銀戦法”などという、都合のいい作戦で使い捨てにしてきた人間に、そんな感情など持てる訳もない。
 王のこれからの命運がだいたい読めたところで、銀将は王が帰ってくるまでの間に、歩兵に訊きたいことがあったので話かけてみた。
 「アンタのその銃、一体どこで手に入れたんだ?まさか、自分で作ったわけでもないだろうし」
 「もらったのさ」
 歩兵は朴訥と語り始めた。お経でも読み上げるような調子で。

 そうやって飛車の鉄拳制裁の後も、俺は一人で黙々と墓造りの楽しい工作を続けていた。だが、始めたときすでに夕暮れ時だったから、始めて一時間もたたない内に回りは真っ暗になっちまった。そうなったらいくら楽しくてもその日の作業はお終い。きっと、飛車はこうなることを見越してたんだろうな。こういうところだけ知恵がありやがるからな、あの酒飲みダルマは。
 そんなこんなで、俺がその日の作業を諦めようとしたときだった。振り返ると、そこに一人の中年の男が立っていた。どうやら、俺の楽しい墓造りを今までずっと見学していたらしい。もちろん、村人じゃあない。村のやつらも、自分の作業だけでいっぱいいっぱいで、他人の残業に構ってる余裕はない。おそらく、飛車の脅しなんかなくたって手伝う奴なんていなかったと思う。
 だから、この月明かりの下にたっている男は村の者ではないことは、確かだった。では外国人か?それも違う。俺たちと同じ人種だ。それより、何のためにこの男は今までここにいたのだろう?物取り?あり得ない。飢え死しかけている人間から盗れるものなど命くらいなものだ。それも消えかけのロウソクみたいにチャチなやつだ。
 男はまだ黙っていた。
 あと考えられることは、新興宗教の勧誘ぐらいか。だが、男の言ったことは少し違った。
 「この国の政治を変えたいと思うか?」
 こいつは新手のテロ集団か?俺は突然の問いかけに少し戸惑ったが、別に答えるだけなら特に不都合なことはないだろうと思って言った。
 「ああ、変えたいね。そうすりゃ、こんな他人の墓造りなんてしなくて済むだろうからな」
 「なかなかきつそうな仕事だな」
 男は言った。
 「ああ。でも今日はこの辺で終わりにしようと思っている」
 月明かりがあるとはいえ、あたりは暗くて作業なんてとても出来たもんじゃない。だから、土台となる石組の石材だけ近くに運んでおいて、残りは明日の夜明けすぐにでも始めようと考えていた。どうせ飛車の奴は酒飲んでベロベロに酔っ払って遅れるんだろうから。
 「できたら、少し話でもしないか。一人は寂しくてね」
 こいつが何か危害を加えてくる気配はなかったが、用心するに越したことはない。
 「そうしたいのは山々なんだが、あいにく俺は疲れているんだ。疲れたが意味するあらゆる意味において、だ」
 これは本当のことだ。体よく断るには本当のことをいうに限る。
 「明日の朝早くから続きの作業が残っている」
 「そうか。それは残念だ。非常に残念だ」
 意外にも、あっさりと諦めてくれたようだ。
 これで、後は家に帰って倒れこむように眠るだけだ。
 「体には気をつけるようにな。また話をする機会を望んでいる」
 そう言い残し、男は闇の中へ消え去っていった。
 体に気をつけて、か――母親みたいなことを言うやつだ。それが本心か社交辞令かは知らないが。

 その翌日、俺は何とか日の出前に起きることができ、(こういうのを奇跡っていうんだろうね)日の出きっかりに現場に着いたのだが、そこに待っていたのは眼を真っ赤に腫らした飛車の姿だった。(どうやら、向こうにも奇跡が起こったらしい)
 後は話すまでもない、お決まりの展開さ。殴る蹴るの暴行。
 最初は、俺の朝早く起きる作戦を読んだのかと思ったが、どうやら徹夜明けで酒を飲んで、ひと眠りする前に昨日言ったことを思い出して見に来たらしい。そういう所だけ妙にしっかりしてやがるんだよなぁ、このアルコール馬鹿は。
 でも、その時の俺にそんなことを考えている余裕はない。飛車はただでさえ馬鹿力の上に酔っ払って加減も効かなくなっちまってる。腹に蹴りを入れられたときは、本当に死ぬかと思った。墓作ってる途中で死ぬなんざ、とんだお笑い草だぜ。でも、そこに現れたのが昨日の胡散臭い中年男だった。昨日は暗かったんでよく分からなかったが、こうして見ると40代くらいだろうか。一目見ただけで、飛車の倍くらい知能指数があることが分かった。顔は厳しい表情だったが、飛車とは違って、今までの人生で培ってきた人格に基づいた厳しさだ。
 それでも胡散臭いことに変わりはなかったが、男は飛車に面と向かって言った。
 「この人が何をしたのか知らないが、そこまですることはないだろう」とね。
 当然、飛車も真っ赤な目をますます真赤にしてその中年男に詰め寄るんだが、そんなことでたじろぐ奴じゃあ、なかった。
 結局、激論の末――「これ以上やったら死んでしまうだろう」「なんだと? どこの誰か知らねえけどよ、勝手に口出しするのは止してもらおうか」「死んだら誰がその仕事をするんだ?」「代わりはいくらでもいる。なんなら、お前にやってもらおうか」――最終的には昨日の分も含めて今日がんばるということで合意に達したらしい。飛車としては、もう眠かったというのもあるし、大分殴ってすっきりしたというのもあるし、ロクな物も食べずに疲れきった農民が2日分の仕事なんて出来る訳がないと考えていたのだろう。このアルコール駆動のお馬鹿さんは、自分の快楽のことになると途端に知能指数が上がる。俺をより長く痛ぶれることを期待しながら、その日の現場監督の仕事を投げ出し、とっとと城に帰っていった。
 飛車の姿が消えると、今まで俺のことを陰ながら見守ってくれていた心優しい村人たちは、各々の作業場へ戻っていった。
「大丈夫か?しばらくは休んだ方がいい。だが、ここでは、場所が悪いな」
 確かに、墓の土台の上はよくない。非常に良くない。俺は男の肩を借りて近くの木陰まで移動した。時々吹く生暖かい風が切なかった。もうそろそろ夏は終わるというのに――太陽だけは相変わらず元気ハツラツと照り輝き、ひび割れた農地には本来あるべきはずの実りはなかった。
「ひどい国だな」男がそれを見て言った。
「ああ、全員死んでしまえばいい。死んでクソになってしまえ」
 「死体はクソではないだろう?」
 「同じさ。死体っていうのは弔う者がいてはじめて本当の意味での死体になる。少なくとも俺はそんな気がするんだ。みんな死んじまったら、全部クソになるだけさ」
 「なんとなく、分るような気がする」
 なかなか面白い、そして真実味のある理屈だ、と男は言った。
 「腹が減っているだろう? とにかく何か食べないとだめだ」
 男がカバンから取り出したのは金属の容器だった。密閉されたそれを、特殊な器具を使って切り開ける。
 「こんな缶詰しかないが、よかったら食べてくれ」
 それがシーチキンという名前だと教えてもらう頃には、缶詰はとっくに空になっていた。ここ数カ月というもの、枯れた木の根以外、口にしていなかった。まともな食事が十年ぶりくらいに感じられる。
 「もうひとつくれ」「ああ、あるだけ好きなだけ食べていい。だが、あまりがっつくと後で吐くかもしれん。特に、君はあれだけ殴られたのだから」
 話なんて聞いちゃいなかった。とにかく、目の前のものをただひたすらに食った。缶の淵で唇を切っても、かまわず喰らった。ただ、最後のひとつだけは妹のために取っておいた。きっと、俺のそのとき残っていた理性がちょうど缶詰ひとつ分だったのだろう――お前と同じくらい腹を空かせた妹が缶詰ひとつで足りると思っているのか?この阿呆め――なぜか空になった缶がそう語りかけてくるように感じたが、無視することにした――黙っていろ。家に持って帰って肥え柄杓にでも使ってやる――
 男は半ば安堵、半ばあきれた表情で俺の食いっぷりを眺めながら、
 「それだけ食欲があれば大丈夫だ」と言ったかどうか定かではないが、そんなことを言っていたような気がする。
 食べ終わると、俺はしばらくそのまま木陰に坐り込んでいた。
 食事はいい。腹だけでなく、心も満たしてくれる。
 相変わらず、村人たちは炎天下の中、延々と墓を造っていた。古墳のようにデカイ墓――アリ塚に群がる蟻のようだった。まるで、村人たちは自分こそがこの墓に入ると言っているようだった。
 「国だけではない。民もひどいな。これだけ痛みつけられた者がいて、誰ひとりとして声すらかけようとしないとは」
 「しょうがねえさ」
 人間、誰だって自分の身が一番かわいい。それに――
 「ここのやつらはたいがい、何らかの形で肉親を捨ててきたやつらばかりだ」
 「むごいな。いくら生きるためとはいえ」
 「俺の母親は口減らしのために自殺した。朝起きたら、どこにもいなかった。後で、山奥で死体になっているのを見つけた」
 「すまなかった」
 「アンタが謝ることはないさ。ここの人間は気付いただけさ。自分が生きていくには誰かを犠牲にしなきゃならないってな。要するに、人生いつも王手飛車取りってやつだよ。だから、誰も他人を助けたりなんかしない。助けたっていつかはそいつを犠牲にしなきゃ、自分が生きていけないからな」
 「悲しすぎる」
 「だが打つ手なし、諦めて言いなりのまま墓でも造るしかない。そうすれば、申し訳程度だが米が貰える。もっとも、それだって元は俺達の貯えを無理やり臨時税でむしり取っただけさ。しかも、作物は全滅したからこれ以外に生き延びる方法がない」
 「この国を変えようという気はあるか?」
 「桂の高跳び歩の餌食。変えたいのは山々だが、身の程をわきまえないと痛い目を見るぜ」
 男は立ち上がるとアリ塚の方を眺めて言った。
 「そろそろ作業に戻った方がいい。いくらなんでも間に合わなくなるぞ。腹一杯になった今なら、私の手伝いが無くてもできるな?」
 俺は黙ってうなずいた。男は去り際にこう言い残した。
 「投了する気がないのなら、昨日と同じ時間にここで待っている」
 しばらくの間、空を眺めていたが、すぐに楽しい工作に戻っていった。今なら、二日分の作業など余裕で片づけられるだろう。
 
 家に帰って幼い妹を寝かしつけてから(もちろん、持って帰ったシーチキンの缶詰は喜んで平らげた。唇の端を缶の縁で切りながら)、俺はしばらく考えごとをしていた。
 投了するか否か――だが、そんなことは実際のところ、考えるまでもないことだ。
 俺は妹の寝顔をもう一度確認して目に焼き付けたあと、約束した場所へと向かった。

 「コマンダーになって欲しい」
 男はそう言った後、少将だと名乗った。辺りはうすい月光で照らされていて、うっすらとだが地面にも木の影ができていた。
 「こまんだあ?」
 初めて聞く言葉だった。
 「そう。偵察兵のようなものだと思ってくれていい。君の仕事は、この国の内情を偵察しながら情報を集め、物資を集め、時には戦闘にも参加する」
 「アンタはどこからやって来たんだ?」
 「軍人将棋というゲームからだ」
 「要するに、アンタの持ち駒になれというわけだな。条件は?」
 「まず、君の生活の保障。そして、家族がいるなら家族の安全な亡命と当面の生活の保障。その代わり、君には命がけで働いてもらうことになるが」
 もう選択の余地はなかった。これで妹の命も助かるというなら安いものだ。
 「承った。俺は、今この瞬間からアンタのコマンダーだ」
 
 「それで、その銃をもらった、てわけか」
 銀将が言った。
 「ああ」
 その後何日か、少将がしばらく滞在している間に歩は昼間には墓を造り、夜には銃の訓練をした。もちろん、そんな短い期間に銃を使いこなせるようにはなる訳はないが、歩が銃の基本的な仕組みと使い方を覚えるのには十分な期間といえた。
 少将が次のコマンダーを探して立ち去って程なくして、妹は周りには死んだことにされた。この状況だから、村人のなかで特に怪しむものはいなかった。そもそも、他人の生き死により自分のことで精一杯だった。
 歩は、その後も相変わらず墓造りをしながら、別のコマンダーを匿ったり、物資を保管、運搬する仕事をしていたが、国が兵士を募ったので、この方がより内情を探れるだろうと思って志願した。
 そうして、軍内部の実情や城の内部構造などを書簡で報告した。
 そんなときに始まったのが、このチェスとの対戦だった。
 
 「帰って来たみたいだぜ」
 銀将が指した方向には、確かに飛車専用だった赤い馬が見えた。だが、行きと違って馬上の人間には首がなかった。
 馬が、さらにこちらに近づいてくる。
 「ひでえ奴らだな。まさか、ここまでするとは」
 無くなった王将の首は、彼自身の手元に抱きかかえられていた。
 銀将の前で馬が止まると、王将の首はそのままドサリと地面に落ちた。ころころと転がる生首。
 それを見つめていた歩兵と回転が止まった生首は、ちょうど目線が合った。
 赤い糸で結ばれた恋人どうしのように。それはもう、織姫と彦星のように。30年ぶりに再開した家族が互いを確かめ合うように。
 だが、いずれの場合とも違って、王将の眼球には早くもハエがたかっており、口の中には馬フンが詰め込まれていた。
 「手紙が入ってる」
 銀将がくしゃくしゃになった紙切れを拾いあげた。
 「読まなくてもだいたいの内容は分かるが」

“やあ、将棋の皆さん、元気ですか? 僕たちはとっても元気です。
今から皆でそっちに行くから、元気な悲鳴を上げる練習でもしといてね。
 P.S.そこの死んだ奴よりいい悲鳴を頼むぜ“

 本当に読むまでもなかった。
「奴ら、完全に俺たちを皆殺しにするつもりだ」
 今回ばかりは銀将の下らないゴマすりも通用しそうになかった。
 歩兵はしばらく考えてから言った。
「残った駒を集めよう。俺に作戦がある」
「そこの死んだ奴よりいい作戦を頼むぜ」
「当たり前だ。でないと、いくら銃を持ってたって、俺達全員あの世行きだ。とにかく、集めるのを手伝ってくれ」
「分かった。俺は角のおっさんに頼んでみる。あの人が来てくれれば、残りの駒は勝手について来てくれる。アンタは、他の歩兵や香車のじいさんを頼む。同じ志願兵なんだろ?」
 「ああ」
 短くそう答えて、歩兵はチェスの方を見た。もう、ポーンの戦列が間近に迫って来ている。早くしなければ――いくらなんでも、歩兵の銃の腕でチェス全軍を相手にするのは無理だろう。相手のビショップやルークが、飛車のときのように歩兵を近くまで寄せる訳がない。もし的を外した隙に自分が殺されたら――どうしようもない。将棋の投了。
 そうならないように、全力で考えろ、歩兵。自分で自分に言い聞かせた。

 将棋の陣の中では、歩兵を中心にして残りの駒が円陣を組んで取り囲んでいた。歩兵は王将から奪った宝剣で地面に布陣図を書く。
 これは――と角行は思った。斬新と言えばそうだが、防御という概念をかなぐり捨てた――良く言えば攻撃的、悪く言えば捨てバチの陣形。
 「確かに、攻撃力はありそうだ」
 残った金将が、角行の横から言う。
 「だが、これでは敵のポーンはプロモーションし放題に等しい。両端からプロモーションしたクイーンの群れに襲われれば、我らは牧場の家畜のように屠殺されるだろう」
 「もちろん、そうなる前に、俺が敵のキングの息の根を止める。俺の銃の腕は、正直言ってそれ程良くない。だから、まずは敵陣中央を香車の二段撃ちで突き破って侵入経路を確保、後はとにかく全員で成金を作ってなるべくキングの近くに拠点を築いてくれればいい。それと、一応この戦闘の指揮は俺が担当する。俺が考えた作戦だし、キングを殺すのも俺がやるからな」
 ほとんどの者は、期待と困惑の混じった表情で歩兵の作戦を聞いていた。その表情の下にあるのは、消極的な希望だけだ。王将よりはマシそうな指揮官だが、この作戦とて万全ではないし、うまくいく保証も全くない。
 まして、この作戦の要となる歩兵の射撃の腕も、百発百中ではない。王将と飛車は至近距離だからうまく行っただけで、実際どの程度遠くの的まであてられるのか、本人にもよく分からないのだ。かと言って歩兵よりうまく銃を扱える者はいない。
 結局、黙認という形で歩兵の作戦が採用され、指揮権も託されることが決定的になったときだった。
 「ふざけるのもいい加減にしろ」
 金将が歩兵の意見に食ってかかった。
 銀将はその様子をうんざりした気持ちで眺めていた。
 身分の高いものは、おうおうにして周囲の変化を見ようとしない。灯台もと暗し。いざとなったら、力づくでどうにかするしかないだろう。
「まず、誰がお前のような農民出身の歩兵に指揮権を認めたのだ? それに、この作戦はなんだ? 対局作法を完全に無視している! 話にもならん。中央からの香車の二段撃ち? 香車の位置は両端と、昔から決まっている!」
「金将殿」
 角行が静かに言った。
「もう、敵は目前まで来ている。時間がない。ここにいる者には、ルールや対局作法より守るべきものがある。お主にも家族がいるだろう? ここで我らが負けてしまえば、チェスは故郷の者にも容赦しない。
 分かってくれ。そして力を貸してくれ。お主も聞いたことがあるだろう。『金なし将棋に受け手なし』と。攻撃の中にも守りが必要な場面は必ず来る。頼む。今日だけでいい。力を貸してくれまいか」
 武術師範たる角行にここまで頼まれては金将もなす術がなかった。
 しばらく歩兵を睨みつけていたが、口を開いて言う。
「今日だけは恨みを忘れて一緒に戦ってやろう。だが、この戦いが終わったら、お前は王殺しの反逆者だ。ただで済むと思うなよ」
「ああ、望むところさ」
 それを受ける歩兵の眼には並々ならぬ気迫がうかがえる。
「俺が王殺しか何だか知らねえけどよ、お前らの圧政のせいで母は死んだ、村人も死んだ、そうやって俺達の心も死んでいった。お前こそただで済むと思うなよ。金色のウジ虫め」
 確かに、金将の兜は金箔で装飾がなされていた。兜に銀箔が張ってあるわけでもないのにそう呼ばれている銀将は、この歩兵なら案外大丈夫なのではないか、と思い始めていた。これだけの執念があれば、大抵のことは何とかなってしまうものだし、この作戦も相手の意表を突く、という点においては効果大だ。
 それに、将棋の陣営にはもはや守るべき王将もいない。
「さあ、もう時間だ」角行が歩兵にそう告げた。
「最後に、皆に言っておくことはないか?」
「ひとつだけある」
 歩兵は銃を掲げると、口から銃弾でも吐き出すように言った。
「くだらないゲームはもうおしまいだ。これは戦争だ」

 銀将は、今までに無いほど緊張していた。飛車の力を借りず、己一騎で敵陣に突っ込んでいく――それが栄光を意味するのか、破滅を意味するのかは分からないが、もう少し時間が経てば、すぐに分かることだろう。
 銀将の隣りでは、老兵の香車が呑気そうに昔の歌を唄っていた。
 掌が汗で湿ってきたようだ。方天戟をぎゅっと握りなおす。
 香車は、もうすでに視力を失くしてした。だから、真っ直ぐにしか進めないが、その分何の恐怖もなく突き進んでゆくことができる。
 いっそ、香車のようになれたらいいのに――銀将がそんなことを考えていると、歩兵が例の飛車専用だった赤馬を引いてやってきた。
「よう、あともう少しで出撃だな。それにしても、今頃そんな馬引いてきてどうするつもりだ? アンタ、馬にでも乗るのかよ?」
 陣傘の下の口が少し笑った。
「いや、もう一つ秘策を思いついたんだ。この策の発動とともに、戦闘開始だ」
 歩兵は、赤馬(戦場で血を浴び過ぎたかと思うくらい赤かった)を香車の前に引き立てると、火打ち石を取り出し、松明に火をつけた。
「心の準備はできてるか?俺はできてる」
 銀将は笑った。いつの間にか手に入り過ぎていた力が抜けていた。
「ああ、俺もできてる」
 いつかまた戦場に立つことがあるだろう、と銀将は思った。わずかな銀貨のために、また下らないゲームに参加して、命がけで這いずり廻ることもあるだろう。それでも、もしコイツと一緒なら、何とか乗り切れそうな気がする。そのためにも、絶対生きて戻ってこよう。
「ふぉ、ふぉ、ふぉ、ワシらも準備万端じゃぁい!久々に大活躍して見せまするぞ」
 香車が意気込む。
「行け!」歩兵は号令と共に、何も知らない馬の尻に火を放った。
sage