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   序章


 私は、咲谷早百合という幼なじみを反吐が出るほど嫌いだ。あれほど人を嫌うという行為自体、私、藤江怜華という女がこれからの生涯を暮らしていて、絶対ないと断言できる。
 今、振り返ってみると、もっと早百合のことを理解し、まっすぐに向き合わなかった事、それ自体が後悔に蝕まれる。
 先ほどとは若干矛盾しているのだが、私は早百合のことを羨望の対象として見ていた節がある。もちろん、そこには嫉妬が心の根に張り付いている。
繊細に梳かし抜かれた腰まで届く艶々としたロングストレートの黒髪には、美人だと自負している私を含め、誰であろうと女性としての優位の負けを認めざるを得ない。つまりは容姿端麗なのだ。欠点と言えば、早百合は、咲谷組という暴力団の組長の一人娘であるという事だけだ。
 では、私がどうして、そんなに早百合を嫌う必要性があるのかという点。結局のところ、早百合は私の事を歪な形で愛し、純粋に愛し切れなかった……複雑怪奇で申し訳ないが、そういうことである。

 中学一年生の春、文芸部の部室で、私を含め、同級生である、早百合、美由希、麻里亜の四人は部誌に掲載する内容を決める会議をしていた。
「やっぱり、最初の部誌だから、『初めて』をテーマにしたいなぁ」
「爆弾発言きたわね。思春期の女の子だけしかいないんだから、自重しなさい、変態麻里亜」
「あはは……は? 怜華さぁ、部を創設したのは自分だからって、浮かれているのなら、殺すわよ」
「そっちこそ、今日の今から、背後に気をつけたほうがいいわよ。誰かが、包丁で後ろからあなたの背中を切るかもしれないからね」
 その時、私はいつもの悪ノリを悪友と共にしていただけだった。ただ、それだけだった。それなのに……。
「痛い! 何よ、早百合。引っ掻くのは止め……え?」
 途端に甲高い悲鳴が、どこからともなくあがった。私はというと、とんでもなく異常な世界に迷いこんでしまったかのごとく、冷や汗を流し、ただただ立ちすくんでいた。
早百合が、麻里亜の背中をポケットナイフで、指揮棒を扱うかのように、目の前の一点を対象に切り裂いていくのを、私は見ていることしか出来なかった。
 少量ずつにじみ出てくる血が、部室の吸収性の良い木目の床を赤黒く染めていく。
「止めて、早百合! 止めて、止めなさいよ!」
「うん。止めた。でも、なんで? 怜華の為を想って、私はこの薄汚い女を切り裂いているのに。あ、それとも、包丁ではないと駄目だった?」
「何を……」
「私はね、怜華。あなたを愛しているわ。あなたが他の誰かに殺められるくらいだったら、私が殺してあげる。どう? 素敵だと思わない?」
「……あなたが言っていることはね、利己的な狂人さの中でも群を抜いた発言だわ。いや、分かるわ。あなたが時々、冷静判断を失う、というのを。でも、今回ばかりは許されないのよ。人を刃物で傷つけたのよ? 第一、私のどこが良いのか……」
「怜華のいいところはね……家に帰ると、まず、自分のベッドの匂いを嗅いで、満足そうに微笑むところ。トイレで用を足す時に、いつも、胸に手を当てて、深呼吸をしているところ。他は……」
 私は今にも卒倒しそうになりつつも、恐怖と怒り、裏切られた悲しさ、恥辱に支配された状態で、早百合から一歩下がり、離れた。
「どうして、私から離れるの? こんなに、怜華の良さを述べているのに……まっ、いっか。私が、怜華のことをどれだけ、愛しているのかを理解してくれたから。じゃあ、またね。私の愛しの怜華……」
 早百合は、美由希に介抱を受けている麻里亜を一瞥してから、ひっそりと部室から姿を消した。
「何、あれ……。ストーカー? ていうか、私の背中、どうしてくれんのよ! もう駄目、この傷、残るかもしれないわ。ほんと……怜華?」
 私は、部室の扉を開け、そのまま、全速力で階段を降り、校舎から抜け出て、家へと帰る一心で駆け出した。
 呼吸困難になっても、コンクリートの道路に転んでも、私は走り続けた。
 やっとの思いで、自宅へ戻り、誰もいない家の中を這いずり回って、隠し撮りされていないか、家中を隠しカメラがないか、探し出す。
 二時間は経っただろうか、テーブル上には、実に五十台余りの隠しカメラがずらりと並んでいた。そして、『怜華へ 私の愛、見つけてくれたかな? 早百合より』という一枚の紙切れも……。


その後、私たち三人は、この早百合との件に対し、隠ぺい工作を取り図った。
幸い、部室付近に人はいなかった。悲鳴をきいて、警察に通報をした生徒からも、現場に足を踏み入れる勇気はなかった様子だ。
事情聴取の際、警察官には、こう供述した。
背後から、ショートヘアの黒髪の女子生徒が、一人で部室に残っていた麻里亜に対し、ポケットナイフで襲撃を図り、そのまま逃亡。
あわてて逃亡してゆく、女子生徒だが、その場面を私たちが目撃……そんな様なシナリオを演技的に振る舞い、そのまま未解決事件へと……ならなかった。
不思議なことに、嘘というものは、いずれ発覚するし、発覚すれば、多大な代償を支払うこととなる。
警察の捜査により、私たちの証言は、嘘と断言された。学校、警察側は、集団で嘘の証言をした事に対し、私たちを責めたりはしなかった。
ただ、暴力団の一人娘である早百合が発端だと言うこと。それについては、面倒なことをしてくれたとばかりに、私たちの顔を一人一人見遣った。早百合を除いて。
 早百合はというと、校内暴力のため、一週間の謹慎処分が下された。逆に言えば、たったそれだけの処分だった。
余談ではあるが、文芸部は数ヶ月も経たないで、廃部となった。
 その後、私は、解離性同一性障害(多重人格)という精神病を患った。
これで、私が早百合を嫌いになる経緯をお分かり頂けただろうか。もう一度言うが、私は、早百合を反吐が出るほど、嫌いだ。
 そんな、私と早百合が入り乱れる、嘘偽りのない混沌とした実話を、私は筆に書き下ろした。心境はというと、大罪を犯しているかのようだ。なぜなら、この話を言葉にするという意味を、私は心得ているのだから……。


第一章 始まり=終わりという破滅への近道


「ほら、そこ逃げた!」
「みゆ菌を捕まえろ~」
「いやっ、離して!」
 私は気分が非常に優れていなかった。なぜなら、今朝の六時から頭を鐘突きされていると錯覚するくらいに、頭痛が酷かったのだ
原因はというと、荒れ果てた三時限目の体育の時間に、クラスメートの美希が、友人である美由希に対し、他のクラスメートを主導していじめているからだ。しかも、よりにもよって、私が、頭痛で苦しんでいる際に……。
「ほら、捕まえた。菌はアルコールスプレーできれいにしないとね」
「嫌だ、やめ……」
 ここで美希達の間で一笑が巻き起こる。なぜなら、美希がアルコールスプレーを美由希の身体に吹きつけたからだ。
 ここで私の何かが砕け散った。
「皆、酷い……酷いよ」
「あはは、菌は喋るなよ。……ん? どうしたの、怜華様。そんな苦悶な顔しちゃってさ。女の子の日が、そんなに辛いのかな」
「……私の目の前で、今日から美由希をいじめないでね、腋臭さん」
「あは……今、なんて言った?」
 私は、体育館が一斉に静まるのを肌で感じ取った。
それはそのはず、美希といえば……家庭内暴力・学校内でのいじめの主犯格・未成年での飲酒喫煙、その他、数々な悪事を犯し、警察のご厄介になっている、超問題児だからだ。
なおかつ、私立武蔵百合ヶ丘女子高等学園二年一組を取り仕切る(悪い意味で)生徒でもある。
そんな輩に挑発した私も、この時点で狂っているとさえ、言えるだろう。
「腋臭って、ご存じない? 脇や股の間がイカの匂いみたいに臭くなることよ、美希」
「……知っているわ、そんな事。で? それが私と、どう関係しているのかなぁ? ていうか、怜華、てめえは何が言いたいの?」
「鈍いわね。頭の回転が遅いらしいわね、あなた」
「ぺちゃくちゃ言ってないで……」
「あなた、美由希を菌呼ばわりしているけど、本当の菌は、美希。あなたなのーー」
 その瞬間、先ほどの頭痛が、毒をもって毒を制すかの様に、美希が両手で投げた、バレーボールの球が、私の額に打ちつかれる。それを機に、つい先ほどまで、私と楽しげな会話をしていた生徒までもが、次々と私の身体に乱暴にバレーボールの球を投げつけ始めた。
摩擦で千切れたのだろう、私の口の中に、自分の髪が入るのは、何とも言いがたい不快感だった。
やがて、美希は、私に制裁を下すのに飽きたらしく、「じゃあ、休憩は終わり~」と、穏やか気に事を終わらし、教師の下へ、授業を再開する趣旨を伝えた。
私はというと、全く、穏やかな気分でもないし、身体のあちらこちらに、軽い、摩擦・打撲の傷を負ってしまった。早く、この一日が終わればいいのに、そう私は、強く念じた。
 練習を再開する直前、美由希がさりげなく近づいて、私の耳元で、「ありがとうね」と、微笑んだ。私は、愛想笑いを演じて、美由希に応える。
 そんな私たちを、意味ありげな眼差しでねめつける、早百合の視線を無言で受け取った。
 その視線の意味を完全に知りえたのが、翌日の深夜だった。

 翌日の深夜、早百合からのメールを受信し、ざっと目を通した頃には、午前二時四十分を回っていた。
メールには、『どうしても怜華に話したいことがあるから、武蔵公園まで三十分以内に来て。これ、秘密の会合、ね? そういえば、午前零時以降に女の子同士で出歩くのって、不純異性交遊をするみたいで、もしかしたらーー省略ーーとにかく、重要だから遅れないように。そんでもって、ちゃんと所持金は用意して……あ、やばい、書いている間に時間が過ぎているし……じゃあ、ノシ』そういつもの早百合のメール文用だった。
メールを確信した後、すぐさま、パジャマを脱ぎ捨て、明日の朝に着る予定であった、白色のTシャツの上に、冬をイメージとした、愛くるしい雪だるまが描かれているパーカーと、ジーンズを着て、家からそっと抜け出た。

季節は、冬。外気は、凍えるような寒さで、大気を切り裂く冷風が深夜の街をにぎやかにしていた。
 自転車で漕ぐこと、十分余り。私は、大規模クラスの、広大な面積を持つ、武蔵公園に到着した。私は、自転車を適当に停め、辺り全域を見渡した。案の定、既に、いつもの顔ぶれ、早百合とそのボディーガードである、龍二さんの二人がベンチでくつろいでいた。
「お、来なすったか、怜華ちゃん」
「こんばんは、龍二さん。相変わらず、無精ひげが目立っていて、不審者っぽいですね。それとも、暴力団の若頭はこうでなきゃ、務まらないのかしら?」
「はっ……相変わらず、懲りねえ口でらっしゃるな、怜華様」
 龍二さんは、咥えていた煙草を指で器用に持ち上げると、砂利の上に落とし、綺麗な革靴で火を揉み消す。
「怜華……」
「早百合ね、あなたは礼儀ってものを知らないのかしら? いくら私が、わがままが通る友人だからって、そうやすやすと、深夜の二時過ぎに起こされてたまるものですか」
「そう、そのことで話がしたかった」
「何よ、どのこと?」
「怜華……真面目な話、私を見捨てて、美由希の所へ行くつもりなのでしょう? 私から、美由希へ乗り移る気でしょう? ねぇ、どうなの! 私が悲しむのを、怜華は見て、楽しんで、私を辱めて、私を自殺させる気なのでしょう?」
 私は、あともう少しで失禁を犯すところだった。背筋が泡立ち、冷や汗が額から流れ落ちる。顔色も青ざめていたのかもしれない。
「あのね、早百合。冷静に私の言葉を聞いてほしいの。良い?」
「……うん」
「早百合は、同性愛者なの?」
「違う。無理やり、お医者さんに診てもらったけど、同性愛者じゃないって。だから、違う」
「だったら、なんで……あなたが、昔、麻里亜をポケットナイフで怪我させた時にも、言っていたけど、私のこと、本当に好きなの?」
「好きじゃないの、怜華を愛しているのよ。ただ、それだけ。どれくらいっていうと……」
 怜華を剥製にしたいくらいに、と、早百合は低くつぶやいた。
 私は、今まで、五年間もの鬱憤をためていた場所が強烈に弾け飛ぶのを感じた。途端に、我慢していた数々の“本音”が口から飛び出る。
「良い? 私はね、早百合のことを反吐が出るほど大嫌いなの。そう、もう、本当、信じられないくらいにね。
 まず、早百合、あなたは馬鹿すぎて呆れる。笑うにも笑えないわ。私が、いつも、とびっきりの笑顔で、あいさつをするのはなぜだと思う? そう、分からないわよね。営業スマイルよ。馬鹿ね、あなた。
 それと、あなた、かなり周囲から美人って言われるけど、どうしてなんだろうね。あ、そうか。天下の暴力団の愛娘だからか。なるほど、実に納得できるわ。怖いからね、暴力団の父親の娘は。しかも、組長の娘だしね。
 まだあるわ。早百合って、いつも、私の真似ばかりして、気色悪いのよ。頼むから、止めてくれない? それと……」
「私のこと、嫌い? あの、愛しの怜華が?」
 早百合は、表情が微笑んだまま、固まっていた。それが思いのほか、不気味だった。怯みながらも、私は、「そうよ」と答えた。
「そう、じゃあ、いいや。私は、怜華の事を嫌いになった。正直、かなり憎い。今後、怜華と接する際、口調も態度も変わると思う」
「そう、それで良いの。私も、これまで隠し続けてきたから、こうなったら、隠さないで、早百合を嫌っている素振りを見せるわ。そうした方が、お互いの……」
「嫌いでも、憎くても、怜華を今後とも愛し続けるの。ねぇ、怜華。新しい関係になった暁に、口づけでもしない?」
 私は、自分の顔が幾度となく引きつるのを我慢しようと思ったが、出来なかった。この目の前の少女はなんだ? 狂いすぎて、それが普通なのか?
「そういうこった、怜華様よ。今後とも、うちのお嬢をよろしく頼むな。あぁ、それと、うちのお嬢を侮辱した件に関しては、お嬢の幼なじみとして、許してやる。行け」
「…………」
 私は無言で、二人から離れ、足早々と歩き、一刻も早く、この場から立ち去りたかった。
「じゃあね、愛しくて、嫌いな、私の怜華……」
私は徐々にたまる不条理な怒りを抑えつけて、自転車にまたがり、武蔵公園を後にする。
その日以降、私に対する嫌がらせ行為を、早百合は始めた。私はというと、睡眠不足や、集中力の低下、少しの物音に対し、敏感になったり、苛立ったりと……精神不安定になるばかりだった。

 そんな私たち二人の歪なる関係にいち早く気づいたのが、麻里亜だった。
 麻里亜は、父親が所有する別荘に、私と早百合、美由希の三人を招待した。
ちなみに、別荘で数日余りの冬休みを過ごすというのは、三人のはずだった。なのだが、早百合が参加する趣旨を美由希に伝えると、急に仏教面になり、自分も参加させないとリストカットをまたする、と、駄々をこねたという逸話がある。

「ねぇ、私の話、聞いていた? さっきから、様子おかしいけど」
「え? えぇ、もちろんよ?」
 美由希の話を見事に聞き逃していた私は、とっさにうなずいてしまう。
 龍二さんの運転するセダンの車内の中で、私は冷や冷やと過ごしていた。なぜなら、右手は、ステアリングを気だるそうに切り、左手は、煙草を美味そうに平然と吸う、というありふれた行為が気になってしょうがなかった。
確かに、一般道なら良い。では、湾曲部分が多い崖の上ではどうだろうか。本当に話しどころではないのだが、悪友・悪人は一息する間もなく、私に話しかけてくる。
「じゃあ、怜華さんには、好きな同性はいないんだよね。信じていいよね? 嘘ついたら、私、リストカット二回するからね」
「はいはい、いないって、そんな変態性のある、どこぞの女みたいじゃないんだかーー痛いわよ、足、踏んだでしょ、美由希。今のわざと?」
「え? ごめんね、気づかなかった」
「あ、そう……。というかさぁ、思うんだけど、美由希は、なんで、そこまで“同性”に固執するの? まるで、同性愛者の思考なのよね、あなた」
 美由希は、視線を気まずげに逸らした。
自分と早百合のひび割れた関係を、恋人同士が別れてなった結果なのだと、つまり、私が同性愛者なのではないのか、そう美由希は疑ったのだろう。
私は無性に腹が立ち、美由希のつま先を踵で踏んづけた。無言で、痛みに耐える美由希が可愛く、私は目眩に似た快感を覚えた。
それから数十分後、私たちは別荘へと、車で五時間もの時間をかけて到着した。
断崖絶壁にそびえ立つ別荘の周囲には、静かなる豊かな森林と、荒々しく波がうごめく海に囲まれていた。森林が生み出す大自然の空気や、潮の満ちた、鼻孔につんと突き刺す様な香りに、私は、いかに、排気ガスで汚れきった都会に住んでいたことを実感する。
「さて、俺は、お嬢様方の食事や生活用品を調達してくるから、ちょいと離れるが……麻里亜ちゃん、後の面倒は頼めるか?」
「任してください、龍二さん。私なら、三バカトリオを上手く、コントロールしてみせます」
「三バカトリオという事は、怜華が三人いるっていう事なの?」
「ねぇ、早百合。あなた、龍二さんに赤ちゃんを孕ませられたらいかがかしら?」
「じゃあ、掃除から始めるわよ。私が指示するから、皆、その通りに動いてね」
 セダンで運転する龍二さんがその場から立ち去ると、各々、麻里亜の指示通り、別荘に住めるよう、私たちはせっせと作業を進めた。その結果、四時間で作業は終わった。なので、残りの時間は全て自由時間となった。
 自由時間の際、私たちは王様ゲームをして遊び過ごしたが、私はすぐに飽きてしまった。
 一人、麻里亜の個室からバルコニーへとそっと離れる。手すりにもたれかかりながら、私はスマートフォンを取り出し、操作した。そこで、ようやく、電波が走っていないのを思い知らされる。
 私は、鞄から、隠し持っていた、煙草とライターを取り出した。ライターで煙草に火を移し、吸い始めた。私は久々のニコチンの味を噛みしめ、余韻に浸っていた。

私はそこで、人の気配がしたのを感じ、振り返った。早百合だった。
あわてて、煙草を手すりに押し付け、火を揉み消すと、適当に外に放り投げた。
「どうしたの? 嫌がらせする相手がいないから、わざわざ来たのかしら」
「美由希がね、麻里亜に紅茶を飲ませたんだけど、よほど長旅で疲れたのか、倒れこむ様に眠り込んじゃった。目覚めさせようとしても、反応しないの。一緒に手伝えない?」
「本当に困った人ね。分かったわ。今、たたき起こしてやるんだから」
 私は、何事もなかったかの様に振る舞い、バルコニーからリビングへと戻った。
 部屋に戻ると、あらゆる方法で、あたふたと麻里亜を目覚めさせようとする美由希が、私の視界に入った。
「ちょっと、麻里亜ったら……」
「どうしよう、怜華さん……麻里亜さん、死んでいるんじゃない?」
確かに、麻里亜は死んでいるかのように顔が青ざめている。触れて触ってみると、少し肌が温かみを失っている。それに呼吸が……止まっている。
麻里亜は、安らかに、眠っていた。
私が気づいたとき、早百合と美由希は凍り付いたかのように動きを止めた。それから、美由希の信じられないほどの甲高い悲鳴。
私は、すぐさま、麻里亜を膝の上に乗せ、硬直したての唇を強引に押し開け、人工呼吸を施す。すぐに、麻里亜の口元から、アーモンド臭が漂っているのを鼻孔で感じ、飛びのくように麻里亜を自分から離れさせる。そして、口内にたまった、唾液を遠慮なく吐き出す。
「怜華さん? なんで、止めたの? このままじゃ、麻里亜さんが可哀そう……」
「……青酸カリウムだわ」
「え?」
「青酸カリウムが、麻里亜を殺したのよ。殺し、た……誰が? 誰……」
 はっと、私は背後にいる美由希を振り返り、全身から、ぞっと恐怖と怒りがわいてきた。
「あなたね、麻里亜を殺したのは。ねぇ、なんで、なんでよ……なんで、麻里亜が殺されなくてはいけないのよ!」
 私はむせび泣きながら、美由希に怒鳴り散らした。
それを聞いた美由希は、顔を真っ青になるのだが、今の私には、この女こそが、殺人者であり、犯行がばれたので、顔色が悪くなったのだと、思うほかなかった。
「美由希でしょ、紅茶に青酸カリウムを混ぜたの。そういう演技、止めて」
「ち、違うもん。私は、ただ、紅茶を淹れたティーカップを渡しただけで……」
「怜華、落ち着いて。今は麻里亜を辱めないようにしないと」
「そうね……」
 私たちは、亡き、麻里亜に、白生地のシーツを覆いかぶせ、麻里亜の部屋から立ち去った。その際、紅茶が淹れられているティーカップも殺害現場に残したのだが、美由希は、考えなしか、自分の紅茶を撤収時に飲み干していたのを私は見ていた。

リビングは、暗く重い雰囲気を漂わせていた。秒刻みで振動する時計の針の音と共に、私たちは過ごしていた。
丁度、時刻零時を知らせる、重低音の鐘の音が鳴り響いた。
「龍二さん、帰ってこないね……ねぇ、早百合さん。龍二さんが犯人ってことはーー」
「ない。世界中の人に、地球平面説を信じこませるくらい、ない。断言できる」
「そもそも、この中に犯人はいるのかしら? 龍二さんも“この中”に含めるけども……」
 そういいつつも、私は、龍二さんを疑っていた。
なぜなら、龍二さんが、買い出しに行ってから、もう、半日も経っているからだ。こんなにも、買い出しにかかるなんておかしいのだ。事故でも遭わない限り。
「怜華、ここには、私たち以外、誰にもこの一帯には来られないはずよ」
「早百合……あなた、何が言いたいの?」
「だから、この中の誰かが、麻里亜を毒殺したっていうこと。分かります?」
「止めてよ、それじゃあ、私が殺したかのようーー」
「ね、美由希」
「え……」
 指名された美由希は、露骨に気色ばんだ。
「何を言っているの、早百合さん。私は、殺人なんてしないし、そんなのおかしいよ」
「でも、紅茶を淹れたのは、誰だと思う? あなたしか、いないじゃない」
「違う……そうじゃない。紅茶を淹れたのは……」
「何が、そうじゃないの? 言ってみてくれない? 怜華は、毒殺なんてしないわよ」
 早百合は、挑戦的な微笑みで、美由希を見遣る。一方の美由希は、躊躇う素振りを窺わせたものの、やがて、早百合と決別するかのように、長椅子から立ち上がった。
「早百合さん、あなたが、私に、特別な砂糖だと偽って、私に青酸カリウムをティーカップに混入させた、真犯人なのでしょう?」
 私は、まさかの言葉に己の耳を疑った。そんなはずが、あるはずがない。
確かに、早百合は、私の事となると、大変恐ろしいことをしでかす。平気で嘘もつく。だが、他人相手となると、話は変わってくる。
私が唯一、優等生だと認める具合に、早百合は素晴らしいのだ。嫌いであると同時に、偉大な、尊敬する対象である。百合の花言葉の様に、純粋で無垢であるはずでないといけない。それなのに、麻里亜を毒殺するはずがない。
「美由希、あなたには失望した」
「じゃあ、認めるんだね。今、ここで、正直に告白……」
「なぜ、美由希は、麻里亜の飲んだ紅茶に、青酸カリウムがあると分かっていながら、自分の紅茶に口をつけたりしたの?」
「それとこれとは、関係ないじゃない!」
 あちらかに、おおげさに動揺する美由希。だが、怒り具合が半端ではなかった。瞳孔は開き、口からは、よだれが垂れていた。
「どうして、そんなに、動揺するの? 関係ないのなら、そんなに、あわてふためくことないのに」
 この時点で、誰が麻里亜を毒殺したのか、一目瞭然だった。
「そうよ、美由希。あなたが犯人ではないのなら、そんなに、あわてる必要ないでしょう? 青酸カリウムはどこなの? 白状なさい」
「……分かった。今、持ってくるね」
 美由希は暗い面向きで、キッヘンへと向かう。
 私は、美由希が犯人で、心底、ほっとした。早百合が麻里亜を毒殺したのではなかったのだ。
「持ってきたよ……皆が、お望みのものだよ」
「じゃあ、それをテーブルの上に……」
 その途端に、私は石像のように硬直した。美由希が持ってきたものは、鋭利に鈍く輝く包丁だったからだ。
「皆、死ねばいいんだ……私をいじめるのが悪い。そうだ、そうに決まっている……」
 美由希と視線が合った。嫌な予感がした。信じられないほど、呼吸が浅くなる。
 美由希はにこりと病的な顔で微笑むと、包丁を縦に握り、私にめがけて駆け出した。
 私はかわす努力もせず、突っ立っているだけだった。ただただ、高校から、急に、美希という不良生徒にいじめられ、精神不安定に陥った美由希が不憫だった。
私の身体が包丁で突き刺されようとする直前、美由希の動きが止まった。そのまま、その場で吐しゃ物をまき散らし、よろよろと付近をうろうろし、狂ったかのように笑い出す。
 何が起きたのかわからず、私は、立ちすくむ。
「早百合、これは一体どういうーー」
「やっとアセビが効いてきたのね」
「え?」
「アセビって知らない? 有毒植物のこと。その葉っぱを練って、美由希の紅茶の中に、隠し味だと伝えて、入れ込んだの。馬鹿だよね、人の好意だと思って、そのまま、すんなりと受け取る美由希って」
 愉快気に微笑むと、早百合はステップを踏む。
 私は、今までに抱いたことのない、強い憎悪を心の中で感じ取った。
「早百合、あなたという人は……外道にも、程度があるわ! よくもまあ、友人を誑かせたものね」
「だって、二人とも、私と怜華の愛の道を邪魔させる、障害物だもの。仕方ないよね」
「また、それじゃない。私を強姦したいのなら、好きにだってさせてあげるわ。でも、私の愛しい友人をいたぶって、何が、愛よ。笑わせるにも、限度があるわね」
 そこで、早百合は傷ついた風に、目を伏せた。
「怜華……どうしても、私の愛を分かってくれないのね。これほどまでにも尽くしたにも関わらず、言うことを聞かないなんて。じゃあ、あれだ。あれしかない」
「何よ……」
 私は、早百合の曖昧な言葉に、臆する。何をされるのか、分からなく、周囲を素早く見渡す。そこで、先ほどまで、この場にいなかった龍二さんが、コーヒーカップを持ち、クールに立っているのが、視界に入った。
「話は全て、聴かせてもらったよ、お嬢。お嬢が何か、企んでいるんじゃないかと思ってよぉ、盗聴器を忍ばせてもらったよ。ほら、ボールペンを今朝、肌身身につけるよう、渡しただろう? それだよ、盗聴器はだな。まぁ、お嬢が何を考えているのかは、分かっているさ。だから、俺は、やる」
「龍二さん、何を……何をやるのですか?」
 私は、急に怖くなり、声がかすれ、語尾もかすれた。
「何もやらないさ。まぁ、落ち着け。コーヒーでも、飲め。落ち着くぞ」
 龍二さんは、まだ湯気が立ち、コク味のありそうなほろ苦い香りを漂わせるコーヒーを、私に差し出す。
 私は、恐怖を交わらすため、乱暴に受け取ると、口の中が火傷するのにも関わらず、飲み干した。
「どうだ? どういう感じか、教えてくれ」
「とても……熱いですが、美味しいです」
「違う、そうじゃねぇ。……睡眠剤がたっぷり入ったコーヒーは、いかがだったかっていう話だ」
 それを聞いた瞬間、私は、ふらふらと酩酊感に酔いしれる。気分は、絶頂まで行き、自然と笑いがこみ上げてくる。なぜだか、普段言えない様な恥ずかしい言葉や、秘密までも口走ってしまう。それが、どうしてか、快感だった。
 やがて、私は強い睡魔に襲われ、深い眠りに入った。

 目が覚めると、そこは、家の中だった。異質の空間だった。私が写し撮られた写真が部屋のそこらかしこに貼られていて、中には、とても口に出せない、恥ずかしい写真さえもあった。
 本能的に、この部屋は狂気に満ちていた。
「お目覚め? 囚われのお姫様」
 気が付けば、私のすぐ背後に、早百合が女の子座りで壁にもたれていた。
「早百合……これは、一体なんの真似なのかしら。美由希はどうしたの?」
「軟禁。美由希は脅して、口封じさせて家に帰した。あなたは、死ぬまで、私の隠れ家で暮らすの。そして、私と“赤ちゃん”を産むの。最高な暮らしでしょう?」
 私は、思わず、こみ上げてくる吐しゃ物をまき散らすところだった。
「本気で言っているの? 赤ちゃんがどうやって産まれるか、知っているの?」
「知っているよ。でも、私たちの愛の力で、不可能は成し遂げられるって、信じている」
「気持ち悪すぎ……」
 途端に、早百合は、付近にあった、目覚まし時計を掴むと、私の前頭部に振り下ろした。頭蓋骨と固いプラスチックがぶつけ合う、鈍い音がした。
頭がかち割れるかと思うほどの痛みだった。
「暴力を振るうことは、ないでしょう?」
「駄目。私とあなたは愛し合って、それでいて、嫌いあう関係。こうでなきゃ、おかしい」
「おかしいのはあなたの頭……」
 またもや、早百合から、目覚まし時計の一撃を食らった。
「二度と逆らわないで。そして、口応えも許さない。私語があるなら、出来るだけ許可を得てからにして。良い?」
「分かったわ。こう言えば良いのでしょう? ……とっとと、地獄に流されろ!」
 すぐさま、早百合から、腹部への、見事な回し蹴りが飛んでくる。
 呼吸困難に陥り、最初にうめいた後、その後、何も発せなくなり、私はのたうち回った。
「可哀想な怜華。私の言うことを聞かないから、こんな苦痛を味わうなんて……不憫でならない。本当に不憫でならない」
 私は、不穏な眼差しで、早百合を睨むが、それも無駄な徒労に終わる。
「お、お目覚めかい、怜華ちゃんよぉ。気分はどうだい? 睡眠剤の致死量なんて大したものじゃないだろう」
 龍二さんが、開いているドアから、かったるそうに入り込むと、腕を組んだ。
「りゅ、うじ、さん……あ、なた、なんて真似をしでかしたのよ。いくら、咲谷組の若頭とかなんとかいって、こんな十代の娘を、組長さんの娘のご機嫌を取る為に、さらって、軟禁までして、なんの意味があるっていうのよ」
「なんの意味だって?」
 龍二さんは、そこで動きをぴたりと止めた。表情は、いつの間にか、真剣そのものだった。
「なんの意味……その意味については、お嬢ちゃんにはまだ早いな」
「どういう意味か教えなさいよ、この、不審者から犯罪者に成り果てた……」
「いいか、メスガキ。よく聞けこら。大人は、やらなければいけない時を弁えているんだよ。今が、その時なだけだ。覚えておけ」
 そういうと、龍二さんは、煙草を胸ポケットから取り出すと、煙草に火を点けた。
「龍二、ここ、禁煙」
「分かってらぁ、そんな事。窓も嵌めガラスだし、なんといっても、お嬢の愛用部屋だもんな。だが、吸いてぇんだ。勘弁してくれ。ポケット灰皿もあることだしな」
「ねぇ、私はどうなのよ。私の意志はどうなるのよ! 家に、帰して……」
 私は、涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになるのにも関わらず、子供のように泣きじゃくった。
「大丈夫、お婆ちゃんになっても、私は、怜華を愛し続けるから」
「怖い! どうしたら、そんな人でなしな思考になるの? 嫌だ、絶対に家に帰って、好きな小説を書く!」
「そんなこと言われても……あっ、怜華」
 私は早百合と龍二さんの間を縫って、一目散に、玄関を探し始めた。
案外、広い一戸建てだった。私は、時間をかけて、玄関へとたどり着く。
 玄関には、何重もの、シリンダー錠で開けられるガラスドアだった。それを視認した私は、立ちすくぬ他、なかった。
「無駄だよ。怜華ちゃん、諦めな。防弾ガラスで出来ていて、破壊は不可能だし、鍵は金庫に保管してある」
 私は膝から崩れ落ち、その場で静かに泣き始める。
「いいか、小説を書きたいなら、ここで書け。インターネットは一部のサイトは閲覧できるからな。小説家になりたいなら、新人賞でも応募することだな。ジャンルは、案外、ノンフィクション物がいいんじゃないか?」
 龍二さんは、そっと私に、囁いた。
「龍二さん、あなたは何が言いたいの?」
 龍二は、ふっと、物寂しそうに笑った。
「さあてな、一つ言えることは、大人も時には、間違うってもんだ」
 そう龍二さんはこの場を後にした。
 果てして、私はこの苦境な環境を誰かに発見できるのだろうか。誰か、見つけてほしい。誰か……。
 助けて。


   第二章 狂い

 こうして、早百合との共同生活が始まった。本当に嫌な生活で、苦痛だった。幾度も脱走を企てたものの、すぐに失敗しては、一日食事抜きや、トイレ抜きを繰り返され続けてきた。
 軟禁されてから、数週間経った、ある日だった。早百合が、美希を誘拐して、この隠れ家に連れてきたのだった。
「良いこと? 美希。あなたは、怜華の奴隷よ。怜華に命令されたことは、必ず、最後までやり通すこと」
「ざっけんじゃねぇよ、ヤクザの一人娘が。私をなめるなよ、人を刃物で切り裂いたこともあるんだからな」
「あ、ちなみに、美希。この早百合様は、麻里亜を青酸カリウムで毒殺しているから、そこの所、忘れないように」
 美希の顔色がさっと血の気が引き、今にも卒倒するのではないかという風に、早百合を見返す。
「うっそでしょ……じゃあ、怜華が犯人じゃないって以外、本当だったんだ……」
「何の話?」
「美由希がさ、麻里亜が転校したのは、怜華が麻里亜を毒殺して、それを咲谷組が麻里亜の家族を脅して、引越しさせたっていうっていう話。美由希自身、二日間、麻里亜の別荘にいたらしいんだけど、なぜかいつの間にか、家のベッドで制服のまま寝転んでいて、家族は二日間、美由希と過ごしていたっていう、奇妙な話を私にまで、相談していたんだけど……まさか、早百合が人を殺すだなんて思わないし」
 美希は思い出したかのように、拘束具を解こうと奮闘する。
「それで、早百合。美希を誘拐してきて、一体、どうするつもりなのかしら」
「殺す」
「ちょっと、さっきの美希に命令した言葉は、どこへ行ったのよ」
「冗談」
「冗談にならないから、あなたの場合は特にね」
「漫才してないで、拘束を解けよ! 暴れないって約束するから」
 美希の拘束を解いたのち、早百合は、早速、私に命令を下すよう、指示した。
 私は早百合に向き直る。
「早百合、あなたは私のこと、愛しているのよね」
「もちろんよ、殺してやりたいほどね」
「だったら、私を信じて、美希に命令する内容は、把握しなくてもいいわよね」
「言うまでもない。イエス」
 という訳で、私は美希と二人きりになった。私は美希に、ある事を強要した。それを美希は、断固として受け入れなかったが、今の暮らしと、普段通りの暮らし、どちらがいいかと脅すと、ほどなくして、受け入れた。
 美希は、数十分で、私が頼んだある要件を済ませた。若干、手違いがあったようだが、なんとか上手く言ったようだ。
 私は早百合を呼び戻した。
「怜華、私、この生活に飽きてきた」
「同感。おそらく、この生活で初めて、おたがいの意見が合ったわね」
「じゃあ、ちょっと、来て」
 そういうと、早百合は、リビングを抜けると、地下室へ私たちを案内した。コンクリートの階段を降りると、地下室は、重苦しそうな牢獄であった。
「その牢屋を掃除しないといけないから、中に入って。私は、掃除用具を取ってくるから」
 私と美希は言うがままに、牢屋の中へと入りこんだ。牢屋は、薄汚く、確かに、掃除しなければいけない程度に埃がたまっている。
「で? 掃除用具がないと何も始まらなくない」
「うん。とりあえず、怜華と美希には……“どちらかを殺すまで、この牢屋から出ちゃだめ”」
「え?」
「は?」
 私たちに有無を言わさずに、早百合は、牢屋の扉を閉め、閂をかけた。
「またくるからね」
 早百合は、そう告げると、牢獄から立ち去ってしまう。
「ねぇ、美希。これって、まさか……」
「そのまさかだと思うけど……私たち、監禁された系?」
 私たちは、いつの間にか、軟禁から監禁へと変わってしまったことに気付く。

「……今さらながら、私、馬鹿みたいに牢屋の中に何も考えず、入ったなぁ」
「大丈夫よ、美希。馬鹿は元々じゃない」
「あんた、私のこと、馬鹿にしているの?」
 私は、美希を無視して、牢屋の中に置かれていた監禁物の小説を、薄暗い中、読み進める。
「小説なんて読んでいる暇あったら、脱獄する方法でも考えようよ」
「脱獄なんて、馬鹿馬鹿しい。閂まで、かけられて、どうあがけっていうのよ」
「それは、そうだけど……そういえば、昼食来ないんだけど、持ってきてくれないのかな?」
「一日一食までなんじゃない、きっと」
 その時、閂が外される仰々しい物音が私の背後から聞こえた。そして、ゆっくり、扉が開かれる。眼前には、早百合と、気まずげに唇をかみしめる、龍二さんの姿があった。
「今日の食事。二人で分けてね。争い、大歓迎だから」
 早百合の手には、小さなおにぎりが一つ乗せられていた。それを、空中に放り投げた。
 小さなおにぎり一つでは、拾いに行く意欲もわかなかった。それは、美希も同様である。
 いっそ、脱獄した方がいいのではないかと思えるのだが、龍二さんが持っている拳銃に怯み、私たちは無言でおにぎりを見つめた。
 そのまま、早百合は再び、扉を閉め、閂をかけてしまう。
それから、しばらくして、早百合が大慌てで閂を取り外すと、牢屋に入ってくるなり、私の胸元を掴んだ。
「……龍二が誘拐罪で、自首した」
「そう、良かったじゃない」
 早百合は、そのまま、私の頬を強めに数回、平手打ちした。
「これは一体、どういうこと?」
「どうって、早百合の我儘についていけなくなっただけじゃない」
「じゃあ、これはなんなのよ!」
 早百合は、床に抛り捨てた、十枚以上に相当する原稿用紙を私に放り投げた。視界についたのは、丁度、私がこの原稿用紙を書き出すきっかけとなった場面、『いいか、小説を書きたいなら、ここで書け。インターネットは一部のサイトは閲覧できるからな。小説家になりたいなら、新人賞でも応募することだな。ジャンルは、案外、ノンフィクション物がいいんじゃないか?』だった。
 私は愉快気に、ほくそ笑む。
「私が、頑張って、三週間で書き上げた、“ノンフィクション小説”じゃない。拙作だけど、私が初めて書く小説にしては、上出来だと思うわ」
 再度、早百合は、私の頬を平手打ちした。
「怜華、どうやって、龍二を自首させたの? 原稿を何度も読んだ限り、私が美希を怜華の奴隷とした所よね。今は、奴隷にした自体、頭から離れていたけれども……どうやって、龍二を裏切らせたの?」
「知りたいのなら、教えてあげる。美希、どうぞ」
「え? あぁ……」
 美希は、自分が呼ばれた事に、驚いた様子だった。
「怜華が指示したのは“怜華が執筆した原稿を龍二に渡し、それを警察に、龍二自身、自主させること”だったんだけど、執筆を促した龍二がまだ渋っているらしくてね。結局、よく珍味してから原稿を持って、自首するって言ったんだけど、こんなにもかかるなんてね。玉小さいんじゃない? あいつさ」
「ちなみに、私や美希を責められないはずよ、早百合。私の命令通り、“必ず、やり遂げた”のだから」
「……あなた達」
 早百合は、悔しげに唇を噛みしめた。呼吸さえも、息苦しくなってきたのだろう、早百合は、喘ぎながら、胸を抑える。
「私は、諦めない……龍二がいなくたって、怜華を幸せにできるって、信じてーー」
 心地よい、頬を打ち叩く感覚を、私は、初めて知った。
 早百合は、なぜ、私に頬を打たれたのか分からない様子だった。
「ねぇ、早百合。私も、正直になるから、お互い、話し合おうよ。警察が来る前にさ、私と、お話ししよ?」
「うん……」
 私と早百合は、壁にもたれて、座り込んだ。
「初めて、私を好きになったのはいつ?」
「小学生一年生の頃。怜華が、私と一緒に、子猫の飼い主を探した時から。なぜだか、女の子なのに、クールな怜華を見て、惚れたんだ」
「そうなのね。あの頃はかっこつけすぎだったわ、私」
「今もかっこつけているくせに」
 私は、はるか昔、十年前を思い出し、思わず、吹き出してしまう。まだ、私が私としていなかった頃だ。
「今の私は嫌い? 早百合」
 早百合は、瞳から、一粒の涙を流しながら、囁いた。
「解離性同一性障害のせいで、美由希に、毒薬を砂糖と偽って、麻里亜を毒殺したから、嫌いになったって? 美由希に、アセビを磨り潰したものを隠し味だと偽って、美由希を毒殺未遂したから嫌いになったって? 煙草を未成年なのに違法で吸っているから、嫌いになったって? 私と龍二が、怜華が逮捕されるから、こうして、監禁しているのに、あえて、その好意を無駄にした怜華が嫌いになったって? ーーううん、大好きだよ。こんな怜華でも、私は好きだよ」
 早百合は、嫌な物でも見るかのように、顔を苦悶に歪ませる。
「それなら、良かった。あ、警察がきたみたい。じゃあ、私、被害者の振りして、泣き喚くね。本物の牢屋、行ってらっしゃい、愛しの早百合……」
 悔しげに、嗚咽を漏らす早百合の声が、喧しかった。


   終章

 それから、あの、『武蔵高二連続殺人誘拐事件』から何年も経ったのち、早百合が舌を噛んで自殺するという報道を、テレビのニュースで知った。私は、そんなこともあったな、とぼんやり思っていた。
 私が、早百合をはめた理由は、私が執筆した小説の冒頭で述べたように、歪んだ愛をかざす早百合と、かばう真似をした早百合が鬱陶しかったからだ。たった、それだけだ。
 その時、玄関のチャイムが鳴り響いた。
 私は、玄関へ向かい、扉の鍵を開錠した。
「あら、美由希じゃない」
「久しぶり、怜華さん」
「どうなの、解離性同一性障害、精神病院で良くなったかしら?」
「お陰様で……。それと、早百合さんだけど、さ……」
「亡くなったみたいね」
「うん……。私ね、早百合さんのこと、好きだったんだ。だから、今日の日付に合わせて、医師に無理やり、退院させてもらったの」
「そうだったのね……」
 私は、悲しげに目を伏せる努力をする。
「とりあえず、立ち話もなんだから、入ってちょうだい」
「うん、そうする」
 私は、努めて、明るく、美由希を家に招いた。
「あ、怜華さん。一分だけ、目をつぶってくれない? 私に考えがあるの」
「オーケー」
 私は目を固く瞑った。
 聴覚からは、何か、刃が擦れる音が聞こえた。
「怜華さん、刃物類って、今、困ってない?」
「え? 困ってないけど……どうして?」
 今度は、刀を抜く際の音が聞こえた。
「もう、目を開けて良い?」
「良いよ」
 固く目を閉じた目を開けると、そこには、狂気に満ちた、美由希と、今にも私の脳天に振り下ろされそうな包丁が、眼前に控えていた。
「麻里亜さんと、私の愛しい、早百合の仇だよ。お別れの言葉は不要だね。……早百合、この外道を殺したら、私もすぐ後に逝くからね。あ、じゃあ、ばいばい、怜華さん」