夜七時。
 雨宮邸のダイニングにて、茹でただけのパスタをもさもさ頬張る。
 向かいに座った篝は、フォークの先をくるくる回しながら、会話もないのに時折にへにへと嬉しそうな笑みを浮かべていた。
 雨宮篝に両親はいない。
 昔はいたけれど、今はいない。
 篝が言うには、コンビニのタイムセールに出掛けたまま、帰って来ないのだそうだ。
「きっと、回り道してるんだよ」
 と。
 小学生の頃。
 篝は真顔でそう言っていた。
 私はくすっと笑いそうになったけど、笑えなかった。
 その代わり、
「そうだね」
 と呟いて、ただ篝の手をぎゅっと握ったのだ。
 遠い、遠い、昔話。
 私たちはもう高校生。
 あの頃とは違う。
 もしかしたら出来るかもしれないことと、何がなんでも絶対に出来ないことの区別がつき始めてきている。
 だから、週に二、三度、私は夕食を篝の家で食べることにしている。
 会話なんてほとんどない。
 何か話しかけられても、無視することがほとんどで。
 食事が終わればただ帰るだけ。
 じゃあねの一言だってありはしない。
 だけど時々、
「――明日は、何の日か、わかる?」
 おずおずと口にした篝の問いに、
「え?」
 といったふうに、思わず声を漏らしてしまうことがある。
 明日は何の日。
 同じ質問を、つい数時間前に浪裏にされたことを思い出す。
 明後日のことならわかる。
 だけど明日は何にもない。
 帰り道にぼんやりと考えてみたけれど、やっぱり何も思い浮かばなかった。
「それ、答えあるの?」
 なるべく不機嫌そうな声を作って、篝を睥睨する。
「も、もちろん、あるよ!」
 篝の肩が弾む。
 返事があって嬉しいんだろうか。
 だけどすぐに会話を終わらせたくないんだろうという顔をしている。
 無駄話はしたくなかった。
「じゃあ、何。クイズとかいいから、答えだけ言って」
「それは、えっと――」
 彼女の視線が壁に掛けられていたカレンダーに向いた。
 見ると、二月十四日に赤い二重丸が、二月十三日に赤い丸が記されていた。
「あの、ね、……明後日、バレンタインデー……でしょ?」
「うん」
「でね、……あの、明日がつまり、……バレンタインデーの、その、前日だから」
「篝、回りくどい」
「あ、――ご、ごめん! だ、だっ、だから、その、バレンタインデーの……ために、チョコを、用意したいなーって思ってて」
「はあ?」
 と。
 またしても出た、思わずの声。
 この子は一体、何を言っているんだ。
 チョコを、用意したい?
 それは買うってこと?
 それとも作るってこと?
 いずれにせよ、それってつまり、バレンタインデーに参加するってことだ。
 あの雨宮篝が?
 なんで。
 何のために。
「あたし、頑張るから」
 篝が身を乗り出してくる。
「チョコを作るところ、真昼に……見届けて欲しいの」
 お願い、と。
 縋るように顔を近づけてくる。
 本当、何を言ってるんだこの子は。
 理解不能のわけわかめ。
 私はもう、篝のことを憎んでいない。
 血もう乾いて、傷は塞がり、怒りも冷えた。

 だけど、正直。

 叩いて叩いて、叩き続けた挙句に、雨宮篝という人間が何か致命的なニュアンスを以てぶっ壊れてしまうというのなら。
 いっそ壊して壊して、二度と元通りにならなくなるまで粉々にしてやろうかと思っていた。
 そろそろヒビが入る頃かもと思っていたけど。
 兆しを見せたその崩壊は、どうやら長くは続かなかったらしい。
 彼女は、人生を変える決断をした。
 但し、今や未来の自分ではなく。
 彼女は過去の自分を殺すことに決めてしまったようだ。
 私はパスタをちゅるりと吸った。
 雨宮篝は狂っている。
 私の想像よりもずっと早くに、ものの見事にぶっ壊れてしまったのである。