中学二年生の夏:あまざらしクライシス

 右手を伸ばすと、ぴちょんと雨粒が指先に触れて弾けた。
 曇天からの雨曇り。ざーっと降りしきる冷たい雨が都会の音をかき消している。
 車がさーっと通り過ぎる。大きく撥ねた水たまりが、雨宮篝の横っ面をびたーんと殴る。
 ずーっと赤の信号機。くるくる回る紅い傘。水色、飴色、小豆色。横断歩道の前に次々溜まる。渋滞していく十人十色。自動運転の無人バスが水たまりの深みにはまってごぽごぽごぽごぽ沈んでく。
 ぐらりと地面が大きく揺れた。傘も疎らに散っていく。私と篝は雨に流され崩れる歩道をけんけんぱっぱと飛び移り、固い地盤にゲットアウェイ。
 けれども雨は降り続く。篝は傘をくるくる回す。虹色に光る濁流はしぶきを立てて囂々と、家路を辿る道のりをひとつひとつ泡の底へと沈めてしまう。
 篝の傘が飛ばされる。篝は呆然と不規則な軌道を描きながら遠くの空へと消えていくねずみ色の傘を見つめていた。私が傘を差し出すと、不機嫌そうに肩を寄せた。
「篝の身体、冷たいね」
 私がぽつり呟くと、
「真昼の身体は、生ぬるい」
 篝はぼそりと呟いて。
 がらがらと音を立てながら、背後の歩道が崩れ去る。
 まるで世界の終わりだと思った。空を駆ける球体のスピーカーが「大雨警報発令」とわかりきったニュースを届けている。隣町は水没。この町も七割は水底だとか。
「こりゃ、明日は休校かもね」
 と、私。篝は何も言わなかった。
 私は辺りを見回した。
 徐々に陥没し始める路面。手脚の生えた魚がびちびちと不気味に跳ねていて。家屋の割れた窓からは季節外れのクリスマスソングがてれてれ陽気に流れてくる。牛丼屋は店じまい。薬局の入り口には処方箋受付の看板がぶっすりぐっさり刺さっていた。
 風にうねる電線。ゴムみたいにしなる電柱。道路沿いに立ち並ぶ街路樹だけが平然としていて。
 遠くで――雷が鳴った。
「ひええ」
 小さな手。篝がぎゅっと私の腕に縋る。頬を伝う雨水と、目の端に滲む涙。
 私は篝を憎いと思った。
 そして、指さす。
「ねえ、雨宿りしよっか」
 まるで世界の終わり。
 後は壊れるだけみたいな世界にぽつん、と。
 先日開店ばかりの――無駄に駐車場の広いコンビニエンスストアが、二十四時間営業の看板を夜のお店みたいなカラーで光らせながら、雨にも風にも負けずに生き残っていた。
「あそこで、篝の傘とか買お」
 財布は悪いことをたくさんしてきた分、ずっしりと重い。
 いくら店主がしたり顔でふっかけてきたところで、私もどや顔で万札をばらまくことが出来る。
 しかし、篝はうーっと渋い顔。
 このままじゃ風邪引いちゃうよと言ったところで、篝の背中は少しも押せない。プリン買ってあげるからとか、ジャ●プ買ってあげるからとか言っても、だめだめだめー。
 まあ、わかるよ。
 篝のパパとママは、コンビニに行ってくるって言ったまま、もう何年も帰ってこないんだもんね。
 コンビニが異世界か何かに通じる魔境みたいに思えちゃうのは仕方がないことなのかもしれない。
 でも、今はこういう状況だから。
 私は篝の尻を蹴っ飛ばし、「どーかん!」と雷が落ちる真似をする。と、篝は「ぴえー」と悲鳴を上げながら忌々しきコンビニに逃げ込んでいった。
「あはは」
 笑える。
 ごめんねだけど。
 それから私は振り返り。
 これまで歩いてきた道が、もうどこにもなくなってしまったことを確認する。
 ここにはもう、どこに続く道も残っていない。
 北に行っても南に行っても、あるのは断崖。絶壁だけ。
 ここは――孤島だ。
 コンビニが一軒と私たちだけが残された。
 月に一度のクライシス。
 篝がコンビニの入り口で私を必死に手招きしている。
 大丈夫、今行くよ。
 でも、そこが安全地帯だって限らないことは。
 もちろん、あなたもわかっていると思うけど。


 雨の日は憂鬱。
 雨傘、長靴、レインコート。
 自転車に乗れない。水たまりは避けて歩くし、川には絶対近付いちゃだめ。
 校庭で遊べない。教室はなんだかじめじめしてる。
 それに――結局どんなに頑張ったって、帰る頃には靴下はじとーって濡れちゃうんだ。
 雨は憂鬱。
 雨は嫌い。
 雨が憎い。
 雨は――。
 ――。
 そいえば篝。
 あなたの苗字にも、そんな忌々しい――雨の字が含まれてるよね。
 やっぱり、私。
 あなたことが、大嫌い。
 嫌いになった。
 たった今。
 そう思った。
 ねえ、そんな理由で、私はあなたを。
 簡単過ぎるくらいに、嫌いになれちゃうんだ。
 ――。
 それとも、私は。
 あなたのことが、もともと嫌いだったんだろーか。
 だとしたら、それはどうして?
 どんな理由で?
 それは――簡単に解決できること?

 雨はすべてを洗い流す。
 この町も、人も、私たちの思い出すらも。
 綺麗に流れて、綺麗に消える。
 だから、私たちには、雨宿りが必要なんだ。
 どうせ、降り止むまでは帰れないんだから。

 ――――。
 ――――。
 ――――。
 ――――。

 コンビニエンスストアの自動ドアが開く。
 ぴろろろーん、と独特の入店音が鳴り響く。
「いらっしゃいませー」
 やる気なげな店員さんの声。
 篝は居心地悪そうに、雑誌コーナーの前できょろきょろ辺りを見回している。
 私たちの他に――お客さんの姿は見えない。陳列棚は品出ししたばかりのように、商品がぎっしりと並べられていて。
 オープンしたてというだけあって傷や汚れは見当たらず、壁も床も天井も真っ白な照明に照らされて、どれもきらきらと輝いて見えた。
 私は――普段はコンビニで買い物なんてしない。毎月与えられているお小遣いはそんなに多い額じゃないし、欲しいものがあったらお母さんにお願いすれば、よほど贅沢なものでなければ買ってもらえるからだ。
 それに、レジを通して物を買うのは、なんだか大袈裟なことをしているように思えてしまう。それなりのものを買うならまだしも、例えば飲み物を買うだけなら多少割高でも自販機で買えよと言われるような、そんな気がしてしまって。
 レジの前には、何となく――寄りつきたくない、と。そう思ってしまう。
 だけど今日は、雨宿りだけして何も買い物をせずに退店するのはあまりにも忍びないから、流石にポテチとお茶くらいは買って帰るつもりだ。
 でも、いつまでここにいられるだろう。
 雨はずっと降り続く。ひょっとすると、明日の朝まで止まないかもしれない。
 いくらなんでも、そんな時間までコンビニに居続けることは出来ないだろうし。
 雨が止まないうちにここを出て行くことになるなら。
 そもそも雨宿りをした意味があるのかって話になる。
 だからって、店員さんに「雨が止むまでいていいですか」なんて尋ねるのも馬鹿馬鹿しいし。
 私は――ちらりとレジの方を見遣る。いかにも私たちが商品を持っていくのを待ち受けられていても嫌だなと思ったのだけど。
「え」
 と。
 思わず二度見。
 レジカウンターの向こうにいる店員さんは――店員ではなかった。
 だって、彼女は――制服のエプロンではなく私たちと同じ中学校の制服を着ているし、丸椅子に座って雑誌を読んでるし、レジに広げたスナック菓子をばりばりばり食べてるし。
「な――なにしてるんですか、小鳩先輩」
 私の声に、彼女はぱっと顔を上げる。
「んぁ、……はぁ、なーんだ、須藤かー。おいおい、お客かと思ったじゃーん」
「いえ、お客様です、私も」
「あのなー、須藤。金を払わん奴を客とは呼ばないんだよー、知ってたー?」
「いえ、払います。ポテチとポカリです。お会計して」
「……んー、てか、レジの打ち方とかわっかんないし」
 小鳩先輩は両手を広げながらそう言って、
「まあ、いいから食べなよ、飲みなよ。須藤はさ、雨宿りに来たんでしょ? だったらもっともっと宿んなきゃ。まるで――商品買ったらそのまま出て行っちゃいそうな顔してるよ」
「……他に、店員さんいないんですか」
「いないよ。今日は終日わたしだけ。シフト表見る? 店長も飯野さんも菅原さんも、みんな明日のお昼までお休みだから」
 須藤がここにいたいと思うなら、そうしてしまえばいいだろう――と。
 小鳩先輩はそう言ってくれる。
 いいのかな、と思うけれど。
 雨は止まない。
 今でも外でざーっと鳴ってる。
「ほれ、食いねえ」
 先輩が一口サイズのチョコ菓子を差し出す。
 多分、棚から適当に取ってきたおやつだと思う。
 お金払ったのかな。そういうふうにしていいって言われてるのかな。
 駄目なことなら、食べたら私も共犯だ。
 それはわかっている。
 共犯にはなりたくない。
 それでも特に大した理由もなく。
 私はぱくり――とチョコに食いついた。


 小鳩先輩は何者でもない。
 会うたびに顔が変わるし、年齢不詳。髪型や声も一定ではなくて、ロングだったりボブだったりハスキーだったり。
 それでも会えば彼女とわかる。
 一度も話したことがなくたって、彼女も私を私とわかって話しかけてくる。
 変わらないのは、彼女を呼ぶときはいつだって「小鳩先輩」であることだけ。
 まあでも、性別だとか制服姿だとか――実は色々とあるのだけれど。
 どのみち言えることは。
 彼女は正体不明だ。
 ニュースでたびたび話題に上り、たびたび世代の異なる大人達から「今時の若者」と揶揄される類の人間。
 要するに――小鳩先輩には、自分と呼べるものが存在しないのである。
 他人の望む自分でいようと考えすぎてしまった人。本当はとても優しい心の持ち主なのだけれど、優しさなんてものは言葉遊びの材料に過ぎなくて、その心の本質はいつも靄の内と外とで泥濘んでいる。

 時計がくるり。
 何度かその針を回転させた頃。
 雨は止まず、空は昏く。
 私は相変わらずコンビニの店内にて雨宿りを続けていた。
「あのさー、須藤」
 小鳩先輩がぱらぱらと捲られる雑誌に目線を向けたまま、
「なんで須藤はさー、雨宮なんかとつるんでんの?」
「別に、つるんでないですよ」
「でも、いつも一緒だよねー」
「それは否定しないですけど」
 というか出来ないですけど。
 だって事実だから。
 でも、そう認めてしまったら終わり。
 何となくそんな気がして。
「腐れ縁ってやつですよ」
 そう答えるしかなかった。
 本当はもっと不本意丸出しの顔と声を繕いたかった。
 けれど口先から吐き出されるのは複雑の様相を呈した灰色のため息だけで。
 小鳩先輩はけらけら笑いながら、
「不思議だよねー。ふたりとも、明らかにタイプが違うっていうか、幼なじみって理由がなかったら一緒にいる理由がなさそうっていうか」
「私と篝が出会わなかった時空があるなら、今からでもそっちに行きたいくらいですよ」
「ふーん」
 ふーん、ふーん、ふーん、と。
 小鳩先輩は何度もふんふん鼻を鳴らす。
「そんなに邪魔なら、ウチで引き取ろっかー?」
「なんですか、それ」
 まるで粗大ゴミみたいな。
 まあ、無料で引き取ってくれるというなら、勢いだけで買ってしまった一万円のエレキギターも付けますから是非お願いしますというところ。
 でも、引き取るって、どういう意味だろう。
 思ったことをそのまま口にすればいいのに、何故か私は言いよどんで。
「だってさ、あの子、明らかに須藤本位で生きてるじゃん。家族はいない、友達も須藤以外にひとりもいない。誰からも嫌われて、雨宮自身も他人なんて望んでない」
 自分がないんだよ。
 わたしと一緒だ。
 放っておいたらいずれ。
 いずれ。

 ――――。
 ――――。
 ――――。
 ――――。

 雨。
 雨が降っている。
 夜空は雨雲のなかに吸い込まれ、雨となって大地を打つ。
 濡れるのが嫌い。湿るのが嫌い。
 雨が降ると、いつもまっすぐ歩けないから。
 他人が広げた傘が邪魔だし、私の広げた傘が邪魔になるから。
 やっぱり雨は嫌いだ。
 コンビニの床には無数の足跡が刻まれている。
 今日が晴れなら、こうはならなかったんだろう。
 雨は嫌いだ。
 そろそろ止まないかな、と外を、空を見上げて項垂れる。
「……篝は、いつか両親がふらっと帰ってくるんじゃないかって、本気で信じてますから」
「ますから?」
「私がいなくなっても、ただ待つだけですよ」
 待ち続けるだけですよ。
 篝の両親と。
 多分、私のことを。


 夜が暗いのは当たり前だ。
 でも、暗闇のなかでも安心して目を閉じられるのは、いつでも簡単に光が得られることを知っているからだと思う。
 コンビニは二十四時間営業だ。
 真夜中に独り寂しく目を覚まし、まるで自分以外の人間が全員地球上から消え去ってしまったみたいに静かな街でも。
 ぽつぽつと無機質に灯る街灯とは違う――人の息遣いを感じられる煌々としたその照明を、私は心強いと感じられる。
 だけどコンビニという場所は、いつもそこにあるにも拘わらず、いつまでも居られる場所ではない。
 買い物が済んだら帰らなきゃ。買う物がなかったのなら、それでもやっぱり帰らなきゃ。ここは誰のお家でもない。あなたには他に――居場所があるんでしょ。

 ――――。
 ――――。
 ――――。
 ――――。

 時計の針がくるくる回る。
 そうでもないのに忙しげに、くるくるくるくる回り続けている。
 ホットスナックは品切れ中。
 何度読み返したかわからない週刊誌を反対側のページから読み返している姿を見るに、新しく作るつもりは毛頭ないらしい。
 自動ドアがうぃーんと閉まる。
 私は開いたことすら気付かなくて、ただ店の外で傘を広げて立ち去ろうとする誰かの後ろ姿を見送っていた。
 外は――相も変わらず昏いままだ。
 ねずみ色の傘が遠ざかる。夜の闇へと消えていく。
 ふと、店中の陳列棚から、商品がなくなっていることに気が付いた。
 誰かが買っていったのか。誰かが盗っていったのか。
 そもそも、私が入店してから、何人の客がやってきただろう。
 ここは――静かだ。
 聞こえるのは、小鳩先輩のお菓子をぱりぽりと頬張る音と、流行りのアイドルソングを垂れ流す店内放送だけ。
 ……充分、雑音に充ち満ちているけれど。
 それでも、静かだと思った。
 ここには、雨の音さえ届かないのだ。
 ――――。
 私は何故か、胸がきゅうっと締め付けられるような、どうしようもない不安に駆られた。
 ――今すぐお家に帰りたい。
 帰ってお風呂に浸かりたい。冷蔵庫を開けて、麦茶をコップに注ぎたい。リビングで深夜番組を観ているであろう妹に飛び込むように抱きつきたい。引きこもりを極めている姉の部屋を無意味にこんこんとノックしたい。
 だから、――ねえ、篝。
 そろそろ帰ろっか。
「またお越し下さいませー」
 小鳩先輩の声を背中に受けながら、私はお店の外に飛び出していた。
 ざーっと。
 滝のような雨が行く手を阻む。
 夜空は塗りつぶされたように真っ黒だった。星も月も街の灯りも、すべて雨に洗い流されている。
 地面が大きく揺れた。
 振り返る。
 すると、数秒前まで私がいたコンビニが、地盤ごとがらがら崩れていって。
 瞬く間に――闇の底へと飲み込まれてしまった。
 隣に、篝の姿はない。
 ただ、ねずみ色の傘が転がっているだけだった。

(中学二年生の夏:完)
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