「ゲルニカ」中村一義

動画はこちらhttps://youtu.be/FY0lO5ucKYg


 遠くから乾いた銃声が聞こえてくる。近くから生き物を焼く臭いが漂ってくる。窓を開けて通りを覗くと、捨てられた犬を焼いている男がいる。落ちている小銭を探すために常に下を向いて歩く少年がいる。老婆が体を売っている。

 エバンスはゲルニカの模写を続ける。ピカソの描いたオリジナルはモノクロだが、エバンスは色を塗ろうと試みる。血の赤、空の青、焼ける人の肌の色、牛と馬の茶色、結局どれも違うと感じてまた白と黒で塗り潰す。窓の外も次第にモノクロームに染められていく。

 エバンスは自らの痩せこけた腕を眺める。かつての太くてたくましかった面影はない。軽々と恋人を抱き上げていたその腕は、もう絵筆くらいしか持ち上げられない。落ち窪んだ顔の肉の中からギョロリと目玉が浮き上がる。この色ではない。このタッチではない。これではゲルニカではない。俺はピカソではない。
 そんなことは分かってはいるのだが、止められないでいる。
「麻薬と同じなのだ」まだ四十歳にならないのに八十代みたいに老け込んだ肉体は、確かにアル中や薬中の末路に酷似していた。絵も、小説も、音楽も、抜け出せないくらいにのめり込んでしまえば、それは中毒と呼べる代物になってしまう。エバンスの続けるゲルニカの模写は全く金にはならず、彼の命だけを削っていく。

 年が変わろうが、国が変わろうが、世紀が変わろうが、根本は何も変わりはしない、と独裁者は叫んで倒れた。革命家が取って代わり、また独裁者となり、彼を倒す為に生まれた革命家もやがて独裁者に…。
 犬の次は人が焼かれている。生きたままか死んでいたのかは分からない。遠くで鳴っていた銃声が近付いてくる。エバンスは何百枚目か分からないゲルニカの模写に火を着けて燃やす。燃えかけのそれを窓の外に放り投げると、下から誰かの怒声が響いて来るがエバンスは気にしない。次は自分の絵を描こうと思う。思い出の中を探る。昔描いたスケッチブックを引っ張り出してくる。しかしその中にあるのはやはり無数のゲルニカ。色を付けようとしてもがいた跡の残る、まだ捨てる事も焼く勇気もなかった頃の、若い頃の模写達。エバンスはそれらを破く。

 窓から見える景色をそのまま描こうとエバンスは思い立つ。あるがままに。見えたままに。爆撃の音が近付いてくる。エバンスの見る景色は次第にゲルニカに近付いている。いるはずのない牛や馬の近付いてくる気配もする。


(了)