第一話 陽光が丘という世界

 平和と混沌の学園。
 私立陽光(ひかり)が丘高校は、その実態を知る者からはそう形容されることも多い。平和と混沌、その相反する二つの側面を、陽光が丘高校は持ち合わせているのだ。
 それが具体的にどういうことなのかというと――ちょうど今、第一体育館の壇上で生徒会副会長の片倉亜実(かたくら・あみ)が喋っているのでそれを聞くのが手っ取り早い。
「本日は私が会長に代わり挨拶を致します。まずは皆さん、進級おめでとうございます」
 それは本来校長とか教頭が話すようなことだろう――と、この学校の特異性を改めて実感しながら、陽光が丘高校二年A組所属の男子生徒・滝川(たきがわ)アヤキは、パイプ椅子の背もたれに体重を預け、ギイッと軋むその頼りない音に苦笑した。私立なのにこういうところには金を使ってくれないんだよな、と。
「明日には男子160人女子計160人、計320人の新入生がこの学校の一員として加わります。陽光が丘での立ち振る舞いを彼ら彼女らに正しく教え導くこと
は、生徒会や風紀委員会だけではなく、あなたたち在校生全員の大切な役目です。他の学校には存在しない、陽光が丘生としての『権利』を保持し続けたいのなら、引き続き最低限の『義務』を果たしてください」
 副会長の凛とした眼差しが、体育館に座る生徒、そして教職員全体を射抜くように注がれる。この学校では、生徒だけではなく教職員までもが、生徒会役員にはおいそれと口出しできない。
 アヤキはその顔に、苦笑を通り越して憐れみすら滲ませ、「放課後を自由に過ごしたいなら、これからも生徒会の言いなりでいてくださいって言えよな」とごちた。
「アヤキ君……!」
 右隣に座っているクラスメイト・藍川果耶(あいかわ・かや)が、動揺と狼狽の滲み出た小声で囁いてくる。生徒会役員に聞かれることを恐れているのだろう、周囲にあたふたと視線を動かし、どうやら大丈夫らしいということを知って大げさに(無い)胸を撫で下ろした。
 彼女のその慌てぶりのほうが、よっぽど生徒会に目を付けられそうではあるがと思いながらも、アヤキは「悪い悪い」と笑った。つい本音が、と付け加えかけたが、そうすると果耶がまた慌てふためきそうだったので、やめておいた。
 果耶は一年生の頃からのクラスメイトで、大人しく引っ込み思案な典型的な地味っ子だ。からかうと面白いのと、この学校に毒されていない数少ない生徒の一人なのとが理由で、アヤキは彼女とつるむことが多い。
 アヤキと果耶がやり取りをしている間も、副会長の語りは続いている。
「……早速、本日から『自由時間』は設けますが、その『権利』をみすみす失うような行いは慎むことを推奨します。――以上」
 副会長が一礼すると、体育館は大きな拍手に包まれた。
 生徒会を恐れて必要以上に大きく拍手している生徒が最多数だろうが、純粋に生徒会の方針への賛同から手を叩いている連中もいる。支配されている側の一般生徒も一枚岩ではなく、だからこそ生徒会の牙城は崩れない。
 アヤキは形だけのおざなりな拍手をしながら、副会長の話を思い返した。
 ――今日の放課後からいきなり『自由時間』か。春休みが明けてすぐにこれだと、今日だけで色々なことが起きそうだな、と考える。
 『自由時間』というのは、陽光が丘が平和と混沌の学園と呼ばれる所以であり、この学校における生徒会の権力の絶大さを端的に表している制度だ。
 平日の午後六時から翌午前六時までの十二時間、陽光が丘には『自由時間』と呼ばれる特殊なルールが適用される。それは一言でいうと、「陽光が丘の敷地内であれば、ありとあらゆる行為が合法化される」というものだ。
 さすがに殺人までは許されていないが、その他の犯罪のほとんどすべては、正当化……とまでは言わないが黙認される、と言っても過言ではない。窃盗、飲酒、タバコ、ギャンブル……くらいならまだ可愛いもので、傷害、恐喝、果ては薬物や性犯罪の類までもが取り締まられることなく蔓延する、そんな無法地帯と化してしまうのだ。
 それを可能としているのは、伝統的に絶対的な権力を持つ生徒会による支配体制。生徒会は風紀委員会を始めとする多くの下位組織を擁し、『自由時間』中もそれ以外の時間も、生徒の動向に目を光らせており、校則……というより生徒会に反した者に対する指導を行う際、暴力を伴う制裁が許可されているのだ。
 過去、生徒会に反発し改革を試みた者は少なからずいたが、一回たりとも成功したことはない。
 とはいえ、こんな横暴がまかり通っているのは生徒会の力が絶大だからだけではない。
 『自由時間』に関しては、いくつかの制約が定められており、それこそが、陽光が丘が今日まで内からも外からも崩されることなく、異様でしかない環境を維持し続けてこれた理由である。
 まず、『自由時間』に参加できるのは、非自由時間において校則を守り、授業には出席し、部活動にも所属している――要するに、ちゃんとした学園生活を送っている者、に限定される。
 そして、『自由時間』が適用されるのは陽光が丘生及び、陽光が丘の敷地内のみであり、部外者を巻き込むことや、校外で悪さをすることは厳しく取り締まられている。そのため、『自由時間』が怖かったり嫌だったりする生徒は、午後六時までに校門から一歩外に出るだけで平穏無事な学校生活を送れるのだ。
 非自由時間は、他のどの学校よりも平穏で秩序が保たれており。
 自由時間は、その平穏と秩序を守った生徒のみが、規格外の自由を享受できる。
 これこそが、平和と混沌の学園と呼ばれるに至る、歪で異様な実態だった。



「アヤキ君は……『居残り』も、してるんだよね?」
 始業式の後、各クラスでのホームルームが行われただけでこの日は終業となったので、アヤキは果耶と一緒に校外のファミレスで少し早めの昼食を取っていた。ピークからずれた時間帯なので、客の入りもまばらだ。
 陽光が丘には学食があるが、果耶のほうから校外の店がいいと言い出したので、それに従った形だ。
 アヤキは、果耶がそう言ってくるときは、決まって校内の人間に聞かれたら困る話をするときだと、経験から知っている。
 このファミレス自体、学校からは割と離れていて、陽光が丘生と鉢合わせする確率も低い立地だ。
「まあなー……家に帰ってもやることないし、退屈しのぎにはなるからな」
 果耶の問いかけに、ドリンクバーから汲んできたアイスコーヒーをストローでかき混ぜながら答える。色付き水じゃないかと思うくらい薄く安っぽいこのコーヒーが、アヤキは割と気に入っていた。
 ちなみに『居残り』とは、陽光が丘においては『自由時間』に参加することを指す。授業や部活が終わってから校内をぶらついていたとしても、六時までに帰るのであれば『居残り』とは呼ばない。
 アヤキの答えに、果耶は少しむっとしたように唇を結び、それから言った。
「なんで?」
「なんでって……今、答えたろ」
 そう言いながらも、果耶が何を言わんとしているのか、なぜ不満げなのか、アヤキはすでに察している。
 やれやれ、これは面倒臭い流れになりそうだ。
 そう思いながらストローを咥えたところで、果耶が切り出した。
「アヤキ君は、陽光が丘を変えたいって、もう、思ってないの?」
「……。そんなこと、思ったことあったかな。忘れたよ」
「っ! アヤキく――」
「俺はただ、アホくせーって思っただけだよ。自由を満喫するために昼間はルールを守って良い子ちゃんをする不自由な連中も、権力振りかざしてわけのわからんルールを押し付けてくる生徒会も。だから、生徒会長をぶちのめしてやりたかっただけで、その先のことなんて何も考えてなかった」
 一年前、生徒会に弓を引いた命知らずは今、ファミレスで安いコーヒーを飲んでのほほんとしている。
 ……アヤキは、入学後程なくして、陽光が丘の不条理が馬鹿馬鹿しくなって、生徒会長に喧嘩を売って、負けた。惨敗だった。もう二度と戦わないと思わせる程度には。
 果耶は、そんな自分に、未だに何を期待しているというのか。
 自分にあの頃の牙が無いことなんて、誰よりも果耶が分かっているはずだ。
「果耶は『居残り』しないだろ。だったら、別にいいんじゃないか? あと二年、『自由時間』だの生徒会だのと関わらないように生きてりゃ、陽光が丘のツテで良い大学の推薦も貰えるだろうし」
「良くないよっ!」
 果耶が柄にもなく語気を強め、荒々しく机を叩いたので、アヤキは思わずぎょっとして、彼女の顔を見返していた。
 生まれつきだという明るい茶色の髪をショートにした、化粧っけがなく地味なことは否めないが、童顔で可愛らしい顔立ちの少女。
 普段はあまり自己主張しない果耶が、今日はいつになく食い下がる。
「私、アヤキ君以外の友達、そんなにいないけど……それでも、その友達の中には、『居残り』して、酷い目に遭ったり……逆に、酷いことをしたりした子もいる。アヤキ君は、自業自得だって言うだろうし、実際、そうなんだろうけど――でも、陽光が丘が普通の学校だったら、そんなことは、起こらなかった。誰も、傷つけたり、傷つけられたり――そんなこと、しなくて、済んだんだよ」
 果耶はそこで言葉を区切り、悲痛そうに唇を噛んだ。
 その小さな肩が、小刻みに震えている。
 ……彼女の言う通り、アヤキからすればその友人たちは自業自得だった。
 『居残り』をした時点で、校内限定で許される非合法行為という、甘い蜜を啜りたいという魂胆が多かれ少なかれあったわけで、その結果、身体や精神や財産や貞操を傷つけられたり、人としての道を踏み外したりしたとしても、同情には値しないというのがアヤキの考えだ。
 アヤキ自身も、リスクは承知の上で『居残り』をしている。
 もちろん、そんなことは果耶だって分かっていて、それでも割り切れないから、先ほどのような言い回しになったのだ。事実、彼女の潤んだ目には、苦い迷いの色も浮かんでいた。
「アヤキ君が、いつかまた生徒会と戦って、陽光が丘を生まれ変わらせてくれるって信じてる人は、たくさんいるよ。みんな、表には出せないけど、不満を抱えてる人だって、大勢いる。そういう人たちと一緒になれば、きっと、生徒会長にだって――」
「勝てないよ」
 アヤキは、一切の迷い無くそう言い切った。
「勝てない。『あの女』は人間じゃない。正直この学校に入るまで、俺は誰よりも強いって信じてたけど――そんな自信は木っ端微塵にされたよ。極端な話、生徒会長VS陽光が丘生他全員でも、あの女が勝つ」
「そんな――」
「馬鹿げてるだろ? でも、それくらいデタラメに強いんだよ、あの女は。……それに、果耶。悪いけど俺は、お前らの他力本願のために体張れるほど聖人でもなければ、度胸もねえんだ。あと二年、適度に『居残り』して適度に自由を満喫させてもらって、無難に卒業してやるって心積もりなんだから」
 果耶が目を見開き、何か言いかけたが、それよりも先に伝票を手に取り、立ち上がる。
「ちょっと言い過ぎたな、ごめん。でも、どうにもならないってことは分かってくれ。あと、頼むから無茶なことはしないでくれ。俺は、お前が生徒会に制裁されるところなんて見たくないからさ」
 果耶は、それを聞いて、浮かしかけた尻を下ろし、目を伏せてしまった。
 仄かに罪悪感が胸を苛んだが、これくらいは言っておかないと、果耶を引き下がらせることはできないはずだ。半端な優しさでなあなあにはできない。
 そう自分に言い聞かせながらレジへと向かったアヤキの背中に、果耶のか細い、しかし確かな意志を感じさせる声が届けられた。
 そしてその声は、アヤキの足を止めるのに十分な強さを持っていた。
「……他力本願……なん、だろうけど……」
「…………」
 果耶の声は震えている。
 もしかしたら、泣いているのかもしれない。
 それでもその声には、いつもの引っ込み思案な果耶にはない、力があった。
「私にとってアヤキ君は……ヒーローなんだよ」
「……また明日、な」
 ヒーロー。
 思ってもいなかったその言葉に、途端に苦いものが込み上げる。
 自分はそんな高尚なものではないし、そうであったこともない。
 果耶たちからすれば、生徒会に楯突いたことは、とてつもない偉業のように映っているのかもしれない。だけど、そうではない。そんなものは、偶像だ。救世主を求めている生徒たちが作り出した幻想。本当に自分がヒーローならば、一度きりの敗北で心折られ、支配される側に甘んじてなどいないし、今の果耶の話に、心を熱くさせていたに違いないからだ。
 自分はヒーローではないし、これからもヒーローになんてなれない。
 ……それでも、アヤキの心には、『ヒーロー』というその単語が、ファミレスを出てしばらく経ってからもなお、妙に残り続けていた。