第十一話 砂原巧VS刈夜巫女人

 砂原巧は、幼い頃から、ボクシングを試合だけではなく路上の喧嘩にも使ってきた。
彼はどこにでもいる不良の一人で、少しばかりボクシングの才能に恵まれていた点を除けば、その人生にはドラマチックさの欠片も無かった。
 いくら気に入らない相手を殴り倒し、親や教師に歯向かってみても、所詮は社会という大きな敵には敵わない、井の中で突っ張っているだけの存在。
 その閉塞感がさらなる苛立ちを呼び起こし、その苛立ちを暴力として発散しても、また閉塞感に囚われる。その繰り返し。
 そんな砂原の人生を変えたのは、渡辺ツバキとの出会いだった。
『弱いですね。この程度で強いつもりでいたんですか?』
 中学校のグラウンドに突っ伏し、ぴくりとも動けない砂原に対し、ツバキはそう言い放った。
 生まれて初めての敗北。それも、ほんの一瞬で。それも、女の子に。
 怒りすら沸かないほどの圧倒的な実力差。
 自分は一生この少女には勝てないと悟った。
 しかし――そのときどこか、清々しい気持ちも芽生えていた。
 これほどまでに強い人間がこの世にいるなんて。こいつなら、あるいは社会という大きな敵にすら打ち勝ってしまうかもしれない。そんな、馬鹿げた考えを抱かせてくれるほどに、渡辺ツバキは強かった。
 砂原は、渡辺ツバキという規格外の存在が、どれほどのことを成し遂げてくれるのか、あの敗戦の日からずっと、期待し続けているのだ。
 紺野瑞人と桜井桜子もまた、自分と同じようにツバキと戦い、一瞬で倒され、その強さに魅入られて、傍にいることを選んだ人間であり。
 そんな砂原たちは、中学時代、ツバキが数多くの中学に乗り込んでは、喧嘩自慢で名の知れた不良や、大会で輝かしい成績を収めた武道系の部のエースを相手に無双する姿を、すぐ近くで目の当たりにしてきた。
 だから砂原は、ツバキがこれからも成し続けるであろう奇跡の数々を、すぐ傍で見続けるために、今夜ここで負けるわけにはいかないのだ。
「いいパンチ打つじゃねえか」
「ボクサーだからな、当然だろ」
 とはいえ、刈夜の屈強な肉体を、一撃二撃で砕くことは不可能だ。
 ツバキであれば可能なのだろうが、少なくとも砂原には無理な芸当である。
 ならばどうするか。
 紺野のように決着を急いでは、返り討ちに遭うのは明白だ。
 焦らず、慌てず、ジャブで刈夜の腕を叩きながら間合いを取る。
 そして、業を煮やして突っ込んできたら一旦下がり、ストレートを返す。
 決してインファイトには持ち込ませない。
 紺野に比べれば、刈夜に対し体格で不利なわけではないが、ボクシングという競技の性質上、適正体重を維持するために身体を絞っている砂原と違い、減量の必要が無い刈夜は体重で上回っている。
 よほど技量に差が無い限りは、体重差というのは、たとえ数キロでも無視できないほどの有利不利を生み出す。ボクシングに限らず、レスリングや総合格闘技、柔道といった他の武道・格闘技でも、体重による階級分けがなされているのはそのためだ。
 幸い、刈夜の攻撃は粗い。
 一発でももらえばタダでは済みそうにないが、気を張っていればその心配はない。
 ボクサーは当てる技術だけではなく、当てられない技術も優れているものだ。
「校内マフィアだなんて大層なネーミングだけど、マフィアどころかチンピラだな」
 刈夜の大振りな右フックをスウェーでかわし、左ジャブを返しながら砂原は言う。
 それ自体は身を引いてかわされたものの、拳の先が刈夜の鼻を掠め、そこに一筋の切り傷が走った。僅かだが血の滴が散る。紺野の連打を受けたことによる鼻血はすでに止まっていたが、これによりまたも出血が始まったことになる。
「ひゅー、ボクサーのパンチってのは切れ味抜群なんだなァ」
「ボクサーにとって、グローブを外した拳はナイフと同じだ。紺野の、速さだけが自慢の軽いパンチと同じものだとは考えないほうがいいぜ」
「そうだなァ、忠告はありがたーく頂戴するぜ。それなら俺も、『それでいく』」
 どういうことだ――と聞くよりも先に、その答えは目の前に示された。
 刈夜が、両の拳を顔の前に掲げ、ファイティング・ポーズを取ったのだ。
 先ほどまでの、フィジカル任せの喧嘩スタイルとは異なる構え。
 ――刈夜巫女人は、ボクシングの構えを取っていた。
「俺にはボクシングの経験は無いけどよ、お前の動きを見て大体理解できた。今度は俺がお前を削る番だぜ、一年ボクサー」
「理解できた、だって? はっ――ほざくなよ、シロウトが!」
 砂原は叫びながらも、決して冷静さは失わず、従来通りにジャブを打つ。
 しかし、刈夜はそれを掲げた腕を軽く動かすことで受けると、同じようにジャブを返してきた。
「ッ!?」
 砂原は驚きのあまり反応が遅れ、刈夜の拳が頬を掠めた。
 頬が焼けるような感覚を味わいながらも、砂原はすぐに我に返って間合いを取る。
「どうだァ? いいパンチだろ。もうちょっと付き合ってくれよ、俺とお前、どっちのボクシングが上か比べっこしようぜぇ」
「~~ッ! 思い上がるな!」
 砂原は、自分が熱くなっているのを感じていた。
 しかし、問題ない。
 刈夜がボクシングの真似事をしてくるのなら、かえってやりやすいからだ。
 実際、そこから始まった攻防は、砂原のペースだった。
 刈夜のパンチは当たらず、砂原は刈夜のガードの上から、確実にパンチを効かせていく。
 ダメージが蓄積されてか、刈夜の動きが緩慢になり始めたところで、砂原は勝負を決めにかかる。
「ボクサーにボクシングで勝てるわけがないだろうが!」
「――ああ。んなこと、分かってるよ」
「!?」
 刈夜は。
 このときを待っていたと言わんばかりに、ニイッ、と笑うと。
 砂原のストレートに対し、完璧なタイミングでカウンターの前蹴りを決めていた。
「がはあっ……!?」
「ボクサー相手にボクシングに付き合ってた時点でおかしいって気付けよ、一年。蹴りは無いと勝手に思い込んだお前の落ち度だぜぇ?」
 砂原はエビのように背中を丸め、数メートルの距離を吹っ飛ばされる。
 刈夜は最初から、砂原が渾身の一撃を放った際にカウンターを合わせるつもりだったのだ。
 蹴りを確実に決めるため、敢えてボクシングで戦ってみせた。
 そのボクシングが拙かったなら、砂原はこうもたやすくカウンターを食らいはしなかっただろう。刈夜のボクシングは、『そこそこ』様になっていた。だからこそ、砂原の感覚はいつの間にか、『喧嘩』ではなく『ボクシング』に変わってしまっていたのだ。頭ではそうではないと分かっていても。
 地面に転がった砂原は、腹を抱えたまま起き上がれない。
「か……はぁっ……!」
 肋骨が何本か折れているのを、砂原は感覚で理解していた。
 刈夜の蹴りは、背中まで突き抜けたかのような衝撃を砂原に残している。
 カウンターで決まったからというのもあるが、蹴り自体の威力も相当だ。
 ――これが、校内マフィア。
 ――これが、陽光が丘高校か――
 一撃を完璧に決めるために布石を用意し、そのときを待って耐え続け、そして成功させてみせた。
 この刈夜という男、相当に喧嘩慣れしている。
 ……だが、それでも。
 渡辺ツバキには、敵うまい。
 砂原は、薄れゆく意識の中、そう確信していた。