第三話 一日早い新入生

 アヤキは、果耶の膝の血と砂を裏庭の水道で洗い流させてから(果耶は大丈夫だと言ったが、半ば無理やり洗わせた。洗ってる間はあっち向いてて、と言われたが、そんなに恥ずかしいだろうか?)、彼女と共に、一日早い新入生――愁井こよみが向かったという方向に歩き出していた。
 初めての『居残り』となる果耶は、随所に設置された照明に照らされ、昼間とは別の顔を見せている学校の様子に、落ち着かない様子できょろきょろと視線を巡らせている。
 まるで普段行かない場所に連れてこられた子犬のようだ。
 果耶とは同級生だが、そういったあどけない仕草に童顔もあいまって、二、三個年下のようにすら感じてしまうことがある。
「果耶は、夜の学校自体初めてなんじゃないか?」
「うん……中学の頃、部活で完全下校ギリギリまで残ってたことはあったけど、もっと早い時間だし」
「まあ、もう四月だしまだ八時にもなってないから、割と明るいっちゃ明るいけどな。照明も付いてるし――でも、足元には気を付けろよ」
「うん……ありがとう」
 薄暗がりの中、アヤキと果耶の足音だけがやけに響く。
 遠くからは、相変わらずどこかでロクでもないことが起きているのだろう、歓声や悲鳴や怒号なんかが微かに聞こえてはくるが、少なくともこの辺りには人の気配はない。もともと裏庭なんて、非自由時間でも園芸部の連中くらいしか立ち寄らない場所だ。後は、たまにカップルの逢引があるくらいだろう。裏門に近いので、通り道としては使われることもあるが、正門のほうが各種施設に近いので、その用途でもそこまで重宝はされない。
 にも関わらず愁井こよみが、果耶に正門ではなく裏門を案内させたのは、なるべく人目に留まらずに校内に侵入するためだろう。相変わらず、やらかすことは大胆な癖に変なところで慎重な奴だ、と、中学時代の彼女を思い出しながら、アヤキは思った。
 そんな矢先、果耶のほうからこよみのことを聞いてきた。
「アヤキ君。その……愁井さん? って、どんな人なの?」
「あー……こよみちゃんはなー……一言でいえば、厄介な奴だよ」
 果耶の問いに、アヤキは苦笑しながらそう答えた。
 こよみと最後に会ったのは、中学の卒業式。一年と一カ月前だ。そして、その後も何度か電話やメールでやり取りはしているので、彼女が相変わらずの性格をしていて、相変わらずの信念を持ち続けていることは分かっている。
 そしてそれは、愁井こよみが依然変わりなく、厄介者であることを意味していた。
「厄介?」
「ああ。あいつは、生徒会を倒して陽光が丘を普通の学校にするって理想を、何年も前から持ち続けてんだよ」
「何年もって……でも、陽光が丘の事情は、外には知られてないはずじゃ」
 陽光が丘の実情を外部に漏らすことは、数ある校則違反の中でも特に重いものの一つだ。生徒会はインターネット上にまで目を光らせているらしく、未だかつて陽光が丘の異常性が白日の下に晒されたことはない。しかし。
「こよみちゃんの母親は、陽光が丘のOGなんだよ。それも生徒会長だったらしい。その母親から、陽光が丘のことはガキの頃から聞いてたってわけだ」
「生徒会長――」
 現・生徒会長である儚木縁を連想したのか、果耶はごくりと唾を飲み込んだ。
 儚木縁。
 陽光が丘史上最強にして最悪の生徒会長と評され、その圧倒的な力と支配者としての素質から、一年次から生徒会長を務めているほどの絶対者。
 彼女ほどではないにしても、陽光が丘の歴代生徒会長は強権的な支配者であるという点で共通している――というのが、大方の見解だ。
 果耶の中では、こよみの母親もそのような暴君としてイメージされたのだろう。だが、そうではないことを、アヤキはこよみから聞かされて知っている。
「こよみちゃんの母親は、俺たちがイメージするような『陽光が丘の生徒会長』とは違って、陽光が丘を普通の学校にしようとしてたらしい。でも、一度成立して成功したシステムはそう簡単には変えられない。結局、一般生徒の支持も得られず、会長の座から降ろされて失意の内に卒業したって話だ」
「そうなんだ……そんな人も、いたんだね」
「で、こよみちゃんが厄介なのは、その母親の意志を継ごうって本気で思ってることだ。だから陽光が丘に入学してきたわけだし、入学式を待たずに乗り込んでくるくらいに気が急いてる。これは入学早々とんでもないことをやらかす予感がするぜ」
 アヤキは、チラリと左手に巻いた腕時計を見やった。
 夜はまだまだ長く、今年度最初の『自由時間』ともあって居残りをしている生徒の数も多そうだ。だからこそ、こよみは今日、乗り込んできたのだろう。できるだけ多くの生徒の前で、『デビュー』するために。
 馬鹿なことは考えるな、無謀な夢は捨てろ――そんなことを、これまで何度、時には電話で、時にはメールで、時には面と向かい合って、彼女に告げたか分からない。しかし、その成果はなく、彼女は陽光が丘に入学した。早いうちに手は打たなければと思っていたが、まさか入学式前日から動き出すとは予想外だった。
「……アヤキ君は、愁井さんを止めるつもりなんだね」
 果耶は、複雑そうに呟いた。
 自分に陽光が丘を変えてほしいと願った彼女のことだ、こよみちゃんとの共闘を希望しているのだろうが、それは無理な相談だ――と、アヤキは考える。
 果耶の心境に気付かない振りをして、こう説明した。
「そりゃ、先輩として心配だからな。こよみちゃんの実力じゃ、儚木縁の前に辿り着くことすらできないだろうけど、あいつの執念は、親子二代だからかな、ちょっと常軌を逸してる。だから、ありとあらゆる手を使って、陽光が丘を掻き回すはずだ。そのオイタが過ぎたときに――何かの間違いで、儚木縁が直々にこよみちゃんを相手取ることになってしまったら」
 アヤキは、一年前の悪夢を思い出し、一旦言葉を区切る。
 生まれながらの強者を自負し、思い上がりが思い上がりでなくなるだけの力を持ち、強さを示し、勝利を重ねてきた自分の自信を、完膚無きまでに打ち砕いたあの規格外の化物は、本来、絶対に敵に回してはならない存在だ。
「――こよみちゃんは、殺されかねない」
「―殺――!? そ、そんなこと――」
「ありえないって思うか? まあ、この『自由時間』ですらさすがに殺人はご法度だしな。……でも、ありえるよ。あの化物と戦った俺だからこそ言い切れる。あいつは、儚木縁は、人を殺せる」
 そして恐らくは今までに誰かを、殺したこともある――という確信めいた推測までは、口にはしなかったが。
 果耶の絶句した様子を見ると、そこまで言わなくて正解だったようだ。
 ……やはり、果耶は陽光が丘で生きていくにはあまりにも甘すぎる。
 だけど、そんな果耶だからこそ、アヤキは彼女に対して好意を抱いている。
 恋愛感情というわけではないが、妹のように大切に思っているのは確かだ。
「だから俺は、こよみちゃんが何かしでかすなら、力ずくにでも止めるつもりだよ」
「……アヤキ君が、愁井さんのことを大事に思ってるのは、よくわかった。でも、それじゃあまるで、アヤキ君のほうが、生徒会側の人間みたいだよ。この学校を変えようとしている人を、邪魔することになるなんて」
 果耶はそう言いながら、申し訳なさそうに視線をそらした。
「……ごめんね。意地悪なこと言っちゃった。アヤキ君は、さっきも私のこと、助けてくれたのに」
「気にするなよ。実際、俺がこよみちゃんを止めれば生徒会や風紀委員会の連中の仕事が減るわけだしな。でも、ファミレスでも言ったけど、俺はもうこの学校をどうこうしようってつもりはないんだ。果耶やこよみちゃんみたいな見知った顔が、酷い目に遭うのは避けたいってくらいで」
「うん……わかってる。ごめんね」
 もちろん、果耶は完全に納得したわけではないだろうが、これ以上このことで話し合っても意味がないことを悟ってか、微笑を作ってそう言った。
 それに対し、そんなに何度も謝るなよ――と返そうとした、そのとき。
 数人の生徒が、同じ方向に向かって走っていくのをアヤキは視界の端に捉えた。
「……? 何かあるのかな?」
 果耶もアヤキの視線を追ってそれに気付き、首をかしげる。
 最初の数人の後ほどなくして、またも何人かの生徒が走っていく。
 そういえば第二体育館で押収品オークションがあるはずだが、それに参加したい生徒が時間ギリギリで急いで向かっているのだろうか。方角的にも合致するが――と思っていた矢先、耳に飛び込んできた会話から、アヤキは自分の思う以上に早く、事態が進行していることに気付かされた。
「第二体育館ですげえこと起こってるらしいぜ! オークションに参加してたツレからメール来てよ、明日入学の一年生が、警備の風紀委員をぶちのめして大騒ぎらしい!」
 果耶がその意味するところに気付き、ハッとしてこちらを見やった。
「それって――!」
「――ああ。さっそく派手にやらかしてくれてるみたいだよ、可愛い後輩ちゃんは」
 よりにもよって、生徒会が関係しているイベントの会場に殴り込むとは。
 まあ、反体制の革命志望者の鮮烈なデビューとしては、これ以上ないシチュエーションではあるが、しかし、それはあまりにも尚早すぎるというものだ。
 そうと知った以上、アヤキの判断は早かった。
「悪い果耶、ちょっとおんぶさせてくれ」
「えっ? あ、おん――ぶ? ……なんで――って、きゃっ!」
 困惑する果耶を、アヤキは強引におぶりにかかっていた。
 数瞬、反射的に抵抗されるが、アヤキの手が膝の裏を通ったところで、果耶はびくっと身体をこわばらせ、抵抗するのをやめて大人しくなった。恥ずかしがっているのかもしれない。……こうして密着すると、本当に胸無いんだな、というデリカシーのない感想が浮かんだが、もちろん黙っておいた。
「アヤキ君、何を――」
 果耶が喋ることによる吐息が、右耳に当たってくすぐったい。
 だが、そんなことを気にしている場合でもなかった。
 アヤキは腕に少し力を込めて果耶をよりしっかりとおぶり直し、言った。
「しっかり掴まっててくれ。――ちょっと、本気で走るから」