第四話 その名は愁井こよみ

 陽光が丘高校を支配する生徒会は、目的や役割別に様々な組織を擁しているが、その中でも組織の規模と重要性が特に高い三組織が、『三大生徒会下部組織』と呼ばれている。
 『自由時間』を担当する自由時間運営委員会。
 生徒会役員の選出に携わる選挙管理委員会。
 そして、『生徒会の犬』とも揶揄される治安維持組織、風紀委員会。
 この中でも風紀委員会は、その役割の関係上、最多の構成員と最大の組織力を持ち、単純な規模だけなら生徒会本体をも上回る。
 生徒会に忠実かつ有能な人材は、入学後まもなく選挙管理委員会によってスカウトされ、適性に応じて各組織に割り振られるのだが、風紀委員会に配属される人間というのは、とにかく腕が立ち、かつその腕を校則違反者に対し振るうことを躊躇しない非情さを持ち合わせているものだ。
 そのため、陽光が丘において反体制を掲げたところで、生半可な実力では、生徒会とやり合うまでもなく、風紀委員会によって潰されるのがオチである。
 しかし――この夜、第二体育館で自由時間運営委員会が主催していた押収品オークションに乱入した一人の少女は、少なくともそうならない程度の実力は、持ち合わせているようだった。
「――あなたたちが、噂に聞く風紀委員? この程度で?」
 天井の照明に照らされて輝く、漆黒の如き黒髪。
 雪のように白い透き通るような肌には、ほんのり赤みがさしていて、どこか妖艶でもある。
 すらりと伸びた手足は細く、しかし触れれば折れそうな弱々しさは感じられず、むしろしなやかさと強さを感じさせる。
 真新しいブレザーに、一年生であることを示す学年章のバッジ。
 本来ならば、この時間この場所にいる資格の無い人物。
 本来ならば、明日からこの学校に通うことになるはずの人物。
 陽光が丘高校一年B組、愁井こよみは、自身が倒した四人の風紀委員を見下ろし、肩をすくめてみせた。
 オークションに参加するため集まった生徒たち、主催者側である自由時間運営委員たちが唖然とする中、仲間を倒された風紀委員たちはいきり立っている。
 よく訓練されていることが分かる無駄のない動きで即座に展開し、こよみの周囲を二重に取り囲み、それぞれが腰のベルトに差していた警棒を抜いていた。
「ふうん……少しは仕込まれてるんだね」
 こよみは目を細めて、少しだけ視線を動かしてから、応じるように構えを取っていた。
 拳を軽く握り、左手は顔の前に、右手は腰の横に。
右足を下げ、左足は膝を曲げ、腰をどっしりと下ろす。
 それは、空手の構えのようだった。
「なんなんだ、お前は! 何が目的だ!」
「入学は明日とはいえ、籍はすでに陽光が丘にある――これは重大な校則違反だぞ!」
「我々に楯突くことは生徒会に楯突くことと同義だと分かっているのか!?」
 風紀委員たちは、よく通る声で口々にこよみを糾弾したが、彼女はそれを不敵な笑みを浮かべてただただ聞き流しているようだった。
 風紀委員を四人倒したとはいえ、現在彼女の周りにはのべ七人の風紀委員が展開している上、全員が警棒を持っている状態だ。
 状況としては、圧倒的に不利。
 観客たちの多くは、内心これは勝ち目が無いだろうと考えていた。
 しかし、こよみの一切動じないその姿に、次第にざわめきが広がっていく。
 それに苛立ちを隠せない様子で、この場にいる風紀委員の中ではリーダー格らしき三年生が、警棒で床をバチン、と叩いた。
 反響するその音に、第二体育館は水を打ったように静かになる。
 彼は舌打ちし、「あまり調子に乗らないほうがいいぞ」と吐き捨てた。
 それはこよみに対してだけではなく、観客たちにも向けられた言葉であることは明白だった――治安維持のための巡回や校則違反者の取り締まりを通じ、一般生徒と関わる機会が最も多い風紀委員会は、生徒会に対し内心では不満を抱いている生徒が少なからずいることを重々承知している。
 だからこそ、このような危険因子の出鼻は即座に挫かなければならない。
 一年前の滝川アヤキの叛乱のような事態は、二度とあってはならないのだ。
 陽光が丘の一般生徒たちに、愚かな夢を見させるようなことは。
「たまにいるんだよ。自分の力を過信して、陽光が丘はそれを証明する格好の場所だと思い上がって入学してくる、お前のような馬鹿がな。そんな奴は四月のうちに、無様に地面を這いつくばることになる」
「どうかな。今のこの状況を見る限り、無様に這いつくばってるのはあなたたちのほうみたいだけど」
 こよみはどこまでも不敵に、挑発的にそう返す。
 それから、すうっ、と息を吸い、一瞬にやりと笑ってから、第二体育館全体に轟くような大声で、高らかにこう宣言した。
「私の名前は愁井こよみ! 私は、陽光が丘を変えるために入学してきた!! そのために必要なら、風紀委員会だって、生徒会だって倒してみせる!」
 こよみのその叫びが、第二体育館に反響し、その音が静まる頃になって、ようやく。
 あまりにも無謀で、あまりにも壮大なその目標に、辺りは一際大きなざわめきに満たされていった。
「あいつ、本気か?」
「生徒会倒すって」
「滝川でもできなかったのに」
「でも、あの顔はマジだぞ」
 そんな会話が次々に湧き上がる。
 その中で出てきた知人の名前に、こよみは懐かしそうに頬を緩め、「滝川君か。滝川君は、居残りしてるかな。このこと知ったら驚くんだろうな、きっと」と、誰にも聞こえないほどと小さな声で呟いていた。
 それとは対照的に、リーダー格の男はギリッ、と歯軋りし、警棒に握り潰さんばかりの力を込めていた。
 滝川アヤキが生徒会長に敗れ去る姿を見ていながら、何故未だに夢を見ようとする。こんな小娘に。何を期待している。
 その怒りと苛立ちを、リーダー格の男は、振り上げた警棒に込め、
「――かかれ!」
 ――と、叫びながら振り下ろした。
 残る六人の風紀委員は、俊敏な動作でこよみに対し襲い掛かる。
 しかしただ考え無しに突っ込むのではなく、彼らは僅かに時間差を付けていた。あえて攻撃のタイミングをずらす――武道でもスポーツでも普遍的に行われる戦法ではあるが、彼らは一切の打ち合わせなく、それぞれがそれぞれの役割を理解して動き、にも関わらずその戦法を完璧に体現している。
 だが。
「――合気空手・月の型――『明鏡』!」
 こよみは、その空手のような重々しい構えからは想像も付かないような軽やかな歩調で、最も早く仕掛けてきた男の警棒をかわすと共に、かわす位置をあらかじめ読んで突き出されていた二人目の男の警棒を、それをさらに読んでいたかのように、重心を極端に落として掻い潜っていた。
「!?」
「風の型『旋風』!」
 起き上がりざまに繰り出された、ショートレンジからの中段廻し蹴りが、二人目の男の脇腹に鋭く決まる。
 蹴ったときには、三人目四人目が仕掛けてきていたが、こよみは彼らの手首を掌ではたくようにして、順番に軌道を逸らすと、攻撃の勢いをあさっての方向に変えられたことで体勢を崩した彼らを、それぞれ顎への掌底と後ろ蹴りで返り討ちにしていた。
「て、めえっ!」
 そのときには、最初に仕掛けた男が再度警棒を振り下ろしてきたが、こよみは斜め前に移動して男の腕の外側に回ることでそれをかわし、かわしながらすでに、その腕をしっかりと両手で掴んでいた。
「鳥の型『羽撃(はばたき)』!」
「うお――がっ!」
 こよみが繰り出したのは、一本背負いにも似た投げ技。
 受け身を取らせることを一切考えていない全力の投げによって、男は体育館の床に顔面から叩き落された。
 瞬時に鼻血が飛び散り、半径一メートルほどを細やかな血の雫が彩る。
 あっという間に四人が倒され、最初に倒されていた四人を合わせて八人が床に転がる羽目になったところで、リーダー格の男は残る二人を「待て!」と制していた。
「――俺がやる。お前たちは生徒会に連絡しろ」
「は……はい!」
 そのやり取りを耳にして、第二体育館には戦慄が走っていた。
 生徒会への連絡。
 それはすなわち、この場に生徒会役員の誰かが来ることを意味する。
 陽光が丘の生徒会役員は、風紀委員以上の戦闘力と容赦の無さを持ち合わせている――誰もが今度こそ、こよみの命運が尽きたことを確信した。
リーダー格の男は警棒を投げ捨て、ブレザーを脱ぎ捨ててワイシャツ姿になると、拳をパキポキと鳴らして言った。
「俺は風紀委員会第三班班長・野田昭一(のだ・しょういち)だ。愁井こよみと言ったな。お前は陽光が丘を変えるためなら生徒会も倒すなどと大言壮語を吐いていたが、それは不可能だ」
「ふうん……それはどうしてかな」
「これから俺に叩き潰されて、数か月は入院することになるからな」
「……はあ。何か根拠があるのかと思ったら、そんなことか。だったら私も言わせてもらうけど、あなたのほうこそ、私を叩き潰すなんてできないよ。だって私にこれから負けるんだから」
 こよみは、足元に転がっていた警棒を遠くに蹴ってから、再び構えを取る。
「だけど私は優しいから、あなたが大ケガしないように、ちゃんと手加減して倒してあげるよ」
「調子に乗るなと言っただろう――! お前程度の実力なら、陽光が丘では珍しくもない!」
 野田は床板が一瞬凹んだかと錯覚するほどの力強い踏み込みで、こよみめがけて一気に突っ込み、即座に間合いに飛び込んだ。
 繰り出されたのは、フックぎみな右のストレート。
 路上の喧嘩で見られるような、ラフなパンチだ。
 良く言えば荒々しく、悪く言えば粗い。
 事実こよみはその拳を、軽く身を引くだけでかわしていた――が。
「!」
 パンチは囮。
 野田は、床に落ちていた警棒を蹴り、こよみめがけて飛ばしていた。
 それを右手で弧を描くようにして払い落としたこよみだが、その間に野田はこよみの眼前に迫っていた。こよみが左拳を繰り出す前にその手首を掴んで封じ、至近距離から繰り出したのは、頭突き。
 風紀委員会の班長にまで上り詰めた男のファイトスタイルは、年端もいかない頃から路上で喧嘩を重ねてきたことによって磨かれた、ケンカ殺法だった。
 そして、そんな彼の経験上、目と鼻の先、キスでもできそうな距離から放たれた頭突きをかわす術は皆無――の、はずだった。
「惜しいね」
 野田の頭突きは繰り出されたが、たった十センチほどで命中していたはずのそれは、こよみの頭の横、何も無い宙に向けて放たれていた。野田が直前で、女の子の顔を潰すことを躊躇したのか? もちろん、そんなわけもなく。
 野田の頭突きが不発に終わったのは、こよみが『自分の左手首を掴んだ野田の右手首を、左手の指で掴み返していたから』だ。そこに瞬時に力を込めることで、こよみは野田の上体のバランスを崩させたのだ。
「お前……この一瞬で力の流れを……!?」
「だから、最初に流派も言ってあげてたじゃん。私の流派は合気空手――空手と合気道をベースにした、私だけのオリジナルだよ」
 こよみは言いながら、すでに野田にトドメを刺す流れに移行していた。
 掴んだ野田の右手首を、クイッ、と回すようにして逆関節を極める。
「あがっ……!」
「合気空手・花の型――『蔦(ツタ)』!」
「く……何が型だ、こんなもの、ただ手首の関節を極めているだけだろう……!」
「そのただの極めになすすべもないあなたがとやかく言えないと思うけど、まあ、そうだね。せっかくのオリジナル武道だし、技がたくさんあったほうが面白いでしょ? だから、こういう基礎的な技にもちゃんと名前を付けてるんだ――と!」
 関節を極められながらも、強引に殴りかかろうとした野田の動きは、こよみが身を引きながらさらに手首を捻り上げたことで制される。
 もはや、野田の動きは完全に、こよみによって掌握されていた。
「あの一年、マジかよ……!」
「風紀委員会の班長が相手にならないのか……」
 そんな声まで上がり始めていた、矢先だった。
「それくらいにしとけ、こよみちゃん!」
 そう叫びながら、第二体育館に飛び込んできた人物に、その場にいる全員の視線が集まった。
 背が高く筋肉質で、少し無造作な黒髪と、それなりに端正な顔立ちの男子生徒。
 それは、陽光が丘高校においては、知らぬ者がいないほどの有名人。
 生徒会に弓を引き、たった一人で戦ったにも関わらず、生徒会幹部や下部組織委員長を含む多くの生徒を返り討ちにした革命児――滝川アヤキだった。
 ……正確には、彼におんぶされてここまで運ばれてきたクラスメイト・藍川果耶も一緒ではあるが。
「怖かったぁ……アヤキ君、無茶苦茶だよ……」
 アヤキの全力疾走によって疲労困憊した果耶が、ずるずるとその背中から降りる。
「ごめん果耶。――走った甲斐があったのかどうかは、この状況を見る限り、微妙だけどな」
 アヤキは、床に転がる風紀委員たち、そして向かい合うこよみと野田とを見据えて、静かにそう呟いた。
「滝川アヤキ……! この女は、お前の差し金かァ!」
 野田は、こよみとの戦いの最中ですら見せなかったほどの激情を、登場したばかりのアヤキに向ける。
 アヤキに気を取られていたこよみの手を振り払い、間合いを取った彼は、ギリッ、と歯が欠けるのではないかというほど強い歯軋りをし、固く拳を握り締めていた。
「生徒会長の情けで陽光が丘生を続けられているお前が、その恩を忘れてまた生徒会に弓を引こうというのか!」
「人聞きが悪いこと言うなよ、野田センパイ。確かにそいつは知り合いだけど、俺はむしろそいつを止めに来たんだよ。俺はもうアンタたちのボスとやり合うのはゴメンだからな」
「フン、どこまで信じられるか! 言っておくが滝川、一年前お前に地を這わされた連中は、みんなお前への復讐の機会を待ち望んでいるぞ! お前が平穏無事に学校生活を送ることができているのは、ひとえに会長のご厚意あってのことだ!」
「はっ、どうせお前ら程度じゃ束になっても敵わねえってのによく言うぜ。それよりまあ――こよみちゃん、バカなことしてくれたもんだな。まさか入学式前日からやらかしてくれるとは思わなかったぜ」
 アヤキは、へたり込んでいる果耶の頭をぽんぽんと叩いてから、まるで散歩でもするような軽い足取りでこよみたちの近くに歩み寄っていく。
 野田は臨戦態勢を取りながらも、意識的にか無意識にか、十センチほど後ずさりしていた。
 しかし、アヤキの言葉は野田ではなく、こよみに対して向けられる。
「俺は何度も言ったぜ、こよみちゃん。生徒会と戦うなんて無謀だ、陽光が丘を変えるだなんて馬鹿な夢は捨てろって」
「久しぶりに直接会うのに、ご挨拶だね滝川君。滝川君、ちょっと私を甘く見過ぎじゃないかな? この一年間で、私の『合気空手』は完成したんだよ。もう、滝川君の知る私じゃない。実際ほら、私の力が陽光が丘でも通用することは、この光景が証明してる」
 こよみは大仰に両手を広げ、自身が倒した風紀委員たちを示す。
 彼女にとっては、幼い頃から待ちわびた機会なので無理からぬことだが、上機嫌に自身の成果を誇示するその姿は、どこか無邪気な子供のようで、陽光が丘のレベルがこんなものではないことを知るアヤキにとっては、浅はかで滑稽で――哀れにさえ映っていた。
「風紀委員会の班ひとつ潰すくらい、俺でなくてもできる奴はかなりいるぜ。ココはそういう学校だ。できるけどなんでやらないか、それは、そういうことをするともっと『上』が出てくるからだ。だから俺はお前を止めに来た。この程度のことを得意げに語ってる時点で、こよみちゃんの一年分の成長なんてたかが知れてるってわかるしな」
「……いい加減にしてくれるかな、滝川君。私はこの日のために何年も待って、何年も頑張ってきたんだよ。それを頭ごなしに否定されると――いくら滝川君相手でも、カチンときちゃうかな。この風紀班長さんより先に、滝川君を倒しちゃってもいいかもって思えてきちゃう」
 こよみは不敵に笑ってはいるものの、その唇がやや引き攣っている。
 アヤキに対する苛立ちを、隠し切れない様子だった。
 ……やれやれ。
 相変わらず、他人をよく煽るくせに自身の煽り耐性は低い奴だ。
「俺を倒す? 本気でそう言ってるのか? こよみちゃんが? できっこないのに?」
「うんそうだよ――今の滝川君の台詞で確定したよ。私に負けたら大人しく、私の下について一緒に生徒会と戦ってもらうからね」
「そいつは無理な相談だ」
 瞬間。
 第二体育館に集まった生徒たちの視線がそこに注がれていたというのに、何が起こったのか、気付けた者は皆無だった。
 だから、結果から推察するしかない。
 アヤキとこよみの距離が一メートルほどにまで縮まった直後、こよみの首が跳ねるように後ろにのけぞり、その鼻から血が噴き出していた――という、結果から。
「うぶっ――!?」
「今のは何の変哲もないただの左ジャブだけど、お前の『合気空手』だかの無駄に多い奥義のすべてより強え技だと思うぜ。なんせお前には見切れない」
 シュン。
 空気が裂けるような音と共に、今度はこよみの左こめかみ辺りの髪が十数本、千切れて宙を舞った。左ジャブを、今度はわざと外して放ったのだ。
「…………っっ!」
 こよみの額から頬、頬から顎に、つうっ、と冷や汗が滴り落ちる。
 その白く美しい顔を汚す鼻血を拭うことも忘れ、こよみは愕然と立ち尽くしていた。
「次は右頬を掠めて打つ。指先だけでも触れたら、お前の勝ちにしてやるよ。じゃあ行くぞ――そらっ」
 シュン。
 こよみの右頬の、文字通り薄皮一枚が切れ、少し遅れてから、まるで出てくるのを忘れていたかのように、一筋の血が姿を覗かせた。
 ――こよみはアヤキに触れるどころか、反応すらできなかった。
 その事実が、こよみの表情を驚愕から戦慄、戦慄から絶望へと染め変えていく。
 こよみだけではない、この場にいる生徒全員が、滝川アヤキの力に戦慄し。
 そして、そのアヤキに心折れるほどの敗北を味わわせた、生徒会長・儚木縁がいかに絶望的に強いかということを改めて思い知った。
 その空気を肌で察知し、アヤキは内心、これでよし、と安堵する。
 こよみに触発されて、ありもしない希望を持つ生徒が現れてしまったら、それこそ悲劇の始まりになりかねない。
 こよみは救世主になり得ず、アヤキ自身もまた、ヒーローになどなるつもりはないのだと、多くの生徒の前でアピールする必要があった。
 ――さてと。
 後は、程なくして駆けつけてくるであろう生徒会の連中を適当に言いくるめて、この場を穏便にお開きにするだけだ。誰が来るかにもよるが、まあなんとかなるだろう。
 アヤキが、すでにこの後の段取りに考えを巡らせている中。
 立ち尽くしていたこよみが、その細い肩を小刻みに震わせ始め、やがてその目からは、ぼろぼろと大粒の涙が溢れ出していた。
「くっ、ううう……!」
 悔し涙が鼻血と共に、ぼとぼとと床へと落ちていく。
 その美しい顔をぐちゃぐちゃにして、彼女は泣いていた。
 無理もない――幼い頃から抱いてきた夢を、入学初日、どころかその前日の時点で、完膚無きまでに打ち砕かれたのだから。
 しかし、気の毒だとは思うが、悪いとは思わない。
 このほうが、こよみのためなのだ。
 身の丈に合わない夢など、呪いでしかない。
「……アヤキ君……」
 背後から、果耶の声が聞こえる。
 振り返ると果耶は、悲痛そうな表情を浮かべて、悔し泣きするこよみを見つめていた。
「アヤキ君の言ってることは、きっと、間違ってないんだと思う。だけど……私、愁井さんのこと、何も知らないけど……なんだか、いたたまれないよ」
「……果耶は、優しいからな。確かに、もっと穏便なやり方があったかもしれない。でも、陽光が丘でこういう騒ぎを起こすことが、すごく危険だってことは、果耶にもわかるだろ? だから、一刻も早く思い知らせなきゃならなかった。……こよみちゃんが明日から、平穏無事に学校生活を送れるようにするためには」
 アヤキは、内心苦々しいものを感じながらも、後悔はしていなかった。
 しかしそれでも、女の子二人を同時に悲しませるというのは、なんとも居心地が悪い。
 周りの生徒たちからも、軽蔑や失望の眼差しが注がれているのがわかる。
 勝手に期待しといて勝手にがっかりされるんだから、たまったもんじゃないぜと思いながらも、アヤキはその視線を甘んじて受けた。
「……果耶、これでわかっただろ? 俺は、ヒーローにはなれない。陽光が丘に、そんなものは存在し得ない」