第五話 変わらない(非)日常

 新年度最初の『自由時間』において、第二体育館で起こった一連の騒動は、その場に居合わせた生徒たちの口から瞬く間に拡がり、翌日の昼休みには知らぬ者がいないような状況になっていた。
 教室にいるクラスメイトだけではなく、別のクラスの同級生までもが、廊下から自分のほうを見てひそひそ話をしている状況に辟易しながら、二年A組の教室の最後尾中央にある自分の席で、滝川アヤキは、前方廊下側から移動してきた藍川果耶と向かい合って昼食を取っていた。
 一年次のアヤキと果耶は友人ではあったが、わざわざ席を移動してまで昼食を共にするほどの関係だったわけではなかった――が、昨夜の騒動を経て、あの場に居合わせただけの果耶まで、校内に名が知れてしまい、不当に悪目立ちしてしまっている。
 そのため、果耶の身の安全を確保するために、アヤキのほうから、できるだけ自分と一緒に行動するよう果耶に指示したのだ。……決して、それにかこつけて果耶と親密になろうと目論んでいるわけではない。果耶が可愛いのは間違いないが、自分は年上派だし。
 ――なんてことを考えながら、アヤキは缶コーヒーを啜っていた。
「悪いな、俺のせいで外野がうるさくて」
「ううん、朝からこんなだし、だいぶ慣れたよ」
 果耶はメロンパンをかじる合間に、苦笑しながらそう答える。
 朝、登校してきた段階でクラスメイトからの質問責めに遭っていたことにより、その顔には疲労の色が見える。
 それでも、『慣れた』という言葉が出てくる辺り、自分が思っていたよりは、彼女はたくましいのかもしれない。
 果耶は、食べかけのメロンパンをビニール袋の上に置き、ふと、この騒動の原因である後輩の名前を挙げた。
「愁井さんのほうも、今頃こんななのかな」
「どうだろうな。今日は入学式と新入生オリエンテーションだけだから、一年生はみんな下校してるはずだけど。――みのりは何か知ってるか?」
 アヤキは、少し離れた席に座るクラスメイト・夕凪(ゆうなぎ)みのりに話を振った。
「……私があなたに、それを教えると思います?」
 不機嫌そうに応じたのは、少し茶色がかった黒髪をポニーテイルにし、赤いフレームのメガネをかけた、知的さとスポーティーが同居したような雰囲気の女子生徒。
 そんな彼女は左腕に、生徒会役員の腕章を付けている。
 一年次から異例の早さで生徒会幹部になったホープで、アヤキが生徒会とやり合ったときにはすでに、生徒会役員だった。そのときは直接やり合うことにはならなかったものの、そういう立場であるため、みのりはアヤキを目の敵にしている。アヤキのほうは、別に何とも思っていないが。
「おいおい、こよみちゃんを止めたのは俺だぜ? 新入生に年度頭早々、風紀委員会の班ひとつ壊滅させられかけてたところを未遂にしてやったんだから、その分のリターンくらいはあってもいいんじゃねえの?」
「よくもまあいけしゃあしゃあと……。未遂であろうとなかろうと、あんなことはあってはならなかったんです。あなたの古くからの後輩でしょう? 教育がなってなかったんじゃないですか」
「それはあいつの母親に言ってくれ」
 愁井こよみは母親の無念を晴らすために、陽光が丘を変えようとしていた。
 アヤキは面識が無いものの、自分が学生時代に挫折した夢を、それも危険の伴うものを、娘に託したことに対し、思うところはある。
 みのりはハア、と呆れたようにため息をつき、
「二十年前、儚木会長のお父様と対立したのが、愁井こよみの実の母親というのは、まるで物語のような因縁ですね。生徒会でも、愁井こよみの処遇に関しては意見が割れています。居残り権を剥奪するべきか、生徒会下部組織に引き入れるべきか」
 と悩ましげに話した。
 ……なんだかんだ言いつつ情報提供してくれるんだな。
 とはいえみのりは馬鹿じゃない、これは失言ではなく、別に明かしてもいいと生徒会が判断した情報なのだろう。実際、アヤキにも予想の付いたことではある。処分するにしてもスカウトするにしても、どちらにせよ生徒会の面子は保たれるし、反体制の芽を摘むことにも繋がるからだ。
 問題は、こよみの性格からして、絶対にスカウトには応じないことだ。
 生徒会を内部から変える、なんて方法をこよみは採らないだろう。
 一時的にでもかりそめにでも、生徒会に与するようなことを、彼女がよしとするはずがない。
 愁井こよみというのは昔から、強情なやつなのだ。
「まあ、その辺りは生徒会に任せるわ」
 アヤキがそう答えたのに対し、果耶が咎めるような視線を向けてくる。
 みのりの手前何も言わないが、陽光が丘が変わることを望んでいる果耶にとって、アヤキが生徒会に迎合するような発言をしたことは快くなかったに違いない。
 仕方ないだろ、という風に肩をすくめてみせてから、アヤキは再び缶コーヒーを手に取っていた。それを見て果耶も、渋々ながらメロンパンを手に取り、食事に戻る。
――昨夜、自分は、こよみに力の差を思い知らせた。彼女の心を折ることには成功したはずだ。……しかしそれでも、アヤキが不安を拭い切れないのは、愁井こよみがどういう人間なのか、この学校の誰よりもよく知っているからだ。
 こよみは決して、何事にも動じない強靭な精神の持ち主というわけではない。
 努力と執念は並々ならぬものがあるが、中学時代だけでも、彼女の心が折れるような場面は何度も目にしてきた。
 しかし、何度折れても再び立ち上がる、不屈の精神の持ち主ではある。
 大人しく生徒会の処分かスカウトを甘んじて受けてくれれば、それに越したことはないのだが。
 どうにも、また何かやらかしてしまうんじゃないかという懸念が拭えない。
 ……そして、その予感が正しかったということを、アヤキはこの日の放課後、早くも知ることとなる。



「滝川君、私を強くしてよ」
 放課後。
 六時限目終了のチャイムと共に、帰り支度を始めていたアヤキのもとに、すでに下校していたはずの下級生が訪れていた。
 チャイムの音がまだ鳴り止まないうちに二年A組の教室に姿を現した彼女を見て、アヤキは一瞬目を見開いた後で、深い深いため息をつく。
 いくらなんでも、立ち直るのが早すぎるだろ――こんなことならもう少しボコっとくべきだったな――と、鼻に絆創膏を貼った彼女を見ながら思った。
「……一年生は、昼前には下校だったんじゃないのか?」
「生徒会に呼び出されたりしてたからね。幹部候補生として生徒会に入らないかだって。もちろん断ったけど」
 断るなよ、受けとけよ。
 最初から幹部候補生待遇なんて、みのりと同じエリートコースだぞ。
 ……なんて思いながらも、言うだけ無駄なのは明白なので、アヤキは「そうか。で? 俺に稽古付けてもらって、もう一回生徒会に喧嘩売ろうってか?」と、いきなり本題に切り込むことにした。
 幸い、みのりは五時限目と六時限目の間の休み時間に、生徒会の仕事があるからと退室していたので、この場にはいなかった(生徒会役員には、その職務のためなら授業への出席すら免除されるという特権がある。もちろんちゃんと出席扱いになる)。いたら色々と面倒なので助かる。
「そうだね。……私がまだまだ力不足なのは理解できた。でも、私は諦めが悪いからね。滝川君は、よく知ってると思うけど」
「ああ……知ってるよ」
 だから、お前のことを一言で表すときに『厄介な奴』という言葉が出てくるんだ。
陽光が丘入学直後、こよみのように息巻く生徒は少なくない。新入生オリエンテーションで陽光が丘のシステムを説明された新入生は、最初は戸惑うものの、やがてその中から、自分の野望や欲望のために『自由時間』に臨む者が増えてくる。しかし、その多くは自分より強い生徒に鼻っ柱をへし折られることになるか、生徒会や風紀委員会に制裁されるか、あるいはそのような光景を目の当たりにするかで、自分の身の丈、身の程というものを学んでいくのだ。
だが、こよみは、あれだけの力の差を思い知らされ、大衆の面前で涙を流すほどに心を折られたにも関わらず、わずか一日でこうして再起している。
 母を想う心の強さか、それとも母が娘に託した夢という名の呪いの効力か。
 いずれにせよ、アヤキには彼女の姿が、哀れに思えて仕方がなかった。
「滝川君にはもう、この学校をどうこうしようって気持ちがないことは分かってる。だから、滝川君に一緒に戦ってなんて言わない。その代わりに、私を強くしてほしい。陽光が丘に、私より強い人が何人いるのかは分からないけど、その人たちよりも強くなれるように」
「…………」
「アヤキ君……応えてあげたら?」
 そう言ってきたのは、いつの間にか近くまで来ていた果耶だ。
 こよみは果耶のほうを見て、一瞬困惑しながらも、すぐに彼女を思い出したようだ。
「ああ、確か昨日滝川君と一緒にいた――えっと――」
「藍川。アヤキ君の友達の、藍川果耶。よろしくね、愁井さん」
「ええ、こちらこそ。滝川君のこと、色々教えてくださいね」
 冗談なのかどうなのか、こよみはそう言ってニヤリと笑った。
 ……他の一部の同級生がそうであるように、自分と果耶が恋人同士なのだと誤解しているのかもしれない。まあ、わざわざ確認することでもないので別にどちらでもいいが。
「……そうは言うけどな、果耶。俺がこよみちゃんを鍛えたとして、そのこよみちゃんが生徒会に喧嘩売ったら、俺も共犯にされちまうんだよ」
「じゃあ、表向きは健康のためのトレーニングってことでお願いできない?」
「そんな都合の良い言い訳が通じるかよ……。それにな、こよみちゃん。さっき、自分より強い奴が何人いるか~みたいに言ってたけど、俺の知る限りでも、こよみちゃんより強い奴は二桁いるぜ」
「! ……へえ、面白いね。どんな人たち?」
 こよみは口元を歪めて笑みの形を作ってはいるが、その声のトーンが低くなっている。そこには動揺と屈辱と、そして苛立ちとが滲んでいた。
 しかし、アヤキはこよみを煽るために話を盛ったわけでもなく、それはこよみの現時点での実力を見ての公平な評価だった。
「生徒会長・儚木縁はもちろんにしても、副会長の片倉亜実と生徒会書記の折機紫織(おりはた・しおり)も、お前より遥か格上だな。他の生徒会幹部はともかく、この三人は明確にお前より上だ」
 話を傍から聞いていた野次馬たちが、そうそうたる名前の列挙に戦慄している。
陽光が丘史上最強にして最悪の生徒会長と呼ばれ、儚木一族史上最高の逸材ともされる儚木縁。その規格外を抜きにしても、現生徒会は陽光が丘の歴史上、最強の武力と支配力を持っているというのが大方の見解だ。
「……生徒会のトップ3ってわけだね。その人たちを倒せれば、私の目的は果たせるんだね」
「それができるならな。……あと、風紀委員会第一班班長の黒崎藤高(くろさき・ふじたか)と、『会長の懐刀』琴田響一郎(ことだ・きょういちろう)。この二人もこよみちゃんには荷が重いだろうぜ」
「風紀委員会の班長になら、昨夜圧勝してるけど?」
「黒崎藤高のいる第一班は、実質的には生徒会長直属の親衛隊だ。一人一人が生徒会幹部クラスの実力と考えていい。こよみちゃんがじゃれてた第三班とはレベルが違う」
「ふうん……どうなんだか」
 こよみはそう嘯いてみせたが、その表情は少し引き攣っている。
 自分に圧倒的な格の差を思い知らせたアヤキの口から語られる言葉なのだ、嫌でも認めざるを得ないのだろう。
 実際、今アヤキが名前を挙げていっている生徒たちは、誰も彼もが陽光が丘において知らぬ者がいないほどに、その名を轟かせている者ばかりだ。
「……で、その『会長の懐刀』ってのは、なんなの?」
「文字通り、常に生徒会長の傍にいて、会長の代わりに力を奮うのが仕事の奴だよ。会長の暴力装置というか、言ってしまえばペット同然の野郎だけど、あの会長に帯刀されるだけの強さはあるぜ。さっき話した黒崎藤高が『会長の右腕』って言われてて、この二人は立場上同格だ」
 『会長の右腕』黒崎藤高。
 『会長の懐刀』琴田響一郎。
 生徒会長との近しさでいえば、副会長よりも上かもしれない。
 アヤキは懐刀こと琴田とは少々因縁があったが、わざわざ話すことでもなかったので、端折ることにした。
「まあ、他にもこよみちゃんより強いのは何人もいるけど、生徒会とは関係無い奴ばかりだから省くぜ。要するに、お前が倒そうとしている生徒会には少なくとも五人、格上がいるわけだ」
「なんだ、生徒会には五人だけってことなんだね。それじゃあ、その五人より強くなればいいだけか」
 こよみは、そんな大言壮語を吐きながら、不敵に笑ってみせるが。
 それがどれだけ高い壁なのか、彼女は理解できているのだろうか。
 ……いや、理解はしているだろう。その上で、乗り超えるつもりでいるのだ。
「……こよみちゃん、これからどうするつもりだ?」
「決まってるじゃん、トレーニングだよ。滝川君と一緒に」
「俺は嫌だと言ったはずだぜ」
「うん、分かってる。でも、嫌じゃなくなると思うよ」
 ――瞬間。
 こよみは、近くにいた果耶の首に右手を回していた。
 その手には、小型のバタフライナイフ。
 銀色の鋭い刃が、果耶の首筋、頸動脈の通る位置に当てられていた。
「っ! 果耶!」
「えっ、あ――え――……っ!?」
 首筋に触れた冷たい刃に、果耶は目を見開き、怯え切った表情のまま固まってしまう。少しでも身じろぎしただけで、ナイフが首筋を切り裂きかねない状態なのだ、無理もない。
 アヤキの中で驚きはすぐさま、怒りへと変わる。
「こよみちゃん、テメエ!」
 椅子を跳ね飛ばすように立ち上がったアヤキに対し、こよみは唇の端を吊り上げてニヤリと笑った。
「藍川さんに無事でいてほしかったら、私に協力するって約束してよ。あ、後から反故にするのはナシだよ。その場合、藍川さんの身の安全は保証できなくなるから」
「……今は『自由時間』じゃないぜ。すぐに生徒会役員が飛んでくる」
「そうなると困るのは、滝川君も一緒じゃないかな?」
「……っ。そこまでして、母親の二十年前の無念を晴らしたいのかよ。たいそうお母さん想いだな」
 アヤキの皮肉に対し、こよみはスウッ、と冷たく目を細めた。
 張り付いていた笑みが消え、氷のような無表情が後には残る。
 その表情に似つかわしい冷めた声で、こよみは言った。
「……滝川君に、私の何が分かるの。誰よりも強い癖に、その力を何に使うでもなく、しがらみもなく無為に生きてる滝川君に、私の気持ちは分からないよ。物心付いた頃から同じ話を繰り返し繰り返し聞かされて、私の人生は、お母さんのために陽光が丘を変えるためにあるって決まってて。……それでも、お母さんを嫌いになれなかった……憎むことができなかった……たった一人の、家族だから。――そんな私が、どんな思いで今日まで生きてきたか、滝川君に分かるの?」
「分からねえよ。同情してほしいのか? 理解してほしいのか? 甘えんなよ。この期に及んでそんな女々しいことのたまってる奴に、陽光が丘を変えられるわけがないだろ」
「変えてみせるよ。これはお母さんのためだけじゃない、私のためでもあるの。私が私の人生を取り戻すために必要なことなの。そのためなら、滝川君の大事な彼女さんを傷つけることにも躊躇いは無いよ」
「……俺と果耶は、そういう関係じゃないよ。でもな。お前、昨夜から、何も学んでないのか?」
「何を――」
 それは、一瞬の出来事だった。
 アヤキの右足が、消えた。
 ――かのように思えたそのときには、こよみの右手からナイフが消えていた。
「あがっ……!?」
 クルクルと宙を舞ったナイフは、そのまま教室の前方まで飛んでいき、黒板の上の壁にぶつかって落下する。
 アヤキが超高速で放った蹴りを右肘に食らったこよみの、衝撃で開かれた手からナイフが飛んでいったのだということをその場にいた生徒たちが理解した頃にはすでに、アヤキはこよみの間合いに踏み込み、肘を抱えて背中を丸めたその腹に、ボディブローを叩き込んでいた。
 アッパーぎみの、深く打つことよりも吹っ飛ばすことに重点を置いた一撃。
 もちろんアヤキは手加減をしていたが、それでもこよみの細身の体は宙に浮き、そのまま数メートル向こう、慌てて退避した生徒たちがさっきまで座っていた席を巻き込むようにして墜落していた。
「うぶええっ!!」
 一瞬、起き上がろうとしたものの、すぐに込み上げてきたものを抑え切れず床に伏し、こよみは床に吐瀉物をぶちまけていた。
 ツンと鼻をつく酸っぱい臭いが教室に充満していく。
 自らの吐瀉物の海に突っ伏したまま、こよみはぴくぴくと手足を痙攣させていた。
 そんな彼女を、どこか憐れむように見下ろしながら、アヤキは言う。
「俺にとってあの程度の距離は無いも同然だって、分かってたはずだろ? 果耶が人質にいれば手出しできないと思ったか? そりゃ、わずかでも果耶が傷ついてしまう可能性があれば動けなかったけどよ。でも、残念だけど相手がこよみちゃんで、あの程度の距離だったなら、万に一つの可能性もないんだよ。俺とお前の間には、それだけの歴然とした格の差がある」
 こよみからの返事は無い。
 というより、こちらの台詞を認識できているかも怪しい。
 アヤキは、水を打ったように静まり返っている教室内を見回した。
 バタバタと複数人の足音が廊下から近づいてくる。
 やれやれ、昨日の今日だから、さすがに生徒会もレスポンスが早いな。
「お前ら、生徒会や風紀委員会には、俺に会いに来たこよみちゃんが突然吐き気を訴えて、机を巻き込んでぶっ倒れて吐いたってことで頼むぜ」
 アヤキはそう言ってから、果耶のほうを向き直る。
 様々な感情が溢れては混ざりあい、彼女は何を言っていいものか、口をぱくぱくとさせている。
 ……また怖い思いをさせてしまったことを、謝らないといけないな。
 アヤキは肩をすくめ、努めて穏やかな声で、果耶にこう尋ねた。
「……果耶。こよみちゃんを保健室に運ぶの、手伝ってくれるか?」