第十二話 愁井こよみVS桜井桜子

『馬鹿な奴だわーほんと。女の癖に男に勝てると思ってたのかよ』
『ほんまそれ。痛いよなーパンチは全然痛くなかったけど』
『ははは! うまいこと言うなや、ウケルわ!』
 頭上から降りかかる侮蔑と嘲笑。
 頬や手のひらに触れた、ザラザラとしたコンクリートの感触。
 腹の奥にジンジンと残る、鈍い痛み。
 そして、目頭を熱くさせ、視界を滲ませている滴。
 愁井こよみが中学一年生の頃の、入学間もないある日の昼休みの記憶だ。
『なんかコイツ有名らしいぜ、強え奴にケンカ売って回ってるとか』
『ああ、あれ? なんか空手とかやってて、小学生の頃からちょっかいかけてきた奴をシメてたっていう』
『残念だったなー、小学生の頃はどうか知らねえけど、中学生にもなったら女が男に勝つなんて無理なんだよ』
『お前残酷な真実告げてやんなよー! ひゃはははは!』
 複数人がかりだったくせに――
 そんな言葉を吐き出しかけ、ぐっと堪えて飲み込む。
 自分の目的を達成するためには、この程度の人数、倒せなければ話にならない。
 なのに自分は負けた。言い訳なんて、してはならない。する意味がない。
 幼い頃から空手に打ち込み、黒帯だって取った。
 小学生の頃は、学年が上の男子相手にだって勝ってきた。
 だけど、中学に上がって思い知らされたのは、成長期を迎えた男子との、圧倒的な体格差。
 こよみの体格は、高校一年生である現在でも身長160cm、体重は51kg。当時はもっと低く、軽い。
 生まれつき華奢だったなりに鍛え続けてきたが、それでも、持って生まれた筋肉や骨格の質・大きさの差というものは無視できない。
 突きや蹴りを鋭く放てるようになっても、肝心の体重が不足していて、パワー負けしてしまう。打たれ強さにはさらに差がある。ボディにちょっと食らっただけで、吐きそうなほどの痛みと衝撃が突き抜け、動きが止まってしまう。そうなればもう、勝負以前の問題だ。
 自分は、もっともっともっともっと、強くならなければならない。
 こんなところで躓いているわけらにはいかないのだ。
 陽光が丘高校に入学し、生徒会による支配を打ち崩す。
 それが可能なだけの力を付けなければ、母の無念は晴れることなく。
 そして、自分の人生もまた、母によるある種の呪縛から、いつまで経っても解放されることのないままだろう。
 それに――自分が挫折したとき、頓挫したとき。母に見限られるのが、怖い。
 誰かが事情を知ったなら、陽光が丘を変えるなんて元々が無謀な話であり、それが叶わなかったからといって、実の母が娘に失望するなんてことがあるか、と言うかもしれない。
 しかし、こよみは、どうしても自信が持てないのだ。
 母は理想主義者で、小学校でも中学校でも、生徒会長を務めたり、クラブ活動では部長を務めたりと、品行方正を地で行くような人物だったという。
 そんな母だからこそ、陽光が丘のような異常な学園すら、本気で変えようとしていたのだし、長い年月を経た今でもなお、高校時代を憂い、心残りにしているのだ。
 大学に合格し、結婚し、一児を設けてもなお、母の記憶の中で、陽光が丘での三年間は、割り切られることなくわだかまりを残し続けている。
 それほどまでに陽光が丘に囚われている母ならば、実の娘が自分と同じようにしくじったとき、見限ったとしても不思議ではないと、思えてしまうのだ。
 ――嫌だ。
 私は、こんなところで終われない。終わりたくない。
 もっともっともっともっともっともっと強くなるから。
 だから私を見捨てないので――お母さん。
『たまには屋上でのんびり過ごそうかと思ったら、女子を囲んでリンチかよ。どうしようもねえ奴らがいたもんだ』
 ――そのとき。
 飄々とした口調でそう言いながら、屋上に一人の少年が現れた。
 背が高く筋肉質なその少年は、目の前に広がる異様な光景にも何ら動じることなく。
 そのあまりの堂々たる振る舞いに対し、逆にこよみを囲んでいる連中のほうが、たじろいでいた。
『なっ――なんだよお前、二年か!?』
『ば……ばかお前、こいつアレだよ、滝川アヤキだ!』
『た、滝川って、あの……!?』
 明らかな恐怖と動揺。
 滝川アヤキと呼んだその二年生に対し、三年生の集団が狼狽している。
 まるで、絶対に敵わない相手が目の前に現れたかのように――
『そんなに怖がるなよ。その子をもっと怖い目に遭わせておいて、自分たちがそういう立場になったらビビってんのは本気でダサいぜ、センパイ方。まあ、俺は優しいから――全員、一撃だ』
 そして、そこから先は描写の必要が無いほどの圧勝劇だ。
 アヤキは宣言通り、その場にいた四人の男たちをすべて一撃で昏倒させた。
 こよみが腹をさすりながら起き上がれるようになった頃には、アヤキはベンチに座って缶コーヒーのプルタブを起こし、くつろぎ始めていたくらいだ。
『あ……あの……ありがとう、ございます』
『敬語とかいいよ。お前、そういうの苦手だろ。目見りゃ分かる』
『いや、えっと……。……うん、じゃあ、タメ口にする』
 実際、こよみは年齢が上だというだけの理由で敬語を使うことに抵抗を持っているタイプの人間だ。母が他人にも自分にも厳しい性格で、他人に媚びることを嫌う人間だから、その気質が受け継がれているのかもしれない。
『起き上がろうとしてるときに手差し伸べられるのも好きじゃないだろ。だから何もしなかったんだけど、俺と手を繋ぎたかったってなら言ってくれよ』
『……あはは』
 こよみは、ただ力無く笑うことしかできなかった。
制服に付いた砂埃を払い、アヤキの隣に少し距離を空けて腰掛ける。
 ――自分が手も足も出なかった四人組を、このアヤキという少年は瞬殺した。圧倒的な力の差だ。たとえ相手が十倍の四十人だろうと、もしかしたら勝ってしまうんじゃないかとすら思えるくらいに。
 そしてその、呆気に取られるくらいに突き抜けた強さこそ、こよみが喉から手が出るほど欲しいモノで。同時に、自分では手に入れることができないのだろうと、思い知らされかけているモノでもあった。
『……強いんだね、滝川君』
『まあな。お前、名前は?』
『……愁井こよみ』
『こよみちゃんか。いい名前だな』
 異性に下の名前で呼ばれるのは初めてだったので、少しカアッ、と顔が熱くなる。しかしすぐに、陰鬱とした気分が戻ってきて、こよみは目を伏せる。
アヤキは缶コーヒーをこよみとは反対側の隣に置き、『女の子なんだから無茶すんなよ。傷物になったら大変だ』と冗談めかして言った。
『……それセクハラだよ、滝川君』
『手厳しいなあ。いやでも真面目な話、なんでこいつらと揉めてたんだ? そういや、いろんな奴に喧嘩売ってる、空手使う一年の女子がいるとは聞いてたけど、もしかしてお前がそれか』
『まあね。……でも、確かに無茶だよね。滝川君を見て、思い知ったよ。私、このくらいの人数相手なら勝てるって思ってた。でも、実際は私の突きとか蹴りとか、全然効かなくて……私、もっと強くならなきゃいけないのに』
 こよみは、膝の上に置いた拳を強く握り締めた。
 母から聞く陽光が丘は、高校生離れした武力と権力を持った人間たちが支配する、外界の常識や良識が通用しない異界のような場所。
 今のままの自分では、陽光が丘を変えるどころか、そこで生き抜くことすらできないだろう。
 その事実が、こよみを焦燥させていた。
『ふうん……』
 アヤキは。
 そんなこよみの心情の吐露に対し、『何のために強くなりたいのかは聞かないけどよ』と、缶コーヒーを再び手に取り。
 その中身を一気に飲み干してから、こう言った。
『空手以外も試してみろよ。技のレパートリー増えるし、新しい刺激があったほうが今のお前にはいいだろ。やるなら打撃系以外の奴で、そうだな……合気道とか、いいかもしれないぜ』
 ……そのときアヤキは、こよみが陽光が丘変革を目指していることを知らなかった。なのでただ、おてんばな女の子の強くなりたいという願いに対して、何気なくアドバイスしただけに過ぎなかっただろう。
 だけど、アヤキにとっては、それだけのことでも。
 その言葉によってこよみは合気道と出会い、そこから世界に一つだけの格技『合気空手』を完成させるに至った。
 それに何より――あのとき、打ちひしがれていたこよみの心を救ってくれたのが、アヤキなのだ。
 だからこよみは、戦い続ける。
 一度は自分の手から離れかけていた夢を繋いでくれたアヤキが、第一線での戦いから身を引いている今でも。



「ずいぶんと消極的ね! 慎重を通り越して臆病なくらい!」
 桜井桜子は、そう叫びながら、こよみめがけて右の跳び蹴りを放つ。
 こよみが後退してかわしたなら、腰を捻りながら着地し、今度は左の廻し蹴り。
 それもかわされるが、桜子はなおも蹴りを放ち続ける。
 かわされることが前提、ではない。
 桜子は、すべての蹴りを当てるつもりで放っている。
 それは、彼女の動きや気迫で伝わってきていた。
「ツバキさんと同じことをしている同級生がいるって聞いて、あたし、正直少しは興味あったの! ツバキさんに勝てる人なんているわけないけど、もしかしたら渡り合えるぐらいの人なんじゃないかって! でも、そんなことなかったね! こんな腰抜け、あたしで十分!」
 桜子の蹴りは止まらない。
 テコンドーの特徴の一つこそ、そのコンビネーションだ。
 前蹴り、廻し蹴り、跳び蹴り、跳び廻し蹴り。
 ありとあらゆる蹴りが、こよみの頭を、顎を、胸を、次から次に狙っていく。
 こよみはそれを捌き、かわし、いなしていくが、次第に足が止まりかけてきていた。
 そしてその隙を、桜子は見逃さない。
「トドメよ!」
 桜子は、こよみの顎めがけて、射程距離ギリギリから左の廻し蹴りを放った。
 それ以上間合いを詰めなかったのは、ちょうど同じタイミングで、砂原が刈夜にカウンターの蹴りを食らっているのが視界に入っていたこともあるし、脚の長さに差があるため、わざわざ危険を冒して間合いを詰める必要もなかったからでもある。
 ――だが。
「――合気空手・月の型『下弦』」
 こよみは、スライディングの要領で桜子の股下を潜り抜けていた。
 そのトリッキーな動きに虚を突かれた桜子は、一瞬、判断が遅れてしまう。
 その間に、桜子の背後で起き上がったこよみは、桜子が振り返るよりも早く、その腰に両腕を回し、抱きつくような形を取っていた。
「なっ――!?」
「ありがとう。あなたの蹴り、勉強させてもらったよ」
「ま、まさかそのために、わざと逃げに徹して……!?」
「今のままの私でもあなたには勝てるけど、私は、もっともっと強くならなきゃいけないから。そのための機会は、最大限活用しなきゃね」
「な、舐めるな……!」
 桜子はこよみを振りほどこうとするが、しっかりと腰を押さえられているため、叶わない。蹴りが放てないのは当然として、後方への肘打ちなども、その瞬間姿勢を落とされることによってかわされる。
 ならばとばかりに、桜子は自身の腰に回されたこよみの腕を掴もうとしたが、その瞬間にこよみは一旦腕を離し、桜子の手をも巻き込む形で再度抱きつき直していた。
 それにより、桜子は完全に手足の動きを封じられてしまう。
 それでもなお、彼女はなんとか拘束をほどこうと身をよじらせつつ、半ば負け惜しみのように叫んでいた。
「あ、あたしとあんたじゃ体格が違う……! 振りほどけないはずがない――!」
「私がただ力任せにあなたを抑えているとしか思えないのなら、あなたは何回やっても私には勝てないよ」
 こよみの流儀は、合気空手。
 花の型は、関節技。
 鳥の型は、投げ技。
 風の型は、打撃技。
 風の型は、構えや移動法。
 それら花鳥風月にちなんだ四つの型と、それぞれに属する多数の技に目が行きがちだが、こよみの実力の根底にあるのは、陽光が丘高校合気道部の二枚看板・葉山葉月と九条護も素養を認めるほどの合気だ。
 今も、桜子の腰に対して的確な角度から体重をかけ、その動きを必要最小限の力で制している。
「合気空手・鳥の型『百舌鳥(もず)』!」
 こよみは、桜子に対し回転を加えながら、彼女を横にぶん投げる。
 本来はその名の通り、捕らえた相手を尖った物がある場所などにタックルぎみに投げることで突き刺し、百舌鳥の早贄を再現するという危険技だが、今回の場合は、次に放つ技への繋ぎだ。
「合気空手・風の型『竜巻』!!」
 こよみは。
 投げ飛ばされた直後の桜子の顎を、跳び後ろ廻し蹴りで打ち抜いていた。
 数ある蹴り技の中でも、最も威力があると言われる大技だ。
 それだけでは止まらず、重力によって降下しながらも、腰を回して二発目の廻し蹴り。
 それは、初撃ですでに意識を飛ばされかけている桜子の胸部に命中し、その体躯を派手に吹っ飛ばしていた。
 竜巻のように回転しながら、何発も蹴りを放つことにちなんだ技。
 とはいえ、こよみの身体能力では今のように滞空中に二発放つのが精一杯だが。
 しかし、少なくとも今回の戦いにおいては、その二発で十分だった。
「――どうかな、渡辺さん。約束通り、私と戦ってほしいんだけど」
 こよみは、一連の戦いを静観していたツバキのほうを向き直り、そう呼びかける。
 しかしツバキは腕を組んだまま、「あなたの頭は飾りですか? まだ、倒すべき相手が残っているでしょう」と、こよみから見て左を顎で示す。
 そこにいたのは、砂原を倒し、出血した鼻を手の甲で拭い、ニヤリと笑った刈夜巫女人だ。
「はあ……」
 こよみはため息をつきながらも、刈夜のほうを向き直って構えを取る。
 桜子戦からの連戦になるが、刈夜のほうも条件は同じだ。
 これはいわば、渡辺ツバキと戦うための勝ち抜き戦のようなもの。
 だったら――やることは変わらない。戦って勝つ、それだけだ。
「ため息なんてついて、俺が相手じゃ不服かァ? まあいいぜ、すぐにその華奢な体に力の差ってやつを叩き込んでやるよ」
「残念だけど、お山の大将で満足してるような人に叩き込まれるような力の差はないかな。私は、生徒会を倒す女なんだから」
「……一つだけ教えておいてやるぜ、一年。この学校ではなァ、自分の実力を過信したバカから順番に潰れていくんだぜ」
 こよみと刈夜は、そこで会話の応酬を止めて。
 ほぼ同時に、動き出していた。
sage