第六話 愁井こよみは諦めない

 陽光が丘高校の保健室は、並の高校の保健室とは比べ物にならないほどの設備を誇る。下手な個人経営の診療所よりも充実しているかもしれない。
 各種薬剤や医学書が壁沿いに置かれた棚にびっしりと並ぶその様は、高校の保健室というよりはどこかの大学の研究室のようだ。
 それは陽光が丘が私立だからというよりは、校風が校風なだけに怪我をして運び込まれる生徒が他の高校の比でないからだろう。
 とはいえ、保健室がフル稼働することになるのは『自由時間』であり、日中の保健室は普通の高校同様、いたって平穏な空間だ。体調を崩した生徒が熱を測りに来たり、部活でケガをした生徒が応急手当を受けに来たりする以外は、ほとんど人気もない。
 そんな保健室の奥、窓際のベッドで眠る愁井こよみの枕元にパイプ椅子を置き、滝川アヤキと藍川果耶は、窓の外から聞こえてくる運動部の掛け声や吹奏楽部の演奏に、しばし耳を傾けていた。
 やがてその沈黙は、果耶の神妙な呟きによって破られる。
「……こうしてると、普通の学校みたいだね」
「……これも、かりそめだけどな。こうしている間にも、『自由時間』に何をしでかすか企んでる奴もいるし、そうでないまともな奴も、六時までには帰らないとって気持ちが常にどこかにあるせいで、どんなに楽しそうにしてても、やっぱぎこちない。この学校の平和は、偽物だ」
 窓際に置かれた棚を意味もなく指先でコンコンと叩きながら、アヤキは言う。
 果耶は寂しげに微笑んで、「そうかもね。自分を鑑みても」と答えた。
「私は昨日まで、『居残り』せずに帰ってたけど、それでも、六時が近づくとなんだか不安な感じがしてた。下校した後でも、今頃学校では、普段そうは見えないような人がとてもひどいことや、悪いをしたりしてるのかななんて思うと、すごく、嫌な気持ちになって。……私たちの過ごしてる時間、全部、作り物で、紛い物なんだなって、そのたびに思い知らされてた」
 その疑問は、陽光が丘生であれば、一度は抱くものに違いない。
 しかし思ったところでどうしようもないことなのだと誰もが悟り、やがて諦め、妥協し、目を背け――かりそめの平和を生きるのだ。その上で、『居残り』もするかどうか、それはまた、人それぞれ。
 そういった歴史を何年も何年も繰り返し、陽光が丘は今日まで、平和と混沌の学園として在り続けてきた。
「……アヤキ君。私はやっぱり、愁井さんのお願いを、聞いてあげてほしい」
 果耶は、小さく寝息を立てているこよみの顔に、視線を落とす。
 アヤキの一撃を受けて激しく嘔吐するほどのダメージを受けたこよみは、一時的に気を失ってしまっていた。アヤキと果耶によって保健室に運び込まれてから十分ほどが経つが、まだ目が覚める様子はない。
 吐瀉物で汚れた制服は、保健室の片隅にある洗濯機で洗っている最中で、ガタンゴトンという洗濯機の駆動音も、先ほどから一定のリズムで響き続けている。
 こよみを体操服に着替えさせる際には、果耶にだいぶ手伝ってもらった。自分はこよみの下着姿なんて見ても別になんとも思わないので、普通に着替えさせる予定だったが、果耶がそれはダメだと猛反対したからだ。
 しかし、こよみの制服はかなりぐちゃぐちゃに汚れていたわけで、そういう理由もあって自分が一人でやる予定だったのだが、果耶はよく嫌な顔ひとつせず、手伝ってくれたものだ。
 果耶にとっては昨日会ったばかり、さらには面識が出来たのは今日の昼休み、おまけに先ほどはナイフを突きつけてきた相手だというのに。
 そればかりか――こよみの頼みを聞いてほしいだなんてことを言うのだ。
 これはもう、優しいとか甘いとかいう次元ですらないかもしれない。
 呆れ半分感心半分で、アヤキは「すごいな、果耶は」と呟いた。
「俺がお前の立場だったら、絶対にそんな台詞は出てこない。なんせ、お前が叶えてやってほしいっていう願い事を通すためにこいつは、お前を人質に取ってたんだぜ」
「それは確かにびっくりしたし、怖かったけど……でも、愁井さんが、本気で陽光が丘を変えたいと思ってることは、伝わってきたから」
「……あいつは正義感からそれを目指してるわけじゃないぜ。あいつが戦う理由は、あいつも言ってたように、母親のためで、自分のためだ」
「分かってる。……でも、アヤキ君。自分より遥かに強い相手に負かされて、それでも諦めずに立ち上がるっていう、その一点に関しては――愁井さんは、アヤキ君にも勝ってるんじゃないかな」
 果耶はそう言って、いたずらっぽく笑った。
 それは、果耶が普段、あまり見せることのないような表情で。
 しかし妙に晴れやかだったので、アヤキは思わず面食らい。
 それから、「敵わないな、果耶には」と苦笑した。
「お前のためになら、後輩のトレーニング相手くらいはしてやってもいいかなって気がしてきたよ」
 それは嘘ではなかった。
 こよみは圧倒的な差を思い知らされてもなお情熱を失わず。
 果耶はそのこよみに刃物を突き付けられてなお、彼女の夢を後押ししてほしいという。
 彼女たちの意志は変わらないだろう。
 こよみは陽光が丘を変えるため、強くなることを願い続け。
 果耶はそんなこよみの力に、自分がなってくれることを望み続ける。
 その強い想いを砕くことは、どうやら自分にはできないらしい。
 そう悟ったからこその、アヤキの台詞だったが――
「――ほんとに!?」
 瞬間、意識が無かったはずのこよみがガバッと跳ね起き、爛々と目を輝かせて歓喜の声を上げた。
 跳ね除けられた布団がアヤキと果耶の足元にバサッと落ちる。
 昨夜、そして先ほどと、二度もアヤキに痛い目に遭わされながらも、こよみのその目からは、一切の輝きが失われていなかった。
 爛々としたその光は、陽光が丘変革という壮大な野心の輝きだ。
「ひゃっ!?」
 驚きのあまり、上擦った声を上げながらパイプ椅子ごと後ろに倒れかけた果耶を、アヤキは伸ばした腕でパイプ椅子の背を受け止めることによって助け。
 それと同時に、もう片方の手の中指で、こよみの額を叩いた。というより、ただ単にデコピンをした。
「っっ痛ぁ!」
 こよみはベッドに勢いよく倒れ、両手で額を押さえてのたうち回る。
 その間にアヤキは、まだ状況が飲み込み切れていない果耶のパイプ椅子を安定した状態に戻し、それから、こよみの胸倉を掴んで引き起こした。
「狸寝入りかよ、こよみちゃん」
「あ、あはは……。おかげで言質は取れたよ、滝川君。私を強くしてくれるんだよね? 男に二言はないよね? 彼女さんのためだもんね?」
「だから、俺と果耶はそういう関係じゃねえし、俺は気がしてきたって言っただけだ――けども」
 アヤキは、こよみの胸倉から手を離し。
 返す手で、こよみの眼前に寸止めのジャブを放った。
 こよみには相変わらず、その拳を見切ることはできていない。
 ――だが、その目にはもう、恐怖や動揺の色はなかった。
 ただまっすぐに、強い意志を湛えて、アヤキを見つめている。
 ……それが最後の一押しとなった。
「このまま毎日のように付きまとわれても迷惑だし、かといって入学して即生徒会に目ぇ付けられてるお前を野放しにしておくのも厄介だから、俺自身の平穏な学校生活のためにも、お前の心身を鍛え直してやる。ただし、それを直接やるのは俺じゃない」
 アヤキの言葉に、こよみは喜びかけてから、怪訝そうに眉をひそめた。
「えっ? 滝川君じゃないって、どういうこと?」
「そのままの意味に決まってるだろ。俺とお前じゃ実力もだけど、体格もファイトスタイルも違い過ぎて教えるのには不向きだ。だから、お前にぴったりの師匠を紹介してやる。お前のその可愛げのない性格を直すのにもうってつけの人だ」
 この、まるで性懲りの無い後輩を、御せるとしたら。
 アヤキと知る多くの陽光が丘生の中でも、それはただ一人だった。
「お前が本気で陽光が丘を変えたい、そのために強くなりたいっていうんなら、合気道部部長・葉山葉月(はやま・はづき)さんの下で修業に励め。葉月さんは教室でお前に話した、お前より明確に格上な生徒の内の一人だ」
sage